戦前、陸軍では、軍の独断専横を抑えようと、宇垣一成が孤軍奮闘しました。一方、海軍では、陸軍の無謀な作戦、危険な政策に対し、岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らが断固反対しました。彼らのもとにも、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の建白書は、送り続けられました。
そのうち海軍大将岡田啓介は、東条英機と対決し、東条を退陣に追い込んで、戦争終結に力を尽くしました。
昭和3年(1928)6月、関東軍は張作霖爆殺事件を起こしました。当時岡田は、田中義一内閣の海軍大臣でした。陸軍は山海関に一個師団を上陸させる作戦を提起。政府閣議がこれを了承しようとした時、岡田は断固反対しました。「北京、天津地方への駐兵については国際間の取決めがある。そんなことをすれば英米との戦争になる」と。岡田は、陸軍の満州簒奪計画を見抜いていたのです。閣議の前日に、陸軍の案を聞いた軍令部第3班長の米内光政が、鈴木貫太郎軍令部長に報告し、そこから岡田に連絡があったのです。岡田の反対によって、陸軍の計画は阻止されました。しかし、この結果、岡田、鈴木、米内は陸軍の目の敵とされることになりました。
昭和9年(1934)、岡田は首相になりました。彼の在任中に、2・26事件が起こりました。昭和11年(1936)の2月26日、青年将校を中心とする反乱軍が首相官邸等を襲撃。多くの政府要人を殺傷しました。この時、岡田は官邸に居ました。しかし、反乱軍は岡田の義弟の松尾伝蔵を、岡田と間違えて射殺したのです。九死に一生を得た岡田は、事件後、重臣(首相経験者)の一人として、陸軍の暴走を抑えようと努めました。岡田は、日独伊三国軍事同盟に反対し、対米開戦回避のために奮闘しました。岡田と意見を同じくする米内・山本・井上も同様でした。しかし、次第に海軍にも陸軍に同調する者が多くなり、開戦を阻止することは出来ませんでした。
対米戦争を始めた東条英機は、厳しい言論統制を敷き、憲兵政治とも呼ばれる独裁態勢を作り上げました。その強引なやり方への反発は、昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北後、徐々に高まっていきました。岡田は、東条政権打倒を志しましたが、最初は孤軍奮闘という感じでした。岡田は、当時企画院課長だった女婿の迫水久常を使って、若槻礼次郎、近衛文麿、米内光政、平沼騏一郎、広田弘毅らの重臣に対して、粘り強く東条打倒を働きかけました。しかし、運動は遅々として進みません。岡田に同調し、独自に東条打倒工作をしていた中野正剛も、東条の弾圧を受け18年10月自決に追い込まれました。
昭和19年(1944)6月、マリアナ諸島陥落。これをきっかけに、反東条の包囲網が急速に形成されました。すると東条は、この動きをキャッチし、岡田を首相官邸に呼び出しました。岡田は、いよいよ対決の時が来たと、東条の下に出向きました。その時のことを、岡田は次のように語っています。
「東条はどこまでもわたしの動きを難じ、『おつつしみにならないと、お困りになるような結果を見ますよ』と、暗にわたしをおどかした。そこでわたしは、『それは意見の相違である。わたしはわたしの考えを捨てない』と言い切った」
さしもの東条も、断固たる意志の重臣・岡田啓介を抑えることはできませんでした。延命を図る東条は、重臣を入閣させて内閣を改造しようと試みました。内閣改造のためには、大臣を誰かやめさせて空席を作らねばなりません。当時の大臣は、天皇の親任であったので、総理大臣といえども、各省大臣をやめさせることはできません。そこで、東条は岸信介商工大臣(戦後首相)に辞表を出させようとしました。しかし、岡田は迫水に指示して、岸に辞表を出すなと連絡しました。岸は辞表を出しませんでした。そのため、東条は内閣改造ができなくなりました。ここに到って、重臣たちは、改造ではなく新しい内閣を作る必要があると、天皇に上奏することにしました。
この上奏案が東条のもとに伝えられると、追い込まれた東条は退陣の決意を固めました。昭和19年7月18日、2年10ヶ月存続した東条内閣は遂に総辞職するにいたったのです。
後継首相は、東条政治の継承者・小磯国昭陸軍大将でした。勝ち目のない戦争がいたずらに続けられるばかりです。岡田は、なんとかして戦争を早期に終結させようと努力を続けました。そして、同志・鈴木貫太郎を説得し、首相に推したのです。昭和天皇も、戦争終結の難事をやり遂げられるのは鈴木しかいないと考えていました。昭和20年(1945)4月、鈴木内閣が成立すると、岡田は迫水を書記官長に送り出し、閣外から首相の鈴木、海相の米内を支え、終戦に向けて陰で尽力しました。そのかいあって、ようやく8月15日、わが国はこの大戦の終結にこぎつけたのです。
東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介。その波乱に富んだ一生は、昭和27年(1952)10月10日に幕を閉じました。享年85歳。彼が自らの生涯を語った『岡田啓介回顧録』は、貴重な時代の証言となっています。
参考資料
・岡田啓介著『岡田啓介回顧録』(中公文庫)
・上坂紀夫著『宰相岡田啓介の生涯』(東京新聞出版局)
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)
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そのうち海軍大将岡田啓介は、東条英機と対決し、東条を退陣に追い込んで、戦争終結に力を尽くしました。
昭和3年(1928)6月、関東軍は張作霖爆殺事件を起こしました。当時岡田は、田中義一内閣の海軍大臣でした。陸軍は山海関に一個師団を上陸させる作戦を提起。政府閣議がこれを了承しようとした時、岡田は断固反対しました。「北京、天津地方への駐兵については国際間の取決めがある。そんなことをすれば英米との戦争になる」と。岡田は、陸軍の満州簒奪計画を見抜いていたのです。閣議の前日に、陸軍の案を聞いた軍令部第3班長の米内光政が、鈴木貫太郎軍令部長に報告し、そこから岡田に連絡があったのです。岡田の反対によって、陸軍の計画は阻止されました。しかし、この結果、岡田、鈴木、米内は陸軍の目の敵とされることになりました。
昭和9年(1934)、岡田は首相になりました。彼の在任中に、2・26事件が起こりました。昭和11年(1936)の2月26日、青年将校を中心とする反乱軍が首相官邸等を襲撃。多くの政府要人を殺傷しました。この時、岡田は官邸に居ました。しかし、反乱軍は岡田の義弟の松尾伝蔵を、岡田と間違えて射殺したのです。九死に一生を得た岡田は、事件後、重臣(首相経験者)の一人として、陸軍の暴走を抑えようと努めました。岡田は、日独伊三国軍事同盟に反対し、対米開戦回避のために奮闘しました。岡田と意見を同じくする米内・山本・井上も同様でした。しかし、次第に海軍にも陸軍に同調する者が多くなり、開戦を阻止することは出来ませんでした。
対米戦争を始めた東条英機は、厳しい言論統制を敷き、憲兵政治とも呼ばれる独裁態勢を作り上げました。その強引なやり方への反発は、昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北後、徐々に高まっていきました。岡田は、東条政権打倒を志しましたが、最初は孤軍奮闘という感じでした。岡田は、当時企画院課長だった女婿の迫水久常を使って、若槻礼次郎、近衛文麿、米内光政、平沼騏一郎、広田弘毅らの重臣に対して、粘り強く東条打倒を働きかけました。しかし、運動は遅々として進みません。岡田に同調し、独自に東条打倒工作をしていた中野正剛も、東条の弾圧を受け18年10月自決に追い込まれました。
昭和19年(1944)6月、マリアナ諸島陥落。これをきっかけに、反東条の包囲網が急速に形成されました。すると東条は、この動きをキャッチし、岡田を首相官邸に呼び出しました。岡田は、いよいよ対決の時が来たと、東条の下に出向きました。その時のことを、岡田は次のように語っています。
「東条はどこまでもわたしの動きを難じ、『おつつしみにならないと、お困りになるような結果を見ますよ』と、暗にわたしをおどかした。そこでわたしは、『それは意見の相違である。わたしはわたしの考えを捨てない』と言い切った」
さしもの東条も、断固たる意志の重臣・岡田啓介を抑えることはできませんでした。延命を図る東条は、重臣を入閣させて内閣を改造しようと試みました。内閣改造のためには、大臣を誰かやめさせて空席を作らねばなりません。当時の大臣は、天皇の親任であったので、総理大臣といえども、各省大臣をやめさせることはできません。そこで、東条は岸信介商工大臣(戦後首相)に辞表を出させようとしました。しかし、岡田は迫水に指示して、岸に辞表を出すなと連絡しました。岸は辞表を出しませんでした。そのため、東条は内閣改造ができなくなりました。ここに到って、重臣たちは、改造ではなく新しい内閣を作る必要があると、天皇に上奏することにしました。
この上奏案が東条のもとに伝えられると、追い込まれた東条は退陣の決意を固めました。昭和19年7月18日、2年10ヶ月存続した東条内閣は遂に総辞職するにいたったのです。
後継首相は、東条政治の継承者・小磯国昭陸軍大将でした。勝ち目のない戦争がいたずらに続けられるばかりです。岡田は、なんとかして戦争を早期に終結させようと努力を続けました。そして、同志・鈴木貫太郎を説得し、首相に推したのです。昭和天皇も、戦争終結の難事をやり遂げられるのは鈴木しかいないと考えていました。昭和20年(1945)4月、鈴木内閣が成立すると、岡田は迫水を書記官長に送り出し、閣外から首相の鈴木、海相の米内を支え、終戦に向けて陰で尽力しました。そのかいあって、ようやく8月15日、わが国はこの大戦の終結にこぎつけたのです。
東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介。その波乱に富んだ一生は、昭和27年(1952)10月10日に幕を閉じました。享年85歳。彼が自らの生涯を語った『岡田啓介回顧録』は、貴重な時代の証言となっています。
参考資料
・岡田啓介著『岡田啓介回顧録』(中公文庫)
・上坂紀夫著『宰相岡田啓介の生涯』(東京新聞出版局)
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)
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