伊東家のデスク

オタクの備忘録など

エンターテイメントにおける知識要求、笑いと個人の関係について

2016-08-30 20:55:58 | 雑文
 アニメを見ている。「這いよれ!ニャル子さん」がその中に入っている。
 リアルタイムでは無視していたが、こうして改めて見ると当時の事情や流行りなどが頭に蘇り、それを参照しながら楽しめる。まぁ、これは別にどうでもいい。
 さて、ニャル子さんについて、私は現在次のようなことを考えている。ちなみに、アニメ版で語っています。

 ニャル子さんは劇中に様々なオタク向けのネタがある、ように思える。
 このあたりの奇妙な感覚が本稿の発端であった。
 言ってしまうと、ニャル子さんのネタ性は薄っぺらい。ヌルい、と言ってもいい。
 そして不思議なことに、このヌルさが妙に心地良い。
 ここをスタート地点に、二つほど考えたい。

 まず、ネタ性そのものについて。
 劇中にオタネタを混ぜるのはそれこそ昔からある。「究極超人あ~る」あたりが古典として代表か。(「全日本妹選手権!!」のような、ネタが物語より前に来る、そもそも物語が存在しないタイプの作品は除外する)
 我々オタクは、それに笑う。また、後述の理由でも笑いが生じる。
 ネタ性が笑いを求めるならば、まさにここに勝負を仕掛けなければならない。
 方法は二つある。一つは、とことんマニアックに、オタクの濃さを頼りにドギツイネタをぶち込むことである。
 もう一つは、浅く広く、現代に生きるオタなら最低限これは知っているよね、というレベルで広く笑いをとるネタをぶち込む。言うまでもなく、ニャル子さんはこれであろう。
 この二つの違いについては、世代論と時代性、オタク界隈の拡大と一般への浸透、娯楽の消費スピードなどを絡めて語ることも可能だろうが、ここではやめておこう。
 私が強調したいのは、ニャル子さんのネタが可能な限りこの「最低限」を守っている点にある、ということである。
 ここでの最低限というのは、誰もが知っている、というより、元ネタを知っているなら一瞬で分かる程度のネタ、という意味合いが強い。
 この仕事ぶりは、中々に良いと思うのだ。

 次に、心地良いヌルさについて。
 少し話を戻そう。ネタが見つかると、オタクは笑う。同時に起こる笑いは、ここに関係する。
 その笑いとは何か。それを知っている自分への笑いである。自虐と言ってもいい。ネタを分かってしまうことがそもそも笑い話なのだ。
 こちらでは、笑いの対象は個人ということになる。
 しかし、この感覚が強く呼び起こされすぎると、なんだか笑えなくなっちゃうパターンもある。
 作品が過剰に知識を要求すると、稀にこのような症状が現れる。作品から個人へと興味が移ってしまうためである。エンタメとして、これは少し問題だろう。
 ニャル子さんは、ここに入らないようにしている。そもそもネタが多岐に渡っているので、浅く広くからはみ出ない。知識要求が緩いのだ。
 これがいいヌルさとして、作品への没入感を阻害しないラインを保てている。

 この二つのバランスは、結構難しいのではなかろうか。
 そして、ニャル子さんはこれをクリアできている。大したものである。

 ニャル子さんいぢめたい、という感覚は、このネタ性において私が能動的に「あれこれ言ってしまいたい」と思ってしまうことに由来するのだろう。

作品評価を高める実験における歪みと個人史について

2016-08-23 21:27:22 | 雑文
 始点は単純で、私の好きなウルトラマンが「ゼアス」であり、東宝円谷東映以外で好きなヒーローが「リュウケンドー」であり、東映ヒーローシリーズのお気に入りが「スーパー戦隊」である、ということである。
 戦隊はともかく、他二つについては正直マイナーであり、異色作の気もある。これが一番好き、という人は、一定数あれど少数派に追いやられるのではないかと思う。

 さて、本題はここからである。
 このような状況に陥るのは、オタクにとってはよくあることではないかと思われる。
 出来の悪い作品や、マイナーすぎる作品や、浮いた作品を好きになり、どこか座りが悪くなる。誰しも一度は経験があるだろう。
 ここで、自己防衛と作品評価の手段として採用されるものの一つが、他の作品に依存しての当該作の価値の向上である。
 例えば、私の場合だと「ゼアスは平成ウルトラの礎となった歴史的にも重要な作品」であることを強調するだろうし、「リュウケンドーはコメディタッチの牙狼」と言い張る手もあるだろう。
 どちらも、他作品の成果に依存して作品の評価を上げようとする、なんとも姑息な手段である。
 この姑息さが実に興味深い。
 姑息と言ってはいるが、このような態度はわりと普通のものであるし、作品間の繋がり、類似点を指摘して系譜を作り上げたりするのはとても楽しく、実りある作業だ。これ自体は悪い事ではないだろう。
 しかし、やはり作品単体から語れない分、どこかしら歪みが出やすいものであると思われる。
 仕方のない面もある。これが必要になるのはある一定の文化圏において対話する場面なのだから。

 このあたり、私はもっと自由に、自信をもって個人史を誇ってもいいと思うのだ。
 オタクとして実りある経験を積んでいれば、自然と自分こそが依存先になるはずなので、マイナー作評価の印象も変わるのではないか。

 私の陽性・庶民的な感覚のあるヒーロー趣味は「ゼアス」という革命によって始まり、「リュウケンドー」という革新でより高まった、といった具合に。
 勿論、これは自身がそれ相応のオタである必要がある。

キャラクター劇における空気感の価値について

2016-08-22 23:57:15 | 雑文
 キャラクター劇、とした点に注意されたい。
 ここには恋愛は勿論、ラブコメ、ホームコメディ、お下劣ギャグ、人情もの、ハードな刑事ドラマや時代劇、他にも様々な含みがある。
 すなわち、ジャンルを分類するような要素ではない、ということなのだ。

 空気感とは何か。言葉で説明するのは難しい。形を持たないが確かにそこにあるのだ。
 例えば、高橋留美子のラブコメを思い浮かべてもらいたい。ギャグの挟み込みとか、キャラクターの会話の妙な間の取り方とか、あれである。
 普通に描くより、なんとも味のあるものになる。
 作者の息がふっとかかったような、場面そのものがかき混ぜられるのだ。

 この空気感はとても重要な意味を持つ。作品世界の日常がキャラクターではなく、雰囲気がまず前に出ることによって表現されることになる。
 「よつばと!」などはまさに、それが魅力なのである。

 しかし、結局のところはキャラクターへと帰還する必要があるのは、言うまでもないだろう。
 

日常性と非日常性の複合状況について

2016-08-15 22:55:58 | 雑文
 ヒーローものやバトルものなど、非日常的世界が含まれる世界観を形作るに置いて問題となる点がある。
 どのような状況が外部に置かれるか。言い換えるならば、どのような非日常が日常の中に入り込めるか、である。

 なお、この問題において、多くのアメコミヒーローはまず除外される。
 DC然り、MARVEL然り、アメコミにおいては世界観の共有からなる作中世界での文化的な「ヒーロー(あるいは、ヴィラン)」があまりにも根強く、非日常と日常の差異が明確ではないのである。
 そのため、本稿における問題が世界観的に考察不可能になるのである。
(なお、和製ヒーローにおいてもアメコミチックを目指したものがあるが、それらの多くは積み重ねられた歴史がまだ少なく、根底の文化からして微妙に違うため、こちらは考察可能であろう)

 さて、実際のところは難しいものではない。
 卓袱台を挟んで宇宙人がお話しする状況をどれだけ自然に、面白く描けるかである。
 注目するのは、この「自然」と「面白く描けるか」である。

 例に挙げておいてなんだが、そもそも「ウルトラセブン」におけるメトロン星人との卓袱台シーンは面白いが自然ではない。だからこその違和感が彼の不気味さと策略の恐怖を演出しているのである。
 しかし、これが裏返ればまた違う。「狙われない街」が良い例だろう。日常に馴染んだ非日常は、その違和感がなんとも面白く笑えてしまう。それが過ぎれば、彼らが我々の当たり前の日常に存在することに違和感さえ感じなくなる。この感覚は実に興味深い。
 これらは作品全体の雰囲気にも影響を与える。どこかのどかになったりし、非日常が人間味を帯びて親近感が沸くようになる。そのため、ヒーローとヴィランの戦いはトムとジェリー的なものに変わっていくのだ。

 この状態に持っていく場合、クリアせねばならない条件はヴィランの扱いである。
 まず、ヴィランがヴィランたるには、それなりに脅威であり、悪いことをしようとしている必要があるだろう。そのうえで、民衆が被害をさしたるものと考えない、そもそも被害を与える目的がない、という状況が必要になる。
 これをクリアしてこそ、日常の中の非日常は笑いをもって受け入れられるのである。

 縁側に座る怪人とヒーローなど、中々に面白そうであろう。

シン・ゴジラとこれまでのゴジラの対比について

2016-08-11 23:27:09 | 雑文
 対比と書いたが、ここで記すのは今回のゴジラが、どの系統に位置するか、ということに対する私の考えである。
 言い換えれば、何代目に近いか、である。
 これは現時点での私の考察であり、今後更なる解釈が生まれるだろうが、とりあえずの位置づけを書いておきたい。
(なお、代について私は逆襲~メカゴジラの逆襲を二代目、84~ビオランテを三代目、VSキングギドラ以降を四代目、ミレニアム以降はリセットごとに考えている)

 何度か見て、私はシン・ゴジラのゴジラは二代目に近いという結論に達した。
 無論、やっていることや扱われ方、何よりも描かれ方は初代ゴジラや三代目、特に84ゴジラに近いのだが、ゴジラそのものの性格は二代目風なのである。
 こう考える理由は単純で、劇中でのゴジラの、例えば上陸時の異様なテンションの高さ、環境に適応する速度やぶっ飛び具合は、二代目ゴジラの歩いた歴史そのものであるように感じられたのだ。
 多分、やり方次第では、今回のゴジラはシェーだってやってのけただろう。

 ただし、あくまで近いとしたことに注意されたい。
 シン・ゴジラが二代目そのままを受け継いでいるわけではない。
 むしろ、ハリウッドを含めたあらゆるゴジラを少しずつ受け継ぎ、独自色を出している有望な新人だと思う。