2009年4月26日の日経新聞日曜版のアート探究欄にエリシュカ指揮の札響のことがデカデカと半面使い掲載されている。共感の美文だ。
個人的には札響を生で聴いたことがない。ずーと昔、音楽雑誌で付録にEPがついている月刊誌みたいなもの(たしか学校経由で買った?)に札響の演奏もあったような記憶がかすかにある。
指揮者のエリシュカは名前を最近聴いたような気がするだけで、その前は全く知らなかった。
今日のこの掲載記事を読む限りにおいては、飛んで札幌まで行く必要があるようだ。幸い今回の演奏はライブCDが出るようなので、出来上がったらまず買って聴いてみよう。
月に2度の定期というから5月か6月には日が合えば行って聴いてみたい。
●
日経の文を書いている編集委員ですが、いつもは短い中にそつなく手際よくまとめている。今日の記事は長い。問題もある。ゲネプロを聴いて、本番を聴いた後で書いた文章なのだ。いくらでも美文に出来る。予定調和ではなく結果調和で書ける。
ゲネプロを聴いて本番前に新聞で紹介するとかならまだわかるが、あまり言ってもしょうがない、仕事だと思うのでそれはそれで良しとしよう。でも、この新聞記事を見てからでは聴きにいけない。
ゲネプロではチェコのローカル色を前面に押し出した練習のように見受けられるが、本当にそうだったのだろうか。そうだったのだろう。そこにいた人が一番よくわかる。
言葉を換えてこう言ってもいいのではないか。チェコの曲の解釈を移植しに日本まで来た。のだと。
その昔、ギュンター・ヴァントは一人で何回もNHKso.を振りにきた。彼がブルックナーを振るたびに思ったこと、それは、真っ白なオーケストラにブルックナーというものの在りかを教えてくれた。その一言に尽きる。すさまじい安定感があった。そしてヴァントの素晴らしいところは、そのブルックナーがローカルなものではなく、普遍性をもった曲として聴かせてくれたこと。これからブルックナーの世界が日本にもやってくるのだと示してくれた。そしてその通りになった。同じくNHKso.を振っていたミヒャエル・ギーレンのマーラー。あれも同じようなものだったように思う。
●
この記事で得たものは結果であり情報としてはとくに何もない。
それと、Vのサウンドの表記までは言わないが、コシュレルはコシュラーの読みでいいと思う。
おわり
.