ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教95~キリスト教と家族型的価値観の関係

2018-08-31 12:48:21 | 心と宗教
●キリスト教と家族型的価値観の関係

 次に、西方キリスト教の諸社会に共通してみられるものとして、家族型的価値観の影響がある。
 西方キリスト教は、宗教改革後、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ等でそれぞれ独自の政治的・社会的・文化的な展開を見せたが、そこには家族型による価値観の違いが現れている。家族型による価値観が信仰の内容に影響すると見られる。カトリック教会が強大な権威を持っていた中世においては、社会全体が普遍的な教えの下にあり、こうした特殊的な違いは表面に現れることはなかった。宗教改革によって、地域性・民族性が信仰の内容に表れるに伴って、家族型的価値観の違いが表面化することになったと考えられる。
 家族人類学者・人口学者のエマヌエル・トッドによると、ヨーロッパの家族には平等主義核家族、絶対核家族、直系家族、外婚制共同体家族の四つの類型がある。これらの家族型は、結婚後の親子の居住と遺産相続の仕方に違いがある。その違いが親子間における自由と権威、兄弟間における平等と不平等という価値観の違いとなって現れる。そして自由と権威、平等と不平等の二つの対の組み合わせによって、四つのパターンに分かれる。すなわち、平等主義核家族は自由と平等、絶対核家族は自由と不平等、直系家族は権威と不自由、共同体家族は権威と平等である。
 イギリスのイングランドを中心とする地域では、絶対核家族が支配的である。初期のアメリカも同様である。絶対家族は遺産相続において、親が自由に遺産の分配を決定できる遺言の慣行があり、兄弟間の平等に無関心である。この型が生み出す基本的価値は自由である。自由のみで平等には無関心ゆえ、諸国民や人間の間の差異を信じる差異主義の傾向がある。差異主義とは、人間は同じではなく、本質的な違いがあるという思想である。反対は、普遍主義であり、人間はみな本質的に同じだという思想である。
 フランスのパリ盆地を中心とする地域は、平等主義核家族が優勢である。平等主義核家族は、遺産相続において兄弟間の平等を厳密に守ろうとするため、兄弟間の関係は平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、自由と平等である。この家族型の集団で育った人間は、兄弟間の平等から、諸国民や万人の平等を信じる普遍主義の傾向がある。
 以上の核家族型の二種とは、異なる型が二種ある。直系家族と共同体家族である。直系家族は、子供のうち一人のみを跡取りとし、結婚後も親の家に同居させ、遺産を相続させる型である。その一人は年長の男子が多い。他の子供は遺産相続から排除され、成年に達すると家を出なければならない。父子関係は権威主義的であり、兄弟関係は不平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、権威と不平等である。一方、共同体家族は、子供が遺産相続において平等に扱われ、成人・結婚後も子供たちが親の家に住み続ける型である。父子関係は権威主義的で、兄弟関係は平等主義的である。この型が生み出す基本的価値は、権威と平等である。共同体家族は、ロシア、シナ等、ユーラシア大陸の大半に分布する。共産主義が広がった地域は、外婚制共同体家族の地域と一致する。共同体家族の権威と平等による価値観は、共産主義の一党独裁と社会的平等という価値観と合致する。
 家族制度の違いが、価値観、法律、経済、イデオロギー等の違いにまで、深く影響していることを、トッドは明らかにした。私見を述べると、自由=不平等的個人主義のイギリスにはロック、自由=平等的個人主義のフランスにはルソー、権威=不平等的集団主義のドイツにはヘーゲル、権威=平等的な集団主義のロシアにはレーニンが出た。彼らは、それぞれの家族型に典型的な思想を表現したと思う。ただし、家族制度によって価値観が一元的に決定されるわけではなく、気候・風土・歴史等の様々な要素が複合的に作用するので注意を要する。
 さて、イギリスの主要地域は絶対核家族が支配的な社会である。絶対核家族は自由・不平等の対の価値観を持ち、自由を中心とした価値観を持つ。平等には無関心である。ホッブスやロックはそうした社会を背景にして、自由を中心に個人の自由と権利に係る思想を説いた。ピューリタン革命・名誉革命は、新興ブルジョワジーを中心とした集団が自由を確保・拡大しようとした運動だった。
 続いて、18世紀後半には、そのイギリスの植民地アメリカが独立した。初期の北米には、イギリス同様、絶対核家族の移民が多く、自由中心の価値観を共有していた。アメリカ独立宣言は「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」と宣言した。建国の祖の宗教的差異主義は、イギリスの絶対核家族の家族制度を土台としていた。キリスト教の教派のうち、家族型的な価値観に合う教義を信奉したわけである。家族型的かつ宗教的な差異主義は、旧約聖書の神の言葉によって増幅され、インディアンや黒人との混交を禁じることになった。
 フランスでは、近代化の先進国イギリスの思想の影響を受け、自由を求める意識が高まった。パリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等を価値とする思想が展開された。フランス人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等な者として出生し、生存する。社会的な差別は、共同の利益のためにのみ設けることができる」と宣言した。フランス市民革命の普遍主義は、平等主義核家族の価値観に基づくものである。英米と異なり、自由だけでなく、平等を重視する。平等の重視は、政治的にはデモクラティックになり、急進的になる。フランス革命は、またヨーロッパで初めてユダヤ人を解放した。これは普遍主義の理想を追求したものだった。
 トッドによると、今日もアメリカ合衆国は、差異主義によって、黒人という不可触賎民が存在する。一方、イギリスは、白人が階級的に分断されていることによって、移民が民族的・人種的に分断されない状態になっている。これに対し、フランスは、市民革命以来、民族性・出自・血統の観念を排除した国民概念が形成された。ただし、フランスには直系家族の有力な地域があり、普遍主義と差異主義の対立と均衡が見られる。フランス革命後のめまぐるしい政体の変化は、こうした社会構造が背景にあると考えられる。
 いわゆる人権の思想は、西方キリスト教圏で発生した。英米の自由・不平等を基本的価値とする社会で発達し、フランスの自由・平等を基本的価値とする社会で確立された。人間は生まれながらに自由にして平等であるという思想は、欧米諸国やロシア、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ等に広がった。だが、家族型的価値観が異なる地域では、容易に浸透していない。最も浸透しないのは、権威・平等を社会の基本的価値とする共同体家族の社会であり、そこは共産主義が浸透することのできた社会である。
 今日の世界で最も普遍的な価値とされる自由は、絶対核家族及び平等主義核家族が支配的な社会で発達した価値である。自由と平等という対は、そのうち平等主義核家族の価値観である。フランスは普遍主義であるから、その価値観が人類普遍的であるべきものと主張されるが、英米の価値観に立てば、自由こそが至上の価値であり、平等の重視は自由を規制するものという見方になる。前者の場合は、平等を重視した人権が唱えられ、後者の場合は、自由を至上とする人権が唱えられる。そのこと自体が、人権は必ずしも普遍的な価値ではないことを示している。
 そうした人権に普遍性の装いを与えているのが、キリスト教における人間創造説である。だが、また人権の思想は人間創造説の緩みから生じたものでもある。こうした複雑な関係がある。

 次回に続く。

トランプ政権はチベット問題を取り上げよ

2018-08-30 12:49:36 | 国際関係
 中国によるチベットの侵略・支配は、少数民族への迫害の最悪の事例の一つであるとともに、共産主義による宗教弾圧の最悪の事例の一つでもあります。下記の記事「【チベット】中国侵略前に2700あった寺院、8を除いて全て破壊される」が、その苛酷さを伝えています。
https://ntdtv.jp/2018/08/29242/
 わが国がもし共産中国に支配されることになったら、共産党の宗教管理政策に従わない宗教・宗派は、徹底的に弾圧・破壊されるでしょう。

 トランプ政権は、先ごろペンス副大統領が中国政府によるウイグル人への迫害を非難する発言をしました。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/4e6dc3fe67123726237ede89d40e60c4
 しかし、チベット問題に関しては、私の知る限り、政権の幹部が直接中国政府を批判した発言は伝わってきていません。

 バラク・オバマ前大統領は任期中に4度、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマと会談しました。いずれも中国の反発を避けるためいずれも非公開で行われました。最後の会談は、2016年6月にホワイトハウスで行われ、オバマ氏は会談でダライ・ラマとその代表者らに対し、中国当局との意味のある直接対話によって緊張を緩和し、意見の相違の解決を図るよう促し、「チベット特有の宗教、文化、言語の伝統の維持や、中国国内におけるチベット人の人権の平等な保護を強く支持する」と強調したと報じられました。中国政府はダライ・ラマをチベット独立派、分離主義者として危険視し、オバマ氏との会談を繰り返し非難しました。

 トランプ政権では、2017年4月にダライ・ラマが訪米し、トランプ米大統領と会談する予定と報じられましたが、その機会は延期になりました。チベット関係者によると、ホワイトハウスが様々な条件を出して、実質的に会談を拒否しているためとみられるとのことです。トランプ政権が中国の人権状況を問題視するならば、チベット問題を取り上げねばなりません。

キリスト教94~ヨーロッパ文明の深層流とフリーメイソン

2018-08-29 13:12:18 | 心と宗教
●ヨーロッパ文明の深層流とフリーメイソン
 
 啓蒙思想は、上記のように科学的合理主義に基づく思想だが、ここで見逃してはならないのは、啓蒙思想とフリーメイソンの関係である。奇妙なことに啓蒙主義とフリーメイソンの思想は深く融合しており、切っても切れない関係にある。
 キリスト教化された西欧では、自然崇拝・祖先崇拝が失われ、さらに宗教改革・魔女狩り等を通じて、「呪術の追放」がされた。しかし、ルネサンスにおいて古代ギリシャ=ローマ文明の遺産を摂取する過程で、グノーシス主義、新プラトン主義、錬金術といった思想が知られるようになった。それらの非キリスト教思想は、知識人の間で密かに受け継がれた。
 キリスト教を中心とした文化を表層流とすると、こうした思想は深層流となって潜伏した。実は近代西欧科学を生み出した科学者の多くは、深層流から知識と発想を汲み上げていた。例えば、ケプラーが惑星の運動法則を発見したのは、新プラトン主義の世界観を抱いていたからであり、ニュートンは物理学の一般法則を追及する一方、錬金術の実験に熱を上げていた。物質の基本構成要素として元素の存在を認め、実験科学を確立したボイルは錬金術師だった。
 深層流に流れ込んだ思想は、近代西欧科学が発達するにつれ、科学的合理主義以前のものとして、科学思想から、ほとんど排除されていった。その一方、政治思想・社会思想においては、重要な役割をした。その顕著な例外が、啓蒙思想と結びついたフリーメイソンの活動である。
 近代資本主義の発達の地であり、科学革命の中心地、啓蒙思想の発祥の地でもあるイギリスは、また近代フリーメイソンの発祥地でもあった。フリーメイソンの起源には諸説あるが、学術的に有力なのは中世の石工つまり建設業者の職人組合に起源を求める説である。石工組合が近代的な結社に変わったとするものである。
 近代フリーメイソンは、1717年にイギリスに始まったとされる。この年、ロンドンにあったロッジ(支部)が集まって、グランド・ロッジ(本部)が結成された。「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザキュリエは、牧師で自然科学者、権威ある王立協会の会員だった。デザキュリエはニュートンの友人であり、ニュートンはロックの友人だった。ロックは名誉革命の前は、オランダに亡命していた。1680年代のオランダでは既にメイソンが活動していた。ロックがメイソンと交わり、メイソンの思想をよく知っていた可能性は高い。
 「自由・平等・友愛」というと、誰もがフランスの三色旗を思い浮かべるだろうが、これらはフリーメイソンの標語だった。ただし、この標語はメイソンが発案したものではない。もとはロックの『統治二論』である。ロックは、本書で、自然状態において完全に自由かつ平等である人間が、自然法と理性に基づいて行動し、正義と友愛という原理に導かれると説いている。それゆえ、フリーメイソンがロックの思想を摂取したと考えるべきだろう。
 メイソンの活動が広がると、カトリック教会は1738年にフリーメイソンを破門に処した。同じ反カトリックではあっても、象徴を排除してキリスト教を合理化したプロテスタンティズムとは異なり、フリーメイソンには象徴的な儀式や思想に満ちている。メイソンの象徴や知識には、古代エジプトや古代ギリシャからの継承を思わせるものがある。その一方、フリーメイソンは、当時の先端思想である自然科学や理神論的な道徳思想を取り入れていた。そこには、古代的神秘的象徴的なものと、近代的合理的科学的なものとが共存していたのである。彼らの活動の広がりは教権の秩序を揺るがすものだった。
 カトリックから破門にされたとはいえ、フリーメイソンはイギリスからフランス・アメリカ・ドイツ等に組織を広げた。それによって、イギリスの啓蒙思想を、大陸の貴族や上層市民階層に伝える役割をした。フリーメイソンの活動は啓蒙思想を欧米に伝播し急進化させた。啓蒙思想とフリーメイソンは分かちがたく結びつきつつ、アメリカ独立思想やフランス革命思想の源泉となった。

 次回に続く。

キリスト教93~啓蒙思想による意識と社会の変革

2018-08-27 07:11:35 | 心と宗教
●啓蒙思想による意識と社会の変革
 
 話を一旦科学革命の世紀である17世紀に戻し、啓蒙思想について述べる。
 実験と観察、数理的な計算にもとづく近代西欧科学的な世界観は、合理主義を発展させた。合理主義とは、一般に理性を重んじ、思想や生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度をいう。こうした態度が実験・観察・計算によって裏づけられたものが、科学的合理主義である。科学的合理主義こそ、キリスト教の聖書の権威と教会の伝統を根底から揺るがし続けているものである。
 17世紀後半から、科学的合理主義を基礎とする啓蒙思想(The philosophy of the Enlightenment)が出現した。啓蒙思想は、名誉革命からフランス革命にかけての約100年間、西欧で広く影響力を持った。啓蒙(enlightenment)は、啓示の光に対する理性の光、あるいはその光による闇の追放を意味する。
 啓蒙主義(illuminism)は、自然科学の発達を背景に、人間理性を尊重し、封建的な制度や宗教的な権威を批判し、合理的思惟によって社会の変革をめざした思想・運動の総称である。啓蒙主義は、17世紀後半のイギリスで始まった。ホッブス、ロックのほか、ヒューム、アダム・スミスらが、イギリスの啓蒙思想の代表的な思想家である。啓蒙思想は、先進国イギリスからフランスに伝わり、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー等が展開した。近代科学を推進する思想家たちが百科全書の製作に集い、啓蒙を進めた。彼らの多くは理神論を主張し、カトリック教会の権威に強く反発し、唯物論や無神論を説く者も現われた。ロックの思想は、絶対王政下のフランスでは、王政の打倒を目指すものへと急進化した。啓蒙主義は、フランス革命の原動力となった。
 啓蒙主義は、イギリスの植民地アメリカでも展開され、ここでもロックの思想が強い影響を与えた。ロックの抵抗権・革命権は、ジェファーソン、フランクリン等によって、イギリス王政からの独立と共和制の実現をめざす思想に転換された。独立革命の成功は、フランス市民革命の成功につながった。
 「啓蒙の完成者」といわれるイマヌエル・カントは、論文『啓蒙とは何か』(1784年)に、次のように書いた。「啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ることを敢えてせよ! 自己自身の悟性を使用する勇気を持て! というのが、したがって啓蒙の標語なのである」と。

●理神論と信教の自由の拡大
 
 啓蒙主義は、自由を要求する。とりわけ宗教に関わる事柄において、自らの理性を公的に行使する自由を要求した。啓蒙思想における宗教思想で代表的なものが、理神論(deism)である。キリスト教の神を世界の創造者、合理的な支配者として認めるが、創造された後では、世界は自然法則に従って運動し、神の干渉を必要としないとし、賞罰を与えたり、啓示・奇跡を行ったりするような神の観念には反対する宗教思想である。近代科学が発達し、キリスト教の権威が低下する中で、キリスト教を科学と矛盾しないものに改善しようとした試みであり、信仰と理性の調和を目指し、キリスト教を守ろうとしたものである。自然宗教ともいわれる。自然と言っても、この場合は、人間理性に基づく宗教を意味する。
 理神論は、17世紀前半のイギリスに現れた。チャーベリーのハーバート卿、ロック、トーランドらによって、キリスト教の教義と合理性が論じられ、その論争を通じて、イギリスでは宗教的寛容が法制度化された。カトリック教会の権威の強いフランスでは、理神論は異端邪説とされた。これに対し、ヴォルテールらが反発し、カトリック教会を批判した。このカトリック教会批判は、フランス市民革命の爆発へとつながっていった。
 理神論は、科学からキリスト教を擁護するとともに、他宗教、特にユダヤ教に対する寛容を促すものともなった。西欧における信教の自由の拡大において、理神論は歴史的な意義を持つ。またその一方、理神論からキリスト教を否定する唯物論・無神論も現われた。前者は有神論、後者は無神論だが、科学的合理主義という点は、共通している。無神論的な科学的合理主義の極致は、ロシア革命によって実現したマルクス・レーニンのソ連型共産主義である。その唯物論的共産主義は、共産党官僚の独裁と計画経済によって、人類史上最悪の体制を生み出し、また20世紀の世界で1億人以上の犠牲者を生み出した。

 次回に続く。

政府は、北朝鮮拉致が濃厚な特定失踪者に目を向けよ

2018-08-26 08:52:39 | 時事
 北朝鮮によって拉致されたことが確実であるのに、政府によって拉致被害者と認定されていない人たちがいます。埼玉県川口市在住の藤田隆司さんの兄・藤田進さんがその一人です。

 藤田進さんは、昭和51年2月7日、大学1年生(19歳)の時に失踪しました。その後、まっやく消息が分かりませんでしたが、約28年後、北朝鮮の亡命者が持ってきた1枚の写真によって、北朝鮮に拉致された可能性が明らかになりました。平成16年8月1日に放送されたTBSテレビの報道特集で、専門家による写真の鑑定が行われ、その写真の人物が藤田進さんであることが確実になりました。
 ところが、政府は藤田進さんを拉致被害者と認定せず、TBSの放送後14年経った今日も、その状態が続いています。
 藤田進さんのようなケースがどれだけあるかわかりません。政府が認める拉致被害者は17人のみですが、これ以外に北朝鮮による拉致の可能性を排除できない日本人失踪者が、国内で約470人おり、特定失踪者といいます。民間団体の特定失踪者問題調査会は、271人の情報を公開しています。このうち拉致の疑いが否定できない失踪者(0番台リスト)は194人、拉致の疑いが濃厚な失踪者(1000番台リスト)は77人(平成29年現在)です。
 詳しくは、特定失踪者問題調査会のサイトをご覧ください。http://www.chosa-kai.jp/

 弟の藤田隆司さんは、兄・進さんのことを知ってもらうため、講演や街頭活動等を続けています。
https://www.youtube.com/watch?v=Z_j0i-tbdEw
 藤田隆司さんが平成30年7月30日にフェイスブックに投稿した記事を転載して紹介します。
 「拉致された多くの日本人は、魔法使いが北朝鮮に連れ去った訳ではない。
北朝鮮本国からの指令に従って、日本人を拉致する実行犯やその協力者がいなければ拉致などできない。
 北朝鮮の工作員だけで拉致はできない。
 兄・藤田進の拉致を指揮した北朝鮮の工作員は、チェ・スンチョル
https://www.npa.go.jp/bureau/security/abduct/wanted.html だったことを実行犯の一人が告白している。
https://www.facebook.com/notes/藤田-隆司/藤田進-拉致実行犯の告白週刊現代%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%97年%EF%BC%94月%EF%BC%92%EF%BC%91日号/900684883283196/
 告白した彼は、車の運転や食事の配膳を任されただけの補助的な役割を担わされていた。その他にも複数の人物が兄の拉致の実行に関わっていることが、彼の証言から分かっている。
 兄が拉致された直後、西新井病院に連れ込まれ数日間監禁されていたことを証言している。この病院が私の兄の拉致の拠点だったことを初めて告白してくれた。おそらく兄だけではないだろう。東京近辺の特定失踪者の多くが拉致直後、この病院の監禁部屋に連れ込まれたであろうと容易に想像できる。この病院は、川口の自宅から車で30分程で行くことができる。そして、何より許せないのが、今も何もなかったかのように営業していることだ。
 北朝鮮の拉致がどんな手口で誰によって何処に連れ込まれたかという事実を知れば、さすがの平和ボケの日本人も目が覚めると思う。
 しかし、その最も肝心要の情報がニュースにもならず、殆ど明らかにされず、�国民に伝わっていない。
 拉致された多くの日本人は、魔法使いが北朝鮮に連れ去る訳ではない。そこには、拉致を指揮する人物や複数の実行犯がいて、拉致した直後に監禁する場所が日本国内にある。
 西新井病院だけでなく、日本全国に北朝鮮による日本人拉致の拠点が相当あると思われる。拉致被害者17人の他に、拉致の可能性を排除できない行方不明者が現在883人もいるのだから。
 日本の警察や公安は、相当情報は掴んでいるはずである。
 日本国民の安全�のためにも、こうした情報を国民に公開し知らせるべきだと思う。」

 次に藤田進さんに関する『週刊現代』2007年4月21日号の記事を転載します。

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 「2003年頃でしょうか。日本に帰ってきてテレビを見たら、北朝鮮拉致にまつわる番組をやっていたのです。そこで流れた藤田進さんの顔を見て、はっきり思い出したのです。私の目の前で泣き叫んだ男だと。
 私は藤田さんの名前も知らず、拉致という言葉さえ知らなかった。しかし、結果として、私は拉致に関与してしまった。その良心の呵責から、自分が知っていることの全てを話そうと決意したのです」
 こう語るのは、現在、中国に在住する57歳の朝鮮人の男性である。
 1976年2月、当時、東京学芸大学の1年生だった藤田進さん(当時19歳)が、アルバイトに行くと言って埼玉・川口市内の自宅を出たきり、失踪した。
 以後、行方は杳として知れなかったが、2004年7月、北朝鮮から流出した1枚の写真により、藤田さんが北朝鮮に拉致された疑惑が高まった。写真鑑定が行われ、骨格や顔のパーツの位置関係などから、写真の男性と藤田さんは同一人物の可能性が高いという結論が出た。藤田さんは「拉致の確率が高い」特定失踪者1000番台リストに載せられることになった。
 その藤田さんを拉致した、と告白するのがこの57歳の男性である。これまでマスコミに語られることのなかった日本人拉致の生々しい真相が、以下の240分に及ぶ男性へのインタビューで明かされる。

【国際指名手配犯に拉致を指示された】
 私は都内の大学を卒業し、しばらくして朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部の紹介で東京都足立区にある西新井病院に勤務することになりました。1972年~1973年のことです。
最初は医療現場で働いていましたが、5ヶ月ほど経った頃、当時の西新井病院の金萬有(キム・マンユ)理事長から「ちょっと手伝ってくれ」と言われて、理事長の運転手など、理事長とその家族の手伝いや病院の経営に関する仕事に従事するようになったのです。理事長一家の手伝いをする人間は「幹部」と呼ばれていました。
 しかし、「幹部」になると同時に、西新井病院の“裏”の仕事にも、知らず知らずのうちに巻き込まれることになっていったのです。
 北朝鮮系の総合病院として知られる西新井病院は、過去にもたびたび北朝鮮の工作活動の拠点として取り沙汰されてきた。
 1953年に病院を創設した金萬有氏(故人)は金日成(キム・イルソン)・金正日(キム・ジョンイル)親子とも面識がある在日朝鮮人の超大物である。しかも金氏は、核など日本の最先端技術を北朝鮮に運ぶ密命を帯びて活動しているとの疑惑が濃厚な、在日科学者からなる「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)の中枢メンバーでもあった。
 病院3階にあった無線室が北朝鮮からの秘密指令を受け取る場所でした。6畳ほどの部屋の壁という壁が通信機器などで埋まっていました。この部屋に入れるのは、鍵を持っている金理事長の甥と数人の幹部だけで、完全な秘密部屋でした。
 北朝鮮からの指令は短波放送を通じて流されていました。放送は「1、2、3」などと数字が淡々と読み上げられており、その数字を理事長の甥が解読し、関係各所に連絡するのです。
 おそらく、1976年2月、私に下された“任務”も、そのようなルートで北朝鮮から指示されたものだったのでしょう。しかし、私は理事長の甥ではなく“金先生”という男から藤田さん拉致の手伝いを頼まれたんです。“金先生”は名古屋大学医学部を卒業した医者、という触れ込みでしたが、病院に勤めてもおらず、住所もわからない。ただ2週間に一度くらいフラッと病院に来ては幹部と雑談して帰っていく謎の人物でした。
 後日、チェ・スンチョルという北朝鮮工作員の写真を見る機会があったのですが、その写真には紛れもなく“金先生”が写っていました。私はあの「西新井事件」を起こした大物工作員の手下として働いていたのです。
 チェ・スンチョルは、日本の機密に関する情報収集などを行っていたとされる北朝鮮工作員。1960年代に都内で失踪した小熊和也さん、1960年に北海道で失踪した小住健蔵さんの戸籍を奪い、本人になりすまして生活していたことも確認されている。1985年、警視庁は西新井病院の近くにあるチェ・スンチョルのアジトに踏み込み、乱数表などを押収した(西新井事件)。チェ・スンチョルは逃走し、現在国際指名手配されている。このチェ・スンチョルが病院にもさかんに出入りしていたと、今回、男性は衝撃の証言をしているのである。

【クスリを打たれ意識を失った藤田さん】
 「埼玉に“患者”を連れに行くから、運転手をやってくれ」と、私の事務所に“金先生”から院内(の内線)電話が入ったのは拉致前日のことだったと思います。当時の私は拉致など知りません。総連系の医療機関は埼玉にもたくさんあるから、そのうちのどこかから患者を引き取ってくるんだな、くらいの気持ちで手伝いをしたのです。
 2月7日は、冬にしては暖かい日だったと記憶しています。昼過ぎ、総勢4名が病院から車2台で出かけました。私は先頭車両の1号車のハンドルを握りました。車は小豆色のブルーバードで、助手席には“金先生”ことチェ・スンチョルが座りました。2号車は紺のトヨタ車で、二人のスーツの男が乗っていました。彼らはおそらく科協の関係者だと思います。
 当時と今では、道がかなり変わっていますが、当時の記憶で説明します。
 まずわれわれは環状七号線を西へ進み、鹿浜交差点を右折して都道107号線に入りました。 そのすぐ先を左折し、博慈会病院の前を通って新芝川べりから山王橋を渡り、鋳物工場が両サイドに並ぶ通りを直進して、川口本町大通りから産業道路に入りました。
 “金先生”は、「このルートだと派出所は1ヶ所しかないから安全なんだ」と説明していました。どこをどう通るかまで、綿密に計算し尽くしていたわけです。
 国鉄(当時)川口駅前を越してしばらく走ると、産業道路沿いにある公園で停まるように言われました。車を降り、公園の反対側に歩いていくと、濃い色のクラウン(3号車)が停まっていて、スーツ姿の男が4人乗っていました。
 4人とも朝鮮総連本部関係者で、いま考えると、彼らがこの事件の指揮官でした。“金先生”は、3号車の4人と何か話したあと、私のところに戻ってきて「大宮の氷川神社に行くことになった」と、淡々と私に指示を出しました。
 当時は道が空いていたので川口まで30分弱、川口から氷川神社までもそれほど時間はかかりませんでした。大宮氷川神社の隣には大宮公園があるのですが、公園の池の近くで車を停めるよう指示されました。いまでこそ、人も多く明るい公園ですが、当時は木が鬱蒼と茂っていて人影も少なく、寂しい場所でした。
 そこには、かなり大きめの乗用車(4号車)が、われわれを待っていました。これが藤田さんを捕まえていた車です。2号車から2人、3号車から4人が降りると、待っていた4号車の後部座席から、大柄な男2人に両側を抱えられて、男性が連れ出されました。これが藤田さんでした。藤田さんは精神病患者などが暴れた際に着させられる拘禁服に似た、ベージュ色の保護服を着ていました。足元もおぼつかないほどフラフラの状態で、意識がないようにも見えました。クスリを打たれているな、とすぐにわかりました。そのまま藤田さんは2号車の後部座席に入れられ、2人の男が両側から挟むようにして座りました。
 作業は一瞬でした。3号車の指揮官と思われる男が私のもとにやってきて、「全て完了したので戻って下さい」と日本語で言いました。日本語が使われたのはこのときだけで、あとは全て朝鮮語です。
 帰りも私の運転する1号車が先導でした。後ろを走っていた3、4号車はすぐに姿を消し、私たち1、2号車はまっすぐ病院に向かったのですが、私は途中で道に迷ってはぐれ、2号車より20分も遅れて病院に着きました。“金先生”にひどく怒られたのを覚えています。藤田さんを乗せた2号車は、行きと同じ道で病院まで戻ったそうです。
 藤田さんの拉致には、川口市の総連系の診療所が大きくかかわっていると思います。金理事長が中枢にいた科協には医師が非常に多いのです。おそらく西新井病院で解読された拉致指令が科協本部にわたり、科協から傘下の診療所に通達されたのでしょう。数年前から藤田さんと川口の診療所の医者が親しくなっていたそうです。医師は何年もかけて藤田さんと親密な関係を築き、拉致当日、食事や催し物に一緒に行こう、と誘ったのでしょう。

【涙をためて「ここはどこですか」】
 病院に連れてこられた藤田さんは、そのまま病院2階付近にある「保護室」という名の監禁部屋に入れられました。「保護室」の存在は「幹部」しか知りません。一般職員からはわからないように扉はまるで壁のように加工されていました。「保護室」は畳1枚半の部屋で、鉄格子がしてあり、壁も床も自傷防止用の青緑色のクッションが張ってあります。ちなみに西新井病院に精神科はなく、このような施設は必要ありません。
 私は“金先生”から「“患者”に配膳をしてくれ」と頼まれました。翌日の朝から配膳係になって、朝、昼、晩の3回藤田さんに食事を運びました。
 拉致の翌日、藤田さんは打たれたクスリがまだ効いているようで、意識が朦朧としており、朝食、昼食とも手付かずでした。藤田さんが打たれたのは自白剤ではないかと思います。ものすごく息が臭くなるのでわかりました。
 その日の夜、藤田さんの意識がしっかりしてきました。しかし、現実が受け入れられないのか、ただただ大声で泣き叫んでいました。慟哭という感じでした。「どこへ連れて行くんだ!」「なんだ、これは!」という叫びが、今も強く耳に残っています。
 2日目、3日目も会話はなく、食事は摂るようになったのですが、藤田さんは身動きが制限される保護服を着たまま、ただじっとしていました。叫ぶこともなくなりました。
 4日目になって、「ここはどこですか」「自分は何でここにいるんですか」と、涙をいっぱいに溜めた脅えきった目で私に聞いてきました。これが、最初で最後の会話です。
 4日目の夜、藤田さんはいなくなりました。その後、病院関係者から「彼は同志同胞の繁栄のため、新潟から万景峰号(マンギョンボンごう)で北朝鮮へ渡った」と聞かされました。

※拉致事件解決に取り組んでいる特定失踪者問題調査会の真鍋貞樹氏は
 「今回の話は拉致実行犯と思われる人物による初めての証言です。拉致問題の解明に向けて重要な参考となります。細部の検討は今後の課題ですが、政府には事実の解明に向けて、いち早く動いてもらいたい」と語る。
 特定失踪者問題については特定失踪者問題調査会のホームページをご覧下さい。
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関連掲示
・拉致問題全般については、下記の拙稿をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08e.htm

キリスト教92~科学革命と産業革命の合体

2018-08-24 09:24:27 | 心と宗教
●科学革命と産業革命の合体

 西欧で発達した近代科学が、それ以前の非西欧的また前近代的な伝統科学と異なるのは、人間が自然を支配し、利用するという思想の上に立っている点にある。自然を物質化・手段化し、これを征服・支配し、資源として利用して、人間の生活や文化を豊かにするという考え方は、ヨーロッパ文明の特徴である。この特徴は、キリスト教に基づくという見方が、多くの論者の説くところである。確かにヨーロッパ文明のもとになった他の文化要素であるギリシャ=ローマ文明やゲルマン民族の文化には、こうした明瞭な特徴は見られない。
 キリスト教に基づくとされる根拠は、旧約聖書の『創世記』に、神が人間を自分に似たものとして創造し、人間に対して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命じたと記されていることによる。それが、自然を支配し、これを利用することが神から与えられた人間の使命であるという思想のもとになっている。多くの論者は、それをキリスト教の教えによると説いてきたが、『創世記』の記述はユダヤ教の教えであり、それがキリスト教にそのまま継承されているものである。それゆえ、人間が自然を支配し、利用するという思想は、キリスト教というより、ユダヤ教に基づくものであると言わなければならない。
 やがて近代科学の知識は、産業革命を通じて生産技術に応用され、圧倒的な力を発揮することになった。キリスト教的ヨーロッパ文明が脱呪術化・合理化し、その文明が世界に広がることによって、人類の文明は、自然を対象化し、道具化する文明に変貌した。近代西欧科学は、産業革命と結びつくことによってはじめて、巨大な威力を発揮するようになった。西欧の近代科学は当初、イスラーム文明やシナ文明の科学と大差なかった。世界観や価値観の違いにより、自然の認識や研究の方法・態度が異なる程度だった。ガリレオの実験、デカルトの数理的方法論、ベーコンの帰納法、ニュートンの機械論等、後から見れば画期的な展開となったが、もし西欧に産業革命が起こっていなければ、どれほどの影響力を持つにいたったか、わからない。
 科学革命はイギリスを中心に展開された。1660年に王立協会(ロイヤル・ソサエティ)が設立され、国王が科学認識を深めるための活動を奨励した。しかし、産業革命前のイギリスは、インドからやってくる木綿に圧倒される程度の国家でしかなかった。西欧的な近代科学のもつ潜在力が現実化されるには、18世紀後半からの産業革命を待たねばならなかった。
 ヨーロッパ文明と他の文明の最大の違いは、西欧では、近代科学の知識を生産技術に応用し得る生産関係が生まれていたことにある。すなわち、資本主義的な経営、目的合理的な産業経営である。近代資本主義による物質的生産力の前に、非西欧諸国は屈服したのである。
 さらに産業資本の生産力と近代主権国家の権力とが結びついたことによって、西欧諸国は強大な力を持った。科学技術と資本の経営体と近代国家の官僚制、これらに共通するものは合理性である。思想や組織等の全般的な合理化が、ものと人に対するかつてない支配力を生み出した。生活全般の合理化としての近代化が、イギリスを初めとする西欧諸国に、他の文明を圧倒する力をもたらした。
 近代西洋文明は、産業革命を成し遂げた結果、資本主義的経営、近代国家、科学技術等が一つに結合して、人類史上かつてない圧倒的な力を生み出した。そして、西欧発の文明が地球のほとんど全表面を支配下に置くまでになった。産業革命によって、近代世界システムによる中心―半周辺―周辺の三層構造は、地球規模に拡大していった。19世紀後半には、世界各地の文明が近代西洋文明の「周辺文明」と化すがごとき状態となった。
 特に重要なのは、軍事的な分野での兵器の開発・生産である。産業革命による動力・エネルギー革命は、蒸気機関を積んだ軍艦を大海に送り出した。工業生産力の増大は、兵器の機械化・大型化を進め、軍用自動車・航空機・潜水艦等を生み出した。第2産業革命による重化学工業の発達は、兵器による破壊力を飛躍的に増大させた。戦争は兵器を発達させ、発達した兵器は戦争を大規模化する。近代科学兵器の開発は進み進み、1940年代前半には核爆弾の製造がされた。核兵器は、それまでの兵器の破壊力とは、まったく水準の異なる巨大な破壊力を実現した。その兵器が第2次世界大戦の最後に広島と長崎で使用された。その結果、人類は自ら作り出した科学兵器によって、自滅の危機に直面することになった。

 次回に続く。

■追記
 本項を含む拙稿「キリスト教の運命~終末的完成か発展的解消か」第2部は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-5b.htm

石破茂氏を総理大臣にしてはいけない

2018-08-23 09:39:54 | 時事
 自民党総裁選は、安倍首相と石破元幹事長の一騎打ちの様相となってきました。石破氏については、裏切りを繰り返してきた過去があります。井上新平氏のFBでのコメントを若干編集を加えて紹介します。

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・1981年父の死後真っ先に駆けつけてくれた田中角栄の助言を得て政界を目指すも田中派でなく中曽根派から立候補。⇒ 田中角栄を裏切る

・1993年非自民の細川連立内閣が発足。自民党が野党に転落すると立て直しに四苦八苦する森喜朗幹事長に「私はね政党与党にいたいんです。自民党の歴史的使命は終わった」と捨て台詞を吐いて離党届。⇒ 自民党を裏切る

・小沢一郎を「真の改革者」と称賛して新進党結党に参加するも小沢一郎が党首に選ばれると自分の考える政策とは違うと総選挙直前に離党。⇒ 小沢一郎を裏切る

・その後、自民党に復党するも誰も相手にされず伊吹文明が「石破君は仕事ができる人だから」と情けをかけて伊吹派に入れてもらい、入閣すると「閣僚が派閥に属するのはいかがなものか、派閥は旧態依然としていると思いますよ」と捨て台詞を残して伊吹派を離脱。⇒ 伊吹派を裏切る。その後額賀派も裏切る

・麻生政権の閣僚を務めていながら支持率低迷で総選挙が近付くと、首相官邸に乗り込み「後任は麻生さんが指名すべきだと私はこう思うわけです」と謎の論理を展開して麻生おろしに加担。⇒ 麻生太郎を裏切る

・民主党から政権奪取を目指した自民党総裁選で安倍晋三と総理の座を争い、敗れて幹事長に抜擢されるが在任中に地方選挙で連戦連敗。⇒ 自民党支持者を裏切る

・安保関連法案担当大臣を任せたいといわれるも、めんどくさそうなので理屈をこねて固辞、代わりに受けた地方創生担当大臣で実績を残せないどころか、既得権益に配慮して加計学園問題で地方を見殺しに。⇒ 地方を裏切る

・自民党総裁任期延長問題で総務会で吠えまくるが、だれにも相手にされず、派閥政治を否定していたにもかかわらず石破派の水月会を結成。⇒ 世論を裏切る。

・森友問題や加計問題や自衛隊日報問題で新聞テレビに連日出演して安倍政権と自民党を背後から撃つ発言をしまくり、マスコミの安倍降ろしに加担。⇒ 安倍晋三を裏切る。

 これから誰を裏切るのでしょうか。国民を裏切るのでしょうね・・・多分。
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 石破氏は、いろいろな相手に裏切りを繰り返してきましたが、それだけではなく、日本の最高指導者にふさわしくない歴史観、国家観を持っています。

 平成19年11月21日、中国紙記者が防衛大臣執務室を訪れ、石破防衛大臣(当時)に取材しました。その取材に基づき、中国共産党系の「世界新聞報」平成20年1月29日付に石破氏の発言が掲載されました。

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 「私は(防衛庁長官としても)靖国神社を参拝したことがない。第二次世界大戦の時に日本の戦争指導者たちは、何も知らない国民を戦線に駆り出し、間違った戦争をした。だから、私は靖国神社に参拝しない。あの戦争は間違いだ。多くの国民は被害者だ」
 「日本には南京大虐殺を否定する人がいる。30万人も殺されていながら南京大虐殺そのものが存在しないという。何人が死んだかと大虐殺があったかは別問題だ」
 「日本には慰安婦についていろいろな見解があるが、日本軍が関与していたことは間違いない」
 「日本人が大東亜共栄圏の建設を主張したことは、侵略戦争に対する一種の詭弁だ」
 「(中国は日本に対する脅威であるから対中防衛を強化せよという人たちは)何の分析もしないで、中国は日本に対する脅威だと騒いでいる」
 「日本は中国に謝罪するべきだ」
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 石破氏は、自虐史観、東京裁判史観に深く侵されており、誤った歴史認識を多く持っています。その上、防衛大臣経験者でありながら、中国の脅威に関して現実を見ず、否定的な見解を述べています。彼が日本国総理大臣になった場合、日本は中国に呑み込まれ、支配されていくことになるでしょう。
 石破氏は、来る自民党総裁選で安倍氏に勝つことは、ほぼ不可能な情勢です。ここで敗れても存在感を示しておいて、派閥を拡大し、ポスト安倍を狙っているのでしょう。そのうえ、石破茂氏は、8月17日、自民党の憲法改正案の焦点である9条の改正に「緊急性はない」と発言しました。https://www.sankei.com/politics/news/180817/plt1808170016-n1.html
 石破氏は本年3月まで9条2項削除論を唱導し、一見「あるべき論」を頑固に主張しました。しかし、自民党では2項維持で9条の2に自衛隊を明記する案がまとめられ、8月13日には安倍首相が臨時国会に改正案を出すと明言したところです。すると今度は、石破氏は9条改正を急ぐ必要はないと言う。何がこの人の信条なのか理解に苦しみます。
 石破氏は防衛通を売り物のようにしていながら、真剣に日本の平和と安全を考えているとは、私には思えません。むしろ中国の軍事力の脅威を軽視し、北朝鮮の動きを強く批判しない石破氏の姿勢は、自民党の政治家であるという立場を通じて中朝を利するものと思います。立憲民主党等の野党が石破氏にエールを送るのは、向いている方向が同じだからでしょう。
 石破氏がポスト安倍の座につく時、日本は亡国の道へ進むことになります。彼を自民党総裁、日本国総理大臣にしてはなりません。

関連掲示
・拙稿「石破茂氏は愛国的な政治家か」
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d0ef7435c2cca2380c771e4825f08277
・拙稿「石破茂氏に漂う偽善のにおい」https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/fd803bed491aba884db5d1053afbb9bd

キリスト教91~近代西欧科学とキリスト教

2018-08-22 08:49:10 | 心と宗教
●近代西欧科学とキリスト教
 
 宗教改革によって、カトリック教会の権威を批判することで信教の自由が得られた。そのことが西方キリスト教における教派の多様性を生んだ。また、ユダヤ人にも自由と権利が拡大したことにより、西方キリスト教圏においてユダヤ的価値観の浸透が進んだ。もう一つ、宗教改革後、西方キリスト教社会に大きな変化をもたらしたものが、近代西欧科学の発達である。科学の発達は、キリスト教の権威と信仰を揺るがし、キリスト教を相対化したり、否定したりする考え方を引き出した。
 近代西欧科学は、ヨーロッパの近代化の進行の中で発達した。近代化とは、「生活全般における合理化の進展」(マックス・ウェーバー)である。合理化は、文化的領域から始まった。文化的領域における近代化とは、宗教・思想・科学等における合理主義の形成である。ルネサンス、宗教改革に続いて、17世紀に科学革命が起こり、世界観が大きく変わった。世界を合理的な考え方で理解する態度が支配的になったのである。
 この世界観の変化において大きな作用をしたものの一つが、天動説から地動説への転換である。中世において、キリスト教の教義は絶対だった。人々は、神が七日間で宇宙を創造し、太陽が地球の周りを回っていると素朴に信じていた。だが、ルネサンスにおいて、失われた古代の知識が回復され、世界観の変化を生み出した。その変化をもたらしたのは、古代ギリシャ=ローマ文明の知識の復活だった。
 プロティノスらによる新プラトン主義の思想に触れたコペルニクス、ティコ=ブラーエ、ケプラー、ガリレオらは、太陽を中心とする幾何学的な宇宙観に魅せられ、天体観測と数学的計算を試みた。その結果、彼らが明らかにしたのは、驚天動地の事実だった。
 太陽が地球をではなく、地球が太陽の周りをまわっていると彼らは言い出した。天動説から地動説への転換である。カトリック教会は、最初この説を弾圧した。だが、やがて天動説が真理であることが社会的に認められるようになっていった。
 この世界観のいわゆるコペルニクス的転換は、西欧での科学革命を引き起こした。実験と計算が重んじられるようになり、神話的・教義的な意味付けは駆逐されていった。その中心となった時期が17世紀である。魔女狩りの集団的熱狂や旧教・新教の対立抗争が行われるなか、フランシス・ベーコン、ガリレオ・ガリレイ、ロバート・ボイル、アイザック・ニュートンらが活躍した。ベーコンは、実験と観察にもとづく帰納法的学問こそが、人類に大きな利益をもたらすことを強調して、近代科学の論理学・方法論を発表した。ガリレオは、望遠鏡を製作し、木星の衛星、太陽の黒点等を発見し、地動説を唱えた。彼は、1632年に出版した『天文対話』によって宗教裁判を受け、著作は禁書となり、刑罰を受けた。ボイルは、物質の基本構成要素として元素の存在を認め、化学の礎を開き、また実験科学を確立した。そして、ニュートンが万有引力の法則を発見して地動説を完成させるとともに、機械論的世界観を確立した。
 このような展開において、キリスト教との関係で最も重要なのは、ルネ・デカルトである。
デカルトは、中世のスコラ神学的な実在観・人間観・世界観とは異なる新しい哲学を打ち出した。それによって、近代哲学の祖となった。デカルトは、中世の神学や薔薇十字団の神秘思想等を経て、数学・自然科学を志した。デカルトは、方法的懐疑によって疑い得ぬ確実な真理として、「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」と説いた。そこから神の存在を基礎づけ、外界の存在を証明した。神を無限な実体として世界の第1原因とし、それ以外には依存しないものとして、物体と精神という二つの有限実体を立てた。これら「延長のある物体」と「思惟する精神」は相互に独立した実体とする物心二元論の哲学を樹立した。その哲学は、物事をそれ構成する要素に分解し、それらの要素を理解することで、元の物事全体の性質や振る舞いを理解しようとする要素還元主義の科学方法論を生み出した。
 デカルトは『情念論』(1649年)で、「生きている人間の身体」を自動機械にたとえ、それをあくまでも機構としてとらえるべきことを説いた。またデカルトは、精神の中に生得的な観念があり、理性によって精神自身が観念を演繹して展開することが可能であるとした。その生得的な観念の一つが神であり、デカルトはコギト(思考する我)の根拠として神の存在は自明のものとした。
 デカルトは、また、主観と客観をはっきり区別する主客二元図式を提示した。そこから、近代的な個人の自覚が生まれることになった。ここに、近代西欧哲学が始まった。スコラ神学から近代哲学への変化が開始されたのである。近代哲学は、近代西欧科学の認識論、人間観、生命観、自然観等の基礎を提供した。
 科学革命の推進者たちによって、中世の西方キリスト教的な世界観とは異なる新しい世界観が生み出された。それを一言で言えば、機械論的な世界観である。近代西欧に現れた機械論的な世界観は、自然は数理的な法則に従って運動する物質とみなす。人間と自然の間の霊的なつながりは決定的に失われ、自然は物質化・手段化された。そして人間には自然を征服・支配する力が与えられているという考えが支配的になった。物質科学によって得られた知識は、西欧人に合理主義的な思考を促し、宗教・思想・生活態度を合理的なものに変えていった。そして、合理主義的な思考の強化によって、近代科学は急速に発達した。物質科学の発達は、近代化の過程で決定的な役割を果たした。物質科学こそ近代文明の中心であり、近代西洋文明は物質科学中心の文明と呼ぶことができる。
 西方キリスト教は、その教えが醸成した文化の中から登場した近代西欧科学によって、根底から揺さぶられることになった。

 次回に続く。

キリスト教90~ユダヤ人の自由と権利の拡大

2018-08-20 09:38:49 | 心と宗教
●ユダヤ人の自由と権利の拡大

 信教の自由の確立・拡大は、キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒にも及んだ。宗教改革から市民革命の時代に、ユダヤ人は社会的な地位を徐々に高めていき、市民革命によって、ユダヤ人の自由と権利は、大きく拡大された。
 中世のヨーロッパにおけるユダヤ人の地位を振り返っておくと、キリスト教に改宗しないユダヤ人は異教徒として差別され、市民権を与えられず、職業は金貸し、税の集金等に限定された。12世紀から西欧のユダヤ人には銀行業や商業で成功する者も出たが、社会的地位は低かった。13世紀までには、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが、カトリック教会で確立された。イギリス・フランス・ドイツ等の多くの国でユダヤ人は追放された。中でもイスラーム文明から失地を回復したスペインでは、ユダヤ人はキリスト教への改宗を強制された。改宗ユダヤ人(マラーノ)は、表向きはキリスト教だが、ひそかにユダヤ教を信じた。だが異端尋問が厳しく行われた。1492年レコンキスタが成ると、すべてのユダヤ人が追放された。96年にはポルトガルでも同様となった。こういう具合ゆえ、西欧のユダヤ人には信教の自由が保障されていなかった。
 16世紀に西方キリスト教の宗教改革の旗手の一人、ルターは、反ユダヤ主義的だった。ルターは、ユダヤ人について、「彼らの財産を没収し、この有害で毒気のある蛆虫どもを強制労働に駆り出し、額に汗して自分の食べるパンを稼ぎ出させるべきだ。そして最終的には永遠に追放すべきだ」と説いた。一方、対抗宗教改革のために創設されたイエズス会は、ユダヤ人に改宗を強力に迫る運動を繰り広げた。1555年、教皇パウロ4世は、ローマとイタリア国内の教皇領のユダヤ人をゲットー内に隔離することを命じた。
 キリスト教社会で差別と迫害を受けるユダヤ人が、自らの地位を高めていったのは、類まれな経済的能力による。14~15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルの繁栄に貢献した。ユダヤ人は商業・貿易・金融の知識を持ち、国際的なネットワークを持つ。彼らはある土地で追放されると、他の土地へ移り、そこで能力を発揮した。神聖ローマ帝国でも同様だった。1577年、ハプスブルク家の皇帝ルドルフ2世は、ユダヤ人に特権を与える勅許状を出した。ユダヤ人の財務能力が有益だと考えたからである。彼は大商人マルクス・マイゼルを最初の宮廷ユダヤ人として迎え入れた。以後、多くのユダヤ人が諸邦の宮廷に財務官あるいは財政顧問として入り、その後他の分野にまで関係していった。中欧のほとんどの国でユダヤ人は政府の財政を支配し、その影響力は1914年まで続く。
 ドイツ30年戦争では、神聖ローマ帝国の皇帝やドイツの諸侯は莫大な戦費を必要とした。ユダヤ商人はその需要に応じることができた。ユダヤ人から資金の提供を受けなければ、戦争はできなかった。資金と引き換えに居住許可が乱発された。30年戦争は、ユダヤ人の国家財政と軍事物資の供給への大々的な関与の始まりとなった。諸国家の国民の権利が確保・拡大されることによるいわゆる人権の発達に伴って、ユダヤ人の自由と権利が拡大したのは、こうした財政・戦争等への関与の延長線上に実現したものである。
 異教徒として蔑視や敵視をされながらも、経済的には諸国で欠かせない存在となったユダヤ人が、自由と権利を確保したのは、まずオランダにおいてだった。
 1580年、ポルトガルがスペインに併合され、隠れユダヤ人を厳しく追及し始めた。当時ヨーロッパで最も信教の自由が保障されていたのは、オランダだった。そのためポルトガルのユダヤ人の多くがアムステルダムに向かった。スペインのマラノも後に加わった。ここはプロテスタントが多く、ユダヤ人にも寛容だった。移住したユダヤ人は、アムステルダム銀行を作って銀行業務を発展させ、東インド会社・西インド会社に投資してオランダに富をもたらした。それとともに、ユダヤ人の自由と権利は確立された。ユダヤ人の地位改善がさらに進んだのは、市民革命による。
 イギリス市民革命は、イギリスのユダヤ人の自由と権利を拡大し、西洋におけるユダヤ人の自由と権利を拡大する端緒となった。
 イギリスでは、1290年にユダヤ人が追放された。以後、公式に撤回することはなかったが、ピューリタン革命は、ユダヤ人に対する政策が再検討されるきっかけとなった。清教徒たちは、英訳の旧約聖書を読み、ユダヤ人に尊敬の念を持つようになった。クロムウェルは、ユダヤ人の経済力が国益にかなうという現実的判断をし、寛大な政策への道を開いた。王政復古後のチャールズ2世も同様の理由でユダヤ人に対して正式に居住を認めた。
 名誉革命は、オランダからオレンジ公ウィレムを招聘して、国王を交代させたが、そこにはユダヤ人の関与があった。名誉革命の理論を提供したロックは、同時にユダヤ教徒等への宗教的寛容を説き、大きな影響を与えた。
 17世紀後半の西欧は、「朕は国家なり」の句で知られる絶対君主の典型、太陽王ルイ14世が大陸を軍事的に制圧していた。フランスに対抗して大連合が組まれ、1672年からオランダ統領のウィレムが連合軍を指揮した。彼は英国王となった後も、引き続き連合軍を率いて、ルイ14世の支配を打ち砕いた。その際、資金と食糧を調達したのは、主にユダヤ人のグループだった。名誉革命を通じて、国際金融の中心は、アムステルダムからロンドンに移った。シティの繁栄は、ユダヤ人の知識・技術・人脈によるところが大きい。
 ユダヤ人の自由と権利がさらに大きく拡大されたのは、フランス市民革命による。フランスでは、8世紀のシャルルマーニュ(カール)大帝はユダヤ人を「王の動産」として保護した。ところが、カトリック教会の権威が増大すると、ユダヤ人に対する迫害が進み、1394年には追放に至った。それがフランス革命を機に一転した。1789年8月、国民議会は人権宣言を採択した。その第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と謳われたが、これがユダヤ人にも適用されるようになった。91年9月、国民会議はユダヤ人解放令を出し、フランスのユダヤ人に完全な市民権を認めたのである。 フランスで市民権が認められた事実は他の国にも影響し、1796年にはオランダ、1798年にはイタリアのローマ、1812年にはプロシアというように、次第にユダヤ人の平等権が保障されるようになった。しかし、ナポレオンの敗北後、フランス以外では以前の状況に戻るなど、歩みは一様ではなかった。
 市民革命後のユダヤ人の自由と権利の拡大は、ロスチャイルド家等のユダヤ人資本家の繁栄によるところが大きい。その一方、彼らへの反発から反ユダヤ感情も強まった。19世紀末にはフランスでドレフュス事件が起こり、反ユダヤ主義が高揚した。これに対して、ユダヤ人の側では、シオニズムが起こった。その宗教的・民族的な動きとは好対照に、国際共産主義運動に参加する者も多かった。ロシアでユダヤ人の解放を目指すユダヤ系共産主義者は、ロシア革命に参加した。反共産主義革命と反ユダヤ主義には重複する部分が生じ、ドイツではナチスによる迫害・虐待が行われた。第2次大戦後、ユダヤ人の自由と権利が国際的に保障されるようになったのは、国際連合や世界人権宣言による。背後には、ユダヤ人の国際的な働きかけがあったものと思われる。その一方、ロスチャイルド家が資金を出したイスラエルの建国は、パレスチナ住民の権利を侵害し、中東に深刻な対立構造を生み出した。ユダヤ人の自由と権利の拡大は、ユダヤ人の利益実現を中心としており、人類全体の人間的な権利の発達に、十分つながってはいない。
 近代西洋の歴史を振り返ると、ユダヤ人を最終的に受け入れた先は、ほとんど例外なく繁栄した。プロテスタントの宗教的信念が勤労と蓄財を鼓舞したとする説は、資本主義発達の初期の段階には当てはまるものの、長期的に概観すると、ユダヤ人の移住こそが、近代資本主義が発達した地域に共通する著しい特徴となっている。
 14~15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルで、17世紀にはオランダのアムステルダムで、17世後半からはイギリスのロンドンで、ユダヤ人は移住するたびに新しい場所で才能を発揮した。ヨーロッパ経済また資本主義システムのその時々の中心地で、ユダヤ人は活躍した。北米、ドイツ等でも移住したユダヤ人が活躍した。20世紀以降、今日まで世界で最も繁栄しているアメリカ合衆国は、イスラエル以外では世界最大のユダヤ人人口を有する国家となっている。
 逆にユダヤ人を差別し迫害する宗派が支配的な国家は、それまでの経済的繁栄を失うか、十分な経済的発展ができない状態を続ける。ユダヤ人に自由と権利を保障し、それらを拡大した国家が大きく発展しているという事実は、キリスト教とユダヤ教の関係という観点から見れば、キリスト教がユダヤ教に寛容を示したり、再ユダヤ教化したり、ユダヤ教徒の信仰活動を保障したりした地域が、経済的に発展してきていることを示している。この現象は、西方キリスト教社会におけるユダヤ的価値観の浸透・普及を示すものである。その浸透・普及は、第2次ぎ世界大戦後、一層拡大・加速することになる。

 次回に続く。

8・15靖國神社参拝と集会の報告

2018-08-18 08:50:20 | 靖国問題
 8月15日午前、私は、国民の一人として、靖國神社に参拝し、英霊に感謝と慰霊の誠を表した。午前10時半から靖國神社の参道で行われた第32回戦歿者追悼中央国民集会に、今年も戦争未亡人のTKさん(93歳)と友人たちとともに参列した。
 開会の辞に続いて、国歌を斉唱し、本殿に向かって全員で拝礼。その後、昭和天皇による「終戦の詔書」を当時の録音により拝聴した。
 続いて、主催者を代表して、日本会議会長・田久保忠衛氏(杏林大学名誉教授)が挨拶した。次に、各界を代表して、自民党衆議院議員・元文科大臣の下村博文氏が提言を行った。その後、二人目の主催者代表として、英霊にこたえる会会長・寺島泰三氏(元統合幕僚会議議長)が挨拶した。続いて、各界代表の提言が、米国カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏、東海大学教授の山田吉彦氏によって行われた。提言はそれぞれ、現在の日本の危機と課題を真摯に訴えるものだった。各氏の発言は、Youtube 等に動画が掲示されることと思う。ぜひ視聴をお勧めしたい。

 集会に参加した国会議員は、参議院議員の衛藤晟一氏、有村治子氏、佐藤正久氏(ともに自民党)と報告された。地方議員も多数参加した。旧知の政治家・有識者の方々にご挨拶できた。

 正午の時報に合わせて、全参列者で戦歿者に黙祷を捧げた。続いて、日本武道館での政府主催式典の実況放送にて、今上陛下のお言葉を拝聴した。
 その後、声明文が朗読され、満場の拍手をもって採択された。声明文は後半に掲載する。
 参加者は1600名超と発表された。最後に全員で、英霊への尊崇と感謝の念を込めて、「海ゆかば」を斉唱し、集会は終了した。

 来年4月30日に御譲位を予定されている天皇陛下は、これまで日本国の象徴、日本国民統合の象徴として、沖縄、サイパン、ペリリュー島、フィリピン等に行幸され、慰霊の誠を尽くしてこられた。だが、今上陛下がその御立場において、まだ行幸されていない場所がある。それは、靖國神社である。戦歿者の慰霊のために、戦地となった場所を直接ご訪問されることは、誠に尊い行いである。しかし、未曽有の国難に際し、北方の戦地に斃れ、南方の戦陣に散った英霊たちは、みな「靖國神社で会おう」と言って、かけがえのない一命を国に奉じたのである。私は、天皇陛下が靖國神社に御親拝をされることが、未だ実行されていない象徴としての大きなお務めと考える。そして一日も早く御親拝を実現するために、日本国総理大臣は堂々と靖國神社への参拝を再開し、それを定着させることが責務である。安倍首相には、それを敢然と実行していただきたい。

 次に採択された声明文を掲載する。

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声明

 今日、我々が享受している平和と繁栄は、幕末維新から先の大戦に至るまで、国家存亡の危機に際して尊い一命を捧げられた、ここ靖國神社に鎮まります二百四十六万余柱の英霊の献身によって築かれたものである。
 にもかかわらず、戦後日本は、戦勝国の立場から我が国を一方的に断罪した東京裁判史観を払拭できず、英霊の名誉は冒涜されたままで、未だ回復されるに至っていない。さらに「平和主義」なる美名のもとで我が国の主権と国民の生命・財産を守るべき国家の責務を軽んずる悪しき風潮が蔓延してきた。
 かくして我が国を取り巻く国際環境は、益々厳しいものとなっている。六月の米国・北朝鮮首脳会談の合意にもかかわらず北朝鮮の非核化には具体的な進展はなく、中国は東シナ海・南シナ海での海洋覇権の確立を目指し露骨な軍事行動を展開し、ロシアは我が国固有の北方領土の軍事拠点化を図っている。さらに、韓国は反日・親北朝鮮の文在寅政権の登場により平成二十七年十二月の日韓合意をも蹂躙されるに至っている。
 このような中、天皇陛下は御即位以来、国民統合の象徴としての務めを果たされる一方、戦歿者慰霊について格別の大御心を寄せられ、国内外に亘って慰霊の旅を続けられてきた。しかしながら、我が国戦歿者追悼の中心施設である靖國神社には、皇太子時代に五回の行啓が実現したものの、残念ながら御即位後の実現に至っていない。天皇陛下の御譲位まで約八か月と限られた期間となってきた。天皇陛下の靖國神社へのご親拝を頂くためには、我が国の最高責任者である総理及び閣僚の靖國神社参拝が再開し定着しなければならない。我々は、ここに総理及び閣僚の靖國神社参拝の再開と継続を切望する。
 他方、ようやく戦後の悪しき風潮と決別する動きも生まれつつある。直近の参議院及び衆議院総選挙において、憲法改正に前向きな勢力が憲法改正の国会発議を可能とする国会の三分の二以上の議席を獲得したからである。ところが、祖国防衛の戦いで散華された英霊を軽んじ。自衛隊を否定し続けてきた戦後の悪しき風潮に染まる一部政党が、市民活動家や一部報道機関の後押しを受けて、憲法改正による「自衛隊の憲法明記」を阻止すべく、執拗に国会での審議を拒否し続けている。
 幸いにも平成二十六年十月に開始された憲法改正賛同者署名運動は、全国四十七都道府県・各種団体のたゆみない活動の積み重ねにより、今般ついに目標とした賛同者一千万名の大台を突破するに至った。この事実は、「戦後七十年」を経て、国民の意識が確実に変化している証左である。先の大戦終結から今日までの我が国の歩みを見た時、今回の機会を逃せば未来永劫に憲法改正の道は閉ざされると言っても過言ではない。占領軍によって一方的に押しつけられた現憲法を、一言一句も変えることもなく過ごしてきた今日、我々は、やっと自らの手による改正の好機が眼前に到来しつつあることを銘肝し、より一層運動の輪を広げ、その実現に向けて全力を結集せねばなるまい。
 平成最後の本集会において我々は、我が国の戦歿者追悼の中心施設である靖國神社への総理・閣僚の参拝再開と定着を図り、天皇陛下ご親拝の途を拓く努力を継続するとともに、これらの諸課題に取り組み、強く美しい日本国の再生を目指す国民運動を一層力強く展開することを、あらためて誓うものである。
 右、声明する。
 平成三十年八月十五日
             第三十二回戦歿者追悼中央国民集会
                   英霊にこたえる会
                   日本会議
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