ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

インド3~ヒンドゥー教は自然宗教、多神教で一元論的傾向

2019-10-02 09:42:08 | 心と宗教
●自然宗教

 ヒンドゥー教は、民族の長い歴史の中で形成された自然宗教であり、明確な教祖がいない。

●多神教
 
 ヒンドゥー教は、多神教である。神格は多種多様であり、宇宙の創造・維持・破壊の作用や太陽・火・風等の自然の事物や現象を擬人化した自然神、伝説的な偉人・英雄等や人間の能力を神格化した人間神、言語に内在する力を神格化した言語神、宇宙の根本理法や創造力を素朴な形で象徴した理力神などが認められる。神々の分布も、インド全域で広く信仰されているもの、村民にのみに祀られているもの、特定の身分職業集団だけで崇拝されているものなど、様々である。 

●一元論的傾向

 ヒンドゥー教徒の多くは、何か一つの神を熱心に尊崇している。後に詳しく述べるが、ヴィシュヌ、シヴァ、カーリー、ガネーシャ等が多くの信者の崇拝の対象となっている。だが、それらの信者は、神々はみな同じともいう。一見矛盾した態度だが、その根底には、ヒンドゥー教が神々の背後に唯一絶対の原理を認めているということがある。インド人は、この根本原理について、ギリシャ人に勝るとも劣らない哲学的・論理的な思考を行ってきた。その結果、ヒンドゥー教は多神教であると同時に哲学的には一元論的な傾向を示す。
 ヒンドゥー教に一元論的傾向を与えている根本原理を人格化してとらえれば、その神はすべての神々や万物の本源と考えられる。その点では、ヒンドゥー教は一神教的な側面も見せる。インド思想史家の山下博司は、著書『ヒンドゥー教~インドという謎』で、「ヒンドゥー教は、一神教的な神観念・崇拝様式と多神教的なそれとを一つの枠組みのなかに包み込む、柔構造をなす宗教複合体である」と述べている。こうした構造を持つヒンドゥー教を「一元論的多神教」ないし、西田哲学の用語を借りて「一即多、多即一の多神教」と呼ぶことができる。

●聖典

 ヒンドゥー教には、多数の聖典がある。その一方、ユダヤ教・キリスト教の聖書、イスラーム教のクルアーン(コーラン)のような唯一絶対的な権威のある聖典は存在しない。ヴェーダ、プラーナ文献、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、『バガヴァッド・ギーター』、『マヌ法典』、六派哲学の哲学書等の多数の文献が、聖典としての権威を認められている。

◆シュルティ
 聖典の中で最も根本的で最も古い聖典は、ヴェーダである。紀元前15世紀から前5世紀の間に成立したとされる。
 ヴェーダは「知る」という意味の語の語根から造られた単語で、宗教的知識を表す。そこから、その知識を集積した聖典の総称となった。
 ヒンドゥー教徒は、ヴェーダをシュルティ(天啓聖典)と呼ぶ。太古の聖仙(リシ)が神秘的な霊感によって感得した啓示であると考える。また、ヴェーダの言葉は宇宙世界が発生する以前から存在し、世界が滅び去った後までも永劫に存在し続ける不変の真理であると、信じている。
 ヴェーダと呼ばれる文献群には、成立のほぼ古い順に、『サンヒター』(本集)、『ブラーフマナ』(祭儀書)、『アーラニヤカ』(森林書)、『ウパニシャッド』(奥義書)の4種がある。
 『サンヒター』は、讃歌・歌詞・祭詞・呪文の集録である。『リグ・ヴェーダ』(讃歌)、『サーマ・ヴェーダ』(歌詠)、『ヤジュル・ヴェーダ』(祭詞)、『アタルヴァ・ヴェーダ』(呪詞)の四つから構成されている。『ブラーフマナ』は、祭式の規定と神学的説明を主とし、その間に神話・伝説を交えている。『アーラニヤカ』は、神秘的な教説や儀礼を主とする。『ウパニシャッド』は、祭儀より知識を重視し、哲学的な思索による深遠な思想を表している。

◆スムリティ
 ヴェーダに次ぐ聖典が、スムリティ(聖伝文学)の文献群である。聖人賢者の述作とされ、プラーナ文献、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、『マヌ法典』等をいう。
 一般のヒンドゥー教徒には、煩瑣な祭式書や高度な哲学書は理解できない。人々に広く知られているのは、これらの文献の中にある神話や物語である。
 プラーナ文献は、4~14世紀に成立した。プラーナは「古い伝説」を意味し、宇宙の創造、神々の系譜、諸王朝の歴史等を述べ、ヒンドゥー教について広範囲に規定している。「第五のヴェーダ」といわれる。
 『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』は、インドの国民的二大叙事詩である。前者はバーラタ族、後者はラーマという王子の名に由来する。ともに神の化身が悪と戦う物語である。現在も愛読され、その内容に基づく祭儀がインド等の各地で盛大に行われている。
 『マハーバーラタ』の一節をなすのが、「神の歌」を意味する『バガヴァッド・ギーター』である。ヒンドゥー教徒の信仰生活を最も実質的に規定してきたものとされる。
 『マヌ法典』は、単なる法律書ではなく、宇宙の根本理法(ダルマ)に基づく人間のあり方や生き方を定め、宗教、道徳、法律、生活の仕方等を総合的に説いたものである。

◆その他
 ヒンドゥー教には六派哲学と呼ばれる学派があり、それらの学派の哲学書も、聖典としての権威を認められている。また、各時代・各地方の聖者・行者の著作や説話、箴言、宗教詩人の詩歌等も、ヒンドゥー教徒の信仰生活を支え導いてきたとして尊重されている。
 唯一絶対の権威のある聖典がなく、逆に数多くの異なる生活を持つ聖典が存在することが、ヒンドゥー教の多様性と複雑さを表している。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 細川一彦著『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
千年マルテンサイト (グローバルサムライ)
2024-03-27 22:42:20
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムにんげんの考えることを模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。

コメントを投稿