伊東家のデスク

オタクの備忘録など

普段やらないこととか

2018-06-30 20:49:44 | 雑文
 たまには慣れていないこともしてみよう。

・作品についてあれこれ語るのはオタクにとって必要不可欠なものである。そこには様々な問題がついて回る。何事も完璧とはいかないのだ。
 しかし、その問題の中にはそのオタクの本質が浮かび上がる瞬間があり、これは大変興味深いものである。
 こと、擁護からの変質について、これは強く見られるのだ。
 ある不出来に終わった作品について、オタクが擁護したとする。実は、ある程度のポテンシャルさえ持っていれば、やはりある程度は語れてしまうので、ペラペラと口は回るし頭は使う。なんとしても、なんとしても作品を守らねばならないとオタクのプライドが燃える。
 ここには、実に人間的でちょっと落語チックなダメさが働いている。即ち、かけた時間と労力が無駄だったと思いたくない。ダメな作品を愛してしまったと認めたくない。もっと言えば、自分の価値を認めなかった奴らに見返してやりたいとか。全てがそうであるというわけではないが、作品を守っているようで実は自分の精神を守っているのである。まぁこれを単純に悪とするのは少々問題があるので、そこは今は触れない。
 さて、このような人間的ダメさに基づいた擁護は余程巧くやらなければどこか頓珍漢かつ、本質的には意味のないものになりやすい。当然であろう。作品を守る気はあまりないのだから。また、不出来なものはやはり不出来、やはり擁護など最初から無理なパターンもある。
 ところが、ここからである。
 基本的に、擁護するということは、作品に難があった、との自覚がなければ成立しえない。冷静な目による批判がスタート地点にあるのだ。この冷静さが、段々と薄れていく。そして勘違いが始まるのである。これだけ語れているのだから、この作品は実はとても面白いものだったのではないか、と。守っているうちに作品そのものが変質し、冷静な目による批判が根底にあったはずの擁護が熱狂的な支持へと移り変わっていく。この勘違いは非常に面白い。信者的な立ち居振る舞いともまた違う。信者は最初から作品を無条件に肯定する。しかし、勘違いした結果の取り違えはあとから自分の擁護に合わせて作品を変質させるのだ。
 ここで発揮されるのが、そのオタクが何を重視しているか、という点から来る作品の再構築である。当然ながら、この段階に来ると最早批判からは遥かに遠いところにいる。現実にあった作品は後ろに退いているためである。二次創作的活動と言い換えてもいい。かくして、そのオタクが積み重ねてきたキャリアが入り混じったキメラが誕生することになる。
 一般的には、これはダメな態度である。前述の通り、当該作品そのものを見ていないのだから、批評としては明後日にすぎる。ここで楽しむべきなのは、キメラそのものから読み取れるオタクの自己紹介なのである。これがまた楽しいし、究極的にはそれでいいのである。
 注意しておくと、これを意図的に行う者もいる。その場合、芸としての振る舞いが強く、うまく作品で遊べている証左にもなる。この場合は勘違いさえも自覚して引き起こしているので、じっくり読み込まなければならない。例えば、「以下略」や「進め!!聖学電脳研究部」を見る限り平野耕太はこちらの分野の達人である。
 もう一つ。このような現象は話題になった不出来な作品でよく見られるものでもある。単に人が多いだけでなく、踊らされた、というダメさが加わるためである。しかし、なんとなく頭に浮かんだ方もいるかもしれないが、「新世紀エヴァンゲリオン」によるあれこれはちょっと事情が違うようにも思えるのでモデルケースとしては不適格である。あれはもうちょっと根深いダメさがある。そのダメさは古今東西を問わず根付いているので、そういった意味では、エヴァは象徴たりえたのかなぁ、と思ったり。

・上記では擁護を行う際の問題とそこから派生する面白さについて述べている。これは、まずもって擁護が貫かれる場合に発生する問題である。
 では、擁護が放棄されたらどうなるのか。
 基本的に、作品を語る場合はそのファン同士語るものである。コミュニティの中で明確に批判意見を出せば空気が悪くなるので推奨されない、が現代の、というか変わらぬそれであろう。
 しかし、コミュニティの大半が擁護を放棄したらどうなるか。
 明確には挙げないが、ここ数年でその現象を年一ぐらいで見ている気がするのだよね。
 問題の根深さは上記の比ではなく、それは個々のオタクだけでなくもう多岐に渡ってしまうのであまり触れられない。
 熱を持って何かを嫌いになるのも人生において悪いことと断じることはできないのでなんともまぁ。


カレイドスター

2018-06-26 00:02:33 | 感想文
 2003年。佐藤順一・平池芳正監督作品。
 もう十五年も前なのであるな。00年代の名作アニメを挙げると基本のように出てくる作品であり、事実名作と言ってもよい。
 当時……というよりはどの時期でもそうかもしれないが、スポ根は性質・時代共に中々に難しいものがあり、今一つ流行りきらないところがあった。やはり梶原一騎の活躍したあたりが全盛期だったのではなかろうか。この辺は識者の意見を伺いたいものである。それはともかく。「カレイドスター」の最も素晴らしい点は、しっかり00年代のおバカスポ根を描き切ったところにある、と私は考える。美少女サクセスストーリーとしても異邦人ものとしてもスポ根の関係性を整えた上での擬似百合としても面白いのだが、根底のスポ根を評価したい。
 道具立ては伝統的なものと変わってはいない。発想と特訓を中心としたものだが、いずれも爽やかな味付けになっているのがこの作品の工夫である。最序盤で立ちきったそらのキャラクターが吸収したのだ。この辺は流石佐藤監督作品だなぁ、と言わざるを得ない。
 古い作品になってしまったが、未見の方には是非ともおすすめしたい。

原理主義とかその他色々について

2018-06-20 00:54:49 | 雑文
・シリーズにおける「~らしい」「~らしくない」はオタをやっていれば定期的に見るものであるが、そこには歴史的な文脈からの歪みが現れることがある。ガンダムでも勇者でも仮面ライダーでもウルトラマンでも、これは必ず出てくる。歪んだままの共通理念が批判に使われると、面白くもなんともない結果になりがちである。一昔前だと、「ガンダムらしさ」を語っておきながら、その内実はファーストガンダムに即したものではないし、シリーズ全体を見ても共通理念とは言えない、というものをよく見た記憶がある。
 作品を枠内から排除していじめようとする試みはまぁ品性に欠けるし虚しさは否めないが、分類は有効な批判に必要ではあるので、気をつけていただきたいところ。
 ちなみに、流石と言うべきか、戦隊シリーズは凄いよね。他のシリーズに比べてこういったお遊びがあまり見られない。かなり広く枝を伸ばせる土台と、共通性(伝統性)における抜群の安定感があるので、そもそも枠内から排除する余地が少ないのであろう。

・「ウマ娘プリティダービー」、途中までは中々に楽しかったのだが、スズカ生存を過ぎると安堵すると同時に物語の緊張感まで一気に抜けてしまった。ここは一本、もっとスペシャルウィークの物語をガシガシ鍛えていくべきだったなぁと思う。率直に、スペシャルウィークとサイレンススズカ、トレーナーのドラマだけでは展開を支える土台にはなっていないのである。せっかくあれだけウマ娘を揃えたのだから、鎬を削るレースを次々描くべきだった。グラスワンダーあたりとはもっとやりあうべきだった。この辺が薄かったために、どうも物語の到達点が肩透かしになってしまったよ。例えば、やはり「マキバオー」はこれがしっかりできていたのだよね。まぁ血統などの競馬ネタを多く使えない状態にあった作品の弱点がもろに出た、とも言えるか。
 で、だ。こちらもやる準備しているのだが、アプリはまだかな?

・旧作「宇宙戦艦ヤマト」をつまみ食いしていた。この頃の納谷悟朗が凄く好きなんだよね。私にとってかっこいいおっさん声の基本形の一つになっている。

・男性声優で好きなのは70年代のアニメか吹き替えでやられている気がする。池田秀一、内海賢二、野沢那智あたりは吹き替えでファンになったなぁ。特に内海賢二はコミカル演技が印象深い。

・池田秀一の名前が出たついでに。基本的に池田ファンもそうじゃない人も、池田秀一は「シャア」をやっていればいい、と考えているのではないか。この考え自体は否定されるものではない、と思う。私も毎週クールぶった池田ボイスを聞けたらそりゃあ幸せであるよ。
 でも、私が一番好きな演技は比古清十郎タイプなのよね。ひたすらにぶっきらぼう。あれぐらい荒々しい方が池田秀一の味が出るのではないか、と思うのだ。

・疲れている時は癒し枠が必要なのである。現行アニメを多く見れる状態になっていないので、自然と過去作に向くのである。「うらら」とか「NEW GAME!!」とか。
 一時期「うる星やつら」あたりにも求めた気がするが、笑いもラブコメも味付けとしては少々濃い。少なくとも、私にはそうである。
 ただ可愛い女の子や男の子がまったりと何かしている。これでいいのだ。

・そういえばだいぶ昔になってしまったが、一時期純然たるに近づこうと試行錯誤が繰り返された萌えアニメに対し、中身がないという批判があった。今となってはこれが何の意味もないことは指摘するまでもないだろう。中身空っぽに近づけていくことこそが、そもそも目指すべきものだったのだから。ドラマ性を、ネタ性を、極限まで廃してふんわりした空間を維持しつつ、そこにがっちり受け手を取り込みはするけど脱出も容易にする。これがなんと難しい事か。また、それそのものを評するのがなんと困難であったことか。
 現在だと、当時目指された理想はだいぶ達成されたように思える。ここから先にどのような方法論と未来があるのか、それは一消費者である私にはまだ分からない。

ラブやん

2018-06-12 21:51:18 | 感想文
 2000年連載開始。作者は田丸浩史。
 ギャグにおけるキャラクターの転がし方について論じる際、いいサンプルとして本作は挙げられるのではないか。
 特にラブやんは見事なまでに、文字通りの転落を見せてくれた。4巻あたりからか、ハッキリと本性が見えるようになっていき、綺麗に腹黒ダメ天使として立ち上がり物語を盛り上げてくれた。それに呼応するように、カズフサもまたキャラが活き活きとしていったのである。
 ギャグとしてキャラを暴走させつつ、しっかり一人の生きたキャラクターとして描くことは実に難度の高いことなのだが、『ラブやん』に関してはこれが見事決まっている。正直なところ、これは田丸浩史にとっても偶発的なものだったのではなかろうかと読んでいる。無論、それを逃さず掴み取り、コントロールしたのは間違いなく田丸の実力あってこそだが。