ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

「仏教~その法と力と限界と」のご案内

2021-08-20 07:58:22 | 心と宗教
 ブログに昨年5月から本年8月まで連載した拙稿「仏教~その法と力と限界と」は、マイサイトに全文を掲載しています。超宗教の時代における新たな観点に立った総合的な仏教論です。通してお読みになりたい方は、下記へどうぞ。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11j.htm

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

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仏教197~結論 最終回

2021-08-18 10:10:21 | 心と宗教
●結論~仏教から超宗教へ(続き)

 末法の時代を終わらせる者は、誰か。弥勒菩薩は、釈迦入滅の56億7000万年後に、この世に下生して、釈迦の救いに漏れた衆生を救済するという。現代から56億7000万年後の未来とは、地球の発生から今日までの46億年よりも、もっと長い時間の先の未来である。末法の1万年が過ぎた後、仏教は完全に消滅してしまい、さらに56億6999万年後になって、弥勒菩薩が出現するということになる。だが、その時には、地球は既に消滅しているかもしれない。
 釈迦の教えは、釈迦の時代以降、確かに数百年か千数百年の間は、人々を導く知恵の光だったことだろう。しかし、その間に現れた法滅思想や末法思想は、細部の違いはあるものの、釈迦の教えである仏法には、もともと人類全体を救う力はなく、ましてやこの末法の現代においては、全くその力が存在しないことを明らかに示している。
 『法華経』に登場する救済者の観世音菩薩も、阿弥陀仏同様、架空の存在である。救済を求める人々の願望が生み出したものである。人々に希望のもとになったり、心の支えになったりはしても、現実の世界で実際に救済する者では、ない。もし何かしら霊験ないし奇跡と考えられるような現象が現れたとしたら、それは信じる人に内在する生命力や精神力が生み出した現象であって、救済者のイメージがその人の潜在力を引き出したのである。
 弥勒信仰や浄土信仰や法華経信仰には、救済を求める人間の切実な願望が強く表現されている。だが、それらには、実証の裏付けがない。そして、法滅思想や末法思想は、仏教そのものが衰退することを説いている。
 キリスト教の場合は、世界の終末におけるイエスの再臨と最後の審判を説いており、またローマ・カトリック教会はキリスト教会の終末的完成を目指している。これについて、私は拙稿「キリスト教の運命~終末的完成か発展的解消か」と拙著『超宗教の時代の宗教概論』で、キリスト教は21世紀において、終末的完成ではなく発展的解消に向かうと述べた。これに比べ、仏教の場合は、上記のように、仏教自体がもともと人類全体を救う力はなく、ましてやこの現代においては全くその力が存在しないことを明示しているのである。仏教の教えに、学ぶべきものは多い。そこは知恵の宝庫である。だが、仏法に従っていかに熱心に実践しても、極まれな例外的な個人を除いて、絶対多数の人類は救いを得ることができない。それが、仏教の法と力の限界である。
 人類は今日、かつてない危機に直面している。最大の危機は、核兵器による世界戦争であり、また地球環境の破壊である。われわれは、自滅したくなければ、自ら飛躍しなければならないという瀬戸際に立っている。世界平和の実現、及び文明と環境の調和のために、人類は精神的な進化に迫られている。
 いま宗教はその進化を促す役割が期待されている。だが、伝統的な諸宗教は、古代に現れた宗教かその変形であり、この科学の発達した時代において、人類の精神的進化を促進する機能を担い得ない。
 仏教もまた、この重要な時期にあって、人類に確かな指針と実証の裏付けのある救済の道を示すことができていない。それは、仏教の法と力の限界によるものである。
 今こそ人類の進化を促し、人類を善導する新しい宗教が待望されている。その新しい宗教とは、従来の宗教を超えた宗教、すなわち超宗教と呼ぶべきものとなるだろう。実証性、合理性、総合性、調和性、創造性という特長を持つ超宗教が出現することによって、新しい精神文化が興隆し、現代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれることが期待される。
 既成の宗教は、科学が急速に発達し続け、人々の意識が向上するにつれて、その役割を終えようとしている。そして、より高次元の新たな精神的な指導原理のもとで発展的に解消していくことになるだろう。そして、もし従来宗教の発展的解消がなされなければ、人類は諸宗教が対立・抗争を繰り返す中で、滅亡の道を進むだろう。
 仏教の場合、その知恵が真に人類のために生かされるのは、説くところと実際が一致する実証を伴った救済力と結合した時のみである、と私は考える。仏教が実証を伴う救済力と結合するということは、仏教の説く教義がより高次の教えに包括されていくことを意味する。この時代において、仏教は他の宗教とともに役割を終え、発展的解消に向かっていくだろう。それは、仏教から超宗教へ進化するということである。
 21世紀は、宗教が超宗教へと向上・進化していく時代となる。私は、仏教の説く末法の時代は、この21世紀において終わり、人類は超宗教の時代に移行していくことを確信する。その点については、拙著『超宗教の時代の宗教概論』及び『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)をご参照願いたい。(了)

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仏教196~仏教から超宗教へ

2021-08-16 10:07:54 | 心と宗教
●結論~仏教から超宗教へ

 人類社会における仏教の人口について、百科事典『ブリタニカ』の年鑑2009年版の「世界の宗教人口割合」は、総人口67億4960万人のうちの3億8400万人で、5.7%を占めるとしている。これは、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教についで、仏教は4位である。
 ピュー・リサーチ・センターは、2010年の調査で、仏教の人口を4億8800万人とし、7.1%としている。また、将来的には、仏教の人口は、2010年から30年の間は増加し、5億1100万人に上る。だが、2030年以後は減少し、2050年までに4億8600万人に下がる。2010年と大体同じ人口に戻ると予想している。
 先の『ブリタニカ』の年鑑2009年版によると、仏教徒の人口の多い国は、中国、日本、タイ、ミャンマー等のアジア諸国が上位を占める。アメリカやヨーロッパの国々は、10位以内に入っていない。ピュー・リサーチ・センターの調査では、2010年の時点で、仏教徒の99%はアジア太平洋地域に集中している。その調査の予想では、2050年にも仏教徒の98%はアジア太平洋地域に居住する。仏教徒のうち北米に住む者は、2010年の0.8%から2050年の1.2%に増える。欧州でも若干割合が増えると予測している。だが、アメリカやヨーロッパで仏教徒がかつてなく増加したとしても、世界の仏教人口の中での割合にはほとんど変化がない程度の増加ということである。以上については、概要の章に詳しく書いた。
 さて、ケネス・田中が予想するように、アメリカ仏教がこれまで以上に先進国で伸長すると仮定してみよう。この場合、アメリカ仏教がアジア諸国の仏教に質的な変化を引き起こすほどの大きな影響を及ぼし得るだろうか。私は、それが起こり得るのは、仏教がアメリカの人口の2~3割ほどにも増え、大多数の国民が仏教から重要な影響を受けるようになって、アメリカ仏教が新しいアメリカ文化としてアジアに広がり、中国、日本、タイ、ミャンマー等の仏教をアメリカ化するくらいの事態が起こった時だろうと考える。だが、アメリカ仏教を含む現代の仏教に、それほどの潜在的発展力があるとは、私には思われない。
 私は、21世紀の半ばに向けて、世界の人々は、仏教ではなく、仏教を超えたものを求めるようになると予想する。すなわち、時代の趨勢は、仏教の世界化ではなく、仏教から超宗教への進化へと向かっていると見ている。そのことを書いて本稿の結びとする。
 仏教を信じるとは、輪廻転生説を信じることであり、輪廻の世界からの解脱を目指すことである。解脱を達成することが自力では不可能と思う仏教徒は、仏や菩薩による救済を求めることになる。
 本稿に書いてきたように、この両方すなわち解脱に関しても、また救済に関しても、仏教の法と力には限界がある。
 釈迦は、俗世間においては徹底的な修行をすることが困難であることを強調し、出家して修行に専心することを勧めた。だが、厳しい修行に一生打ち込んでも、悟りに達し解脱を得る者は、極めてまれと見られる。釈迦の後に仏陀となると期待される弥勒菩薩が成仏するのは、56億7000万年後というから、それまでの間に悟りに達し得る見込みのある者はないと説いているに等しい。これは、仏教によって、悟りに達することはほぼ不可能と言っているのと同じである。自力で解脱を達成することは、真に至難の課題なのである。
 もし輪廻転生が生命の事実であるならば、釈迦が転生を繰り返して、民衆を救済し続けているべきだろう。だが、仏教ではそのように考えない。釈迦が涅槃寂静に入ったのであれば、入滅後、衆生を救うことはない。そこで、救いへの希求が如来・菩薩という理想的な救済者のイメージを生み出したのだろう。
 大乗仏教では、他力による救済を説く。救済者の典型が阿弥陀如来である。だが、阿弥陀如来は架空の存在であり、その架空の存在によって、死後、すべての者が救われるというのは願望にすぎない。救済の裏付けはない。
 阿弥陀如来が真の救済者であれば、法滅思想や末法思想が現れることはなかっただろう。『法滅尽経』では、釈迦の入滅後、仏教は衰滅していき、一時盛んになるものの結局、消滅に至り、その数千万年後に弥勒菩薩が出現するとしている。だが、人類が地球に発生してから今日まで数百万年と考えられているから、これもその時間よりも長い先の未来である。果たして人類がそれほど遠い未来まで存続できているか、疑問だろう。
 末法思想の典型は、三時説に見ることができる。三時説では、正しい教えが行われ、証果がある期間を正法の時代、教えはあるが、真実の修行が行われず、証果を得るものがない期間を像法の時代、教えが廃れ、修行する者も悟りを得る者もなくなって、教えのみが残る期間を末法の時代という。
 三時説には諸説あるが、正法500年または1000年、像法500年または1000年、末法はその後の1万年という説が代表的である。日本では、1052年(永承7年)から末法に入ったとされるが、釈迦入滅の2500年後、すなわち20世紀末からが末法の時代という説もある。
 いずれにしても現代は、末法の時代である。仏教には、現代の人類を救う力はないということを、仏教自体が説いているのである。末法の時代が1万年続くとすれば、今後も8500年から1万年の間、仏教は廃れ、修行する者も悟りを得る者もなくなって、その教えのみが残っているという時期が続くというのである。

 次回に続く。

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仏教195~「悟り体験」より大安楽往生への道を

2021-08-14 08:51:46 | 心と宗教
●仏教のヴァージョンに係る表現の問題点

 藤田と山下は、日本の仏教を1.0とし、テーラワーダ仏教を2.0、自分たちの仏教を3.0と呼ぶ。だが、仏教の歴史は、釈迦から始まっているのであり、日本の仏教を1.0とするのは、藤田と山下の個人的な経験を出発点にしているからである。
 仏教そのものの出発点を客観的に表現するなら、釈迦や初期教団の仏教を1.0とすべきだろう。それを1.0とすれば、インドの部派仏教が2.0、大乗仏教が3.0、密教が4.0となる。また、インドの部派仏教が2.0であれば、東南アジアのテーラワーダ仏教は2.1であり、インドの大乗仏教を3.0とすれば、シナの大乗仏教が3.1、日本の大乗仏教が3.2となる。また、インドの密教を4.0とすれば、チベット密教が4.1、シナの密教が4.2、日本の密教が4.3となるだろう。
 現代アメリカ仏教は日本の大乗仏教3.2が伝わって土台となり、そこに東南アジアのテーラワーダ仏教2.1が渡来し、3.2を実践していたアメリカの修行者が2.1の価値を再発見したということだろう。彼らの多くはまたチベット密教4.1からも啓発を受けている。藤田と山下は4.1に言及しないが、アメリカにおける4.1の影響力は大きく、その存在を無視してはならない。そして、現代アメリカ仏教は3.2と2.1と4.1が併存し、一部融合していると見ることが出来る。その点は、ケネス田中の研究が良く伝えるところである。
 私の理解するところでは、藤田と山下の説く「仏教3.0」とは、彼らが修行した曹洞宗の安泰寺という一宗派または一寺院から発達したものである。藤田と山下は、「仏教2.0」としてのテーラワーダ仏教との出会いを通じて、自らの仏教体験を深めて、道元の教えの理解を新たにし、その理解に基づく段階に共に立ち至ったのが、「仏教3.0」である。
 彼らは、日本の仏教を「仏教1.0」と呼ぶが、それは彼らが修行した曹洞宗の安泰寺で行われていた仏教以外の仏教を一括して、そのように呼ぶものである。そのため、「仏教1.0」には、安泰寺という一宗派または一寺院が含まれていない。だが、「仏教3.0」は安泰寺派の仏教から発達したものである。その点を考えると、第三者としては、別の表現の方がわかりやすい。
 例えば、次のような表現である。曹洞宗安泰寺派の仏教をA型とし、それ以外の日本の仏教をA´型とする。次にテーラワーダ仏教をB型とする。藤田と山下の仏教は、A型とB型の出会いによって生まれたものとして、AB型とするというものである。A´型は「仏教1.0」、B型は、「仏教2.0」、AB型は「仏教3.0」に対応する。
 藤田と山下の1.0、2.0、3.0という番号の使い方は、仏教史の全体とは別に、自分たちの立場の正当化や宣教を目的としたものだろう。だが、彼らが主唱する「仏教3.0」とは、道元の教えから出発し、テーラワーダ仏教の修行を通じて道元の教えの理解を深め、道元の教えが釈迦の奥義を伝えるととらえるものである。それゆえ、日本仏教においては、曹洞宗以外の宗派からは評価されないだろう。また、浄土系、法華系、真言系等の諸宗派の交流や融合には、あまり貢献し得ないだろう。その一方、坐禅の実践こそが仏教の修行だと考え、そこに「心の悩み」の解決を求める人々に対してのみ、一定の啓発力を発揮するというものではないか。

●「悟り体験」より大安楽往生への道を

 藤田と山下は、「仏教3.0」すなわちAB型の立場から、坐禅を指導し、普及する活動を行っている。その目指すものは、道元が説いた坐禅の極致である。藤田は曹洞宗の禅を相当のところまで修めているのだろう。山下も、テーラワーダ仏教の修行を相当のところまで修めているようである。
 だが、仏教における修行の道は、底なしと言ってよいほどに深い。インドの初期仏教や部派仏教では、修行の段階は三つに分けられ、第1段階を見道、第二段階を修道、第三段階を無学道といい、見道、修道、無学道を合わせて、三道という。また、聖人について、四向四果という8つの階位を立てる。大乗仏教では、部派仏教と異なり、聖人として、十地(じゅうじ)の菩薩と、仏地(ぶつじ)のブッダを置く。十地とは、①歓喜地、②離垢地、③発光地、④焔慧地、⑤難勝地、⑥現前地、⑦遠行地、⑧不動地、⑨善慧地、⑩法雲地をいう。第一地の歓喜地の途中までが見道、第二地から第十地までが修道、仏地が無学道に当たる。また、部派仏教では、見道において体験的に理解する内容は四諦だが、大乗仏教では、その内容が真如とされる。
 「悟り体験」を研究している大竹晋は、仏教における覚醒体験を「悟り体験」と呼ぶ。「悟り体験」には、(1)自他亡失体験、(2)真如顕現体験、(3)自我解消体験、(4)基層転換体験、(5)叡智獲得体験の5段階があるとする。藤田と山下は、こうした悟り体験をどの程度、体験しているのだろうか。大竹が収集した日本仏教の修行者たちの「悟り体験」の事例に照らすと、彼らの語る体験は、どのように位置づけられるものか、体験内容がはっきりしない。だが、仮に彼らが今後、叡智獲得体験にまで至り得たとしても、まだ三道の最初である見道の段階であり、その先に修道、無学道があると考えられる。それが、仏教なのである。
 曹洞宗の祖であり、「仏教3.0」の祖でもある道元は、自らの覚醒体験を積極的に語っていない。だが、覚醒体験を否定しておらず、それを当時一般的だった見性ではなく「悟り」等と呼んだ。わが国では、その呼び方が一般化した。それゆえ、藤田と山下にとっても「悟り体験」を重ねて、より高次元の段階に進むことは、大きな目標となるものだろう。
 だが、仏教には、限界がある。厳しい修行生活によって、何らかのレベルの悟り体験を得た者や、大乗仏教の六波羅蜜多を相当程度、完成させた者においても、人生の最後に大安楽往生できたという報告は、ごくまれである。これに比し、現代において大塚寛一先生のもとでは、多数の人々が大安楽往生をしている。そこには、仏教とは異なる道が開かれている。その道は、一部の出家修行者に対してではなく、家庭を持ち、職業を以って社会で生活する一般の多くの人々に開かれている。瞑想の方法は、高度な技術と修練を要する困難なものではなく、誰でも出来るものである。子供でも、高齢者でも、病者でも出来る。外国人にも容易である。今後、多くの人々が仏教を含む既成宗教を超えた宗教を求めるようになる時、その道の素晴らしさが広く知られるようになるだろう。

 次回に続く。

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仏教194~「仏教3.0」は道元を通じたとらえ方

2021-08-12 09:05:40 | 心と宗教
●日本の大乗仏教を再評価

 山下は、日本の大乗仏教について、次のように言う。「実は『仏教1.0』でも『無為法としての自分』のことは『本来成仏』とか『煩悩即菩提』『即身成仏』とかあらゆる言葉で語っているんですよ。『仏教1.0』もその源は大乗仏教なんだから。でも、いろいろな事情で、無為法として自分に目覚めるということが具体的にどういうことなのかという道理があいまいになり、それをめぐる実践的プロセスも失われてしまったのでしょう。だから、掛け声だけになってしまって、内実がどんどん空疎になってしまって形骸だけが残った。これが『仏教1.0』だったのではないかな」
 こうした彼の主張に基づくならば、日本の仏教には、もともと「無為法として自分」に目覚めることを具体的に示す「道理」と、それをめぐる「実践的プロセス」がある。山下は、それが大乗仏教の精髄であり、また、テーラワーダ仏教の「本質的な限界」を克服する鍵だと見ている。具体的には、次のように説いている。
 「大乗仏教には『仏教2.0』の限界を乗り越えるための鍵があるんです。形骸化ということは確かに徹底的に批判しなくてはならないですが、それと一緒に大乗仏教の精髄までも捨ててしまうというのは正しくないと思っています」と。
 藤田もこの山下の主張に同意している。彼らは、テーラワーダ仏教との出会いを通じて、日本の大乗仏教を評価し直している。ただし、その再評価は、彼らがともに修行した曹洞宗の教えに基づくものであり、曹洞宗の開祖である道元の教えを宣揚するものである。

●「仏教3.0」は道元を通じたとらえ方

 自分たちは「仏教1.0」と「仏教2.0」をともに乗り越えた「仏教3.0」の立場に立っているという藤田と山下は、道元の教えを高く評価する。二人とも若い時に曹洞宗で修行し、アメリカやミャンマーでの経験を経て、道元をより深く理解できるようになったようである。
 道元は、坐禅について、強為(ごうい)と云為(うんい)を区別する。藤田は、強為とは「俺が無理して、強制的に何かをやろうとするような行為」、云為とは「頭を通さない、もっと自発的で思慮分別をはさまない行為」であると説明する。
 藤田は、次のように述べている。「通常、坐禅は調身(姿勢)・調息(呼吸)・調心(精神状態)という仕方で指導が行われている。その場合の『調』は『わたしが、自分の身体・呼吸・心を対象として、ある一定の方法に従って操作し、コンロールし、管理すること』という意味に理解されている。そして、それに習熟することが坐禅の修行の狙いだと考えられている。しかし、道元禅師によれば、それは強為(自意識的意思による強引な行為)の営みである習禅に他ならない。坐禅は強為ではなく云為(任運自然の動作)で行われるべきであり、その態度は『ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをついやさずして』(『正法眼蔵 生死』)でなければならない」と。
 また、次のように述べている。「道元禅師いわく、『坐禅は三界の法にあらず。仏祖の法なり』(『正法眼蔵 道心』)『坐禅は習禅にあらず。安楽の法門なり』(『普勧坐禅儀』)。もし坐禅がそのようなものだとすれば、それを実践するわれわれは坐禅が『三界の法(自我意識に基づく人間的な営み)』や『習禅(瞑想時術の実行)』になってしまわないように細心の注意を払わなければならない」と。
 私見を述べると、こうした藤田の理解に立つならば、「有為法としての自分」という観念に基づくテーラワーダ仏教の瞑想は強為の営みということになるだろう。その瞑想が云為の営みに転じるには、修行だけではだめで、大乗仏教の思想に基づく観念の転換を必要とするということになるだろう。ただし、大乗仏教の修行者であっても、多くの修行者は強為の営みになっており、ただ思想を抱くだけでは、云為の営みに進むことはできない。やはり修業の積み重ねが必要なのだろう。
 さて、上記のように道元の説くところを理解する藤田は、自分の掲げる「仏教3.0」を道元に結び付けて、次のように語っている。「道元禅師が坐禅は三界の法じゃないとか、習禅じゃないとか坐禅は『不染汚(ふぜんな)』の行なんだということを繰り返し言っているのも、要するに『仏教3.0』のことを指摘していたんだと思う。僕もそういう問題意識で改めて中国の禅の語録や『正法眼蔵』を読み直して初めてそれが見えてきたからね。道元さんの著作の中にある強為や云為といった言葉に眼が向いたのもそういう読み直しの中でだった。なんだ、もうちゃんと『仏教3.0』のことを言われてたんだ、という感じ。ブッダの教えもちゃんと読んでみればもちろん『仏教3.0』なんだし」。
 これを受けて、山下は、次のように言う。「わたしもテーラワーダを通って出発点だった道元禅師に再び出会ったという気がしてます。なるほど、あれはそういうことだったのか、でも昔はそこまで全然読み取れてなかったなという思いですね。曹洞宗のお坊さんだったときに散々読んだけど正直まったく理解できなかった『正法眼蔵』をこれから『仏教3.0』というまったく新しい視点で読んでいきたいと思っています」と。
 こうした藤田と山下の発言は、私の見るところ、自分たちの個人的な仏教体験の過程をたどって、その過程の第1段階で出会った仏教を「仏教1.0」、第2段階で出会った仏教を「仏教2.0」とし、それらを経て到達した第3段階を「仏教3.0」と呼ぶものである。そして、現在自分たちが立っている段階を、道元が説いていたものと理解し、さらに道元の教えを拠り所にして釈迦の教えを理解していることを述べているものだろう。ところが、彼らの「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」という表現は、コンピュータのOSやアプリケーションのヴァージョンの更新・最新化を連想させるから、1.0、2.0、3.0という番号が仏教の客観的な評価の段階を表すものと理解されやすい。このレトリックに注意する必要がある。

 次回に続く。

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仏教193~大乗仏教による「限界」の克服を説く

2021-08-09 10:11:55 | 心と宗教
●大乗仏教による「限界」の克服を説く

 藤田と山下は「仏教1.0」と「仏教2.0」つまり日本仏教とテーラワーダ仏教をともに乗り越えた「仏教3.0」の立場に自分たちは立っていると主張している。「仏教3.0」とは、藤田と山下が考える「本来の仏教のあり方」であり、釈迦が説き、道元がそこに帰ろうとしたものである。その内容については、後に述べることにして、続いて藤田と山下が「仏教2.0」の抱える「本質的な限界」と、それをどう克服するかを、どのように語っているかに話を進めたい。
 山下は、「仏教2.0」の本質的な限界は、「何が瞑想しているのかという問題」にあるという。瞑想する主体は何かという問題である。山下によれば、テーラワーダ仏教では、「条件によって作られたもの」は有為法、「条件によって作られていなもの」は無為法とされる。私見を挟むと、「条件」とは、伝統的な仏教の用語では縁のことだろう。「条件によって作られたもの」とは、縁によって生じたものと理解される。有為法と無為法という分類において、われわれは有為法であり、涅槃は無為法であると山下はいう。
 これらの関係について、山下は、有為法を雲、無為法を青空に例える。そして、テーラワーダ仏教における瞑想の主体は、雲であって青空でないと指摘する。「テーラワーダではわれわれはどこまでいっても有為法です。ですから無為法である涅槃は我々にとっては常に外部にあることになります。だから瞑想の主体として雲しか考えられないのは至極当たり前なんです」と述べる。これに対し、山下のいう「仏教3.0」では、主体は雲ではなく青空だという。すわわち、無為法である自分が瞑想の主体だとする。この主張は、山下の理解する大乗仏教の考え方に立つものである。そして、その立場から、山下は、次のように述べる。「『仏教2.0』でどうしてみんな行き詰まっているかというと、『有為法』にすぎない自分が一生懸命に瞑想して、それとは別世界の無為法の世界に行こうとしたからなんです。そもそも瞑想は、もちろん坐禅もそうですが、『無為法である自分』に目覚めるところからしか始まらないんです」と。
 藤田もまた山下と同じ立場に立って、山下の主張に賛同し、次のようにいう。「なぜ大乗仏教が興起しなければならなかったか」「瞑想実践の深まりの中で、無為法と有為法が二つ別々のままではどうにもならなくなったその袋小路を打破して、大胆に有為法と無為法が即の関係で繋がっているという立場が出てきた」と。これをよく表すのが、「生死即涅槃」であると藤田はいう。生死は有為法の現象だが、涅槃は無為法である。これらを「即」でつないで、「生死即涅槃」と説く。鈴木大拙が「即非の論理」と呼んだ大乗仏教の思想である。また西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」とした東洋的な論理である。だが、日本仏教の主流では基本にあるこの考え方は、テーラワーダ仏教では、あり得ない考え方である。藤田は、この考え方の有効性を認め、「諸法実相、平常心是道、現成公案という言葉もみんなそこから理解できる。そういうのはみんな『仏教2.0』を乗り越えるための鍵なんだね」と述べている。そして、山下が青空に例えているものは、伝統的に仏教で「仏性」、「本来の自己」、「非思量」、「無分別智」などと言ってきたものであるという。山下は、この理解に同意している。
 上記のような藤田と山下の主張は、インドから日本や東南アジア等へ広がった仏教の歴史に言及することなく説かれている。これは安直な姿勢として、仏教との間で批判を受けるのではないか。
 私見を述べると、インドでなぜ初期仏教から部派仏教が派生し、さらに大乗仏教が現れたのか、またなぜ大乗仏教がインド仏教で主流になったのかを解明することは、仏教史の研究における一大課題である。だが、藤田と山下は、対談においてこの課題に立ち入っていない。
 藤田と山下が「仏教2.0」と呼ぶテーラワーダ仏教は、インドの部派仏教が東南アジアに伝わって、その地で継承され発達したものである。先に書いたように、インドの部派仏教で最大の学派だった説一切有部は、三世実有・法体恒有の立場を取り、事物の構成要素としての法を恒常的に実在するものとした。その点で、諸行無常の考え方とは異なり、釈迦の本来の教えから逸脱していた。これに対し、空の思想が現れ、説一切有部が説く法はすべて本性を持たないとして、その実体性を否定した。空の思想は、2~3世紀のナーガールジュナ(龍樹)によって体系化された。そこに中観派が生まれた。また、4世紀のヴァスバンドウ(世親)は、部派仏教の説一切有部、経量部を学んで部派仏教の教義を集大成して大乗仏教を批判した。ところが、後に大乗仏教に転じて、唯識説を完成させた。彼の学派が唯識派である。これら中観派と唯識派がインドの大乗仏教における二大学派となった。
 藤田と山下が「仏教1.0」と呼ぶ日本の仏教は、インドの大乗仏教がシナに伝わり、そこでシナで老荘思想等と出会って独自の発達をし、それが日本に伝来したものである。シナでは、空の思想や唯識説の考察から生まれた如来蔵や仏性の思想が大きく発達した。その思想が日本でも発達を続け、日本仏教の主流の思想になった。一方、東南アジアのテーラワーダ仏教、すなわち上座部仏教は、日本の大乗仏教とは全く異なる系統である。中観派や唯識派が出現する前の部派仏教の理論を継承したものである。藤田と山下は、そうしたテーラワーダ仏教とアメリカやミャンマーで出会い、日本の大乗仏教、特に曹洞宗の教えをもとに、テーラワーダ仏教の限界をとらえている。曹洞宗の教えは、如来蔵や仏性の思想があってのものだが、藤田と山下は、仏教史の広大で複雑極まりない展開の中で、自分たちに直接かかわるわずかな点と点のみを結んで仏教を論じている。

 次回に続く。

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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仏教192~テーラワーダ仏教の「本質的な限界」

2021-08-07 10:16:24 | 心と宗教
●テーラワーダ仏教の「本質的な限界」とは

 仏教は、約2000年前にインドで部派仏教と大乗仏教に分かれた。北伝の大乗仏教は、日本に来て独自の発展をした。その日本に南伝の部派仏教が初めて。オウム真理教事件の後に伝来したのである。藤田と山下は、アメリカでテーラワーダ仏教に出会っていた。藤田は。テーラワーダ仏教の瞑想経験を持つアメリカ人に坐禅を教えた。山下は、自らミャンマーへ行って修行し、テーラワーダ仏教の比丘になった。そうした彼らは、現代の日本仏教にないものがテーラワーダ仏教にあることを知るとともに、テーラワーダ仏教に「本質的な限界」を見てもいる。
 藤田によると、アメリカの禅堂にはテーラワーダ系のヴィパッサナー瞑想をかなりやり込んだ人が結構、来ていた。彼らの多くは、かつて坐禅をしていた。だが、禅は「ただ坐れ」と言うだけで説明がなく、修行についても曖昧模糊としていて、何をやっているのかわからなくなった彼らは、ヴィパッサナー瞑想に乗り換えた。そこで彼らは、テーラワーダ仏教は、ちゃんと言葉で説明があるので理解できるし、何をどうするかということがはっきりしていると感じた。だが、しばらくして、また坐禅に帰ってきているのだと藤田は説明する。藤田が彼らに聞くと、みな「ヴィパッサナーをやればやるほど『自分』が重く感じられる」と語るのだという。
 この点に藤田と山下は、テーラワーダ仏教の特徴を見ている。それは、「『自分』が頑張って瞑想をしている」という意識が働いていることである。アメリカ人は自我が強烈だから、ヴィパッサナー瞑想に打ち込んでいくうちに、「自分」が重く感じられるようになるのだろうと藤田と山下は解釈する。山下は、「わたしのところに来ている『仏教2.0』の人たちも、この『自分』が瞑想している限りどんなに頑張っても新しい地平が開かれてこない息苦しさを感じています」と語っている。
 山下は、次のように語っている。「『仏教1.0』は方法とかメソッドということはほとんど言わないし、メソッド的なことはやらない。何かそういうことはレベルが低いことであるかのように見下している。そこでは問題はみんな解決済みであるかのようなスローガンが声高に掲げられる。だから実際にある現実の問題が手つかずのままでほったらかしになっている」と。私見を挟むと、これは、衆生は本来そのままで悟っているという観念、煩悩即菩提というような思想によって、かえって現実の心の悩みへの取り組みが放置されていることをいうものだろう。これに比して、山下は言う。「『仏教2.0』はそれとは大違いで、方法の有効さが過剰なくらい強調される。こうすればこうなるということが明確に記述されている。だから『仏教1.0』では何が何やらわからない、煙に巻かれていたと感じていた人たちが一斉に引きつけられたのは、まあ無理もないことでした。ところが、そういう人たちが言われた通りにその方法を実行してみたんだけど、どういうわけかそこに書かれているような結果がうまく出てこないという現実が見えてきた」と。
 山下は、自分が修行したミャンマーでの経験をもとに次のように言う。「パオ瞑想センターのようなところには、だいたい千人ぐらいの修行者がいるんだけれども、そこで瞑想メソッドのコースを完了できるのはせいぜい10人くらいのものなんですよ」と。ということは、完了できる者は1%以下ということである。藤田もアメリカで似たような実態を見てきた。
 藤田と山下が「仏教2.0」と呼ぶテーラワーダ仏教は、自分の心の問題を取り上げ、その問題解決の方法として仏教をメソッド化して提示している。また、彼らによると、テーラワーダ仏教の瞑想を実践する人たちは、自分自身の心の問題を仏教を通して真剣に解決しようとする。だが、山下はミャンマーで、藤田はアメリカで、「『仏教2.0』が約束しているはずの成果が思ったようには得られていないという現実」に直面し、テーラワーダ仏教の限界を感じるようになった。その限界は、テーラワーダ仏教の「本質的な限界」だと断じている。この見方は、現在、アメリカを中心に日本や欧州等に広まっているテーラワーダ仏教系のインサイト・メディテーションやマインドフルネスの限界を指摘するものである。インサイト・メディテーションやマインドフルネスは効用が大きく注目されているが、仏教史に照らすならば、その限界が推測される。私は、藤田と山下が厳しい修行と豊富な指導の体験をもとに打ち出している見解は、現代アメリカ仏教の可能性を評価するうえで、大いに参考になるものと考える。

 次回に続く。

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仏教191~「仏教3.0」とオウム真理教事件の衝撃

2021-08-05 07:55:48 | 心と宗教
●「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」とは

 藤田と山下は、現代の日本仏教を「仏教1.0」と呼ぶ。藤田は、その特徴は「形骸化、つまり外見だけを残して実質的な意味を失っているかに見えるところにある」とし、「心の苦しみを解決する具体的で有効なやり方をほとんど説かない」と指摘する。これに対し、「仏教2.0」は、近年、日本に定着してきた外来の仏教、主にアメリカやミャンマー(ビルマ)から来たテーラワーダ仏教を指す。藤田は、その特徴は、「メソッド化、つまり仏教を問題解決の方法として提示しているところにある」とし、「心を観察するという仏教独特の方法をきちんと説いて」おり、「自分の改善法のような仏教のあり方」だとする。だが、それには「本質的な限界」があると指摘する。
 藤田と山下は、これら「仏教1.0」でも「仏教2.0」でもない「本来の仏教のあり方」を「仏教3.0」と呼ぶ。そして、自分たちは「仏教3.0」の立場に立っているという。
 藤田は『アップデートする仏教』の「はじめに」で、二人の対談は「『仏教1.0』に満たされないものを感じている人にも、また『仏教2.0』で行き詰まっている人たちにも、『仏教3.0』を提示することで新たな扉を開いてもらうことを目論んで行われた」ものだという。そして、つぎ次のように書いている。
 「『仏教3.0』の本質的な部分はわれわれが新しく言い出したことではなく、実はブッダや道元がもともと説いていたことに他ならない。それが『仏教1.0』や『仏教2.0』に頽落している現実があるからあえて『仏教3.0』としてアップデートした形でよみがえらせなければならないのである。『これまでの仏教』から『これからの仏教』へのアップデート、それがわれわれ二人が細々ながら、これからベストを尽くしてやろうとしていることである」と。
 私見を述べると、アップデートとは、更新や改訂、最新化を意味する英語である。コンピュータ用語では、コンピュータに内蔵あるいは保存されたプログラムやデータを、開発元や販売元の発行する最新版を入手して入れ替え、更新することに使われる。藤田と山下は、アップデートという言葉をコンピュータ用語を連想させる仕方で使っており、「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」という表現はヴァージョン(版)の番号を意識したものだろう。
 だが、アップデートは、小規模な更新、修正、改良、不具合の解消などのために行われることが多い。これに対し、大規模な改善や機能追加、基幹部分の刷新などを行った新しい版(ヴァージョン)や、そのような新版への入れ替えは、アップグレードという。藤田と山下がアップデートの語で意図しているのは、こちらの大規模な改善や刷新の方だろう。

●「形骸化」している現代の日本仏教

 藤田と山下は、現代の日本仏教は形骸化しているという。藤田は、日本の仏教の主流においては、「仏教を教える人も学ぶ人もまともに仏教のメッセージを信じていないみたい」であり、「建前としては信じているようにふるまっているけど、本音のところではまったく信じていない」と批判する。
 二人は、仏教を「病気を癒す力を持っている優れた医学」と考えている。だが、現代日本の仏教徒は、そのことを本当は信じていない、だからその「医学」を実行せずに、表面的な形で仏教の言葉や儀式や習慣が社会の中で流通している。山下は、こうした日本仏教の状態を「医療行為が行われていない不思議な病院」と表現する。
 私見によれば、ここで彼らが喩えに使っている「病気」とは、身体的な病気、例えばガンや心臓病、糖尿病などではなく心の病気であり、心の病気といってもいわゆる精神病ではなく、広い意味での「心の悩み」のことである。二人は、仏教は「病気を癒す力を持っている優れた医学」という喩えを使いながら、仏教に身体的な病気を治す力があるとは信じていないようである。単に仏教には「心の悩み」を解決する力があるということを言いたいのであれば、「病気を癒す力を持っている優れた医学」という喩えを用いるべきではない。そのまま誇張することなく表現すればよいだろう。

●オウム真理教事件の衝撃

 平成7年(1995年)3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。宗教団体による無差別テロ大量殺人事件だった。オウム真理教は、この事件以外にも、多くの凶悪事件を起こした。藤田と山下は、仏教の修行者として、オウム事件に衝撃を受けた。山下は、ショックのあまりこの先いったいどうやって仏教者として生きて行けばいいのかが分からなくなり、それが「仏教1.0」から一歩を踏み出す一番のきっかけになったという。藤田は、多くの日本人はいろいろな悩みを抱えて毎日生きているが、「仏教1.0」は心の悩みをきちんと汲み上げて応えてくれないので、それに大きな失望と不満を抱えていた者たちが、オウム真理教に流れて行ったと見ている。
 藤田によると、オウム事件で、日本の宗教界がいったん焼け野原のようになった。だが、その後も、仏教に悩み苦しみの解決を求める人たちは、たくさんいた。それに応える形で東南アジアのテーラワーダ仏教の長老たちが、日本の多くの人たちに支持されるようになった。「仏教2.0」が日本で支持を得たのは、「心の問題を正面から取り上げて、それを仏教によって解決するというスタンスを明確に取っていたから」だと山下は言う。
テーラワーダ仏教とは、部派仏教のうちの上座部の系統である。インドから東南アジアに伝わり、今日までタイ、ミャンマー、カンボジア等で継承されている。その伝統的な瞑想法が簡略化されたものが、アメリカでインサイト・メディテーションあるいはマインドフルネスとして普及している。そうしたテーラワーダ仏教がオウム真理教事件以後の日本に伝来した。これを藤田と山下は「仏教2.0」と名付ける。
 先に指摘したことを繰り返すが、「仏教2.0」も「病気を癒す力を持っている優れた医学」ではない。「心の悩み」を解決しようとする仏教の系統の一つである。

 次回に続く。

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仏教190~仏教のアップデートを図る

2021-08-03 10:21:19 | 心と宗教
●仏教のアップデートを図る

 20世紀の半ば、大東亜戦争の敗戦後の日本では、新宗教団体が多数設立された。そのうちの多くは仏教系だった。新しい仏教団体の叢生は、鎌倉時代に新たな宗派群が出現して以来の現象と言える。その一方、既存の仏教宗派は、葬式仏教といわれるような形骸化を一層色濃くした。しかし、既存仏教の中にも新たな動きを見出すことはできる。そうした動きとして注目されるのが、坐禅の実践から現れた仏教のアップデートを目指す活動である。
 仏教のアップデートとは、曹洞宗の禅僧・藤田一照とテーラワーダ仏教の比丘(出家修行者)である山下良道が、共著『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)で唱えているものである。その内容を論じるには、日本の大乗仏教、現代アメリカの仏教、東南アジアのテーラワーダ仏教について概説する必要がある。そこで、これらの概説を終えたところで、藤田と山下の説く仏教のアップデートを取り上げ、その可能性を検討することした。
 藤田と山下は、20代で出家し、兵庫県山中の安泰寺で6年間、曹洞禅の修行をした。彼らにとって、安泰寺は、日本仏教が形骸化してしまっている中で、本格的な修行のできる例外的な場所だった。二人は、ここで実践を通じて道元の教えを学んだ。それが現在に至るまで彼らの土台となっている。
 二人は、1980年代後半に曹洞禅を伝えるために米国に派遣され、3年間、共に活動した。ここで彼らは、現代アメリカの仏教と出会った。日本では触れることのなかった様々な形態の仏教に触れた。それが彼らに強い刺激を与えた。
 藤田は、以後も17年半にわたって米国で、禅僧としてアメリカ人や在米の留学生等に坐禅指導を行った。平成17年(2005年)に帰国し、現在は神奈川県の葉山で坐禅会を主宰している。また、曹洞宗国際センター所長を務めている。それゆえ、彼は一貫して曹洞宗の修行者であり、指導者である。大多数の曹洞宗の僧侶との違いは、米国での長年にわたる豊富な経験である。
 一方、山下は、米国でテーラワーダ仏教の指導者ティク・ナット・ハンが説くマインドフルネスに惹かれるようになり、藤田とは別の道を進んだ。イタリアで仏教の修行をした後、平成4年(1992年)に帰国した。その3年後、平成7年(1995年)にオウム真理教の事件が起き、日本中を震撼させた。オウム真理教は、一般に仏教系の団体と理解された。仏教徒としてこの事件に衝撃を受けた山下は、事件後に来日したハンと対談する機会を得た。この時、藤田はハンの通訳として同行していた。
 山下は、ハンとの対談を通じて、マインドフルネスをより深く学び実践したいと考え、テーラワーダ仏教の瞑想に取り組んだ。さらに平成13年(2001年)には本場のミャンマー(ビルマ)へ渡って、比丘となって修行を積んだ。その修行の最終段階で、大乗仏教の教えを自分の体験として「現実に体験できた」という。その後、山下は、大乗仏教でもテーラワーダ仏教でもなく、それらに分かれる前の仏教として「ワンダルマ仏教」を目指すようになった。ワンダルマとは「一つの法」を意味する言葉だろう。山下は、平成18年(2006年)から、鎌倉を拠点に独自の「ワンダルマ・メソッド」を教えている。
 平成25年(2013年)、藤田と山下は、互いの仏教体験をもとに対談し、共著『アップデートする仏教』を発刊した。そこで彼らは、それぞれの修行と体験をもとに、仏教のアップデートを標榜している。

 次回に続く。

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仏教189~遺骨の処理方法の多様化

2021-08-01 10:13:05 | 心と宗教
#葬儀の簡略化と経費節減(続き)
 簡略化・低費用の葬儀の形態として、家族葬・直葬が増えている。遺骨についても、墓地に埋葬しない方法も現れている。
 家族葬とは、家族・親族を中心に営まれる葬式である。少数の参列者で、通夜・告別式等の儀式を行う。家族・親族に加えて、故人の親しい友人が参列するものもある。それも含めて、家族葬と総称することが多い。
 家族葬という言葉は、平成時代の初期から使われたとみられる。それ以前は密葬といい、後日、本葬を行うのが普通だったが、現在では家族葬のみで済ませる場合が多くなっている。また、家族葬の後日に「偲(しの)ぶ会」「お別れ会」等を行う例もあるが、密葬に対する本葬とは異なり、儀式的な要素は少なく、非宗教的な集会とする場合も多い。
 核家族化と少子化によって、家族・兄弟姉妹の人数が少なくなっていること、親族の居住地が分散し親族関係が希薄になっていること、高齢化によって故人の友人や職場での人間関係が減り、従来型の葬儀を行う必要がなくなっている世帯が増えている。
 こうした傾向の中で、1998年(平成10年)頃から現れたのが、直葬である。直葬とは、通夜・告別式等の宗教的な儀式を行わず、遺体を法律で定められた死後24時間の間、自宅や病院等に安置した後、直接火葬場へ運び、火葬に付す葬儀をいう。近親者や友人等の限られた関係者だけが立ち会い、僧侶は呼ばない場合が多い。火葬場で読経や祈祷が行われる事例もある。
 葬儀費用は、棺、遺体を運ぶ車両代、火葬場の利用料等のみゆえ、20万円前後とされ、平均的な葬儀費用の1割未満である。また、通夜・告別式等の儀式がなく、短時間で終わる。
 直葬は、もともと経済的に困窮している人や身寄りのない人に対して行われる福祉的な葬儀の方法だったが、家族葬のところに書いた社会的な傾向が進む中で、家族・親族による一層簡素な葬儀の形態となってきている。
 NHKは、2013年(平成25年)に、全国の葬儀業者200件を対象に葬儀に関する調査を行なった。その結果、葬儀全体に占める直葬の割合は、関東地方では22.3%を占めた。近畿地方では9.1%とそれより少ないが、大都市圏では葬儀の一つの形態として定着したとみられる。
 家族葬・直葬に共通する傾向として、特定の宗教に基づかない無宗教式の葬儀を行う例も珍しくなくなりつつある。

#遺骨の処理方法の多様化
 人が死んだ後、遺体をどうするかに続いて、遺骨をどうするかが、次の課題となる。伝統的には、遺骨を骨壺に入れて、墓所に埋葬する。墓地や納骨堂に収めるのが一般的であり、遺族は墓所の管理を寺院や霊園に委託し、管理料や永代供養料を支払う。これに対し、新たな方法が現れ、遺骨の処理方法が多様化している。
 新たな遺骨の処理方法として、増えつつあるのが、散骨である。散骨とは、死後、火葬された遺骨を墓地に埋葬せず、細かく砕いて遺灰を海や山、空等に撒く葬送及び遺骨処理の方法である。
 わが国では、墓地埋葬法によって墓地以外に遺骨を埋めることを禁じており、散骨は、違法行為と認識されてきた。しかし、1991年(平成3年)にNPO法人「葬送の自由をすすめる会」が、散骨を「自然葬」と呼んで相模灘で初めて公に実施した。自然葬とは、故人が自然に還ることを願って行われる葬送をいう。同年、法務省は、散骨について、「葬送のための祭祀として節度をもって行われる限り違法性はない」という見解を示した。これを受けて、同会はその後も各地で散骨を実施してきた。
 近年、多額の費用のかかる葬式を不要としたり、自然への回帰を願望する考えから、散骨を希望する人が増えつつある。海での散骨は、法の規制の対象とならないことから、「海洋散骨」を行う業者が営業している。遺骨を粉骨し、船舶で東京湾等に散骨する。代行費用は5万円程度、船舶を遺族の貸し切りでする場合は10万円程度とされる。陸地でも埋葬地として許可された場所であれば、散骨は合法である。寺院や霊園等が所有する山林に散骨する方法も行われている。
 墓を建てずに遺骨を処理する方法としては、散骨以外に樹木葬、宇宙葬、手元供養という方法も現れている。樹木葬は、墓石を建てる代わりに植樹をして、その下に遺骨を埋葬するものである。寺院や霊園が所有する土地で一定の区画を販売するものは、東京近郊で50万円程度とされる。宇宙葬は、人工衛星にカプセルに入れた遺骨を入れて、宇宙に打ち上げるものである。100万円ほどの費用がかかる。手元供養は、遺骨を納骨容器やペンダントに入れたり、プレートや人工ダイヤモンドに加工したりして、自宅や手元に置いて供養するものである。これらの方法を請け負う業者が現れている。
 以上、葬儀の簡略化と経費節減、遺骨の処理方法の多様化について概述した。今後、ますますこれらの新しい傾向が強まっていくだろう。その進行は、葬儀と法事、墓の管理を主としてきた仏教の寺院には、大きな収入減となる。葬式仏教と化していた日本の仏教は、人々の意識と行動の変化によって、存立の土台が崩れてきているのである。

 次回に続く。

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