ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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キリスト教128~1789年の人権宣言とキリスト教

2018-12-06 09:32:24 | 心と宗教
●1789年の人権宣言とキリスト教

 1789年の人権宣言は、正式には「人間及び市民の権利宣言」という。「人間(homme)」と「市民(citoyen)」を区別し、「人間の権利」と「市民の権利」を区別している。
 人権宣言にいう人間は、どういう人間か。国民議会は、封建的な身分制を否定し、それまでの第三身分を「国民」とした。国民議会が採択した人権宣言における人間は、身分制から解放された人間である。そうした人間が、人権の主体とされている。
 同時に、人権の主体とされたのは、身分的帰属から解放されただけでなく、フランスの過去の歴史、カトリック教会という伝統的な宗教、家族・親族・職能・地域等の共同体から離脱した人間が想定されている。そうした歴史的・社会的・文化的なつながりを束縛とし、それらから解放された人間が、人権宣言の想定する人間である。
 そのような人間観をもって、人権宣言は、どこの国でも通用するような理念を謳い、権利を宣言している。しかし、ここにおける人間は、観念的な存在であって、現実的な存在ではない。歴史的・社会的・文化的なつながりを捨象した仮想の空間に原子(アトム)的な個人を想定したものだからである。
 人権宣言は、前文に、国民議会が「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」を宣言の中で展示することを決意したと記している。また第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と定めた。ここには人間は生まれながらにして自由で平等な権利を持つという認識が示されている。
 人権宣言は、ホッブス、ロックが説いた自然権の思想を継承するものだった。ホッブス、ロックにおいて、自然権の概念は自然法の思想に基づく。自然法は、中世の西欧では神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味した。ホッブスは、人間は自然状態において、生まれながらに自然法によって認められる永久かつ絶対的な権利、自然権を持つとした。ロックにおいて、自然法は、神の意思に基づく秩序の原理であり、神が人間に与えた理性の法だった。その神はユダヤ=キリスト教の神だった。アメリカ独立宣言は、明らかにロックの思想を継承している。独立宣言は、イギリス臣民の歴史的・社会的・文化的に形成・継承されてきた権利を否定し、「造物主(Creator)によって与えられた誰にも譲ることのできない権利」を主張した。権利の歴史性を否定し、造物主による付与とした。ここにおける造物主は、明らかに北米プロテスタントが仰ぐユダヤ=キリスト教の神(God)としての性格を持っている。
 これに比し、人権宣言は、独立宣言から権利の歴史性・身分性を否定する態度を継承したが、造物主が権利を付与したとは記していない。造物主には触れずに「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」という表現をしている。人間の権利を「神聖な自然権」としながら、自然権が神聖である所以、自然権の依って立つ自然法、さらに自然法のもとにあるものについても、具体的に述べていない。
人権宣言は、独立宣言と異なり、「造物主」による権利付与を明記していない。その論理構造は維持しつつ、神の存在は除去されている。ユダヤ=キリスト教的な神観念は背景に隠れ、ある種、普遍的な論理が残った。
 自然法の思想にひそむ、神の意志という人格性が縮小され、自然の理法という非人格性が拡大した。この非人格化された自然法を認識するもの、あるいは構成するものは何であるか。それは、「理性」(reason)である。理性とは、ユダヤ=キリスト教文化においては、神の似姿として創造された人間に、神から与えられた能力であり、神の理性が分与されたものが人間の理性である。理性は、中世ヨーロッパで重視された霊感的な「叡智」(intellect)とは異なる。それを排除して残るところの五感に基づく、現実的な比較や推量の能力である。自然法の思想から、神の理性を排除すれば、残るのは人間理性の絶対性となる。言い換えれば、人智への自己過信、思い上がりである。
 フランス市民革命では、カトリック教会は国教ではなくなり、教会財産が没収されるなどした。その点では、フランス市民革命は反カトリック的である。だが、プロテスタントの教義による新教対旧教という宗派闘争の運動ではない。また、全くキリスト教を否定しているのではなく、「反キリスト」ではない。
 ここで注目すべきことがある。人権宣言は、前文に「国民議会は、至高の存在(Etre supreme)の面前でかつその庇護の下に、次のような人及び市民の権利を承認し、かつ宣言する」と記していることである。「至高の存在」は、神聖な人格的存在にして崇拝の対象のようであるが、具体的な説明はない。ユダヤ=キリスト教の神のようでもあり、必ずしも特定の宗教に依拠しない超越的な存在のようでもある。ここで超越的とは、人間を超えたという広い意味である。「至高の存在」が「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」を人間に与えたとは書いていない。権利の根拠は明示されないまま、権利が承認され、宣言されている。
 そこで仮に自然権の付与者をユダヤ=キリスト教の神と理解すれば、人権宣言は独立宣言に近いものとなる。抽象化された超越的存在と理解すれば、人権宣言は半ば脱キリスト教化したものとなる。あるいはまた、付与者の有無に関係なく人間の権利は自然権であり、宣言はそれを確認したということのようでもある。これらのどれでもあり得るという幅のあるところに、人権宣言の特徴がある。どれかの方向を強調すれば、反発が起こる。反発は、対立・抗争に発展する。そういう可能性を内に秘めていたのが人権宣言だった、と私は考える。
 人権宣言の発布後、宣言の内に秘められていた対立・抗争の可能性は、現実のものとなった。宣言発布後、革命は誰も予想し得なかったほどの激動を続けた。人権宣言自体が書き換えられ、出し直され、また書き改められた。そして権利の付与者は遂に明示されず、「至高の存在」とは何かも明確にされないままとなった。

 次回に続く。