ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教139~ニーチェ:ニヒリズムの時代を予言

2018-12-29 08:53:56 | 心と宗教
●ニーチェ~「神は死んだ」と言い、ニヒリズムの時代を予言

 19世紀の半ば、ダーウィンは進化論を唱え、マルクスは共産主義的唯物論を唱えた。彼らの思想は、近代科学的合理主義に立ち、キリスト教を否定し、同時に神や霊を認める伝統的な精神文化を否定するものであった。ダーウィンは自然淘汰・適者生存を原理とする闘争の思想を説き、マルクスは人類の歴史は階級闘争の歴史であるとする闘争の思想を説いた。彼らの後、フリードリッヒ・ニーチェが登場した。ニーチェは、ダーウィン・マルクス以上に徹底した無神論を説き、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いた。
 ニーチェは、1844年にドイツでプロテスタントの牧師の家に生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。「呪術の追放」を行ったプロテスタンティズムの家系から、キリスト教そのものを否定する思想が出現したわけである。
 ニーチェは、19世紀後半の西欧において、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。彼は、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳といった、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。そして、このニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。ニーチェは、このニヒリズムを克服しなければならないと考えた。ニヒリズムが表面に現われてくる時代とは、「次の2世紀」とする。これは20~21世紀にあたる。ニーチェは、既にその時代が到来しつつある場所を、機械文明の国・アメリカに見ていた。
 ニーチェによれば、キリスト教による伝統的価値は「奴隷道徳」を体現している。この道徳は、強者に怨念や恨み(ルサンチマン)を抱いた弱者が作り上げたもので、やさしさとか温情といった言葉で形容される行動をほめあげる。しかし、こうした行動は弱者の利益にかなうものでしかない。彼はこうした伝統的価値にかわる新しい価値の創造を提唱した。
 「神の死」によって人間が直面したニヒリズムを克服するために、新しい価値の創造が必要とされる。この困難な課題に耐えうるのは、人間を超えた「超人」のみである。超人は、弱者に対する強者であり、奴隷に対する君主である。超人が生み出すものは、「奴隷道徳」に替わる「君主道徳」である。超人のみが新しい価値の体現者として、ニヒリズムを克服しうる。ニーチェは「人間は動物と超人との間に張り渡された一本の綱なのだ」と言って、人間存在の危うさを強調した。
 超人の価値創造力は、「力への意志」と呼ばれる。ニーチェは、神や霊や死後の世界、不可視界を否定する一方、現実世界における生を肯定し、生命の本質を「力への意志」であるとする。「力への意志」こそ、生の唯一の原理であると、ニーチェは説いた。
 ニーチェは、ショーペンハウアーから深甚な影響を受けていた。ショーペンハウエルは、カントが認識し得ないとした物自体とは、意志であるとした。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が現象世界全体を形成する動因であるとした。インド哲学や仏教の影響を受けたショーペンハウアーは、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができるという思想を説いた。ニーチェは、ショーペンハウアーの意志を、否定すべきものから肯定すべきものへと逆転させた。それが「力への意志」である。
 「力への意志」を原理とする思想は、ダーウィンやマルクスに共通する闘争の思想である。ダーウィンは種の間の、マルクスは階級や男女の間の、ニーチェは個人の間の闘争を説いた。
 ニーチェは、デカルト以来の近代西欧哲学が確実性の拠点としてきた「自我」や「意識」を疑う。それは、人間と世界との隔たりをもたらし、人間の「究極の拠り所」を亡失させるものであるという。これに対し、ニーチェが憧れた生は、人間の「究極の拠り所」である「一にして全」であるものであった。ニーチェはこの根源的な存在を「ディオニュソス的なもの」と呼ぶ。
 ディオニュソスとは、ギリシャ神話に現われる陶酔と熱狂の神であり、死して再生する神である。ニーチェは、この根源的な「一者」との汎神論的な同一化を求めていく。そして、超人のイメージと、古代ギリシャの陶酔と熱狂の神・ディオニュソスのイメージは重合していく。そして、ニーチェは、自らを聖書に記された「反キリスト」と同定するに至った。
 キリスト教的な西洋文明を批判し、西洋文明の根源を古代ギリシャに遡るニーチェは、さらに神話的な思考に立ち戻った。
 ニーチェには、永劫回帰という思想もある。永劫回帰とは一切のものが永遠に繰り返すという考え方で、神話的思考における「祖型と反復」(エリアーデ)に通じるイメージである。ニーチェは、永劫回帰を「無が永遠に続く」というニヒリズムととらえる。それを運命として肯定する者は、世界に意味を与える者となる。いわば無意味から有意味への反転である。このような極の反転は、神話的思考に見られる「対立物の一致」のイメージに通じる。
 ニーチェの思想は、このように複雑で、論理とイメージが混在し、矛盾を孕む。だが、その所論には鋭い洞察があり、欧米やロシアの知識人に重大な影響を与えてきた。そして、ニヒリズムという言葉は、ニーチェの思想から離れ、より広い意味で使われるようになった。ニヒリズムは、しばしば伝統的な秩序や価値を否定し、規制の文化や制度を破壊しようとする態度の意味で使われる。ニーチェが予言したように、19世紀末から欧米では、ニヒリズムが蔓延するようになった。世界的なキリスト教史について言えば、キリスト教徒のキリスト教離れ、キリスト教の衰退の進行である。
 ニーチェのいう根源的な存在、「ディオニュソス的なもの」は、近代西欧が否定し、退けてきた合理化し得ない領域である。すなわち、理性に対する情念に当たる。身体・生命に基礎を置くものである。これを心理学的に見れば、無意識に当たる。ニーチェは、1883年から『ツァラトゥストラはこう語った』を書いた。この書でニーチェは意識せずに、無意識の探検を行っている。ユング心理学者の林道義の著書『ツァラトゥストラの深層』によると、ツァラトゥストラはニーチェの心である。そこには、死と再生の物語があり、影・アニマ・老賢者が登場し、自己の象徴がマンダラ(註 円や4とその倍数を要素とする象徴図)として現われる。しかし、近代人ニーチェは、理想的な自我だけが正しいとして、無意識をすべて抑圧する。そこに自我膨張の症状が現われ、肥大した自我はついに破綻する。
 深層心理学者のユングは、ニーチェのいうディオニュソスとは、実はゲルマン神話の神・ヴォータンのことであると説いた。ニーチェは、ヴォータンの子孫・ゲルマン人を「金髪の野獣」といって賛美した。この言葉は、「超人」や「力への意志」といった言葉とともに、ナチスのイデオロギーの中で悪用された。
 19世紀前半のキルケゴールと後半のニーチェは、対照的な思想を説いた。前者は、「真のキリスト者」となることをめざし、後者は「反キリスト」の思想を説いた。その点では正反対なのだが、彼らには共通している点がある。既成のキリスト教への激しい批判である。また、その批判は、近代西洋文明の発展に苦悩する個人の生きざまから発している。20世紀の西欧に、彼らの苦悩をともにする哲学者が現れる。それが、ハイデッガーとヤスパースである。

 次回に続く。