河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1150- トリスタンとイゾルデ グールドとテオリン 新国立劇場2010.12.28

2010-12-29 20:36:59 | オペラ
2010年12月28日(火)5:00-10:45pm オペラパレス、新国立劇場

ワーグナー トリスタンとイゾルデ
プロダクション、デイヴィッド・マクヴィカー
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トリスタン、ステファン・グールド
イゾルデ、イレーネ・テオリン
ブランゲーネ、エレナ・ツィトコーワ
クルヴェナール、ユッカ・ラジライネン
マルケ王、ギド・イェンティンス
メロート、星野淳
牧童、望月哲也
舵取り、成田博之
若い船乗りの声、吉田浩之
合唱、新国立劇場合唱団

大野和士 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

なんとも強靭なタイトルロールお二方。とても死にそうもないのだが歌としては強烈なパワーでものすごい前進力。お見事なグールドとテオリンでした。大野の棒は歌に合わせる自然なものだ。かといって自己のテンポを押し通すようなところもある。いずれにしてもオペラを振りなれているのは歴然としている。

それで、今年2回目のトリスタン。びわ湖で聴いたのが1回目でした。
あのときはいたく感動したものでしたが、総合力完成度で初台のこの日のものがワンランク上だと思いました。

第2幕で、日本語訳の字幕をみているだけなので正確にはわからないのですけれど、たとえば、「愛」「死」「昼」「夜」といった単語がまるで一つの生きた固有名詞として扱われていることに気がつきます。
「死が愛を殺すなら、永遠の愛とはなんだ。」
「昼を殺して夜だけにしてしまおう。」
こんな感じですから、それぞれがまるで一つの生きた個体のようなエクスプレッションです。トリスタンとイゾルデが一つの直線の上で対峙しているのではなく、三角形の底辺の右左にトリスタンとイゾルデがいて、頂点に愛とか死とか昼とか夜といった非常に抽象的でありながら明確であるもの、それらがその頂点にあり、その頂点で抽象的なやりとりをしているように思える。つまりそれらを共有できる者だけに見えるただ一つの頂点。そこが、愛の死を共有可能にする唯一の場所なのかもしれない。トリスタンとイゾルデが会話をしているのではなく、二人から表出される「気」の会話。
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それにしてもこの第2幕の装置、卑猥です。いくら夜中のセックスシーン的な幕とはいえ、観ようによってはかなり露骨ですよね。舞台やや左に塔が一本あり、上部のほうに何重にもなった輪が銀河のようにまとわりついている。アレそのものですよね。両性のシンボルが舞台の半分を占めている。
このプロダクションでは実際に水を張っていて、それが舞台右寄り。そのせいなのかどうか、第2幕中盤まで歌が左寄りのポジションに終始し、ちょっと気になりました。第3幕では、水の前でトリスタンが歌いまくりますので、最終的にはバランス感覚が取り戻せたような気はします。
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音楽的にも演奏的にもこの第2幕から濃くなり、しっくりしてきました。第1幕はイゾルデのもの、第3幕はトリスタンのもの、この第2幕はタイトルロールの交わり。第2場の愛の場面で音楽も十分な落ち着き感がでてきて、濡れてくる。一言だけオケについて言うと、この日の演奏は雑な個所が結構ありましたが、粗雑というのではなく、十分な練習を積んだのだが、実力的に問題があったということだと思う。第2場のような濡れ場の演奏は荒れてなくていいものでしたけれど、主体が弦からウィンド、ブラスになるあたりは問題ありの演奏でしたね。
それで濡れ場第2場あたりから歌のほうもぐーんとよくなりました。第1幕ではトリスタン役のグールドはなにかバリトン風でもあったのですが、ここらあたりから一本芯が付き、濃淡ともに深い歌となってきたように思えました。イゾルデのテオリンは余裕の絶唱で非常に丁寧な歌に感心しました。
ここらへんまでくると、10月のびわ湖の沼尻の公演とはやっぱりちょっとワンランク上だとはっきり思えました。観るほう聴くほう勝手といえばそれまでですけれど。
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遡って第1幕では演奏が少し稀薄。どうも間延びしてしまい音楽の呼吸というものがなく、楽想の並列的な並びの連続になってしまっていたような感じ。拡散系の演奏となってしまった。
演出ではたとえば、(一度は飲んでみたい)媚薬を二人が飲んだ瞬間、飲むのが早いか抱き着くのが早いか、といった演出で、そんなに早く効き目のでる薬ならさぞかし強力なんだろうと思っちゃう。
この場面も流れとしてはかなりぎこちないもので、すぐに抱き合ってしまうため、そのあとの音楽がなんだかおまけみたいになってしまい味わいに欠ける。頭でっかちの演出だ。
歌はテオリン、ツィトコーワともに筋肉質で正確さまるだしではあるのだが、流れ、呼吸を今一つ感じ取ることができなかった。第2幕からよくなりました。
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それで第3幕なんですが、第1幕で愛の媚薬を毒死の媚薬と認識して飲んだトリスタンということであれば、第2幕でメロートの剣を自らの腹部に刺す、そして第3幕でイゾルデが治療しにくるというので、その腹部を開いて治療しやすいように(?)する。つまりトリスタンは3回も死を求めている。この物語の前史では深手を負ったその傷をイゾルデにより治療してもらっている。その頃とは大違いなわけです。
前史を前提で観ないと理解できないオペラですが、前史のことを理解していれば、第1幕は起きたり眠ったりでも、だいたい理解できるストーリーではある。
その第3幕でほぼ死に体のトリスタン、なぜか絶唱です。イゾルデが治療のために船から降りてトリスタンのもとに駆けつけるまで、オペラの話とはいえ、60分かかります。この第3幕はだいたい85分ものなので、ほぼあらかたおわりかかっている。残り25分にマルケ王軍団がなだれ込み、メロートもクルヴェナールも、もちろんトリスタンはイゾルデか駆けつけた瞬間に死ぬわけで、みんな死んでしまう。それに最後の最後でイゾルデの愛の死の絶唱があるし、ここ25分はごちゃごちゃしてしまう。
この第3幕のポイントは第1,2場のトリスタンの生き死にの心象風景そのもので、聴きようによっては禅問答のように思えたりするのだが、正三角形の頂点の部分のあたり、共有できるイゾルデがそこにいない状況で、その空虚な心模様を見事にあらわしているワーグナーの音楽、グールドの絶唱もますますさえわたり進めば進むほどよくなる疲れを知らぬ好演でした。お見事。
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イゾルデによる愛の死。びわ湖公演の時は、この歌の唐突さに違和感を感じましたけれど、この日の公演ではそれを感じませんでした。むしろ自然な流れのように思えた。トリスタンの心象風景。マルケ王軍団のリアリスティックな動き。生きてはいるが別世界のイゾルデの愛の死の絶唱。なるほどと思います。
ここのテオリンによる愛の死ですが、大野の演奏ともども感情に流されすぎない中庸の美を表現したもので、滴る音楽ながら情だけに流されたものとはなっていない。その意味では冷静だったといえるかもしれない。それでも最後の最後で真紅のドレスを引きずりながら水面を渡り舞台中央奥に赤く消え去るイゾルデ、音楽がついには最終の最後の音が消えたのちもいまだ少し赤く尾を引きながらフェイドアウトしていく。非常に美しいエンディング。ここの呼吸は絶品でした。
背景に最初から最後までシンボリックに昇ったり沈んだりする真っ赤な太陽、しかし、その周りに太陽の光はあたることはなく、暗い。暗いながらも暗闇とはならず明かりがある、そのようなことを最後まで感じさせる絶妙なエンディング、イゾルデの美しい幕引きがそのまま音楽の美しさと重なり、一人だけいたずうずうしいフライング拍手でさえその美しさを帳消しするところまではならなかったのが、この横柄な客への一つの戒めになったのかどうか、本人は知る由もないであろう。
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大野は完全にオペラのとりこになっているように見える。オペラの呼吸をわかっていて、おそらく初めてのオペラであっても、オペラを振る呼吸を肌身で知っているので自由自在な棒が可能だろう。
この日の演奏は、歌のフレーズの緩急によくあわせていたと思う。出るポイントのあたりの指示は的確だが流れの中心は歌にあったように思う。ただ、部分的にここは譲れないといったあたりは結構強引にしっかり、明確な意思表示の姿勢がある個所も散見。そこらあたりはおそらく音楽の転換点だったりして主張に間違いはない。結果的にメリハリのきいたものになっていたようだ。オーケストラについては既に書いたような問題があり少し残念。
おわり