三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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耐村で 1

2013年05月01日 | 海南島史研究
 2013年3月26日に、昌江黎族自治県十月田鎮の保平村と羌園村を訪ねたあと、烏烈鎮をとおって昌化鎮大風村に行きました。
 午後3時半過ぎに大風村から隣村の耐村に向かいました。
 耐村に着いてすぐに、たまたま出会った耐村の幹部の符地安さんに、李朝秀さん(1925年生)のところに案内してもらうことができました。
 夕刻5時近くに突然訪問したわたしたちを李朝秀さんはこころよく迎えてくれ、つぎのように話しました。
   “1939年9月19日、自分が子どものころに日本軍がこの村に攻めてきた。この村は共産党
   が多かったからだ。そのとき村人が11人殺された。名前は何人かは覚えている。革命運
   動をやっていた人で、名前を覚えているのは、解放後に共産党が調べに来たからだ。名
   前が、『李氏族譜 昌化県昌化鎮耐村』(李聖堂主編、2008年戊子春修)に載っている人も
   いる。
    わたしの兄(李朝榮。1920年生)は3つ歳上で、91歳で亡くなったばかりだ。兄は若い
   とき、革命運動に入っていて、銃を買って共産党に渡したことがあった。
    兄はブタや家や田んぼなどの財産を売り払って3挺の銃を買い、さらに村で義捐金を集
   めて5挺の銃を買った。銃は憺州の白馬井の近くの排浦鎮で買うことができた。いまの共
   産党はこのことを認定せず、兄は‘烈士’として認められていない。
    子どものわたしは児童団に入っていた。副団長だった、団員は13人で、団長は、郭と
   いう人だった。児童団は、見張りをしたり情報を伝えたりした。夜ときどき、村の外で
   見張りをして、国民党が入ってきたり日本軍が来たときに知らせた。(そういうときは)
   急いで村に戻って、逃げろ、日本軍が来たぞ、とさけぶ。じぶんが見張りをしていると
   きに日本軍がきたことがあった。
    そのころは、夕方になると、日本軍が襲ってくる恐れがあるので、夕食を終えた後
   は、毎日、みんな村を出て、山の方に避難した。期間はどのくらいか覚えていないが、
   長かった。村のすぐ外側は密林なので、そこでも隠れていた。
    日本軍が昌江に橋をつくるとき、この村で8軒の家をわずか一日で壊した。日本軍は村
   の人を集めていくつかの組に分け、あの家を壊せ、この家を壊せと命令した。この村で
   体の大きくて丈夫な人が、橋を作らされた。炮楼も作らされた。わたしもしごとをさせ
   られた。板や木をかついで運んだ。おとなはふたりで1本の木を運ぶが、わたしら子ども
   は3人で1本の木を運んだ。このときもらった金は、たまに1毛か2毛ほど。
    この村から働きに行かされた人は数が多く数えきれない。からだが丈夫でも働かない
   人を日本軍はつかまえて穴に閉じ込めて煙でいぶして虐待した。死ななかったが。
    民家を壊して材料を使えるようにするのにし、それで橋を作って、よそから運んでき
   た鉄道の枕木と同じ木を橋の上に敷いた。橋ができるまで、かなり長い間かかったと思う。
    日本軍は撤退するとき、トラックで八所のほうに行こうとしたが、木橋が洪水で壊れ
   ていたので渡ることができず、トラックを爆破して行った”。
 
 李朝秀さんの妻、郭成蘭さんが日本軍に殺された人の名前を覚えていました。郭成蘭さんが言う名前を、長男の李徳海さんが、符地安さんといっしょに漢字を確認しながら、つぎのように書いてくれました。
    舎梅  爺爺 1人
    何昌会 爺爺 1人
    郭成蘭 叔叔 1人(郭成蘭の父の弟)
    鍾成銀 爸爸 1人
    鍾坡叔 爸爸 媽媽 2人
    鍾儂五 母子両 2人
    鍾成開(本人 女) 1人
    鍾開忠 祖母 1人
    李文運 媽媽 1人

 李朝秀さんの兄の李朝栄さん、その妻の符金姨さんら4人の村人の証言にもとづいて書かれた趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」が、1997年1月に出版された政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第6輯(暴行与反暴行専輯)に掲載されています。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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