経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

経済思想が変わるとき 2

2013年10月13日 | シリーズ経済思想
 ケインズ経済学は、不況下における財政の大切さを説いて、経済運営の考え方に革命を起こした。他方で、その最大の欠陥は、なぜ、それが有効に働くかの理由が判然としないことである。確かに、流動性の罠など、金融緩和が十分に機能しない局面では、財政を使うしかないというのは分かる。しかし、それだけでは、赤字が不安で財政を使いたくないとなると、弱々しいのを承知で金融緩和に頼ったり、効果不明の構造改革に託したりになってしまう。財政を使う決定的な理由に欠けるのだ。

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 現在の経済学に異を唱えるために、「常に」不合理に行動することを論証する必要があると言うと、とても無理だと思うかもしれないが、大したことではない。常に不合理さはあっても、普段は無視できるほど小さいとした上で、ある条件に従い、無数の主体が持つ小さな不合理が大きくなるとともに、それらの不合理には相互作用があって、強め合うフィードバックが働くというモデルを考えれば済む。

 具体的に言おう。普段、企業の経営者は、機会利益をすべて獲得できるように、設備投資の大きさを判断しているが、その大きさは将来の需要リスクにも「常に」左右される。その際、経済が安定していると、需要リスクの影響は無視できるほど小さいが、何かによって需要の減退が起こると、経営者は、安全のために、設備投資を控え目にしてしまう。そうして控え目にしたことが需要を減らし、さらに、他の主体の設備投資を減らすことへ繋がっていく。

 将来の需要に不安があるときに、設備投資を控え目にするのは、ごく普通に見られる行動である。これは、機会利益を完全に取り切っていないのだから、不合理な行動だが、現実にあるものを、既存の理論に拘って、あり得ないと否定しても始まらない。むしろ、そこで注目すべきは、なぜ不合理な行動を取るのか、そして、それが持続的なものかである。

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 結論から言うと、需要リスクの下で、設備投資を控え目にする理由は、生存の可能性を高めるためである。言うまでもなく、設備投資をして、需要の見込みが狂ってしまうと、企業経営は大打撃を受ける。ことによっては倒産の憂き目に会う。こうした企業経営にとっての「死」にもつながりかねない「大きな損」を避けるため、機会利益を捨てるという「小さな損」を選択するのである。

 現在の経済学では、リスクに対しては、期待値に従って行動すると考える。すなわち、不況下でする設備投資は、失敗することも、成功することもあるが、均して考えれば、利益を確保できるはずで、従って、設備投資を「控える」ことはあり得ないとする。ところが、こうした考え方には欠陥がある。それは、「均す」ために、時間と体力(規模)が必要なことを捨象していることである。

 現実には、企業が設備投資に失敗したら、次はない。銀行が失敗を許して、次の設備投資で取り返せと、融資を出してくれたりはしない。失敗と成功を繰り返し、期待値を実現するというのは、机上の空論なのだ。企業が「生き残る」ためには、多少の不合理はあっても、需要リスクがあるときには、機会利益を捨てるしかない。その意味で、企業には、均すだけの機会を重ねるのに必要な時間はないのである。

 このことを体力という観点で眺めても同じである。需要リスクが小さければ、万一の場合の損害も少ないから、大企業であれば耐えられるだろう。その場合なら、捨てられる社会全体の機会利益も小さくて済む。しかし、一気に需要が落ちるというような、需要リスクが大きいときは、大企業であっても、機会利益を捨てざるを得なくなる。

 結局、現在の経済学は、企業には時間の制約も、体力の制約もないという前提でしか成り立たない、特殊なものである。時間や体力の制約は、社会制度に基づく構造的なものであり、自然に解決されるものではない。制約を緩和する公的機関の保証といった政策もあるが、企業経営を一定の時間で区切って評価したり、企業規模や体力によって信用を限るのは、ミクロでの適正な経営への管理をする上で欠かせない仕組みである。

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 需要リスクの下では、人は、生存のために、機会利益を捨てる不合理な行動を取り、それは自然に解消されないとすると、そこから導かれる政策は、従来の正統的な位置付けとは異なってくる。ケインズ経済学における有効需要は、単に不況の痛みを和らげるものではなく、不況の根本的な原因である需要への不安を癒し、それが引き起こす不合理な行動を是正するのに必要な期待を形成するものとなる。

 他方、現在の経済学が推奨する、金融緩和などの投資収益率を高める政策にも効果がないわけではない。ただし、その行動を修正する力は、対症療法的で、相対的に弱いものである。それだけで経済をコントロールできるのは、需要リスクをほとんど無視して構わないときに限られる。需要リスクが相当に高まってしまうと、金利をゼロにしても対抗できないようになる。これが流動性の罠の姿である。

 こうして見ると、ケインズ経済学と、利益最大化を前提にした古典派的な経済学とが、理論的に二分されるものではないことも分かる。二つは連続的であり、需要リスクの大小によって地続きになっている。すなわち、需要リスクが大きくなるに連れて、古典派的な説明は、次第に現実から乖離し、役立たなくなっていく。裏返せば、需要リスクを無視できる範囲内では、現在の経済学は、何も間違ってはいない。間違っているのは、それをいかなる条件の下でも使おうとすることにある。

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 いかがだろうか。利益最大化という、一見、強固に見えた「公準」が崩れるのを見た感想は。要すれば、ヒトは、利益最大化より、生き続けることを優先する生き物だという、ある意味、常識でも分かる価値基準を再発見したわけだ。おそらく、経済学は見ないフリをしてきたと思う。今後、公準は、需要リスク>0、=0、<0で場合分けされ、拡張されることになる。その話は、長くなるので、次回に持ち越すことにしよう。

 公準の拡張で、ケインズ革命ならぬ「どうすれば革命」でも起こるのだろうか。実は、ケインズの時代の調査でも、金利は投資を伸ばさないことが知られていたし、計量経済学では、投資関数に需要の項目を入れると途端に説明力が高まるのは、半ば常識である。それでも、頑として、需要でなく金利に従う立場を守ろうとするのは、個々人が利益の最大化を追求する結果、社会的厚生も高まるというイデオロギーまで壊れかねないことがある。

 そこに拘ると、もう、その命題は、ほとんど宗教であり、理論とか、エビデンスとかいう次元ではなくなってくる。もっとも、「宗教」が国民に主観的な幸せをもたらさないとは限らない。どんなにデフレに喘ごうとも、消費増税という「奉納」によって、我々は救われたのだと恍惚感を覚えるのなら、それもまた幸せというものかもしれない。

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 余計な話はともかく、ここで、政策的な含意を確認しておこう。不況の原因が、需要リスクのために、機会利益を捨て、十分な設備投資をしない不合理な行動によるものだとすると、需要の安定が決定的に重要になる。その際、誤解してほしくないのは、世間的なケインズ政策の理解のような、需給ギャップを埋めるほどの大規模な需要の追加が必要というわけではないことだ。

 大切なのは、いわば、需要の「底」を作ることである。なぜなら、需要が落ちるかもしれないという不安が不合理な行動を招くのだから、水準は低くても、もう下がらないという安心感が与えられれば良いのである。そこからは、古典派的な経済学の原理に従い、十分な投資収益率の環境の下で、合理的な行動が発現し、徐々に設備投資が出てくることになる。

 逆に、いかに投資収益率を高める政策を打ったとしても、他方で緊縮財政をして、需要の底を抜いては意味がない。アクセルとブレーキを一緒に踏むのと同じことになる。しかも、需要リスクのブレーキの方がずっと強力なので、大概は不況からの脱出に失敗してしまう。日本の失われた15年では、景気が良くなりかけると、国民に見え難い形で早々に財政を引き締め、需要を保つ我慢をしなかった。これが長い低迷の基本的な理由である。そして、来年も繰り返す予定になっている。

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 一気の消費増税の決断によって、アベノミクスは、古典派的な経済政策であることが確定した。大胆な金融緩和と投資収益率を高める政策を取れば、需要を抜いても平気という思想に基づくと解さざるを得ない。もし、現実がそれとは異なり、需要リスクで、設備投資が控えられるものだとすると、結果は惨憺たるものとなろう。その正否は、国民生活を賭けた、1997年以来の社会実験で明らかにされる。

 アベノミクスでは、「期待」が重視されているらしいが、金利や税制で形成される期待と、目の前の需要の動きで形成される期待と、どちらが強力なのかが焦点だ。二つの期待を食い違う形にしない道もあったが、上手く行っている現状を保つという、常識による判断は否定された。殊更に現状否定に走るのは、まさに思想に支配されている証拠と言えるだろう。

※次回は、人はリスクに対してどのように行動するのかを更に掘り下げ、需要に従う理論がいかに見晴らしが良いかを語ってみたい。

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1 コメント

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Unknown (名無しの投資家)
2013-10-15 23:20:36
おっしゃる通りだと思います。

熱中症の人と低体温症の人とでは治療法が違いますよね。それと同じだと思います。需要対策と供給対策、どっちが良いか悪いかでかではなく、どの場面で使用するかだと思います。

今の日本は、低体温症の人の体温を必死に下げようとしているように見えます。
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