(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 7
■万寧市南橋で
一月一六日に、苗族の人たちが故郷の吊羅山脈地帯の村から強制連行され強制労働させられたという南橋を訪ねた。
海南島は行政区画がなんども変わり、いまは、万寧市に属しています。五年ほどまえの地図には、南橋黎族郷と書かれているが、最近の地図では南橋郷となっている。
吊羅山郷から南橋に行くにはいったん陵水に行き、バスを万寧行きに乗りかえなければならない。吊羅山郷から一日に二本しかないバスで陵水に向かった。舗装されていない道を二時間ほど行くと、保亭から陵水に通じる広い道にでる。この道を右に二キロほど行くと「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告の陳亜扁さんが住んでいる祖関だ。バスは左に曲がって陵水方向へ。
南橋鎮田公村で黄南楠さん(一九二五年生)は、つぎのように話した。
“明け方、わたしは炊事のしたくをしていた。鶏の鳴き声がおかしかった。
まもなく、日本兵が村にはいってきた。わたしの家にもやってきて、母(高門)と妹(黄
公妹)を刀で殺した。母は四五歳、妹は一二歳だった。
わたしも日本刀で切りつけられたが、家の門の柱(木の柱)の陰に避けた。命はたすか
ったが、首の左側を切られた。くびから噴き出してくる血を手でおさえながら逃げた。
いまは無くなったが村の名は、貢挙坡だった。小さな村だった。
逃げ遅れた村人九人が殺された。五人が女、四人が男だった。一九四四年六月だっ
た。日本兵は四〇人くらい来たと思う。こわかったので数ははっきりわからない。日本
軍が村を襲ったのは、村人が日本軍の命令するように働かないからだということのよう
だった。
このあたりにはわたしたち黎族がむかしから住んでいたが、日本の武田公社と早川公
社が農場をつくってわたしたちを働かせた。
仕事に行かなかったり、遅れていったりすると殴られた。軍服を着た日本兵が監督し
ていた。公社の日本人はほとんど見かけなかった。農場では、パイナップルや砂糖キビ
を植えていた”。
黄南楠さんは、家の入り口の柱のかげに行き、このようにして避けたのだと説明してくれた。黄南楠さんの首には、いまもおおきな傷跡が残っていた。命にかかわる重傷だったと思う。黄南楠さんの家の近くに住む林邊楠さん(一九一九年生)は、
“武田農場で働いていたのは、一〇〇〇人くらいだった。この周辺の人がおおかった。
わたしも働かされ、塩をもらった。金はくれなかった。高龍村に日本軍の望楼があっ
た。黄南楠さんと同じ村に住んでいたが、日本軍が来たとき家族はみんなすぐ逃げてた
すかった。武田公社の農場では、ほかのところから来た人は見なかった。みんなこの近
くの人だった。農場は広かったから、遠くからつれてこられた人は、別のところにいた
かもしれない”
と話した。
ふたりの女性は、ときにお互いに記憶を確かめ合いながら、ほんとうに静かに話してくれた。近所に住む林鴻改さん(一九五二年生)が、海南語を普通語に通訳してくれた。聞きとりするとき、このように助けてもらうのだが、そのとき通訳してくれる人は、どこの村でも、老人たちの証言を熱心に解析してくれる。
吊羅山でも聞いた武田公社の名を、ここでも聞いた。海南島侵略日本企業にかんする日本外務省資料のなかに武田薬品工業株式会社の名がある。
異なる地域で話を聞かせてもらうと、日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪が、海南島各地で、同じ「かたち」で行なわれていたことがわかる。
日本軍は、軍用道路、飛行場、要塞兵舎などをつくらせるためだけでなく、住民の土地を奪ってつくった日本企業の農場で働かさせるために、村の住民を強制労働させ、それに従おうとしない村民をときに殺した。
その事実を、これまで海南島の一〇〇か所あまりの村で、おおくの人から証言を聞くことによって確認した。このような侵略犯罪は、日本政府・日本軍・日本企業の文書にはほとんど記録されていない。
佐藤正人
■万寧市南橋で
一月一六日に、苗族の人たちが故郷の吊羅山脈地帯の村から強制連行され強制労働させられたという南橋を訪ねた。
海南島は行政区画がなんども変わり、いまは、万寧市に属しています。五年ほどまえの地図には、南橋黎族郷と書かれているが、最近の地図では南橋郷となっている。
吊羅山郷から南橋に行くにはいったん陵水に行き、バスを万寧行きに乗りかえなければならない。吊羅山郷から一日に二本しかないバスで陵水に向かった。舗装されていない道を二時間ほど行くと、保亭から陵水に通じる広い道にでる。この道を右に二キロほど行くと「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告の陳亜扁さんが住んでいる祖関だ。バスは左に曲がって陵水方向へ。
南橋鎮田公村で黄南楠さん(一九二五年生)は、つぎのように話した。
“明け方、わたしは炊事のしたくをしていた。鶏の鳴き声がおかしかった。
まもなく、日本兵が村にはいってきた。わたしの家にもやってきて、母(高門)と妹(黄
公妹)を刀で殺した。母は四五歳、妹は一二歳だった。
わたしも日本刀で切りつけられたが、家の門の柱(木の柱)の陰に避けた。命はたすか
ったが、首の左側を切られた。くびから噴き出してくる血を手でおさえながら逃げた。
いまは無くなったが村の名は、貢挙坡だった。小さな村だった。
逃げ遅れた村人九人が殺された。五人が女、四人が男だった。一九四四年六月だっ
た。日本兵は四〇人くらい来たと思う。こわかったので数ははっきりわからない。日本
軍が村を襲ったのは、村人が日本軍の命令するように働かないからだということのよう
だった。
このあたりにはわたしたち黎族がむかしから住んでいたが、日本の武田公社と早川公
社が農場をつくってわたしたちを働かせた。
仕事に行かなかったり、遅れていったりすると殴られた。軍服を着た日本兵が監督し
ていた。公社の日本人はほとんど見かけなかった。農場では、パイナップルや砂糖キビ
を植えていた”。
黄南楠さんは、家の入り口の柱のかげに行き、このようにして避けたのだと説明してくれた。黄南楠さんの首には、いまもおおきな傷跡が残っていた。命にかかわる重傷だったと思う。黄南楠さんの家の近くに住む林邊楠さん(一九一九年生)は、
“武田農場で働いていたのは、一〇〇〇人くらいだった。この周辺の人がおおかった。
わたしも働かされ、塩をもらった。金はくれなかった。高龍村に日本軍の望楼があっ
た。黄南楠さんと同じ村に住んでいたが、日本軍が来たとき家族はみんなすぐ逃げてた
すかった。武田公社の農場では、ほかのところから来た人は見なかった。みんなこの近
くの人だった。農場は広かったから、遠くからつれてこられた人は、別のところにいた
かもしれない”
と話した。
ふたりの女性は、ときにお互いに記憶を確かめ合いながら、ほんとうに静かに話してくれた。近所に住む林鴻改さん(一九五二年生)が、海南語を普通語に通訳してくれた。聞きとりするとき、このように助けてもらうのだが、そのとき通訳してくれる人は、どこの村でも、老人たちの証言を熱心に解析してくれる。
吊羅山でも聞いた武田公社の名を、ここでも聞いた。海南島侵略日本企業にかんする日本外務省資料のなかに武田薬品工業株式会社の名がある。
異なる地域で話を聞かせてもらうと、日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪が、海南島各地で、同じ「かたち」で行なわれていたことがわかる。
日本軍は、軍用道路、飛行場、要塞兵舎などをつくらせるためだけでなく、住民の土地を奪ってつくった日本企業の農場で働かさせるために、村の住民を強制労働させ、それに従おうとしない村民をときに殺した。
その事実を、これまで海南島の一〇〇か所あまりの村で、おおくの人から証言を聞くことによって確認した。このような侵略犯罪は、日本政府・日本軍・日本企業の文書にはほとんど記録されていない。
佐藤正人