私が興味深いと感じた、細かな部分について。
廃墟感について。
私は廃墟フェチというわけではないが、そのグッとくる魅力はとても分かる。
「未来少年コナン」や、「天空の城ラピュタ」のラピュタ、「砂ぼうず」の関東大砂漠、「アンチャーテッド」、「みどりの守り神」、などなど。
「けものフレンズ」においても、これは堪能させてもらった。
廃墟の魅力は、その寂しさだけではない。人の手から離れても残る、文明の力強さと、再生の過程という希望を内包している点にもあると思うのだ。
けものフレンズの廃墟感は、むしろこの力強さと再生を象徴していたように思える。ジャパリバスは勿論、ロープウェイもそうだ。
これがあるゆえに、実は、外の世界で人類が絶滅している、と本気で考えた視聴者は少なかったのではなかろうか。
そうそう、ジャパリバスだよ、ジャパリバス。
良かったなぁ。最後にバス死んじゃったままにならなくて。これ嬉しかったんだよね。
セルリアンについて。
彼らを生物として描かなかったことが興味深い。
基本的にセルリアンは勝手に動く機械的存在か、災害でしかない。あくまで冒険途中の障害なのだ。
生物にしてしまうとどうしても意思が入ってしまう。意思を持つ者同士の熱いぶつかり合いは物語を盛り上げるが、この作品の雰囲気にはマッチしていない。
やったとしても、6話のような遊びの延長でなければ。
そこで、災害なのである。自然災害には意思も何もない。ただそこにあるだけである。しかし、その無情な暴力は脅威である。
山火事のようなものにすることで、避けるべきものであると同時に排除可能なものである、だけど基本は避けるべきものという仕組みを作れていた。
だからこそ、カバも博士もあれだけ「基本逃げなさい」と言っていたのである。
そんな障害の最後に「溶岩」を持ってきたのも面白いと思う。
さて、セルリアンが災害であるのならそれは決してなくなることがない存在でもある、ということになる。
しかし、それでいいのだ。彼らもまたジャパリパークを彩る、「恐怖」や「脅威」という景色の一部なのだから。
ジャパリまんについて。
どこにでも現れるこの食糧には笑ってしまったのだが、考えてみると凄いことである。どこでも食べられる。いつでも食べられる。
これの存在がフレンズたちから食事情を取り払っているあたりいい仕事している。
そして、ジャパリまんを越えて料理を求める博士と助手はやはりグルメであり賢い、と持ち上げておこう。
かばんちゃんの手袋とタイツについて。
最終回、おそらく再生中だったのだろう。
服が最初に再生したことから考えても、どうやらかばんちゃんの手袋とタイツはフレンズの専用装備と同じ扱いらしい。熊手とかと同じなのだ。
手足を守るもの、ということだろうか。
ここは非常に興味深いところである。