ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

改憲論3~国家、戦争、紛争、内戦

2018-04-30 12:02:03 | 憲法
2.第9条改正の検討のための基本概念

 今日、わが国は、中国・北朝鮮による軍事的危機の増大に直面している。戦後、これほどの危機は、初めてである。そうしたなかで、日本の独立と主権、国民の生命と財産を守るため、憲法第9条の改正が、いよいよ急務となっている。
 平成30年3月24日自民党は、9条1項、2項をそのままとして、9条の2を新設し、次のような条文を加える案を公表した。

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第9条の2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
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 この改正案は、現行の第9条の規定は「必要な自衛の措置」を取ることを妨げないとし、現状の自衛隊を「必要な自衛の措置」を取るための「実力組織」として盛り込み、文民統制(シビリアン・コントロール)を定めるものである。今後、国会ではこの案をたたき台にして、各党間での議論が行われることになるだろう。
 この改正案を検討するには、まずそもそも国家とは何か、戦争とは何か、戦力、実力、武力とは何か、自衛権とは何かなど基本的な概念の整理が必要である。国民の常識の指針となるのは、憲法や安全保障の専門家による専門書ではなく、身近で調べることのできる辞典・事典である。そこで、代表的な辞事典の説明を手引きにして整理してみたい。

(1)国家

 国家は、一般に一定の領域に定住する多数の人民で構成される集団にして、排他的な統治権を持つものをいう。広辞苑は「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権とをもつ政治社会。近代以降では通常、領土・人民・主権がその概念の3要素とされる」と説明している。
 欧米語では、国家に当たる言葉が複数ある。例えば、英語では、 nationは、政治的・文化的・歴史的な共同体、stateはその共同体が持つ統治機関を意味する。nationは「国民・民族・国家・共同体」等と訳され、stateは「政府・国府・国家・国政」等と訳される。わが国では、これらをともに「国家」と訳すことが多いため、少なからぬ混乱を生じている。国際連合の場合は、the United Nations であり、nation が政治的統一体としての国家の意味で使われている。米国では、stateは州の意味で使われ、合衆国全体を表す時は、nationが使われる。

関連掲示
・国家については、拙稿「人権――その起源と目標」第1部第4章(1)をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm

(2)戦争
 
 広辞苑は、戦争を「①たたかい。いくさ、合戦 ②武力による国家間の闘争」と定義している。①は広義であり、②は狭義である。同書は、武力を「軍隊の力。兵力」と定義する。この定義は、デジタル大辞泉、大辞林も同様である。
 広辞苑は、軍隊を「一定の組織で編制されている軍人の集団」と定義する。武力の定義において武力を発揮する主体は軍隊とされているから、戦争の定義における②の「武力による国家間の闘争」は「軍隊の力を用いた国家間の闘争」と言い換えることができる。(1)の国家の定義と合わせるならば、領土・人民・主権を有する国家が、軍隊の力を用いて他国と闘争する行為または闘争している状態が戦争である。
 次に、ブリタニカ国際大百科事件小項目辞典は、戦争を「広くは、民族、国家あるいは政治団体間などの武力による闘争をいう」と定義し、「国家が自己の目的を達成するために行う兵力による闘争がその典型である」と説明している。この定義は、武力は国家が有するものに限らないことを前提している。また、国家以外も武力を持ち得るのであり、その武力による闘争を広く戦争としている。この定義においては、武力を発揮するものは、軍隊とは限らないことになる。実際、武力の発揮を目的として組織された集団であれば、それを軍隊と見なすかどうかに関わらず、戦争を行う主体となり得る。ブリタニカの定義は、広辞苑の定義よりも整ったものになっている。
 ところで、人間の集団が闘争を行う時、単に身体的な力だけでなく、道具を使うことによってその力をより大きなものとすることができる。道具は身体の延長であり、それによって人間の力は物理的に何倍にも増幅される。そこに生じるのが、武力である。武力は闘争用に作られた道具を通じて発揮されるものである。この道具を、武器または兵器という。
 デジタル大辞泉は、この点を踏まえて、戦争を「軍隊と軍隊とが兵器を用いて争うこと」と定義している。同書は兵器を「戦闘に用いる器材の総称。武器」と定義する。兵器または武器は、戦闘の際に攻撃及び防御に用いる道具であり、器具や材料である。この要素を加えるならば、戦争は、人間が戦闘を目的とした集団を組織し、闘争のための道具を用いて行う行為である。
 また同書は、戦争について先のように定義した上で、「特に、国家が他国に対し、自己の目的を達するために武力を行使する闘争状態」と説明している。ここで軍隊の語は、国家が有する軍事的な集団に限らず、国家以外が有する集団についても使われている。そのうち特に国家が軍隊を用いて、その武力を行使して闘争する状態を、戦争の典型として定義しているものである。
戦争については、これと関連する概念――紛争、内戦、武力行使、軍隊等――を整理したうえで、再度考察する。

(3)紛争と内戦

 戦争に関連する概念に、紛争と内戦がある。
 紛争について、広辞苑は「もつれて争うこと。もめごと」と定義している。対立する者同士が争う状態を広く意味する言葉で、武力が関わっていなくとも使う。それゆえ、紛争は戦争より上位の概念であり、紛争のうち、武力を用いた紛争、特に国家間の武力による紛争を戦争という。一方、内戦は、国家間の争いではなく、同一国内での争いをいう。
 ただし、紛争は、戦争よりも比較的小規模な武力衝突について使われることがある。国家間の対立であっても、フォークランド紛争のように、規模や程度が比較的小さかったり、一時的・突発的なものを紛争というものである。また、一国内の争いについても、内戦まで至らない小規模・短期間のものを紛争ということがある。一方、一国内の争いであっても、アメリカの南北戦争のように暫定的に国家と見なされる者同士の争いを戦争と呼ぶことがある。また、ベトナム戦争のように内戦の性格を持ちながらも、他国が介入し、国家間の争いにもなっている場合を、戦争と呼ぶこともある。シリア内戦のように、内戦と呼ばれるが、諸外国が介入している実質的な国際紛争も多い。
 憲法第9条の条文のおいては、1項の後半は「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は「国際紛争」を解決する手段としては、永久にこれを放棄すると規定している。ここでは、まず上位の概念に「国際紛争」があり、その紛争には、戦争と、戦争には至らない「武力による威嚇又は武力の行使」があるという分類がされていると理解できる。

 次回に続く。

「昭和の日」に日本の課題と世界の将来を考える

2018-04-29 08:43:00 | 日本精神
 平成19年(2007年)より、4月29日は「みどりの日」から「昭和の日」に、5月4日は「国民の休日」から「みどりの日」に変わった。本年で12年目となる。
 「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」と祝日法に、規定されている。4月29日は、もともとは、昭和天皇のお誕生日だった。昭和という時代は、日本の歴史の中で最も濃厚な時代だった。
 昭和の日本は、昭和天皇の存在抜きに振り返ることができない。昭和天皇の事績を知り、それを語り継ぐことが、昭和という時代の日本を理解し、その時代の努力を今日に生かすことになると思う。昭和天皇については、マイサイトの「君と民」の項目18~27の拙稿を、ご参考に供したい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind10.htm

●昭和という時代を振り返る

 昭和という時代を振り返るに当たり、わが生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生が、昭和の時代をどのように見ておられたかその大意を記したい。
http://www.nsfs.jp/sousai_sousai.htm

 明治時代の日本人は、日本精神を中心として一致団結していた。だから、6億のシナや3億のロシアに勝つことができた。ところが、日本人は、それ以後、段々、日本本来の特質を忘れ、一にも欧米、二にも欧米という考えにとらわれてしまった。大正の初めごろから、さかんに外来思想をとり入れ、それを中心に動いてきた。外来思想とは英米の資本主義、自由主義がそうだし、共産主義も入ってきた。その結果、本来の日本精神がないがしろにされ、政治家も日本の本質がわからなくなってしまった。
 日清・日露戦争に勝った後、アジアは安定し、自分から攻めて行かなければ他から攻撃されるような心配がなくなった。そうなると次第に、政治家が国のことよりも、自分の利益にとらわれて、腐敗・堕落していった。その政界の腐敗ぶりを見かねて、軍人が政治に口を出すようになった。明治天皇は、「軍人は政治に関与してはならない」という勅諭を出しておられるが、軍人がそのお言葉に背き、政治に介入するようになった。そして、青年将校などが、時の政府を倒せばなんとかなると考えて、5・15事件、2・26事件を起こした。また海外では、軍部が満州事変を起こし、支那事変にいたると、シナで泥沼のような戦いに引きずり込まれていった。
 当時、わが国では盛んに日本精神が唱えられていた。しかし、大塚先生は、当時の学者や文化人等が唱える日本精神は、本来の日本精神からはずれてきていると見ておられた。そして、昭和14年9月11日、「大日本精神」と題した建白書の送付を開始された。先生は、独伊と結ぶ三国同盟に反対し、対米英開戦に反対・警告された。奥様の国恵夫人が先生の書いたものを編集・印刷・発行された。毎回千余の建白書を、時の指導層に送り続けた。開戦すれば、日本は大敗を喫し、新型爆弾が投下され、大都市は焦土と化すと予言された。しかし、時の指導層はその建言を受け入れなかった。
 そして、ヒットラーやムッソリーニ等の覇道をまねた東条英機が、遂に英米と開戦した。そのため、日本は建国以来はじめての敗戦を喫してしまった。
 昭和天皇は、三国同盟に反対され、英米との開戦を避けるよう強く願われていた。当時の軍部は、明治天皇の遺勅に反し、昭和天皇の御心に背いて暴走した。
 戦後は、日本精神そのものが間違っているように教育している。しかし、大塚先生によれば、日本精神が悪いのではない。指導者が日本精神を踏み外したのである。

 戦後の日本は、上記のことを根本的に反省して、再出発すべきだった。しかし、その反省をせずに進んできていることに気づかねばならない。

●昭和の残課題を達成し、日本の役割を果たす

 「昭和の日」は、昭和という激動と復興の時代を振り返る意義ある日である。それとともに昭和の残課題を確認し、その課題の遂行に心を新たにする日でありたい。
 私は、残課題の最大のものは、日本人が日本精神を取り戻すことであると考える。自己本来の精神を失った国民・民族は、21世紀の世界で存立・繁栄を保てない。
 まず日本精神を取り戻し、具体的には三つの課題を成し遂げる必要がある。それは、憲法の改正、教育の再生、皇室制度の復活・強化である。これら三課題を達成してこそ、経済・外交・安全保障・家庭・脱少子化等の分野でも改善が可能となる。これらは、本来昭和の時代になすべきことだった。今、この平成の時代に早期になし終えるべき課題である。 平成31年(2019)4月30日に今上陛下の譲位、5月1日に新帝陛下の即位が行われ、元号が新たになる。平成の時代は、残り約1年である。この間に、まず憲法の改正を実現し、日本の根本的な立て直しを進めなければならない。

 世界全体で見れば、21世紀の人類の課題は、世界平和の実現と地球環境の保全である。わが国は、これらの地球的課題において、中核的な役割を担う立場にある。
 課題の成就には、時限が見えてきている。前者のタイムスケールは、米中対決であり、後者のタイムスケールは、地球温暖化である。
 米中対決は、2020年代半ばから30年代以降に現実的な可能性が高まる。中国は、この10年の間に、南シナ海で人口島の造成と軍事拠点化を進めてきた。また「一帯一路」戦略、AIIBの創設、宇宙兵器の増強等によって、米国の優位を揺るがす動きを続けている。今後、アジア・太平洋地域で米中の覇権をめうる戦いに、わが国は直面することになるだろう。これは、わが国の存立・興亡に関わる事態となる違いない。
 また、地球温暖化は、NASAゴッダード宇宙研究所のハンセン博士は、2007年当時、人類の努力によって地球温暖化を阻止するには、時間はあと10年しかないと警告していた。その10年が過ぎた。10年前、イギリス政府に気候変動が経済に及ぼす影響について報告したスターン博士も、温室効果ガスの削減対策を実行しないと、世界の平均気温が2度Cを超えるのは、2035年と予測した。その後、国際的な取り組みは前進してはいるが、地球環境に最も影響の大きい米中は依然消極的な姿勢であり、根本的な改善には向かっていない。
 これらの米中対決による世界核戦争の危機、地球温暖化による大洪水の危機を乗り越えて初めて、持続可能な人類社会、物心調和・共存共栄の新文明をこの地上に実現できるだろう。

 日本人は、日本精神を取り戻し、日本の再建を進め、世界平和の実現と地球環境保存に最善を尽くすべきである。その努力は、自国を生かし、また人類を善導するための努力となる。またこの努力を怠れば、日本はもとより世界全体が破滅に結果するおそれがある。「最悪の裏に最善あり」といい、また「人事を尽くして天命を待つ」という。日本の亡国、人類の自滅という最悪の可能性のある時代に、人事を尽くすことが求められている。

改憲論2~戦力不保持、交戦権否認

2018-04-28 18:36:31 | 憲法
(3)戦力不保持

 9条2項の前半は戦力不保持を定めている。戦力不保持は、人口500万人以上の独立国では、世界唯一の規定である。しかし、起草に当たったGHQのケーディス中佐は後年、これは自衛権の放棄を規定したものではない、と述べている。もし自衛力を含めてまったく戦力を持たないとすれば、独立主権国家として成り立たない。そこで、芦田均元首相が発案し、2項の冒頭に「前項の目的を達するため、」という文言を入れた。芦田修正という。この修正をマッカーサーが承認した。本来は自衛のための戦力は持てるという主旨だった。
 ところが、左翼・日教組等は、日本は自衛権をも放棄した、自衛隊は違憲であると主張し、自衛力の整備に強く反対した。国防の目的は、国家の主権と独立、国民の生命と財産を守ることである。その目的のためには、自らを守る力を保有することが必要である。これを否定したとすれば、独立主権国家とはいえない。他国から侵攻されても正当防衛による抵抗さえしないのは、自滅行為である。
 そこでわが国の政府は、自衛のために「最小限度の実力組織」は持てる、自衛隊は戦力ではないという理屈を立てて、自衛隊を保持してきた。しかし、戦力も実力も英語ではforceである。自衛隊は、英語名をJapan Self-Defense Forces という。海外のメディアは、陸上自衛隊を Japanese Army、海上自衛隊を Japanese Navy、航空自衛隊を Japanese Air Forceと呼ぶことがある。それぞれ、陸軍・海軍・空軍に相当する呼称である。そうした自衛隊を戦力ではないというのは、国内的にも国外的にも欺瞞である。しかし、自衛隊に対する反対意見や自衛隊を違憲だとする主張があるなかで自衛隊を保持するために、このような漢字によるレトリックを使ってきたものである。
 ところで、日本国憲法は、第66条2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と定めている。この条項は、文民統制すなわちシビリアン・コントロールを定めたものである。GHQが極東委員会の強い要求としてこの条項を入れるように強硬に要求した。civilian は軍人ではない者を意味する。これを「文民」と訳したために、混乱を招いている。公務員には、文官と武官がいる。武官は軍人である。文官は官吏であり、非軍人である。文官には、官僚ではない民間人は、含まれない。だが、civilian を「文民」と訳したため、文官と民間人を合わせた概念とも考えられる。だが、「文官」と訳すと、憲法の発布時に「武官」の存在を前提にしていることになる。日本が非武装化され、軍も自衛隊もない占領下で、憲法に武官という用語を使うわけにはいかない。こういう事情が、おかしな訳語を生み出したのだろう。逆に言うと、憲法に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と定めたということは、この憲法は日本国が将来、軍隊を持つことになることを前提としており、軍人は内閣総理大臣その他の国務大臣にはなれないと定めていることになるのである。
 この第66条2項の規定から見ても、9条2項は自衛のための戦力は持てるという主旨であり、日本が自衛のための軍隊を持つことができることを前提としたものと理解すべきである。

(4)交戦権否認

 9条2項の後半は「国の交戦権はこれを認めない」と規定している。交戦権とは、国家が交戦国として国際法上有する権利であり、戦争の際に行使し得る権利である。武力による戦闘の権利だけでなく、敵国との通商の禁止、敵国の居留民と外交使節の行動の制限、自国内の敵国民財産の管理、敵国との条約の破棄またはその履行の停止が、合法的な権利として含まれている。
 9条1項は侵攻戦争のみを放棄したものとし、2項の「前項の目的を達するため」という文言は侵攻戦争の放棄という目的を意味し、自衛のための戦力は保持できるという解釈に立てば、9条2項の後半は自衛戦争に関する交戦権までを否認したものではない。だが、わが国の政府は、自衛のために持てるのは戦力ではなく「最小限度の実力組織」であるという立場を取っている。その場合、わが国はこの「最小限度の実力」の行使を含む交戦権を行使し得るのかが問題となる。一方、左翼勢力は交戦権を国家が戦争をなし得る権利と解釈し、自衛戦争も含めて交戦権を否認したのだと主張する。ここにも解釈上の対立や混乱がある。

 私は、このように問題の多い第9条は全面的に改正すべきだという意見である。詳しくは下記をご参照願いたい。

・拙稿「国防を考えるなら憲法改正は必須」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08d.htm
・拙稿「憲法第9条は改正すべし」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08m.htm
・拙稿「日本再建のための新憲法――ほそかわ私案」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08h.htm

 次に、第9条の改正を検討するために、同9条に関わる基本概念について述べる。

 次回に続く。

キリスト教39~祈り、十字架、死と再生

2018-04-27 06:46:47 | 心と宗教
●祈り

 祈りには、成文による祈りと自由な祈りがある。成文化された祈りの代表的なものは、新約聖書に基づく「主の祈り」である。英語では「Our Father which art in heaven(文語)」で始まるもので、ローマ・カトリック教会と英国国教会(聖公会)の日本語共有口語訳は、次の通りである。
 「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」
最後のアーメンは、ヘブライ語で「まことに」「たしかに」「かくあれ」という意味の言葉である。祈りや信条等の最後に唱える。最後にアーメンを加えるのは、その真実性を神に誓い、また他人の祈祷に同意するためとされる。
 プロテスタントでは、教派によって、成文による祈りに加えて、自由祈祷を行う。また定形化された祈祷文を用いず、自由な祈祷のみを行う教派もある。

●十字架

 宗教は、儀礼や教義において様々な象徴を用いる。言語で表現できないものを、図像で表す場合が多い。キリスト教における最も重要な象徴は、十字架である。
 多くの宗教においては、主な象徴は、光、力、豊饒、調和等を感じさせるものである。だが、十字架は、磔刑の道具である。磔刑は、古代ローマ帝国で最も残酷な重刑だった。十字架は、古代オリエント諸国で広く使われていた刑具で、極悪な犯罪と恥辱のしるしである。ローマ軍は反抗するユダヤ人のグループを徹底的に弾圧し、彼らを捕えると、十字架に架けて殺した。十字架刑は、謀反者に対する見せしめの刑罰だった。イエスは、磔刑に処されたユダヤ人の一人として殺害された。
 こうした磔刑の道具を信仰上最も重要な象徴とするところに、キリスト教の特異な性格が表れている。陰惨、暗鬱である。他の世界宗教で、絞首台や獄門台等を象徴とする宗教はない。だが、この極悪な犯罪と恥辱のしるしである十字架が、キリスト教では、イエスの死と復活の象徴とされている。
 十字架には、教派によって様々な形式がある。ラテン十字架、ギリシャ十字架、ロシア十字架等である。
 ローマ・カトリック教会では、復活祭の前の金曜日をイエスが十字架にかけられた受難の日とし、十字架を礼拝する。十字架には、血を流し、苦しむ生々しいイエスの像が付されている。プロテスタントでは、十字架のみで、イエスの像はないのが普通である。また十字架を崇拝の対象にすることはない。
 祈りの時に、手で十字を切るのは、十字架を模した儀礼である。ローマ・カトリック教会では、右手で指をそろえて、額―胸―左肩―右肩の順に象る。東方正教会では、右手の親指・人差し指・中指の三本の指を合わせ、薬指と小指の二本を握る。前者の三本は三位一体、後者の二本は神性と人性の両性を表す。手の動きは、カトリックとは逆で右肩―左肩の順になる。プロテスタントは、十字を切らない。

●神の死と再生

 キリスト教の信仰は、イエスは磔刑にあって十字架の上で死に、3日後に復活し、40日間にわたって使徒らに出現したという伝説に基づく。この伝説は、何かしらの事実に基づくものだろう。そうでなければ、このような荒唐無稽な話が広まり、多くの人に受け入れられ、信じ受け継がれるはずがない。しかし、またこの伝説は、古代オリエントに広く見られた神の死と再生のシンボリズムと重合している可能性がある。世界諸民族の神話や古代の宗教には、神が死んで再生することにより、世界に豊穣がもたらされるという信仰が見られる。農耕文化の社会に多く、大地や植物を象徴する神が死に、その身体から作物が生まれるというイメージが語られたり、演じられたりする。また、太陽は生命の源であり、特に農耕生活では太陽の光の放射は、作物の栽培に最も必要なものである。そこで太陽が衰弱し続けた後に、回復することを願う儀礼が、世界的に広く見られる。太陽を神とすれば、その神の死と再生である。儀礼を通じて、太陽の再生によって世界全体が再生することが、象徴的に体験される。十字架上におけるイエスの死と再生は、こうした大地や植物、太陽等の自然神の死と再生とパターンが同じであり、象徴が重合していると考えられる。
 哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、キリスト教を奴隷道徳だとして非難し、19世紀末のヨーロッパで「神は死んだ」と宣告し、衝撃を与えた。プロテスタンティズムを背景に持ち、近代科学の知識に触れたニーチェは、イエスの復活と再臨を信じず、来たるべき2世紀におけるニヒリズムの到来を予言した。そして、ニヒリズムを超克する超人の思想を説いた。神の死のイメージに固執するニーチェは、古代ギリシャの神ディオニューソスに注目した。ディオニューソスは豊穣とブドウ酒と酩酊の神であり、別名をバッカスという。この神は死んで再生し、生命の高揚と熱狂をもたらす。ディオニューソスは、古代オリエントにおける死んで復活する神、農耕文化の大地と植物の神の例の一つである。だが、ニーチェは、さらに広く世界の諸宗教を比較研究することも、さらに深く人間の宗教心理を把握することもできず、発狂の末に死亡した。
 イエスが大地や植物、太陽等の自然神と異なるのは、まず彼が象徴的にではなく実際に肉体を持つ人間として死に、肉体を以って復活したとされることである。また、彼の復活によってその年の農作物の豊穣が実現したとするのではなく、神と人間の結びつきが復活したとされることである。また、それによって即、救済と世界の再生が実現するのではなく、将来に終末が迫っているとされることである。これらの3点は、キリスト教の独自の教義に基づく。十字架は、こうしたキリスト教の教義と信仰の独自性をよく表している。

●十字架における中心とマンダラ

 宗教学者のミルチャ・エリアーデは、世界の宗教史を研究し、多くの宗教で「聖なる中心」が強調されていることを明らかにした。「聖なる中心」とは特別の意味を持つ場所であり、この中心に関する象徴現象を、中心のシンボリズムという。中心は、死と再生、始源への回帰と世界の再生が起こる特別の場所とされる。神とされたり、神の座とされたりする。時間を超えた永遠を象徴するものでもある。神道では、この中心を神格化し、天之御中主之命と尊称する。道教では、北極星が宇宙の中心と同定され、不動の中心であり、天帝の座ともされる。
 深層心理学者のカール・グスタフ・ユングは、精神病者が描く特徴的な図像が、世界の諸宗教に広く見られることを発見し、これをマンダラと呼んだ。マンダラとは、サンスクリットで円を意味する言葉である。ユングは、マンダラを自己の超越性と統合象徴ととらえた。マンダラの図像は、円に加えて、しばしば4または4の倍数を要素とする。3の要素がさらに加わるものもある。円と4または4の倍数は、安定・永遠を暗示し、これに加わる3は、躍動・変化を暗示する。それゆえ、最も総合的なマンダラは、円、4または4の倍数及び3が一個に組み合わさった図像である。
 私は、マンダラで最も重要なのは、その図像が強調する中心であると理解している。それゆえ、中心のシンボリズムとマンダラは、同じものを異なる仕方で表現したものと考えている。
 このような見方に立つと、キリスト教の十字架は、中心のシンボリズムとマンダラが重合した象徴の一類型である。十字架は、縦横二本の木の交わる点を強調する。その交差点が「聖なる中心」を示している。十字が示す四方は、円を伴わない変形されたマンダラである。福音書に描かれたイエスは十字架の上で死に、遺体は墓に納められ、その墓から消え、使徒や信者たちの前に復活した姿を見せたとされる。それゆえ、十字架の上で直接復活したのではない。だが、象徴化された十字架は、中心のシンボリズムとマンダラが重合することによって、イエスが処刑された刑罰の道具であるだけでなく、そこで死に復活する「聖なる中心」を示すものとなっているのである。歴史的事実と心理的イメージが重合したものと理解される。

 次回に続く。

いまこそ憲法を改正し、日本に平和と繁栄を1

2018-04-26 09:28:34 | 憲法
 憲法改正論議が高まっている。最大の焦点は、第9条である。私は、これまで憲法・国防等についてネット上に見解を書いたり、各地で講演を行うなどしてきた。この3月から4月にかけても、フェイスブック、ブログ等に私見を書く傍ら、静岡・札幌・東京での各種集会で講話をしてきた。
 本稿は、最近の動向を踏まえ、第9条の問題点、関連する基本概念、自衛隊の実態、改正論議の経過と現状、国民の課題について短期連載するものである。20回超を予定している。

1.第9条の問題点

 日本国憲法は、前文において、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と書いている。そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という決意のもとに、第9条に次のように定めている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 この条文に関して、戦争放棄とは侵略戦争についてのみなのか、自衛戦争まで含むのか。戦力不保持とは自衛のための戦力を含むのか、自衛隊は戦力に当たるのか、交戦権の否認は自衛戦争の場合も含むのか等について、憲法施行後70年以上もの間、議論が続いている。そして、現在,第9条の改正が憲法改正における最大の課題となっている。

(1)前文との関係

 第9条は、前文と深い関係がある。前文で注目すべきは、日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持することを決意した」と書いてあることである。「平和を愛する諸国民」というが、それは戦勝国のことであり、自分たちは平和を愛する国、日本は戦争を起こした悪い国として一方的に断罪して、日本の安全と生存を戦勝国に委ねさせるという内容となっている。そして、日本国民自身が戦勝国の「公正と信義に信頼して」、「安全と生存」をゆだねたかのように英文の憲法草案に記して押し付けたのである。こうした前文の文章との関係のもとに、第9条が定められている。

(2)戦争放棄

 9条1項は戦争放棄を規定する。戦争放棄条項は日本だけではなく、他の多数の国々の憲法にも存在する。例えば、イタリアやフランスの憲法がそうであり、ドイツ基本法もそうである。これらの規定は、1928年の不戦条約をもとにしたものである。不戦条約は現在も約60ヶ国が当事者国である。戦争放棄は日本独自のものではない。
 戦争には侵攻戦争と自衛戦争があり、9条1項で放棄したものが戦争一般であるのか、侵攻戦争のみであるのかという議論が生じる。国家にとって自衛権は自然権である。自衛権は主権の一部である。国際連合(連合国、the United Nations)は、国連憲章にて、国家の自然権として自衛権を認めている。もし9条1項が自衛権の発動としての戦争も放棄したとするならば、日本は主権の一部を放棄したに等しい。
 大東亜戦争で、日本は政府間の講和によって条件付き降伏を行った。連合国軍総司令部によって占領されたが、占領によって主権を一時的に停止されたのであって、主権を喪失したのではない。まして主権を放棄したのではない。占領下とはいえ、日本国は国家として存立しており、政府があり、国会があり、主権の発動として日本国憲法を制定したのである。
 それゆえ、私は日本国憲法の9条1項は侵攻戦争を放棄したものであって、自衛戦争までも放棄したものではないと考える。ただし、条文の主旨が不鮮明なので、放棄したのは侵攻戦争のみであることを明確にするための条文の改正を行うべきと考える。
 これに対し、9条1項で放棄したのは自衛戦争を含むすべての戦争だと解釈する立場もある。この解釈に立てば、日本は自衛権を否定したのであり、主権の一部を永久に放棄したことになる。また2項の戦力不保持・交戦権否認は、自衛権否定に基づいて、自衛のための戦力の保持と行使までを禁じたものとなる。左翼だけでなく、保守派の一部の学者にもこの解釈を取る者がいる。
 左翼勢力にはそれを良しとし、この状態を維持すべきという意見がある。占領下であれば、米国による占領を固定し永続化するような考え方である。また、日本は非武装主義を取るべきだとの意見もある。これは、国家の自己否定であり、旧ソ連や中国等の他国の侵攻・支配を許す極めて危険な思想である。一方、保守派には、9条1項を改正して侵攻戦争のみを蜂起したことを明確にすべきとの意見や、自衛隊は違憲ゆえ憲法を改正して合憲にすべきとの意見がある。

 次回に続く。

キリスト教38~信仰の目的、信条

2018-04-25 11:49:22 | 心と宗教
●目的

 キリスト教は、人間はイエス・キリストを通じてのみ神と結びつくことができるとし、イエスをキリストと信じ、それによって永遠の生命を得ることを、信仰の目的とする。

●悔い改め

 宗教において、信仰に入る行為は、それまでの生活を止め、新たな生活を始めることである。キリスト教では、この時に、悔い改めを求める。イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めよ」と説いた。悔い改めとは、神に対して罪を悔い、心を改めて霊的生活に蘇る誓いをすることである。ここには、人間は罪人であるという人間観がある。罪の自覚によって、滅びに向かっていたのとは正反対の方向に転換し、神に向かって歩み始める。そうすれば、罪の赦しは実現すると考えられている。

●内心と行動の区別

 ユダヤ教は、律法に従い、戒律を守るために、実践を重視する。キリスト教は、ユダヤ教の律法主義を批判し、内心で信じるだけで救われると説いた。
 この態度は、パウロによって確立された。内心と行動の区別によって、キリスト教徒は、内面において堅くイエス・キリストを信じていれば、外面はローマ帝国の市民として帝国の規律に従ってよいとした。
 ユダヤ教では、こういう考え方はあり得ない。心の中で神を信じるだけでなく、神の定めた律法に従い、戒律を守る行動を行うことが、必要である。だが、キリスト教は、ローマ帝国の法律に反するとの理由で大弾圧を被った。そこで生き延びるためにパウロが取ったのが、この内外の二分法である。心の中でイエスの教えを信じていれば、外面的にはそれに反する行動をとっても許されるということである。こうした考え方によって、キリスト教徒は信仰を失うことなく、外面的行動を変え、ローマ帝国で生き延びることができることができた。もし内心と行動を一致させなければならないとしたら、キリスト教は弾圧によって絶滅していただろう。

●信条
 
 ユダヤ教徒は、信仰告白を書いた羊皮紙を収めた革の小箱 (テフィリン)を、一つは左上腕に、もう一つは額に巻きつけて、神に祈りを捧げる。一日に朝、昼、晩の3度、祈祷をするのを原則とする。
 キリスト教の教義を要約したものを、信条という。信条は、ローマ帝国の皇帝が開催した公会議で裁定された教義である。代表的なものに、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条がある。ともにローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くで信奉されている。
 ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年に採択された。ローマ・カトリック教会で使用される訳文は、次の通りである。
 「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン」
 上記の文章で「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され」という部分は、もとは、父と子からではなく、父から出てとなっていた。それがローマ・カトリック教会では、父と子に修正された。古代キリスト教の伝統を守る東方正教会では、聖霊(聖神)は父からのみ出るとしている。
 カルケドン信条は、451年に採択された。ローマ・カトリック教会で使用される訳文は、次の通りである。
 「われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである。神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである」
 プロテスタントでは、信条に当たるものを信仰告白という。信仰告白とは、イエス・キリストに対する自己の信仰を明白に言い表すことである。その内容は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条をもとにする教派が多い。
 古代において異端とされ、ニカイア・コンスタンティノポリス信条ないしカルケドン信条とは異なる信条を持つ教派もある。また、自由意思を肯定するために異端とされた教派もある。これらについては、(2)教義の三位一体説の項目に書いたので、ここでは省略する。

 次回に続く。

宗教21~宗教の改革と進化が求められている

2018-04-23 09:36:12 | 心と宗教
 最終回

●宗教の改革と進化が求められている

 21世紀には、科学と宗教が融合する新しい時代が実現すると予想される。また、そうした時代の実現を加速するために、人類の精神的進化を追及するプロジェクトの推進が求められている。
 ここにおいて、既成の宗教には大きな改革が求められる。われわれの目を自然の世界に転じれば、そこでは様々な生命体が共存共栄の妙理を表している。人智の限界を知って、謙虚に地球上で人類が互いに調和し、また動植物とも共存共栄できる理法を探求することが、人類の進むべき道である。宗教にあっても科学・政治・経済・教育等にあっても、指導者はその道を見出し、その道に則るための努力に献身するのでなければならない。特にセム系一神教は、これまでの固い殻を破って脱皮しなければならない時期にある。また非セム系多神教には、それを促進すべき役割がある。そして、宗教における変化は、科学・政治・経済・教育等にも大きな変化を促すだろう。
 現代は科学が発達した時代である。従来の宗教では人々の心は満たされない。従来の宗教は、天動説の時代に現われた宗教である。今では、地球が太陽の周りを回っていることは、小学生でも知っている。パソコンやスマートフォンや宇宙ステーション等がないどころか、電気や電燈すらなかった時代の宗教では、到底、現代人の心を導けない。
 伝統的宗教の衰退は、宗教そのものの消滅を意味しない。むしろ既成観念の束縛から解放された人々は、より高い精神性・霊性を目指すようになり、従来の宗教を超えた宗教を求めるようになると考える。人々は古代的な宗教から抜け出て、精神的に成長し、さらに高い水準へと向上しようとしている。
 「近代化=合理化」が一定程度進み、個人の意識が発達し、世界や歴史や宇宙に関する知識が拡大したところで、なお合理化し得ない人間の心の深層から、新しい精神文化が興隆しつつある。新しい精神文化は、既成宗教を脱した霊性を発揮し、個人的(パーソナル)ではなく超個人的(トランスパーソナル)なものとなる。それに応じた政治・経済・社会への改革がされていくだろう。
 いまや科学が高度に発達した時代にふさわしい、科学的な裏付けのある宗教の出現が求められている。また、宗教には、人類が核戦争と地球環境破壊の危機を乗り超えるように精神的に導く力が期待されている。21世紀に現れるべき新しい宗教に求められる特長とは、次のようなものとなるだろう。

◆実証性 実証を以て人々の苦悩を救う救済力を有すること
◆合理性 現代科学の知見と矛盾しない合理性を有すること
◆総合性 政治・経済・医学・教育等のすべてに通じる総合性を有すること
◆調和性 人と人、人と自然が調和する物心調和・共存共栄の原理に基づくこと
◆創造性 人類普遍的な新しい精神文化を生み出す創造力を有すること

 これからは、こうした特長を持った新しい精神科学的な宗教を中心とした、新しい精神文化の興隆によって、近代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれるだろう。

結びに

 人類は、この地球において、真の神を再発見し、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する新しい精神文化の興隆が待望されているのである。(了)

キリスト教37~教会と国家の法

2018-04-21 09:21:43 | 心と宗教
●教会と国家の法

 ユダヤ教は、律法主義の宗教であり、律法は十戒を中心とし、そのもとに613の戒律が定められている。ユダヤ教社会ではこうした宗教的・道徳的規範を基に、法律が作られている。律法の注解書であるタルムードは、律法学者(ラビ)が書いたもので、その中に損害に関する法律なども定められている。
 キリスト教は、ユダヤ教の宗教的・民族的共同体から独立した信仰共同体ゆえ、ユダヤ教の法律から自由である。キリスト教が各地で広まると、キリスト教徒は、それぞれの社会の法律に従いながら、生活し伝道を行った。福音書には、それらの社会に共通するような法律は書かれていない。ローマ帝国で激しい迫害を受けると、帝国の国法に従って活動し、国教の地位を勝ち取った。その後もキリスト教がローマ帝国の法体系にとってかわる法体系を打ち出すことはなかった。逆に、ローマ・カトリック教会は、ローマ法の体系により運営された。教会に独自の教会法は、教会の組織と活動を規制する規範の体系であって、国家社会の法体系ではない。また教会法はローマ法を継受したものだった。
 ラテン語を公式言語とし、教会の伝統を基準とするカトリック教会が普遍志向であるのに対し、プロテスタントは特殊志向を示す。聖書を自国語に翻訳し、また各国各民族の特徴を重んじる。そうしたプロテスタントの教派を国教とする国やプロテスタント信者の多い国で、近代西欧法が発達した。
 ルター、カルヴァンは予定説に立ち、自分たちは腐敗堕落したカトリック教会と違って、神から救いに選ばれているという確信を持っていた。彼らは、そうした自分たちは神の御心に適う法律を作ることができると考えた。そえゆえ、近代西欧の新しい法律は、プロテスタントによって制定されることになったと考えられる。

●政治と宗教の関係

 古代から政治と宗教には深い関係がある。かつて氏族・部族の首長は、集団を統率する指導者であるとともに、祭祀を司る祭祀長だった。古代国家においても、多くの場合、国王は統治者であるとともに祭祀を主宰する祭祀王だった。そうした王を人間神と仰ぐ信仰も広く存在した。キリスト教が発生した時代のローマ帝国では、皇帝を神と仰ぐ皇帝崇拝が行われていた。キリスト教徒は皇帝崇拝を拒否するので、弾圧を受けた。だが、それに屈せずに教勢を拡大し、帝国の国教となった。皇帝と教皇が並立する体制での政教一致だった。
 ローマ帝国の東西分裂後も、ビザンチン帝国では、古代キリスト教の伝統を守る東方正教会のもとで、政教一致の伝統が続いた。聖と俗の区別もなかった。皇帝と総主教はそれぞれの立場で、キリスト教国家の発展に尽くすものとされていた。この体制は、ビザンツ・ハーモニーと呼ばれる。しかし、イスラーム教のオスマン帝国によってビザンチン帝国は滅亡し、東方正教会はイスラーム教の支配下に組み入れられた。
 一方、西ローマ帝国では、皇帝と教皇の間に権力と権限の争いが生じた。西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパでは、皇帝権に代わって国王権が主張され、教皇権と国王権の権力関係が長く続いた。近代社会に移行する過程で、教皇権から国王権が独立し、主権国家が形成された。しかし、その後も、国家と宗教がかなり深い関係を持つ国が、ほとんどである。
 フランスは伝統的にカトリック教会の力が強く、これへの反発として急進的な啓蒙主義による市民革命が起こった。20世紀に入ると、フランスは第5共和制憲法に自国を「非宗教的」な共和国であると規定し、政教分離法(1905年)により厳格な政教分離をとった。だが、第1次大戦後に、共和国政府はカトリック教会と和解し、宗教協約(コンコルダート)を結んで、政教の友好的な協調分離に変わっている。
 アメリカは、英国国教会を国教とするイギリスから独立した国家である。独立当時のアメリカ社会には、多くのプロテスタント教派が並立しており、国教会系の教派も存在した。そうした宗教的事情を考慮し、米国は、政教を緩やかな分離とする限定分離をとっている。国家行事では、しばしばユダヤ=キリスト教の儀式が行われる。大統領の宣誓においては、大統領が聖職者の介添えを得て、聖書に左手を載せて宣誓する。どの教会(Church)の聖職者を採用するかは大統領の選択によるが、宣誓において宗教(Religion)は不可欠の要素となっている。また、アーリントン国立墓地には、「無名戦士の墓」があり、その前で年3回、大統領が参加して、ユダヤ=キリスト教式の戦没者追悼式を行う。このようにアメリカでは、国家(state)と宗教(religion)は不可分の関係を持つ。ただし、特定の教会(church)つまりキリスト教の特定の教派とは関係を持たないようにし、複数の教派の教会(churches)と緩やかな関係をもつ形を取っている。
 一般に政教分離の代表的な国は、フランスとアメリカとされるが、それら2国においても、政教の対立的な分離とはなっていない。むしろヨーロッパの多くの国では、国家と宗教(religion)の関係はもちろんのこと、国家と特定の教派がかなり深い関係を持っている。近代デモクラシーの発祥の国、イギリスでは、イングランドは英国国教会、スコットランドは長老派教会を国教と定め、そのうえで他の宗教に寛容な態度を示している。デンマーク・フィンランドはルター派教会を国教としている。他にも似たような例がある。憲法で国教制は禁じながら、特定の教会には特権を付与して国が保護するという宗教公認制度を取っている国もある。ドイツ、イタリア、スペインなどがそうである。いずれもカトリック教会と宗教協約を結び、国家と教会が分離・独立した上で友好的な協力関係を維持している。
 そのうえ、キリスト教の宗教政党が自由に政治活動を行っている。今日、ドイツには、新旧両キリスト教諸派を基盤としたキリスト教民主同盟(CDU)がある。イタリアには、カトリック政党であるキリスト教民主党(PDC)がある。こうした宗教政党が国家権力を担うことは、これらの国では憲法上問題がない。実際、CDUもPDCも長く政権政党として活躍してきた。
 ここでわが国について書いておくと、わが国は大東亜戦争の敗戦後、占領期間中において連合国軍総司令部(GHQ)が発した神道司令により、国家と神道の関係を断ち切られた。また英文で秘密裏に起草した憲法を押し付けられ、第20条に政教分離を定めている。この条文は、条文の冒頭に明らかなように、信教の自由の保障を目的とする制度である。その手段として、国家と宗教団体との過度の関わりを排するものである。現行憲法に定める政教分離とは、国家と宗教の分離ではない。つまり、国家と宗教を厳密に分離して国家が宗教と一切の関係を持たないということを定めているのではない。国家が特定の宗教団体に対して援助・助長、又は圧迫してはならないということを定めたものである。この点は、日本国憲法の制定にあたったGHQの当事者が、政教分離規定は国家と宗教の分離(Separation between State and Religion)ではなく、国家と宗教団体の分離(Separation between Church and State)であると明言している。また、ここにいう国家とはStateつまり政府であり、Nationつまり共同体としての国民国家ではない。つまり、現行憲法の規定の趣旨は、政府(State)と宗教団体(Church)の分離であって、国民国家(Nation)と宗教(Religion)の分離ではない。
 現に第20条1項は、宗教団体について、国から特権を受けたり、政治上の権力を行使したりしてはならないとしている。また第89条も、宗教団体への助成禁止条項である。つまり、日本国憲法は、政府と宗教団体の分離を謳っているのであって、条文を素直に読めば、国家から宗教を完全に排除するという発想は出てこない。
 ところが、憲法学者の宮沢俊義は、厳格な政教分離説を説き、わが国の憲法解釈に多大な影響を与えてきた。宮沢の著書『日本国憲法「コメンタール」』は、政教分離についてフランスをモデルにしている。憲法学界には、宮沢の学統が強い影響力を持ち、厳格な政教分離説を説く学者が多い。そのため、極端な解釈が横行している。欧米のキリスト教国の実態に照らすならば、明らかに間違った学説である。

 次回に続く。

宗教20~「心のアポロ計画」を推進する

2018-04-20 12:13:55 | 心と宗教
●「心のアポロ計画」を推進する

 大脳生理学者・カール・プリブラムは、次のように語っている。
 「従来の科学は、宗教で扱う人類の精神的側面とは相容れないものだった。いま、これが大きく変わろうとしている。21世紀は科学と宗教が一つとして研究されるだろう。このことはあらゆる面でわれわれの生き方に重大な影響を及ぼすだろう」(プリブラム他著『科学と意識』)
 科学と宗教が一つのものとして研究され、それが私たちの生活に大きな影響をもたらすーーこうしたことを唱えているのは、カプラやプリブラムだけに止まらない。物理学や生物学や認知科学など、さまざまな分野の科学者が、科学と宗教の一致を語っている。
 われわれは、科学と宗教が分離し対立した近代を経て、改めて科学と宗教がより高い次元で融合すべき新しい段階に入っているのである。
 ここにおいて、再評価されつつあるのが、宗教の存在と役割である。カプラは、次のように書いている。「われわれが豊かな人間性を回復するには、われわれが宇宙と、そして生ける自然のすべてと結びついているという体験を回復しなければならない。宗教(religion)の語源であるラテン語のreligareはこの再結合を意味しており、それはまさに精神性の本質であるように見える」と。(『ターニング・ポイント』)
 まさしく、われわれは、科学の時代から精神の時代、物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換期にある。この時代の方向指示者の一人として、数理科学者のピーター・ラッセルは、「心のアポロ計画」という注目すべき提案をしている。ラッセルは、名著『ホワイトホール・イン・タイム』(1992年)で、次のように言う。
 「今日、人類はまっさかさまに破局へ突っ込んでいく事態に直面している。もし本当に生き残りたかったら、そして私たちの子供や、子供の子供たちに生き残ってほしかったら、意識を向上させる仕事に、心を注ぐことこそが最も大切なことである。破壊的な自己中心主義から人類を解き放つための全世界的な努力だけが必要である。つまり、人類を導くための地球規模のプログラム、”心のアポロ計画”が要求されているのである」
 アポロ計画とは、1960年代に宇宙時代を切り拓いた米国の宇宙開発計画である。それは、物質科学文明のピークを歴史に刻んだ。人類が月に着陸し、月面から撮った宇宙空間に浮かぶ地球の写真は、人々に地球意識を呼び起した。これに比し、「心のアポロ計画」は、この宇宙時代にふさわしい精神的進化を追及するプロジェクトである。
 このプロジェクトでは、心理的な成熟や内面の覚醒を促す技術の研究開発に焦点が当てられる。そこに含まれるテーマは、次のようなものである。

◆神経科学と心理学に焦点を当て、心の本質を理解する。
◆自己中心主義の根拠をもっと深く研究する。
◆霊性開発のための現在ある方法を全世界的に調査する。
◆新しい方法を探すとともに、現在ある方法の協同化を進め、発見されたものの応用と普及を図る

 提唱者ラッセルによると、この計画に巨額な資金は必要としない。
 「毎年全世界が“防衛”に費やしている1兆ドルの1パーセント足らずで、すべてがうまくいくはずである」と、ラッセルは言っている。
 私は、1990年代半ばからこの「心のアポロ計画」に賛同してきた者である。世界の有識者は、早急にこの精神科学発達プログラムを促進すべきである。だが、ラッセルが「心のアポロ計画」を提唱してから、既に25年以上経っているが、世界規模での具体的な取り組みはされていない。国連等の国際機関で、すみやかにその取り組みを開始すべきである。
 科学とは、体系的で、経験的に実証可能な知識を言う。科学には、自然を対象とする自然科学と、社会を対象とする社会科学がある。私は、これらに加えて、今後、精神を対象とする精神科学が発達しなければならないと考える。これまで精神に関する学問には、心理学、精神医学、脳科学、認知科学等があるが、これらを総合し、さらに発展させる必要がある。私は、その発達を促すべきものが、超心理学、トランスパーソナル学であると考える。また、体系的で、経験的に実証可能な知識を科学と言うならば、宗教は精神に関する科学の中心に置かれるべきものと考える。ただし、既存の宗教は、非科学的な要素が多く、今後、精神科学へと発展し得る可能性を秘めた段階にとどまっている。われわれは、今日、この21世紀において、既存の宗教を超えて新しい精神科学を発達させるべき地点に立っている。

 次回に続く。