伊東家のデスク

オタクの備忘録など

作品への接触における時間と密度について

2016-10-24 23:59:23 | 雑文
 本稿の発想の元は、とある作品について好意的な立場を保ったまま受容し終えたにもかかわらず、まるで別作品を見ていたかのような感想と評価を持つオタクAとBが存在するという現象にある。
 勿論、作品に対する関係は個人によって異なるはずなので、全く同じになる、ということは中々ない。
 しかし、それを踏まえてなお、この現象は独立して存在するのである。
 これについて、現象のうちの半分ほどはある一つの推論で説明可能なのではないか、と思うわけだ。
 先に私は、作品に対する関係は個人によって異なると書いた。
 これには、作品への感想など、鑑賞中の態度がまずかかっている。
 実はもう一つ、鑑賞行為そのものの態度・環境もかかっている。ここでは、後者が重要な意味を持つ。

 1クールアニメを例にとろう。
 普通に、リアルタイムで視聴するならば、3ヶ月で消化される。
 この間には一週間の待ちの間、他のアニメを見たり、話しあったり、妄想したり、考察したり、グッズに踊らされたり、という営みが存在するだろう。途中で切るかどうかも考えるかもしれない。
 では、この態度が、少し溜めてからの録画消化という形になったらどうだろうか。
 見るタイミングがある程度違っていても、リアルタイムでの営みに触れていれば擬似体験は可能である。ここではあまり差異は現れない。現在の娯楽の消費スピードを考えれば、これは大きな点であろう。

 さて、これが別の態度・環境だとどうなるか。
 地方を例に出そう。というか、本稿は元々、地方についての話がメインであった。
 地方で1クールアニメを見る場合、最速を求めるなら大抵は配信である。そして、大抵の配信はリアルタイムから遅れる。リアルタイムから弾かれるというのは、実はとても大きな意味を持つ。リアルタイムを共有できなかったというだけでなく、原理的に同一時間の共有の機会が失われるのだ。録画とは話が違う。そのため、時間の中で他者との交流をメインとする営みが弱くなる。
 地方なので、グッズ一つに踊らされる金も暇もないというパターンも珍しいものではない。
 残る営みのメインは、考察や妄想である。配信で遅れながら追うならば、これはリアルタイムで見る場合とあまり変わらないかもしれない。
 これが大きく変わるのは、一気に視聴する場合である。
 地方出身のオタクならば、多かれ少なかれ覚えがあるのではないだろうか? レンタル店の特価を狙い、クール丸ごとレンタルして一気に視聴する。この時の視聴態度は、直接お金を払って選択しているという意識の分、だいぶ硬めになるだろう。
 時間から解放されての視聴であるため、他者とのコミュニケーションや諸々の営みさえ消えていく。この段階で、同じ作品であっても、受容の仕方は大きく変わることになるのだ。
 そして、連続しての視聴は時間を置いてのものとは全く違う結果を呼ぶ。区切られているはずのものを見ているのに、実質的には連続して見るため、処理が異なるためであろう。

 作品との関わりの違いは、違う印象を抱かせる。
 そこで大きな役割を果たすもののなかに、時間と、密度というものは必ず存在する。

これをなんとかできるのは私だけ論

2016-10-18 21:49:12 | 雑文
 ペルソナ5は三周目。当然のごとくセーフティで続けている。

 序盤を見て思うのだが、本当、主人公と竜司のコンビで動くあたりの興奮は素晴らしいものがあるな。
 竜司のキャラと主人公の境遇及び選択肢が絶妙でさ、昔の刑事ドラマのような熱さがある。
 とりあえず、今はこの辺は置いておこう。強調したいのは下記である。

 ペルソナ5では序盤から、現状をなんとかできるのは自分たちだけ、という感覚が強く呼び起こされる。
 この「これをなんとかできるのは私だけ」は、ペルソナ5全体によく張り巡らされている。
 コープを進めて「名前」を聞く場面など震えが来るほどだ。
 
 この感覚を他の作品を例にして説明すると、次のようになるのか。

 必殺シリーズで、依頼を受けて出陣のテーマがかかるようなもの
 金田一少年がじっちゃんの名にかけるようなもの
 死して屍拾うものなし 死して屍拾うものなし
 僕がドクターだ

 ちょっと雑だが、こういった「ヒーローでなければ絶対逆転不可能」な状態で、まさにヒーローが戦いに赴くのだ。
 この瞬間の燃えっぷりはたまらないものがある。
 そして、ペルソナ5は(多少、ここに弱点を抱えつつも)これが実にうまい。

ゲームにおける快楽の多様性と関わりについて

2016-10-02 21:51:52 | 雑文
「ペルソナ5」が止まらない。今は二周目である。あとで色々と書いておきたい。
 私はこれまでペルソナを、というよりはアトラス作品をやってこなかったのだが、おかげでまだマシな人生を歩めていたと確信した。
 ペルソナシリーズを学生の時にやっていたら、私はもっとズブズブと沼に嵌っていただろう。これだけにどれだけの時間を費やしていたか、想像するだけで怖くて、悔しい。やってりゃよかった。なお、既にプレイ中の勢いで「ペルソナ4ゴールデン」も購入済みです。

 ともあれ、久しぶりに重めのゲームライフを送っている。プレイに時間を割きすぎて寝不足で疲労は取れないし、コンディションに影響出るたびにどんだけ好きなんよと思いながら楽しさに酔いしれている。最高だ。
 これを実現しているのが、難易度のSAFETYである。私は難易度をこれにしているのだが、とても興味深いものだと思う。
 このシステム、まずゲーム下手で頭を使うのが苦手な私にとても優しい。
 そして、これが肝で、おかげである程度のプレイをこちらから支配できるのが面白いのである。
 例えば、戦闘において、よりヒロイックな方向を追及することが容易くなる要素なのだ。これは私個人の事情なのだが、どうにも戦闘でパズルチックな頭の使い方をすると、物語を体験しているのではなく、まさに戦いというパズルを解き明かす方に頭が働いてしまうのだ。あれをこうして次か次の次のターンでそれをどうして――それまで物語に没入できていたのが一転し、快楽が若干薄れる。こういうことは、今までRPGをやっていて、少なからずあったことである。(無論、前述したようにこれは私個人の事情であり、これが真実だ、と主張するわけではないし、戦闘のパズル性の重要度や快楽を否定するものではない)
 私でも非常に痛快な活劇を楽しめるこの難易度設定は、とても興味深い。物語好きなオタクにとっても、さくさく進めるこれは親和すると思うので、これまた素晴らしい。
 素晴らしすぎて、リアルの私はどんどん疲労を溜めていく。これがあるからオタクは楽しい。


 ついでに一周目について。
 直前まで軍艦系のゲームをダラダラやっていたこともあり、苗字は比叡、名前は雪風であった。怪盗団の名称はワイルドバンチ。
 一番可愛かったのは双葉。嫁は真。相棒はモルガナという具合になったかな。ペルソナは最後までアルセーヌを入れていました。
 コープをあまり溜められなかったので、二周目はなるべくマックスを目指していく予定。