1977年の初来日に続いて1978年にもチェリビダッケは単独来日した。
今回は読響の復習確認である。
.
1978年3月17日(金)19:00
神奈川県民ホール
.
モーツァルト/交響曲第41番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデより
前奏曲と愛の死
レスピーギ/ローマの松
.
セルジュ・チェリビダッケ指揮
読売日本交響楽団
.
今回の演奏は、演奏会そのものが音楽「体験」。
一曲一曲が記念すべき体験になり、一生忘れられないものとなった。
最前列で聴きほれて、いつもは気になる周囲の咳払いやしぐさは、まるで視聴覚的にはいってこなかった。
ありがたい。
.
前回同様ピアニッシモから始まった。
しかし今回はピアニッシモだけに終わるようなチェリビダッケではないことは予感していた。モーツァルトは別にして。
.
モーツァルト。
フルトヴェングラーは本当はモーツァルトをこのように演奏したかったのではなかったのか。と、演奏中にふと思った。
フルトヴェングラーのモーツァルト40番は先を急ぐかのようにひた走りする。
本当はいやなのにひた走りする。
あのモーツァルトが自己最高の納得した表現だとは思わない。
いや表現を抑えているのだ。
チェリの41番。
最高の解釈で進む。
この男性的オーケストラから、あのようなピッチのあった、気持ちの良いモーツァルトをきけるとは夢にも思わなかった。
比較的ゆっくりと進み、音は風のように流れる。
本当に軽い肌触りである。
もうこれだけでまいってしまった。
第2楽章、今にもとまりそうな遅さ。本当とまりそうだった。
しかし明るかった。軽かった。
そして今日の演奏会、最高の出来栄えと思われる第3楽章。
なんと快いことか。なんとさわやかなことか。もう音に浸るしかなかった。
オーケストラ団員が演奏しているその喜びを肌で受け止めた。
第4楽章。迫力があるだけではなく、今日の後半のプログラムのプレリュードとなるに値するようなデーモンが乗り移ったような演奏であった。
全く素晴らしい、モーツアルトの音楽。再認識。
.
ワーグナー
この演奏会のメインであり、チェリビダッケのメイン。
醒めたワーグナーなど面白くない。
弱音の整った音楽から強音の荒れ狂う様まで異常だ。
前回、このオーケストラに教えたピアニッシモはこのワーグナーの前奏曲で最強音と化す。
荒れ狂う半音階。
いりみだれる音、音、音。
ワーグナー、ワーグナー。ワーグナー。
完全なる悪魔のとりこ。
エクスタシー、震え、エロティックな感動。
感動の震え以外なにもなかった。
そして静寂から愛の死の高まりへと進む。
しかし、前奏曲での高まりからは、もうひとつ退かなければならない愛の死のクライマックス。
その完璧な表現。音をむさぼり食らう。
もう一度、静寂がきたとき、このままいつまでも終わってほしくないと願っていた音楽が終った。
チェリビダッケ最高の表現。
.
レスピーギ
おそらく、このオーケストラのフルメンバーでかかったと思う。
音響は空前絶後であった。
あのシカゴ交響楽団でも負けそうな雰囲気。
チェリビダッケの指揮、まるで魔物にとりつかれたような。
前回のピアニッシモと今回のピアニッシモとフォルテッシッシッシモ。
今後もう一度チェリビダッケがきたら読響はどうなるのであろうか。
しくじったけれどもあのピアニッシッシッシモに耐えたクラリネットに興奮した。
よく頑張った。
そして本当にきれいなオーケストラの音色の変化。
指揮者ひとりでこうも変わるものなのか。
そして、そして、最後に、指揮者、オーケストラ、ともども狂いたけったアッピア街道の松に突入していった。
超弱音から最後の最強音までの運び方。
それに音色の変化。
チェリビダッケは狂っていた。
あの三連符を振る時の棒の運び。
狂気以外のなにものでもなかった。
ただただ手をひたすら回すだけ。
それについていった読響。
狂うしかなかった。
その感激。
何もかもはるかかなたに飛び去って行った。
孤独でいられる興奮。
没我、狂気、あらゆるものが表現されていた。
.
チェリビダッケがいなかったらあの最強音と超弱音はなかった。今後も彼がいなかったら難しい。
そして異常なまでの音色の変化も。
.
チェリビダッケの演奏会で今回印象に残ったのは、ものすごいダイナミックレンジもさることながら、音色バランスである。
あの弦だけしかないようなモーツァルトにしても、異様に多彩な光をはなっていたし、ワーグナーにおけるバランス感覚も最高であった。レスピーギでは言うに及ばず。
これで現代音楽でも振ったら、最高の解釈者となるであろう。
.
幸せな読響のメンバー。
この演奏会は精神的かつ肉体的な「体験」であった。
おしまい
.
.