ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心129~東条英機と対決・退陣へ:岡田啓介

2022-06-18 08:21:48 | 移民
 戦前、陸軍では、軍の独断専横を抑えようと、宇垣一成が孤軍奮闘しました。一方、海軍では、陸軍の無謀な作戦、危険な政策に対し、岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らが断固反対しました。彼らのもとにも、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の建白書は、送り続けられました。
 そのうち海軍大将岡田啓介は、東条英機と対決し、東条を退陣に追い込んで、戦争終結に力を尽くしました。
 昭和3年(1928)6月、関東軍は張作霖爆殺事件を起こしました。当時岡田は、田中義一内閣の海軍大臣でした。陸軍は山海関に一個師団を上陸させる作戦を提起。政府閣議がこれを了承しようとした時、岡田は断固反対しました。「北京、天津地方への駐兵については国際間の取決めがある。そんなことをすれば英米との戦争になる」と。岡田は、陸軍の満州簒奪計画を見抜いていたのです。閣議の前日に、陸軍の案を聞いた軍令部第3班長の米内光政が、鈴木貫太郎軍令部長に報告し、そこから岡田に連絡があったのです。岡田の反対によって、陸軍の計画は阻止されました。しかし、この結果、岡田、鈴木、米内は陸軍の目の敵とされることになりました。
 昭和9年(1934)、岡田は首相になりました。彼の在任中に、2・26事件が起こりました。昭和11年(1936)の2月26日、青年将校を中心とする反乱軍が首相官邸等を襲撃。多くの政府要人を殺傷しました。この時、岡田は官邸に居ました。しかし、反乱軍は岡田の義弟の松尾伝蔵を、岡田と間違えて射殺したのです。九死に一生を得た岡田は、事件後、重臣(首相経験者)の一人として、陸軍の暴走を抑えようと努めました。岡田は、日独伊三国軍事同盟に反対し、対米開戦回避のために奮闘しました。岡田と意見を同じくする米内・山本・井上も同様でした。しかし、次第に海軍にも陸軍に同調する者が多くなり、開戦を阻止することは出来ませんでした。
 対米戦争を始めた東条英機は、厳しい言論統制を敷き、憲兵政治とも呼ばれる独裁態勢を作り上げました。その強引なやり方への反発は、昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北後、徐々に高まっていきました。岡田は、東条政権打倒を志しましたが、最初は孤軍奮闘という感じでした。岡田は、当時企画院課長だった女婿の迫水久常を使って、若槻礼次郎、近衛文麿、米内光政、平沼騏一郎、広田弘毅らの重臣に対して、粘り強く東条打倒を働きかけました。しかし、運動は遅々として進みません。岡田に同調し、独自に東条打倒工作をしていた中野正剛も、東条の弾圧を受け18年10月自決に追い込まれました。
 昭和19年(1944)6月、マリアナ諸島陥落。これをきっかけに、反東条の包囲網が急速に形成されました。すると東条は、この動きをキャッチし、岡田を首相官邸に呼び出しました。岡田は、いよいよ対決の時が来たと、東条の下に出向きました。その時のことを、岡田は次のように語っています。
 「東条はどこまでもわたしの動きを難じ、『おつつしみにならないと、お困りになるような結果を見ますよ』と、暗にわたしをおどかした。そこでわたしは、『それは意見の相違である。わたしはわたしの考えを捨てない』と言い切った」
 さしもの東条も、断固たる意志の重臣・岡田啓介を抑えることはできませんでした。延命を図る東条は、重臣を入閣させて内閣を改造しようと試みました。内閣改造のためには、大臣を誰かやめさせて空席を作らねばなりません。当時の大臣は、天皇の親任であったので、総理大臣といえども、各省大臣をやめさせることはできません。そこで、東条は岸信介商工大臣(戦後首相)に辞表を出させようとしました。しかし、岡田は迫水に指示して、岸に辞表を出すなと連絡しました。岸は辞表を出しませんでした。そのため、東条は内閣改造ができなくなりました。ここに到って、重臣たちは、改造ではなく新しい内閣を作る必要があると、天皇に上奏することにしました。
 この上奏案が東条のもとに伝えられると、追い込まれた東条は退陣の決意を固めました。昭和19年7月18日、2年10ヶ月存続した東条内閣は遂に総辞職するにいたったのです。
 後継首相は、東条政治の継承者・小磯国昭陸軍大将でした。勝ち目のない戦争がいたずらに続けられるばかりです。岡田は、なんとかして戦争を早期に終結させようと努力を続けました。そして、同志・鈴木貫太郎を説得し、首相に推したのです。昭和天皇も、戦争終結の難事をやり遂げられるのは鈴木しかいないと考えていました。昭和20年(1945)4月、鈴木内閣が成立すると、岡田は迫水を書記官長に送り出し、閣外から首相の鈴木、海相の米内を支え、終戦に向けて陰で尽力しました。そのかいあって、ようやく8月15日、わが国はこの大戦の終結にこぎつけたのです。
 東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介。その波乱に富んだ一生は、昭和27年(1952)10月10日に幕を閉じました。享年85歳。彼が自らの生涯を語った『岡田啓介回顧録』は、貴重な時代の証言となっています。

参考資料
・岡田啓介著『岡田啓介回顧録』(中公文庫)
・上坂紀夫著『宰相岡田啓介の生涯』(東京新聞出版局)

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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日本の心126~日本精神は偏狭にあらず:安岡正篤

2022-06-12 07:59:29 | 移民
 明治末に現れた「日本精神」という言葉は、大正期から積極的に用いられ、昭和戦前期には広く国民的に使われました。
 大正期から「日本精神」を論じていた人物の一人に、安岡正篤(まさひろ)がいます。安岡は東洋思想に造詣が深く、戦前から国家指導層に指導者の在り方を教え、戦後は「歴代総理の指南役」と呼ばれました。
 明治31年(1898)生まれの安岡は、青春時代に、明治以来の日本主義に触れました。東京帝国大学1年の時に、三宅雪嶺、志賀重昂らが創刊した雑誌『日本および日本人』に寄稿し、まれに見る俊才として注目を浴びました。
 安岡は、大正10年に皇居内に設立された社会教育研究所に入り、大川周明らとともに、教師や政治家・軍人・官僚などに教育を行いました。昭和の元老・牧野伸顕は、はるか年下の安岡を「老師」と呼んで、その学識の深さに敬意を示したほどです。
 大川や安岡は、社会教育において、「日本精神」という言葉を積極的に用いました。安岡は社会教育研究所で書いた論文を集め、大正13年に『日本精神の研究』を刊行しました。当時の日本精神論としては、大川の『日本精神研究』(昭和2年刊)と双璧をなす名著です。本書で安岡は、自覚・人格・悟道、学問と政治行動、武士道などを論じ、熊沢蕃山、大塩中斎、宮本武蔵、副島種臣、高橋泥舟らの人物論を披露しています。文武両道の安岡は剣道を得意としており、武士を論じた文章には、その修行で得たものが反映されています。
 昭和に入ると、わが国ではテロやクーデター事件が続発しました。大川周明は、そうした事件にかかわり、5・15事件に連座しました。しかし、安岡の考えは違いました。5・15事件の直後、安岡は『青年同志に告ぐ』と題する一文を著しました。その中で彼は言います。
 「革命と称し、維新と称し、救国済民に名を仮て乱を好み、乱を煽り、乱に乗じて、その私欲を恣(ほしいまま)にせんとする志士、運動家が如何に多いことでありましょう。(略)一身の病すら凡医の容易に治療するところではありません。天下の病を救うには、それこそ余程の仁愛と細心の智慮と、定策決機の勇断とを内に養い、外はかかる真乎の同志を要するのであります。(略)私の素志はむしろ、張横渠の所謂『天下の為に心を立て生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く』の徒たらんとするに存するのであります」と。
 こうして安岡は、テロやクーデターをめざす運動家たちと、たもとを分かちます。そして、幅広い教育、啓蒙活動によって「人間教化」を推進するという、独自の路線に進みました。
 昭和6年に満州事変が勃発し、7年に満州国が建設されると、国際社会でわが国への風当たりが強くなりました。これに対し、わが国は翌8年、国際連盟を脱退するという、危険な国際的孤立化の道を進みました。それとともに、国内では「日本精神」を標榜する書物が多く現れるようになりました。これはわが国の伝統や文化を再評価する動きではあったのですが、国内事情・国際情勢を反映して、排外主義的な主張が目立ってきました。
 昭和11年、2・26事件が勃発しました。これを機に、軍部や右翼の独善的・偏狭的な傾向が一層、強まりました。この年、安岡は『日本精神通義』を刊行します。
 安岡は、本書で本来の日本精神は狭量なものではないことを説き、日本精神は異民族・異文化を受け入れながら発達してきたことを明らかにしています。
 「日本の国土からして非常に紫外線の強い、地熱の高い、ラジューム放射能などの強いところである。それだから杉、檜などが発生し、よい酒ができ、また良い刀ができるのです。植物の数、禽獣草木の数、実に豊富である。これくらい豊富なところは世界にない。そのうえ、国民精神も儒きたらば儒、仏きたらば仏、キリストきたらばキリスト教、その他何でも、一切自由に謙虚にこれを受けて、そして、これを実に健やかに咀嚼し消化し吸収し、しかして排泄するのである。これこそ偉大なる日本精神です。
 その最も高貴な顕現を皇道に見るのであります。ところが古来、日本に困ったことは、国学者は漢学者を排斥し、キリスト教はまた神道を排斥し、というふうに始終排斥し合っている。特に異民族の文化に反感を持つ、いわゆる日本主義者、日本精神論者が(今日なお未だありがちだが)何ぞといえば相排斥することをもって能事としている。非常によろしくないことであります。それでは日本精神は発達しない」
 そして、次のように警告しました。「今日憂うべきことの一つの大事は、心なき人々が、妄りに日本主義、王道、皇道を振り回して、他国に驕ることであります。これは決して日本精神、皇道を世界に光被するゆえんでない。そもそも言挙げをするということが、イデオロギー闘争をやるということが、日本国民性に対してあまり合わない。それよりも不言実行の士、謙虚、求道の風を帯びるということが日本人の欲するところであり、しかして、これ実に人類の欲するところです」と。
 しかし、こうした本来の日本精神の良さが見失われ、独善的で偏狭な考え方が、わが国を覆うようになりました。多くの政治家や軍人は、ナチスやファッショの影響を受け、無謀な戦争に突き進んでいきました。彼らは、日本精神を失って、独伊のファシズムを模倣したのです。昭和10年代から戦争中に唱えられた日本精神論は、本来の日本精神とはかけ離れたものです。
 大東亜戦争の開戦によって、安岡の憂いは深まりました。そして昭和18年1月には、読売新聞に『山鹿流政治』を掲載しました。これは為政者の心構えを説き、東条英機を暗に批判するものでした。軍部が専横を極めた時代に、排外的・独善的な風潮に物申すことは、勇気のいることでした。しかし、言論統制が厳しくなり、安岡には、もうそれ以上のことはできませんでした。地道に人材育成を続けるばかりです。
 大東亜戦争は敗北に終わりました。この時、安岡は重要なことに関わります。昭和天皇の「終戦の詔勅」を作成するにあたり、内閣書記局長・迫水久常が、安岡に原稿の校正を依頼したからです。詔勅にある「万世ノ為ニ太平ヲ開カントス」という文言は、安岡の朱筆によるものといわれます。
 戦後、首相となった吉田茂は、かつて安岡を「老師」と呼んだ牧野伸顕の女婿でした。その関係で吉田もまた、安岡を師と仰ぎました。「吉田学校の優等生」といわれた池田勇人、佐藤栄作を始め、岸信介、福田赳夫、大平正芳といった歴代総理も、安岡の薫陶を受けました。彼らのような保守本流ではなかった中曽根康弘は、自ら安岡に教えを乞いました。作家の三島由紀夫もまた安岡に啓発されています。その他、安岡の指導を受けた経営者や官僚は多く、その名声は今日も衰えません。
 「平成」の元号は、安岡の提案によると伝えられます。
 安岡正篤は、深い学識と活眼をもった学者・教育家でした。明治の日本主義を継承して日本精神を研究し、政・官・財の指導層に影響を与えた一代の碩学(せきがく)が、戦前から日本精神とは偏狭なものではないと説いていたことは、傾聴に値するでしょう。
しかし、安岡の日本精神論は、なお限界があります。日本精神の真髄を極め、自ら体得した境地とは、隔たりがあるからです。
 本当の日本精神を学びたいと願う人々には、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一先生の教えに触れることを、強くお勧めします。大塚総裁の教えを知ることによって、初めてこれまでのあらゆる日本精神論を超えた、真の日本精神・神の道を学ぶことができるからです。

参考資料
・塩田潮著『安岡正篤』(文春文庫)
・安岡正篤著『日本精神の研究』(絶版)
・安岡正篤著『日本精神通義』(MOKU出版)

 次回に続く。

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「日本の心」シリーズの通史篇をアップ

2022-04-12 07:59:34 | 移民
 ブログとMIXIに連載中の「日本の心」シリーズの通史篇をつくって、マイサイトに揚げました。現在連載中のものより、通史的な構成を整えたものです。まとめてお読みになりたい方は、下記へどうぞ。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind12.htm

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「この50年」をアップ

2022-04-10 07:44:07 | 移民
 ブログに連載した拙稿「この50年に新たに現れた諸問題(1972年~2022年)」の全文は、マイサイトに掲載してありますので、ご案内します。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-22.htm

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日本の心83~女性たちへのメッセージ:吉田松陰4

2022-03-21 08:58:34 | 移民
 吉田松陰は、妹・千代に女性としての生き方を、手紙で書き残しています。
 松陰は、ペリーの黒船に乗って海外渡航することを企てて失敗し、その罪によって獄中につながれます。松陰は、同囚の富永有隣と、曹大家(そうたいこ)の『女誡』を訳した時に次のような言葉を記しています。
 「節母烈婦あり、然りて後孝子忠臣あり、楠、菊池、結城、瓜生諸氏においてこれを見る」。すなわち、優れた人物は、母親・女性として立派な人の影響の下に、現れているということです。
 松陰の母・滝子は、明るい性格で、家を支え、貧乏でも毎日風呂を炊いて子供たちの心がのびやかになるように努めました。滝子の母親としての愛情や智恵が、松陰という偉人を育てたのでしょう。
 松陰は、そうした母の下に育ち、自分の妹・千代に対して、女性としての生き方を書き教えたのでした。千代は、松陰の4人の妹のうちで、一番上でした。千代は長州藩士・児玉祐之に嫁ぎました。安政元年12月、野山の獄中にあった松陰は、千代に手紙を書き送ります。その手紙から、現代の私たちにも通じる点を、以下に記します。
 まず、総論ともいうべきものとして、次のように書かれています。

 「凡(およ)そ人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大てい父母のをしえに依る事なり」。つまり、子供の人格形成には、父母の教育が大切だということです。
 「男子は多くは父の教えを受け、女子は多くは母のをしえを受くること」。男子は父性の、女子は母性の教育が重要だと言っています。
 「十歳巳下(いか)の小児の事なれば、言語にてさとすべきにもあらず、只だ正しきを以てかんずるの外あるべからず」。幼い子供は、言葉でさとしてもまだわからないので、親が自らの態度で示して教えようということでしょう。子供は親の背中を見て育つ。
 「昔聖人の作法には胎教と申す事あり。子胎内にやどれば、母は言語立ち居より給(たべ)ものなどに至るまで萬事心を用い、正しからぬ事なき様にすれば、生るる子なりすがたただしく、きりよう人に勝るとなり」。胎教というのは、最近の流行のようですが、東洋の儒教は、古代から胎教の大切さを説き、具体的な実行法を教えていました。松陰も妊娠期間中の母親のあり方を説いています。

 さて、次は、妻としてのあり方についてです。「元祖巳下代々の先祖を敬ふべし」。先祖を敬いなさい、ということです。このことに関し、松陰は、以下のように書いています。「婦人は己が生まれたる家を出て、人の家にゆきたる身なり。(略)ややもすればゆきたる家の先祖の大切なる事は思い付かぬ事もあらん、能々心得べし」。つまり自分の実家の先祖だけでなく、嫁いだ家の先祖を大切にしなさいと説いています。

 「神明を崇め尊ぶべし」。神を敬いなさい、ということです。「神と申すものは正直なる事を好み、又清浄なる事を好み給ふ。夫(そ)れ故神を拝むには先づ己が心を正直にし、又己が体を清浄にして、外に何の心もなくただ謹み拝むべし。是(こ)れを誠の神信心と申すなり。その信心が積もりゆけば二六時中己が心が正直にて体が清浄になる。是れを徳と申すなり」。正直・清浄とは、日本人の心の理想ともいえるものです。
 「親族を睦じくすること大切なり」。親戚と仲良く、親族が調和するように努めなさい、ということです。

 この手紙を書いた時、松陰は25歳。兄としての愛情と、教育者としての誠意に心打たれます。千代は松陰の手紙を一生繰り返して読み、松陰の教訓に従い、子供の教育に努めたといいます。
 わが国には、かつて立派な人物が多数現れました。そうした人物が出現した土壌には、家庭にあって強くやさしく子供を育てる母性の力があったことを思い返したいものです。

参考資料
・『日本の思想 19 吉田松陰集』(筑摩書房)

 次回に続く。

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日本の心68~上杉鷹山の師:細井平洲

2022-02-17 09:00:41 | 移民
 上杉鷹山は江戸時代に、逼迫した財政危機を克服した名君として知られています。この鷹山には、細井平洲という師がありました。鷹山の治世は、平洲の教えを忠実に実行したものであり、平洲なくして鷹山は考えられません。
 細井平洲は、江戸時代最高の学者の一人です。その教えは、鷹山のみならず、吉田松陰・西郷隆盛・二宮尊徳等にも多大な影響を与えました。
 平洲は、享保13年(1728)に尾張国平島村(現在の愛知県東海市荒尾町)で生まれました。京都・長崎で学問を修め、24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という塾を開きました。その名声は全国に伝わり、西条藩(愛媛県)・人吉藩(熊本県)・米沢藩(山形県)等に迎えられました。53歳の時には、御三家の筆頭・尾張藩(愛知県)に招かれ、藩校・明倫堂の督学(学長)にまでなっています。
 これほど偉い学者でありながら、机上の理論ではなく、現実に即した実学を重んじるところに、平洲の特徴があります。また、平洲が教えたのは、武士だけではありません。町民や農民にもわかりやすく学問を広めました。平洲が村々を巡って講話をすると、何千人もの聴衆が集って話を聞いたといいます。封建時代にありながら、生まれや身分・性別に関わりなく、誰にでも道を説いた平洲は、まことに仁愛深い人でありました。
 米沢藩主・上杉鷹山との出会いは、平洲の名を不朽のものとしました。その時、平洲は37歳、鷹山は14歳でした。
 平洲は、鷹山に君主のあるべき姿を教えたのです。「君主というものは、人の父として、母として、常に自分の藩の人々のことを考え、人々の暮らしと心を豊かにしていかねばなりません。米沢藩を立派な藩に立て直すためには、まず、あなたご自身が、手本を示さなくてはなりません。そして、藩の改革をするために優れた人物を育てることが大切です」と。
 平洲に学んだ鷹山は、わずか17歳で米沢藩主となりました。そして崩壊寸前の藩を再建するため、改革に全力を尽くしました。鷹山は、平洲の教えを実行し、藩を挙げての努力が行なわれました。その結果、米沢藩の財政は立て直され、他藩の手本となるほどになってゆきました。
 平洲が江戸から、はるばる米沢を訪ねたのは、そのころです。鷹山は、久しぶりに恩師に会えると思うと、居ても立ってもいられません。城を出て、10キロほどもある普門院という寺まで、出迎えました。藩主が自ら出迎えるなど、異例のことです。
 鷹山は「先生、お元気でしたか」と、思わず駆け寄り、涙が流れ落ちました。「ようこそいらっしゃいました。先生、どうぞこちらへ、ご案内しましょう」。鷹山は、13年ぶりに再会した平洲に深く礼をし、心からの尊敬と感謝を表しました。師弟の心は、年月が過ぎても変わることなく、深く結ばれていたのです。
 今でも、米沢の普門院のある関根という場所は、先生を敬うことの尊さを教えた「敬師の里」として、知られています。
 平洲は、また出身地の愛知県東海市でも大変尊敬されています。東海市は、平洲没後200年となった西暦2000年、平洲の偉大な業績から「21世紀の人づくり、心そだて」のヒントを探ろうと、「平洲サミット」・「平洲賞(エッセイコンテスト)」・「嚶鳴シンポジウム」等を展開しました。郷土の偉人を称え、また青少年にも教育している同市の姿勢もまた、素晴らしいものです。

参考資料
(1)童門冬二著『上杉鷹山と細井平洲』(PHP文庫)
(2)平洲記念館のホームページ
http://www.city.tokai.aichi.jp/heishu-kinenkan/

 次回に続く。

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皇位継承20~悠仁親王殿下における帝王学の課題

2021-12-02 09:41:24 | 移民
●悠仁親王殿下における帝王学の課題

 悠仁親王殿下は、令和3年(2021年)12月現在で15歳である。少年期から帝王学を学ぶには、スタートは早い方が良い。しかし、既に高校進学の時期になっている。現在まで、悠仁様は、今上天皇陛下から帝王学を学ぶ機会がない。
 父である秋篠宮皇嗣殿下は、54歳で立皇嗣の礼を行われた。この儀式は、皇位継承順位第1位となったことを国内外に宣言するものである。天皇の直系男子が皇位継承順位第1位となる場合は「皇太子」となるが、秋篠宮文仁殿下は天皇の弟であるので「皇嗣」となった。しかし、秋篠宮皇嗣殿下は、今上天皇陛下と異なり、皇太子のための帝王教育を受けて来ておられない。また、54歳から皇嗣のための帝王教育を受けるのでは、少年時代から受けるのとは大きな違いがあるだろう。それゆえ、ご自分が悠仁様に帝王教育を行うのは困難だろう。また、仮に兄である今上天皇陛下が80歳代まで務められるとすれば、皇嗣殿下が後継されるのは70歳代から80歳代になる。その年齢になってから、天皇として悠仁様に直接教育を行うのでは、十分な教育は出来ないだろう。悠仁親王殿下が今上天皇陛下から帝王学を学ぶ環境を作る必要がある。そのための最善の方法は、天皇家の養子に入られることである。
 また、将来の皇太子として、歴代の皇太子が受けたように、天皇や皇族に仕える者や優れた学者・有識者から個人教授を受けて、幅広く知識・教養を培っていく必要がある。
 また、学校教育を見直す必要もある。皇族の子弟は伝統的に由緒ある学習院に学んだ。秋篠宮皇嗣殿下も同様であり、同妃殿下とは学習院大学で出会って結婚された。だが、悠仁様は、ご両親の秋篠宮ご夫妻の強い意志によって、学習院ではなく、お茶の水女子大付属幼稚園に入られた。その後は同小学校・中学校に進まれた。皇族で初めてのケースである。お茶の水女子大の付属機関は、自主性を重んじる「自主自律」が校風である。明治天皇が皇族・華族の教育機関として設立された学習院とは、基本的な教育方針が異なる。秋篠宮ご夫妻は、悠仁様を将来、皇室の重要な役割を担うべき人材として育てる意志をしっかり持っておられるのか、強く疑われるところである。
 秋篠宮家の長女・小室眞子氏は幼稚園から高校までは学習院だったが、大学は国際基督教大学(ICU)に進学された。一般の私立大学ということで国民の間に強い心配の声が上がったが、眞子氏はその国際基督教大学で小室圭氏と出会い、今日の破滅的なご結婚の問題が生じた。次女の佳子様は、学習院で大学まで進まれたが中退して、姉と同じICUに入学された。悠仁様は、学習院とは一切、関係を持たれたことがない。秋篠宮家には、よほど学習院に対して悪い評価・感情があるのだろう。学習院の側に相当の問題があるに違いないが、注意すべきは、天皇家の愛子様は、一貫して学習院に学ばれ、大学も学習院大学に進学されていることである。もし学習院の方の問題が甚大なものであれば、愛子様はこのように進んでこられなかっただろう。それゆえ、私は、秋篠宮ご夫妻の学習院に対する考え方が決定的な要因と考える。
 悠仁様がお茶の水女子大付属小学校の6年生だった時、週刊新潮 2019.1.3-10号は、次のように伝えた。

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 「学校での生活はともかく、ご自宅にお招きするような、個人的に親しくされているご学友が見当たりません。これは同級の親御さんが“お怪我でもさせたら”と案じ、自身の子供を近づかせないようにしているといった事情もあるのですが、庁内(註 宮内庁)では『学習院を選んでいれば、こんなことはなかったのに』といった落胆の声がしきりに聞かれます」(註 秋篠宮家の事情に通じる人物)
 皇族をお迎えする知見に長けている学習院には、ご学友たるに相応しい家柄の子息も多いのだが、お子さま方の自主性を重んじてこられた秋篠宮さまが、「最終的にはお茶の水の『自主自律』という校風を気に入られ、悠仁さまのご入学に至ったわけです。ところが、眞子さまの結婚問題でも露呈してしまった通り、そうした自主性重視の方針は、必ずしも皇室には馴染まないのではないか。そんな見方が、現在は大勢を占めているのです」(同)
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 次回に続く。

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外国人の就労を無期限かつ全分野に~日本の自滅が始まる

2021-11-21 10:15:17 | 移民
 岸田内閣が外国人の就労を無期限とし、かつ全分野に広げようとしています。これは、事実上の外国人移民受け入れ拡大政策です。
 日本を再建するための憲法改正が未だ実現せず、皇位の男系継承の方策も固まらず、帰化した国会議員の国籍履歴の公開も制度化されず、スパイ防止法も制定されていない状態で、移民の拡大をするのは、日本の自滅行為です。わが国より国家体制がしっかりしている欧州諸国ですら、移民を多数入れたことで混迷に陥っています。わが国に入って来る外国人の多くは、共産国で世界最大の人口を持つ中国から来ます。中国人移民の背後には、彼らを管理し、彼らに指示・命令をする中国共産党があります。
 財界を中心に経済的利益を優先して移民拡大を行うならば、政治と社会に混乱を招き、文化と精神が破壊されていきます。行き着く先は、日本が中国に併呑されることになるでしょう。

●産経新聞の記事より 2021.11.20

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 政府は18日、人手不足が深刻化する14業種で定める外国人労働者の在留資格「特定技能」のうち熟練者について、事実上、在留期限を撤廃する方針を固めた。
 これにより、農業、製造業、サービスなど幅広い分野で、永住権を取得できる外国人就労者の範囲が拡大される。政府は来年度中にも制度見直しの閣議決定を行う方向で調整する。
 これまで長期就労が可能だったのは「建設」と「造船・舶用工業」の2分野。介護士資格の取得を前提に、別の長期就労制度で運用されている「介護」を含め、特定技能全14業種で長期就労が可能となる。2019年に新資格の特定技能を導入して以来の政策転換となる。
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●ジャーナリスト・門田隆将氏のツイート

 「外国人在留資格の“特定技能”が事実上、無期限に。日経は“長期就労への道を開く転換点”と。“行うべきは国会を通さず厚労省の通達で決められた外国人への生活保護の廃止と、永住資格の更新厳格化。在留管理と出口を厳しくせぬ内に入口ばかり広げる愚かさ!”と小野田紀美氏。日本が溶けていく。信じ難い」
 「外国人就労が無期限、全分野になるという報に衝撃。事実上の移民受け入れだ。英仏が1940年代後半からやった事と同じ。“これからは多文化共生”と言って大失敗し、英は2011年にキャメロン首相が失敗を認めた。岸田政権が事実上の移民開放策を取った事は信じ難い。岸田さん、日本を潰すつもりですか」
 「外国人在留資格“特定技能”の在留期限をなくし、家族の帯同も認め、様々な業種に広げる方針の岸田政権。今ですら“世界4位の移民大国”日本。“新自由主義丸出しの移民政策。これで移民にますます歯止めが効かなくなって賃金はますます下落する事になりましたね”と藤井聡氏。岸田政権で日本が溶けていく…」

関連掲示
・日本の移民問題については、下記の拙稿の第4章以下をご参照下さい。http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09i.htm
・拙稿「外国労働者受け入れ拡大で、日本の再建が一層の急務」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion13-03.htm

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 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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外国人政策11~憲法改正が一層重要に

2019-03-09 09:45:06 | 移民
 最終回。

●結びに~憲法改正が一層重要に

 4月からの外国人労働者受け入れ拡大の開始を前にして、ここで真剣に考えなければいけないのは、わが国は、未だ日本人自らの手による憲法の改正ができていないことである。
 わが国は、戦後、外国から憲法を押しつけられ、それを今日まで改正できずに来ている。今の憲法には、日本の国柄・伝統・歴史が書かれていない。どこの国の憲法かわからないような内容になっている。戦勝国によって国防に規制がかかられ、自国の存立を他国に委ねさせられている。国民には納税と教育の義務しかなく、国家への忠誠や国防の義務がない。そのため、日本は独立主権国家としての要件を欠いており、日本人は国家・国民・国防の意識が薄弱となっている。
 「あなたは戦争になったら、自分の国を守るために戦いますか」という国際的なアンケートが行われた。その結果、日本は最下位だった。戦うという人は15%しかいなかった。多くの国では、50~60%以上の人が戦うと答えている。日本の平和と繁栄のためには、国民の意識を高め、憲法を改正して、国のあり方を根本から立て直すことが先決問題である。
 日本の平和と繁栄のためには、この憲法を改正して、国のあり方を根本から立て直すことが先決問題である。
 ヨーロッパ諸国のように、自らの手で作った憲法を持ち、国家・国民・国防の意識がしっかりしている国であっても、外国人移民が多くなりすぎると、彼らをうまく同化することが出来ず、対立や分断を生じ、テロが頻発するようになっている。日本は、いまの憲法のもとで、なし崩し的に外国人労働者を多く受け入れれば、国家が崩壊してしまう恐れがある。
 だが、わが国は、憲法の改正が出来ていないのに、外国人労働者の受け入れ拡大を決めてしまった。こうなったからには、憲法の全面的な改正を急ぎ、国のあり方を根本から立て直さなくてはならない。私は、今回の外国人労働者の受け入れ拡大によって、憲法改正の重要性が一層高まったと考える。自衛隊の明記、緊急事態条項の新設等だけでなく、全面的な改正が必要である。
 安倍首相は、1月30日通常国会の代表質問に答えて、憲法改正の必要性を訴えた。自民・維新は前向きだが、公明・立憲は憲法改正に触れもしなかった。国会で議論がされるように働きかけていかなければならない。
 日本人が日本精神に目覚め、日本とはどういう国であるかを、憲法に明記し、自らの国家・国民・国防の意識を高めることが必要である。日本はどういう国柄・伝統・歴史を持つ国であり、これからどういう理想に向かって進むのか。それを憲法に書き込むことは、日本人の自覚を高めることになる。
 在留外国人が日本語を学び、日本の文化を身に付けてもらうには、まず日本人自身が自国の言語・国柄・伝統・文化・歴史を学び、それを外国人に伝えられるようにならなくてはいけない。そのための教育を学校や社会でしっかり行うことが必要である。日本人が自覚を高めることが、外国人が日本の国柄・伝統・歴史を学んで、日本の平和と繁栄のために貢献する国民となってもらうことにつながる。そのためにも憲法の改正が必要である。
 これを欠いたまま、外国人労働者を多数受け入れ、一般永住者を増やしてしまうと、日本は独自の国柄・伝統・歴史を失い、日本としての特徴や美点を失ってしまうだろう。
 また、憲法の改正において、国民には国防の義務と国家への忠誠の義務があることを定めるべきである。憲法に国民には国防の義務があると定めないと、日本国籍を取った外国人が、元の祖国と日本の間で紛争が起った時に、元の祖国のために裏切り行為をする可能性がある。また、わが国には、スパイ防止法がなく、スパイ天国といわれる。憲法に国家への忠誠の義務を定めないと、外国人が日本国籍を取って元の祖国を利するためにスパイ行為をする可能性がある。憲法をしっかり改正しないまま、外国人を多数受け入れ、一般永住権を与え、さらに地方参政権を与えたり、国籍まで簡単に与えるようなことをすれば、日本は亡国に至る。まさに自滅行為である。
 憲法の改正に関して、最も必要なことは、日本人自身の手で新しい憲法をつくる意志を持つことである。それにはまず日本人は、世界に比類ない国柄・伝統・歴史に誇りを持ち、先祖代々受け継がれてきた日本精神を取り戻さなければならない。(了)