ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

「ユダヤ的価値観の超克」をアップ

2018-01-22 11:16:24 | ユダヤ的価値観
 ブログに連載したユダヤ的価値観に関する拙稿は、全6部が完結しました。編集・加筆のうえ、マイサイトに全体を掲載しました。通してお読みになりたい方は、下記のアドレスへどうぞ。

■ユダヤ的価値観の超克~新文明創造のために
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-4.htm
(※本稿は、紙製の拙著『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』[星雲社]の付録CDにデータを収納しています)


ユダヤ154~昼の時代へ

2018-01-20 08:47:19 | ユダヤ的価値観
 最終回。

●結びに~「昼の時代」へ

 本稿の結びにあたって、冒頭に揚げた問題意識を振り返ると、私は「近代西洋文明において、ユダヤ人はどういう役割を果してきたか」「現代世界においてユダヤ的な価値観はどういう影響を及ぼしているか」「それを超克するためには何をなすべきか」という問題に関心を持ってきた。そして、私はこれらの問題を考えるために、ここ10年ほどの間に、人類の文明、近代西洋文明の特質、ユダヤ人の歴史と文化、移民問題、人権の起源と目標、宗教と精神文化等について、様々な別稿で考察を行った。
 本稿は、それらの考察を踏まえて、ユダヤ教・ユダヤ民族、ユダヤ人の歴史、ユダヤ文明、ユダヤ人の現在と将来について総合的に書いたものである。第6章に書いたように、人類が現在世界を覆っている近代西洋文明の弊害を解決するには、ユダヤ的価値観の超克が必要である。それには、ユダヤ的価値観を普及させてきた資本主義を人類全体を益するものに転換し、またグローバリズムから諸国・諸民族が共存共栄できるものへと指導原理を転換しなければならない。ユダヤ的価値観は、根本的にはユダヤ教の教義に基づくものゆえ、ユダヤ教内部からの改革が期待される。またその改革のためには、多神教文明群の側から改革を促進することが必要である。特に日本文明には、重要な役割がある。また、これに加えて、人類は唯物論的人間観を脱却し、心霊論的人間観を確立しなければならない。そして、精神的・道徳的な向上を促す宇宙的な力を受け入れて、核戦争と地球環境破壊による自滅の危機を乗り越え、物心調和・共存共栄の新文明を建設すべき時に、人類は直面している。
 さて、私は、2050年前後に人類は未だかつてない大変化を体験するだろうと考えている。これは、我が生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生の言葉に基づく予測である。大塚先生は、人類は、その発生以来、続いてきた長い「夜の時代」を終え、21世紀には「昼の時代」を迎えると説いている。「夜の時代」とは対立・抗争の時代であり、「昼の時代」とは物心調和・共存共栄の新文明が実現する時代である。「夜の時代」はまた準備期であり、「昼の時代」は活動発展期であるとも説いている。大塚先生は、「昼の時代」の到来は、21世紀の半ばぐらいだろうと語っておられた、と私は伝え聞いている。21世紀を導く指導原理に関する大塚先生の言葉を、マイサイトの「基調」(その3)に掲載しているので、ご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/keynote.htm
 「昼の時代」への転換は、人類が過去に体験したことのない大変化となる。ちょうど胎児が暗黒と不自由な母親の胎内を出て、この世に生まれると、それまでの胎内生活の段階とは、全く違う生き方を始めるように、2050年前後に人類は現在、想像のできないような新たな段階に入っていく、と私は期待している。
 これに符合するように、情報通信の分野では、2045年に特異点的な変化が起こるという予測が出されている。テクノロジーの進歩は、指数関数的な変化を示してきた。たとえば、コンピュータの演算速度は、過去50年以上にわたり、2年ごとに倍増してきた。これを「ムーアの法則」という。「ムーアの法則」によると、2045年に一個のノートパソコンが全人類の脳の能力を超えると予測される。人工知能が人間の知能を完全に上回るということである。そのような時代を未来学者レイ・カーツワイルは「シンギュラリティ(特異点)」と呼んでいる。カーツワイルは、人間とコンピュータが一体化し、「人類は生物的限界をも超える」と予測している。カーツワイルは、その時、人類の「黄金時代」が始まるという。
 世界的な理論物理学者ミチオ・カクは、今から約30年後に迫るこの「黄金時代」について、次のように予測する。

・ナノテクノロジー・再生医療等の発達で、寿命が延び、平均100歳まで生きる。
・遺伝子の研究で、老化を防ぐだけでなく、若返りさえ実現する。
・退屈な仕事や危険な仕事は、ロボットが行う。
・脳をコンピュータにつなぎ、考えるだけで電気製品や機械を動かせる、など。

 これ以外にも、新DIY革命、テクノフィランソロピスト(技術慈善活動家)の活躍、ライジング・ビリオン(上昇する数十億人)の勃興等で、次のようなことも可能になると予想されている。
 
・新種の藻類の開発で石油を生成
・水の製造機でどこでも安全な水を製造
・垂直農場やバイオテクノロジーで豊富な食糧生産
・太陽エネルギーの利用で大気中の不要なC02を除去

等である。
 こうしたテクノロジーの爆発的な進歩は、人類の生活と社会に想像を越えた変化をもたらすだろう。あまりにも変化が早く、この変化についていくことのできない人も多くなるだろう。だが、若者は、既成観念に縛られず、過去の伝統・慣習・発想から自由である。若い世代は、新しい時代を抵抗なく受け入れ、自然に、来るべき「黄金時代」に入っていくことができるだろう。これは、ユダヤ文明においても同じだろう。かつてヨーロッパでは、近代科学の発達によって天動説から地動説に転じ、中世キリスト教の世界観に閉じ込められていた人々の世界観が大きく変わった。21世紀の人類は、これから世界観の大変化を体験することになるだろう。
 だが、人類が過去の歴史において生み出し、受け継いできた宗教・国家・制度等は非常に堅固であり、それらによって生じている弊害は大きい。とりわけ宗教による対立・抗争は、非常に深刻である。この障害をどう乗り越えるかに、人類の将来の多くがかかっている。私は、従来宗教による障害を乗り越えていくのもまた、若者だろうと考える。若い世代は、過去の世代を呪縛してきた既成観念から自由であり、従来宗教の矛盾・限界を見抜いて、新しい指導原理を求め、また受け入れるようになるだろう。これは、ユダヤ人社会においても同様だろう。
 2050年前後の分岐点を乗り越えることができれば、人類は、2070年、2100年と進むに従い、飛躍的に発達し続ける新しい科学技術によって、現在では想像もし得ないほど高度な文明へと進み入るだろう。もし人類が地球外に活動範囲を広げるならば、地球全体のエネルギーを利用できる文明すなわち惑星規模の文明の段階へ飛躍し、さらにそこから恒星系規模の文明へ移行し、さらに数百年のうちに銀河系規模の文明や超銀河系規模の文明へと発展していくことも可能だろう。しかし、宇宙広しと言えども、人類にとって地球ほど素晴らしい、恵まれた星は、他に見つからないだろう。なぜなら人類はこの地球の環境において発生し、その環境と一体の生命として発達してきたからである。
 人類には、未だかつてない、そして今後も一度限りしかない空前絶後の好機が訪れている。ここで人類は、この地球において、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する、物心調和・共存共栄の精神文化の興隆が待望されているのである。その新しい精神文化の指導原理こそ、「昼の時代」を実現する推進力になるに違いない、と私は確信するのである。(了)

ユダヤ153~心霊論的人間観の確立を

2018-01-18 09:27:01 | ユダヤ的価値観
●心霊論的人間観の確立を

 いったい人生の根本問題とは何か。成長して大人になること、自分に合った伴侶を得ること、子供を産み育てること、よい死に方をすること。私はこれらに集約されると思う。これは、様々な宗教・哲学・思想の違いに関わらず、人間に共通する問題だろう。そして、よい死に方をするためには、自分が生まれてきた意味・目的を知ること、生きがいのある人生を送ること、自己の本質を知ること、死後の存在について知ることが必要になる。人生の根本問題の前半は、なかば生物学的・社会学的なものである。しかし、死の問題は違う。死の問題は、哲学的であり、宗教的な問題である。唯物論は、人生の後半の問題については、まったく役に立たない。むしろ、自己の本質について、根本的な誤解を与える。
 人間は死んで終わりなのか、死後も存在しつづけるのか。死の認識で思想は大きく二つに分かれる。死ねば終わりと考えるのは唯物論であり、死後も続くと考えるのが心霊論である。心霊論には、ユダヤ=キリスト教のような人格的唯一神による創造説や、仏教のような縁による発生説がある。人生は一回きりという一生説と、輪廻転生を繰り返すという多生説がある。また、祖霊の祭祀を行う場合と、行わない場合がある。単に思い出、記憶として親や先祖を思うという場合もある。しかし、心霊論は、死後の存在を想定して人生を生きる点では、共通している。
 心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。人生においては、この死の時に向かっての準備が重要となる。霊魂を認め、来世を想定する心霊論的な人間観に立つと、フロイトの「死の本能(タナトス)」とは違う意味での「死の本能」が想定される。来世への移行本能と言っても良いし、別の次元の生に生きる再生本能と言っても良い。
 身体から独立した霊魂を認めるという考え方は、特異なものではない。近代西欧で唯物論的人間観が優勢になるまで、ほとんどの人類は、そのように考えていた。また、近代西欧にあっても、カント、ショーペンハウアー、シジウイック、ベルクソンらの哲学者、ウォーレス、クルックス、ユングらの科学者は、霊的現象に強い関心を表したり、心霊論的信条を明らかにしてきた。
 テレパシー、念力、遠隔視、臨死体験、体外離脱体験等には、否定しがたい多数の事例があり、それらをもとに、霊魂が身体と相対的に独立し、死後は別の仕方で存在することを主張することができる。J・B・ラインが実験科学的な方法を導入した超心理学の研究によって、超感覚的知覚(ESP)の解明が進められているが、その研究対象は、やがて霊的存在の領域へと向かっていくだろう。
 今日の人類は、ユダヤ的価値観を超克するために、心霊論的な人間観を確立する必要がある。心霊論的な人間観に立つと、社会や文明に対する見方は、現在の常識や諸科学の知見とは、大きく異なったものになる。
 私は、心霊論的人間観を確固としたものにするために、超心理学とトランスパーソナル学のさらなる発展に期待している。また、それらを補助とする新しい精神科学の興隆が、文明の転換、人類の精神的進化の推進力になる、と考える。

●物心調和・共存共栄の地球文明を築くために

 人類が、この地球に新しい段階の文明を築くためには、二つの面で飛躍的な向上を成し遂げることが必要である。一つは経済的・技術的な向上、一つは精神的・道徳的な向上である。前者は物の面、後者は心の面である。これら物心両面にわたる飛躍的な向上が求められている。
 人類は、物質文化と精神文化が調和した物心調和の文明を建設しない限り、自ら生み出した物質科学の産物によって、自滅しかねないところに来ている。この危機を避け、地球に共存共栄の社会を実現するには、特に心の面の向上が急務である。われわれは、心霊論的人間観に基づいて、人格の成長・発展による精神的・道徳的な向上を目指す必要がある。
 個人個人の人格的な成長・発展なくして、物心調和・共存共栄の地球文明は建設し得ないことは言うまでもない。それとともに私は、この建設過程で、国家の役割が重要である、と考える。諸国家が自国の国民に国民の権利を保障し、さらに拡充していくときに、人類社会全体が物心両面において発展し、新文明の建設が進められていく。国家の役割を排除して、個人個人の努力のみによるのでは、この過程は進行し得ない。
 地球の人類社会は現在、貧困と不平等だけでなく、食糧・水・資源等の争奪、核の拡散、環境の破壊等により、修羅場のようになっている。人類の大多数は、生存や安全を脅かされている。個人の権利の保障がされ、人格の成長・発展を促進し得るには、国家間の平和と繁栄があってこそ、である。その国家間の努力によってしか実現し得ない。
 国際社会を平和と繁栄の方向に進めるために、近代西欧で発達した自由・平等・デモクラシー・法の支配等の価値は、現在の世界で有効なものと言える。われわれは、各国家・各国民(ネイション)において、それぞれの文化・伝統・習慣に合った形でこれらの価値が実現され、そうした価値を実現しつつある諸国家・諸国民が、それぞれの固有の条件のもとで多種多様に発展し、協調する世界を構想すべきだろう。様々な国家・国民がお互いを尊重しながら協調し、物心調和・共存共栄の新文明が実現されてこそ、人類は大きく精神的・道徳的に向上する道を進むことができるだろう。

●精神的・道徳的な向上を促す力が待望される

 物心調和・共存共栄の新文明を建設する上で、最大の道徳的な課題は、次の事柄だろう。すなわち、人類はそれぞれの共同体的な集団におけるのと同じように、家族的生命的なつながりを基にした同胞意識や連帯感を、ネイション(国家・国民・共同体)やエスニック・グループ(民族)を越えて保持し得るかということである。
 人間は血統や地域や生活を共にすることによって、相互扶助・協力協働の関係を築く。また、家族愛や友愛を育む。集団生活における直接的な交流は、数百人から数千人程度が普通である。数百万人、数千万人と直接交流する人は、ごく少ない。多くの人間は、直接的で具体的な経験を超えて、他者への理解や同情を持つことは難しい。直接的で具体的な経験なくして、同胞意識や連帯感を持てるようになるには、共感の能力の開発による大きな精神的・道徳的な向上が必要である。そのために教育・啓発活動の役割は大きい。だが、よほど強力な感化力を持った思想や宗教でなければ、既成観念にとらわれた人々の意識の変革はできないだろう。そこで、多くの人間の自己実現・自己超越を促進する精神的な巨大なエネルギーが求められる。人間の精神に感化を与え、破壊的・自滅的な思考回路を消滅させ、恐怖をもたらすトラウマを癒して、精神を健全に発達させる力が待望されている。
 その力はまた人類を物心調和・共存共栄の新文明の建設に導く力でもある。宇宙には秩序と発展をもたらす力が存在する。この力は万物を貫く理法に基づいて働く。ここで理法とは、古代ギリシャのノモスやシナ文明の道(タオ)、日本文明の道(みち)または道理に通じるものである。また、その力は、万物を理法に沿った調和へと導く力である。人類の歴史は、その力が人類に作用して、知恵や文明・科学等が発達してきたと考えられる。子供は成長の過程において、最初は肉体が成長し、後に精神が成長する。それと同じように、人類の文明も、最初は物質文化が発達し、次は精神文化が発達する。人類がその力を求め、受け入れる時、かつてない精神的・道徳的な向上が始まるだろう。
 この力とは、宇宙の万物を生成流転させている原動力である。宇宙本源の力である。その宇宙本源の力を受けることによる精神的・道徳的な向上は、一部の人たちから始まり、また一部の国から広がるだろう。ユダヤ的価値観の影響を受けた経済中心・物質中心の価値観から物心調和の価値観に人々の価値観が変化する。そうした国々で物心調和の文明の建設が始まる。この新たな文明が、その他の国々にも広がる。それによって、共存共栄の社会が実現されていく。諸個人・諸国家・諸民族の調和的な発展によって、国家間の富の収奪が抑制され、過度の不平等が是正されていく。国際間の平和と繁栄が共有され、国家間の格差が縮小される。物心調和・共存共栄の新文明が建設される過程で、諸国家における国民の権利が発達する。戦争・内戦等の人為的原因で発生する難民が減少する。こうして諸個人の自己実現・自己超越が相互的・共助的に促進される社会が実現する。このサイナジックな社会において、物心調和・共存共栄の新文明の建設は一層大きく進むことになる。それによって、また諸個人の自己実現・自己超越が相互的・共助的に促進される。こうした循環が螺旋的に進行するに従って、人類は飛躍的な進化を体験することになるだろう。

 次回が最終回。

ユダヤ152~唯物論的人間観からの脱却を

2018-01-15 09:45:22 | ユダヤ的価値観
●唯物論的人間観からの脱却を

 ユダヤ的価値観を超克するには、今日優勢になっている唯物論的人間観を脱却し、心霊論的人間観を確立する必要がある。
 唯物論的人間観は、人間を単に物質的な存在と見て、心は脳における物理的・化学的現象ととらえる。唯物論的人間観の優勢は、物質科学・西洋医学の発展やダーウィンの進化論、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想によるところが大きい。そして、この優勢の背景には、ユダヤ教の影響がある。ユダヤ教は、本来のキリスト教と異なり、来世をほとんど語らず、現世での幸福を追求する。西方キリスト教は、宗教改革以後、ユダヤ教の影響を受け、現世志向に大きく傾いた。その変化とともに資本主義や近代科学が発達して、社会の世俗化が進んだ。
 また、二人のユダヤ人が唯物論的人間観の形成に大きな役割を果たした。カール・マルクスとジ-クムンド・フロイトである。かれらについては第3章(4)に書いたが、マルクスは、史的唯物論を説き、ユダヤ=キリスト教的な神やギリシャ哲学以来のイデア論を否定した。その思想は、哲学・経済学・社会運動等に広範な影響を与えた。一方、フロイトは、無意識の理論を説き、心理現象を物理的なエネルギーのアナロジーで説明した。その思想は、精神医学・心理学・文化学等に多大な影響を与えた。19世紀後半以降、マルクスとフロイトの思想が人間観のあり方に強く作用してきている。
 唯物論的人間観に対して、私が心霊論的人間観と呼ぶのは、人間を単に物質的な存在と見るのではなく、人間には物質的な側面と心霊的な側面の両面があるとする人間観である。心霊論的人間観は、唯物論的人間観の欠陥を是正する。心霊論的人間観においては、個人の人格は死後も霊的存在として存続する可能性を持ち、また共感の能力は、身体的な局所性に限定されず、時空を超越し、波長の異なる領域にも及び得ると理解する。こうした人間観を確立することが、ユダヤ的価値観の超克のために求められている。

●人間を総合的に理解する

 唯物論的人間観では、人間を総合的に理解することができない。私は、人間の総合的理解を深めるには、心理学者アブラハム・マズローの理論を参考にすべきと考える。
 マズローは、人間の欲求は、次の5つに大別されるという説を唱えた。

(1)生理的欲求: 動物的本能による欲求(食欲、性欲など)
(2)安全の欲求: 身の安全を求める欲求
(3)所属と愛の欲求: 社会や集団に帰属し、愛で結ばれた他人との一体感を求める欲求
(4)承認の欲求: 他人から評価され、尊敬されたいという欲求(出世欲、名誉欲など)
(5)自己実現の欲求: 個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求。さらに、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望

 マズローは、このような人間の欲求が階層的な発展性を持っていることを明らかにした。生理的な欲求や安全性の欲求が満たされると、愛されたいという欲求や自己を評価されたいという欲求を抱くようになり、それも満たされると自己実現の欲求が芽生えてくるというのである。
 自己実現こそ人生の最高の目的であり、最高の価値であるとマズローは説く。そして、人間が最も人間的である所以とは、自己実現を求める願望にあると説く。自己実現の欲求は、まず個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求である。「ある個人にとってこの欲求は、理想的な母親たらんとする願望の形を取り、またある者には運動競技の面で表現されるかもしれない。さらに別の者には、絵を描くことや発明によって表されるかもしれない」とマズローは言う。さらに、この欲求がより高次になると、自己の本質を知ることや、宇宙の真理を理解したいという欲求となり、人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望となって、より高い目標に向かっていく。
 マズローによると、自己実現をした人とは「人生を楽しみ、堪能することを知っている人間」であり「苦痛や悩みにめげず、辛い体験から多くのものを悟ることができる人間」である。そうした人は「感情的になることが少なく、より客観的で、期待、不安、自我防衛などによって、自分の観察をゆがめることが少ない。また創造性や自発性に富み、自ら選択した課題にしっかり取り組む姿勢を持っている」。また「開かれた心を持ち、とらわれの少ない積極的存在だ」とマズローは言う。
マズローの研究によると、自己実現の欲求は、他の欲求が満足させられたからといって必ずしも発展するとは限らない。食欲・性欲や名誉欲など、下位の欲求の段階でとまっている人が多いからである。
 マズロー以前の心理学は、研究の焦点を下位の欲求に合わせ、より高次の欲求にはあまり注目していなかった。例えば、マルクスの人間観は、19世紀の唯物論的心理学に基づき、「生理的欲求」と「安全の欲求」を中心としている。そのため、人間の幸福の実現には食物と安全が重要だとし、より高次の欲求には否定的だった。フロイトは無意識の研究を行い、それまでの人間観に画期的な変化をもたらした。彼は性の問題を通じて、より上位の欲求である「所属と愛の欲求」の研究をしたといえる。しかし、性の観点からすべてを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまった。マルクスとフロイトの唯物論的人間観は、下位の欲求に焦点を合わせ、上位の欲求を軽視したものである。
 マズローの事例研究によると、自己実現を成し遂げた人は、しばしば、さらに自己超越を求めるようになる。自己超越の欲求とは、自己を超え、自分自身を超えたものを求める欲求である。そして、他の多くの人々のために尽くしたり、より大きなものと一体になりたいと願ったりする。自己超越とは、自己が個人という枠を超えて、超個人的(トランスパーソナル)な存在に成長しようという欲求である。それは、悟り、宇宙との一体感、宇宙的な真理や永遠なるもの、社会の進化や人類の幸福などの、より高い目標である。古今東西の宗教や道徳でめざすべき精神の状態とされてきたものである。
 マズローは、自己実現の心理学から、自己超越の方向に進み、個を超える、より高次の心理学を提唱した。これがトランスパーソナル心理学である。マズローは、「トランスパーソナル」とは「個体性を超え、個人としての発達を超えて、個人よりもっと包括的な何かを目指すことを指す」と規定している。
 人間には、こうした自己実現を経て自己超越に向かう人格的な欲求が生得的に内在している。その欲求は、アニミズムやシャーマニズムと呼ばれる原初的な精神文化にもさまざまな形で表れている。人類史に現れた諸文明は、より発達した宗教をその中核に持ち、多くの宗教は、死後も人間は霊的な存在として存続することを説いている。マズロー以後、トランスパーソナル心理学は、心理学という枠組みを超え、さまざまな学問を統合するものとなり、包括的な視点に立って人間のあり方を模索する学際的な運動となっている。これをトランスパーソナル学と呼ぶ。トランスパーソナル学では、人間は霊性を持つ存在であることを認めている。霊性は心霊性ともいう。人間に生死を超えた心霊性を認めてこそ、人間観は身体的な局所性を超えて、真に時空に開かれたものになる。死をもって消滅するものは、真の人格とは言えない。21世紀に確立されるべき新しい人間観は、こうした霊的な存続可能性を持つ人格を中心にすえた心霊論的人間観でなければならない。

 次回に続く。

ユダヤ151~日本の調和の精神が新しい文明を開く

2018-01-13 08:50:08 | ユダヤ的価値観
●日本の調和の精神が新しい文明を開く

 21世紀の世界で、人類のユダヤ的価値観からの脱却を促進するためには、新しい精神文化の興隆が必要である。私は、その新しい精神文化は、日本から出現すると確信している。
 日本文明では、人と人、人と自然が調和して生きる精神が発達した。それは、四方を海に囲まれ、四季の変化に富む豊かな自然に恵まれて、共同労働によって集約的灌漑水田稲作で米作りをしてきた日本人の生活の中で育まれた精神である。これを日本精神という。その日本精神の宗教的な表現が、先に述べた神道である。日本精神は大調和の精神であり、その点では、日本民族だけのものではなく、世界の諸民族にも求められるものである。この大調和の精神に、人類の文明を転換し、この地球で人類が生存・発展していくための鍵がある。
 まず、人類には人と人の調和が必要である。核兵器が増加・拡散する今日の世界において、人類は、自滅を避けるために、対立・抗争、征服・支配ではなく、個人と個人、国家と国家、民族と民族が共存調和して、ともに繁栄できるような社会のあり方を見出さねばならない。そのあり方は、ユダヤ教の排他的・独善的な選民思想とは、正反対のものである。
 人類は核戦争による自滅の危機を乗り越えて、新しい段階の新文明へと飛躍できるかどうか、かつてないほど重要な段階にある。ここで見出すべきものこそ、人と人が調和し、共存共栄し得る道である。そして私は、調和と共存共栄を可能にする原理は、日本の精神文化に内在していると考える。
 日本の精神文化の伝統を踏まえて、宗教・思想・文化等の相違を超えて諸国家・諸民族が調和できる世界のあり方を示すことが、わが国の世界平和への最大の貢献となるだろう。同時にそれが、日本が国際社会で平和と繁栄を確保する道ともなるだろう。特に日本は、中東におけるイスラエルとアラブ諸国の対立を和らげるように助力することを期待されている。世界的にユニークな特徴を持つ日本文明は、ユダヤ=キリスト教諸文明とイスラーム文明の抗争を収束させ、調和をもたらすために重要な役割があることを自覚すべきである。
 次に、人類には、人と自然の調和が必要である。近代西洋文明は、ユダヤ=キリスト教の世界観の強い影響を受けている。ユダヤ=キリスト教には、人間は神の似姿として創造されたものであり、自然は支配し利用すべきものだとする思想がある。近代西洋では、その思想のもとに、物質としての自然、魂なき自然という思想が形成された。そして、そうした思想のもとに科学技術が発達し、人間による自然の征服・改造が推し進められている。そのため、自然環境が破壊され、人類は、文明の土台を自ら突き崩しつつある。
 この危機を回避するには、自然を単に物質・エネルギーの循環システムと見るのではなく、人間の生命や心霊と通底したものと感じる心を取り戻すことが必要である。そして人間は自然から生まれ、その一部であるという自己認識を回復しなければならない。20世紀後半から世界的に広がった環境科学としてのエコロジーは、生命的・心霊的な自然観に裏付けられる時にのみ、自然と調和した文明を創造することに貢献するものとなるだろう。
 先進国の中で唯一、わが国は今日でも、生命的・心霊的な自然観を保っている。それは、日本精神の宗教的表現としての神道の伝統によるものである。自然の恵みに感謝し、森を守り、海を守る日本人の心を、今日の地球に生かす。それにより、日本文明は人類文明の転換に貢献し、新しい地球文明の創造に寄与し得るのである。
 21世紀の人類は核戦争と地球環境破壊による自滅の危機を乗り越えて、物心調和・共存共栄の新文明を地球上に創造できるかどうかに、自らの運命がかかっている。ここが、地球全体のエネルギーを利用できる文明すなわち惑星規模の文明の段階へと飛躍できるか、それともそれに達する前に滅亡するかという分かれ目である。
 この危機と飛躍の時にあって、日本人には、自らの伝統的な精神を取り戻し、その精神に内在する原理を発動して、新しい精神文化を興隆し、世界人類を精神的な向上に導く役割がある、と私は信じる。

 次回に続く。

ユダヤ150~神道に潜む人類への貢献可能性

2018-01-11 08:54:04 | ユダヤ的価値観
●神道に潜む人類への貢献可能性

 日本文明は、その宗教的中核として神道を持つ。このことが、日本文明に重要な特徴を与えている。
 私は先にセム系一神教は脱皮すべき時にあると書いた。その一神教の世界観の問い直しは、単に多神教の世界観への転換で済むことではない。伝統的な一神教と多神教という対立の片方の項目から、他方に移るだけで、問題が解決するのではない。
 多神教という概念は、一神教を基準にした概念であり、ユダヤ=キリスト教を優位に置き、多数の神格を持つ宗教を劣位に置く発想が根底にある。だが、多神教の中には、神々や霊的存在が単に多元的・並列的ではなく、本質において「一」であるものが、現象において「多」であるという「一即多、多即一」の構造を示すものがある。私は、神道は、これだと考える。宗教学では、こうした哲学的な考察がされずに、現象的な「一」の側面を見て一神教、「多」の側面を見て多神教と分けている。だが、宗教の研究を深めていくと、一神教と多神教は全く別のものではなく、根本に「一即多、多即一」という立体的な構造があって、そこから様々な宗教が差異化したと考えることが可能である。そして、私はこうした「一即多、多即一」の立体構造の中に、一神教と多神教を包摂し、融合・進化し得る可能性を見出す者である。
 もっともその融合・進化は、様々な宗教が排他的教義と闘争的な思想を固守する限り、なされ得ない。特にユダヤ教は、排他性と闘争性が強い。ユダヤ教が他の宗教や思想と共存調和できるものへと、その内部から改革されていかないと、ユダヤ教と他宗教、ユダヤ民族と他の民族、及びイスラエルと他の国々が協調・融和することが、できるようにはならないだろう。伝統的な神道が担い得るのは、そうしたユダヤ教の内部からの改革を促進することにとどまる。これは、他のセム系一神教に関しても同様である。
 ユダヤ教と神道の類似点と相違点については、第1章ユダヤ教の概要の項目に書いたが、類似点はいくつかあるが、相違点はそれよりはるかに重要である。
 一神教社会では、宗教紛争・宗教戦争が多く繰り返されてきた。これに対し、日本では、こうした宗教紛争・宗教戦争がない。日本には、古代にシナ文明から儒教・道教・仏教が伝来した。それら外来の宗教のうち儒教・道教は日本固有の神道の中に取り込まれた。また神道と仏教は共存し、混交して、日本独自の宗教を形成した。
 21世紀の世界で対立を強めている西洋文明、イスラーム文明、シナ文明、東方正教文明には、大陸の影響を受けて発生した宗教――キリスト教、イスラーム教、儒教、道教等――が影響を与えている。西洋文明、東方正教文明の周辺文明であるユダヤ文明も同様である。これに比べ、神道は、海洋の影響を受けて発生した宗教であり、セム系一神教にも、神道以外の多神教にも見られない独自の特徴を示している。大陸的な宗教が陰の性格を持つのに対し、海洋的な宗教である神道は陽の性格を持つ。明るく開放的で、また調和的・受容的である。これは、四方を世界最大の海・太平洋をはじめとする海洋に囲まれた日本の自然が人間の心理に影響を与えているものと思う。
 多神教であるうえに海洋的であることが、神道の共存調和性のもとになっている。そうした神道が、日本文明に海洋的な性格すなわち明るく開放的で、また調和的・受容的な性格を与えている。そして日本文明のユニークな性格が、文明間の摩擦を和らげ、文明の衝突を回避して、大いなる調和を促す働きをすることを私は期待する。
 文明の衝突を回避して、大いなる調和を促すには、現代世界で支配的な影響力を振るっている近代西洋文明の弊害を解決していかなければならない。その取り組みにおいて、本稿はユダヤ的価値観からの脱却を課題としている。私は、日本文明には、ほかの文明にない独自の特徴を発揮し、ユダヤ的価値観からの脱却を推進し得る潜在能力があると考える。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「日本文明の宗教的中核としての神道」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09l.htm

ユダヤ149~ハンチントンの日本文明への期待

2018-01-09 09:21:13 | ユダヤ的価値観
ハンチントンの日本文明への期待

 20世紀の末頃から、日本文明に世界平和への貢献を期待する外国人有識者が目立って増えている。そのうちの一人が、国際政治学者のサミュエル・ハンチントンである。
 ハンチントンは、1996年に刊行した著書『文明の衝突』で、冷戦終結後の世界を分析し、文明は衝突の元にもなりうるが、共通の文明や文化を持つ国々で構築される世界秩序体系の元にもなりうる、と主張した。主にカトリック及びプロテスタントによる西洋文明とイスラーム文明の衝突の可能性とその回避を論じた。ハンチントンは、文明内での秩序維持は、突出した勢力、すなわち中核国家があれば、その勢力が担うことになる、と説く。また、文明を異にするグループ間の対立は、各文明を代表する主要国の間で交渉することで解決ができるとし、大きな衝突を回避する可能性を述べた。そして、日本文明に対して、世界秩序の再生に貢献することを、ハンチントンは期待した。
 ハンチントンは「日本国=日本文明」であり、一国一文明という独自の特徴を持っていることを指摘した。「世界のすべての主要な文明には、2ヶ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない」と、ハンチントンは書いている。
 『文明の衝突』は、2001年(平成13年)9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件を予測した本として、世界的に評判となった。事件の翌年である2002年(平成14年)に、ハンチントンは『引き裂かれる世界』を刊行し、次のように日本への期待を述べた。
 「日本には自分の文明の中に他のメンバーがいないため、メンバーを守るために戦争に巻き込まれることがない。また、自分の文明のメンバー国と他の文明との対立の仲介をする必要もない。こうした要素は、私には、日本に建設的な役割を生み出すのではないかと思われる。
 アラブの観点から見ると、日本は西欧ではなく、キリスト教でもなく、地域的に近い帝国主義者でもないため、西欧に対するような悪感情がない。イスラーム教と非イスラーム教の対立の中では、結果として日本は独立した調停者としての役割を果たせるユニークな位置にある。また、両方の側から受け入れられやすい平和維持軍を準備でき、対立解消のために、経済資源を使って少なくともささやかな奨励金を用意できる好位置にもある。
 ひと言で言えば、世界は日本に文明の衝突を調停する大きな機会をもたらしているのだ」と。
 私は、ハンチントンの上記の指摘に基本的に同意する。ハンチントンは、西洋文明とイスラーム文明の衝突について、日本文明が「建設的な役割」「調停者としての役割」を果たすことを期待する。だが、ハンチントンは、西洋文明を語る際、ユダヤ文明について語らず、アメリカ合衆国を語る際、イスラエルについて語らなかった。その点を私は批判してきた者だが、日本文明が「建設的な役割」「調停者としての役割」を果たし得るのは、ユダヤ文明とイスラーム文明の間においても、同様であることを、ここであらためて指摘したい。より具体的に言えば、日本文明は、アメリカ=イスラエル連合及びその提携国とイスラーム文明諸国の衝突を回避し、中東に平和をもたらし、世界に安定をもたらすという非常に重要な役割を担い得る潜在的能力を持っているということである。それは、日本文明の一国一文明というハンチントンが指摘した特徴だけでなく、日本文明の共存調和を重んじる、より本質的な特徴から発する能力である。ハンチントンは、その本質的な特徴についてほとんど研究を行っていない。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09j.htm

ユダヤ148~ユダヤ文明と日本文明の共通点・相違点

2018-01-06 10:59:39 | ユダヤ的価値観
●ユダヤ文明と日本文明の共通点・相違点

 私は、ユダヤ的価値観の超克、セム系一神教の脱皮、それらによる人類の共存共栄の実現を促進するために、日本文明には、果たすべき大きな役割があると考える。
 日本文明については、拙稿「人類史の中の日本文明」に書いた。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09c.htm
 ここでは簡単に記すと、日本文明は、古代の東アジアにおいて、シナ文明の周辺文明だった。大陸から水田灌漑稲作、漢字、律令制度等を摂取した。しかし、7世紀から自立性を発揮し、かな文字、和漢混交文、和歌等を生み出した。そして、早ければ9世紀~10世紀、遅くとも13世紀には一個の独立した主要文明になった。最も大きな特徴的な要素は、神道、皇室、武士道である。比類ない個性を持つ日本文明は、江戸時代に熟成期を迎え、独創的な文化を開花させた。それほど豊かな固有の文化があったからこそ、19世紀末、西洋近代文明の挑戦を受けた際、日本は見事な応戦をして近代化を成し遂げ、世界で指導的な国家の一つとなることができた。
 日本文明は、西洋近代文明の技術・制度・思想を取り入れながらも、土着の固有文化を失うことなく、近代化を成功させた。日本の後発的近代化は、西洋化による周辺文明化ではなく、日本文明の自立的発展をもたらした。この成功が、他の文明に復興の目標と方法を示した。
 現代世界において、日本文明は、世界の主要文明の一つとして、独自の文化を誇っている。近代西洋文明の精華を取りいれて、科学技術を活用・開発している半面で、日本古来の伝統・文化・国柄を保っている。また東洋諸文明から伝来した宗教・思想・芸術等を保持しつつ、独創的に発展させている。
 次に、こうした日本文明をユダヤ文明と比較するならば、共通点としては、まず固有の民族宗教を文明の中核に持つことがある。また、ともに直系家族の社会が生んだ文明であること、婚姻制も内婚制であることが挙げられる。
 だが、ユダヤ文明と日本文明の相違点は、共通点より遥かに多い。
 まず、第一に、文明の中核にある宗教が、ユダヤ文明ではセム系一神教の元祖・ユダヤ教であり、日本文明はそれが非セム系多神教に分けられる神道である。ユダヤ教は、神ヤーウェ以外の神や霊的存在を崇拝することを偶像崇拝として否定する。これに対し、神道は自然の事象、人間・動物・植物等を広く神として崇める。
 第二に、民族の歴史・構成については、ユダヤ民族は、数千年にわたって各地に離散した体験を持つ。これと全く対照的に、日本民族は、日本列島という一所に定住し、1万年以上にわたって持続・繁栄してきた。
 第三に、ユダヤ民族は、苦難の歴史の過程で、早くに王統が絶滅した。これに対し、日本民族は、古代から今日まで皇統が連綿として一系で継続している。王統を持たないユダヤ民族は聖書によって集団を統合し、皇室を戴く日本民族は天皇を中心として集団が統合される。
 第四に、人と人、人と自然のかかわり方については、ユダヤ文明は対立・支配を追求する文明であり、日本文明は調和・融合を求める文明である。ユダヤ文明は他文明との争いの歴史を生き抜いてきた。これに対し、日本文明には宗教戦争がない。ほかの諸文明から流入した宗教を共存させてしまう。また、集約的灌漑水田稲作による米作りを通じて、自然と調和しつつ、持続可能な発展を続けてきた。
 第五に、他の文明との関係については、ユダヤ文明は主要文明に従属しつつ、逆にその文明の中核にまで浸透していくタイプの周辺文明である。これに対して、日本文明は一国一文明の自立性の高い主要文明である。
 こうした相違点は、日本文明がユダヤ文明の弱いところや欠けているものを提示し、さらにそれらを補い得る点でもある。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「人類史の中の日本文明」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09c.htm

ユダヤ147~セム系一神教は脱皮すべき時にある

2018-01-04 10:42:53 | ユダヤ的価値観
セム系一神教は脱皮すべき時にある

 私は、世界平和のために中東に平和と安定が求められる時代において、ユダヤ教だけでなく、セム系一神教全体が新たな段階へと脱皮しなければならない時期にあるのだと思う。その脱皮に人類の運命の多くがかかっている。
 ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラーム教にせよ、科学が未発達だった千年以上も前の時代に生まれた宗教的な価値観を絶対化し、それに反するものを否定・排除するという論理では、どこまでも対立・闘争が続く。果ては、共倒れによる滅亡が待っている。それらの宗教が生まれた時代に人類が使っていた武器は、剣と槍と弓だった。しかし、その後、人類は核兵器を開発し、とてつもない破壊力を手にしている。世界規模の核戦争が勃発すれば、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラーム教徒も、その外の民族的・宗教的・政治的な集団も、どれもみな生き残ることはできない。最悪の場合、人類は絶滅する。そのような核の時代において、かつての剣・槍・弓の時代の観念にとらわれていてはいけない。共倒れによる絶滅ではなく、共存共栄の道を求めなければならない。
 次に、地球の自然環境についても考えなければならない。セム系一神教は砂漠に発生した宗教である。そのために、自然に対する考え方に独自性を持つ。砂漠の生態系は、森林の生態系と異なり、限られた動植物で構成されている。そのような風土で発生した宗教が森林地帯に広がった時、森林の保全は軽視され、自然の支配や管理が目指される。斧や鍬、牛や馬によって開墾や伐採がされていた時代には、その弊害は少なかった。しかし、化石燃料を用いた動力源を伴う機械が開発に使われるようになると、その弊害は一気に増大した。このまま自然の征服・改造の文化を続けていくならば、人類の文明は自らの土台を危うくするばかりである。人類は生存と繁栄のために、自然と調和する道を見出さなければならない。
 自然の世界に目を転じれば、そこでは様々な生命体が共存共栄の妙理を表している。人智の限界を知って、謙虚に地球上で人類が互いに調和し、また動植物とも共存共栄できる理法を探求することが、人類の進むべき道である。宗教にあっても科学・政治・経済・教育等にあっても、指導者はその道を見出し、その道に則るための努力に献身するのでなければならない。そして、ユダヤ教とキリスト教、イスラーム教を合わせたセム系一神教には、その内部から互いに発展的に融合・進化することが期待される。また、そのために、宗教指導者間の対話の促進が望まれる。
 もっとも私は、一神教の諸宗教がそれ自体の内部的な動きだけで、大きく変化していくのは、難しいのではないかと思っている。そして、非セム系多神教の諸宗教には、その変化を促進する役割があると考える。セム系一神教文明群の内部抗争は、非セム系多神教文明群の仲介によってのみ、協調の方向に転じられるだろう。一神教文明群の対立・抗争が世界全体を巻き込んで人類が自壊・滅亡に至る惨事を防ぐために、非セム系多神教文明群が、あい協力する必要があると思うのである。
 セム系一神教文明を中心とした争いの世界に、非セム系多神教文明群が融和をもたらすうえで、日本文明の役割は大きい、と私は思う。非セム系多神教文明群の中でもユニークな特徴を持つ日本文明は、諸文明の抗争を収束させ、調和をもたらすために重要な役割があると考える。それは、日本文明には対立関係に調和を生み出す原理が潜在するからである。その原理を大いに発動し、人類を新しい文明に導く新しい精神文化が日本から興隆することが期待される。

 次回に続く。

ユダヤ146~ユダヤ教の内部からの改革に期待する

2018-01-02 08:48:19 | ユダヤ的価値観
●ユダヤ教の内部からの改革に期待する

 ユダヤ的価値観は、ユダヤ教の教義に基づいて発達した価値観である。それゆえ、ユダヤ的価値観の超克のためには、まずユダヤ教の内部から改革が起こることが期待される。
 ユダヤ教は民族宗教であり、ユダヤ民族のみが救われると説く。一方、ユダヤ教の中から現れたキリスト教民族を超えた教えである。ユダヤ教の強い影響のもとに現れたイスラーム教も同様である。それゆえ、これら二つの宗教は、世界宗教になり得た。そして、民族を超えてその教えを信じる者は救われると説く。この点において、ユダヤ教との違いは大きい。
 ユダヤ教とキリスト教は長い抑圧や抗争の歴史の果てに、ある程度、協調的となり、一部では融合が進んでいる。一方、ユダヤ教・キリスト教とイスラーム教との間には歴史的な対立があり、その深刻さは20世紀後半から度合いを増している。その対立は、セム及びアブラハムの子孫同士の戦いであり、異母兄弟の骨肉の争いである。争いは互いの憎悪を膨らませ、報復が報復を招き、中東を中心として、抜き差しならない状態となっている。そのことが国際社会の不安定の重大な要因となっている。その焦点が、イスラエル=パレスチナ紛争である。
 中東に平和を実現できるかどうかは、なにより宗教間の問題である。この問題は、中東だけでなく、世界的な広がりを持つ。長く世界最大の宗教であり続けているのは、キリスト教である。キリスト教は、現在も世界で最も多くの信者数を持つ。これに次ぐのがイスラーム教であり、イスラーム教は、今日の世界で最も信者数が増加している宗教である。世界で最も人口が増加しているアジア・アフリカで教勢を強めており、人口の増加とともに信者数も増加している。現在世界人口のおよそ4人に1人がイスラーム教徒と言われる。今後、ますますイスラーム教徒は絶対的にも相対的にも増えていくだろう。
 米調査機関ピュー・リサーチ・センターは、2015年(平成27年)の調査報告で、2070年にはイスラーム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラーム教徒が最大勢力になる、という予測を発表している。これに比べ、ユダヤ教徒は、キリスト教徒、イスラーム教徒に比べ、信者数がその100分の1以下であり、特にイスラーム教に対しては、相対比が今後、ますます小さくなっていくと予想される。こうした長期的な人口動態は、ユダヤ教とイスラーム教の関係に少なからぬ影響を与えるだろう。
 今後、西洋文明、東方正教文明、ユダヤ文明等のユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争が今よりもっと深刻化していくか、それとも協調・融和へと向かっていくか。このことは、人類全体の将来を左右するほどに重大な問題である。その影響力の大きさは、米国と中国の関係が世界にもたらす影響力の大きさと比較されよう。
 中東に平和と安定をもたらすことができないと、世界平和は実現しない。平和を維持するための国際的な機構や制度を整備・強化していっても、中東で対立・抗争が続いていると、そこでの宗教戦争・民族戦争に世界全体が巻き込まれる可能性がある。最悪の場合は、セム系一神教文明群における対立・抗争から核兵器を使用した第3次世界大戦が勃発するおそれがある。
 いかに中東で平和を実現するか。ユダヤ教とイスラーム教の争い、ユダヤ人・アラブ人・イラン人・クルド人等の民族間の争い等を収め、いかに地域の共存共栄を実現するか。その道が求められている。
 ユダヤ教は、排他的な性格の強い一神教であり、ユダヤ教徒は自分たちのみが神に選ばれた特別の民族だという選民思想を持つ。また世の終わりにおいて、メシアが出現し、ユダヤ教徒のみが救われ、メシアのもとで地上天国を作るという生存闘争的な思想を持つ。
 この排他的な教義と闘争的な思想が、他の宗教や思想と共存調和できるものへと発展することができるように、ユダヤ教の中から改革が行われていかないと、ユダヤ教と他宗教、ユダヤ民族と他の民族、及びイスラエルと他の国々が協調・融和できるようにはならないだろう。
 ユダヤ民族が生き延びるためには、人類の滅亡を避けなければならない。人類が滅亡する最悪の事態になったときは、ユダヤ民族もまた絶滅する。その愚を避けるには、ユダヤ民族自身が、自らも生き延び、また人類も生き延びる道を求めて、改革に踏み出さねばならない時に来ている。その改革の動きに期待する。

 次回に続く。