ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(32) かつめし(3) 「いろは食堂」のかつめし

2021-05-06 09:05:15 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

        「いろは食堂」のかつめし

 戦後間もないころ、洋食はまだはじまったばかりで、実はカツレツに使うパン粉が手に入りにくく、近所のニシカワパンの協力でパン粉を砕いて、パン粉をつくってもらったこともありました。



 当時、近くの町で商店らしいのは加古川の町ぐらいでした。

 農家の方たちの一番の楽しみは盆と正月のお休みと、そして6月の田植えが終わった後の「さなぼり市」と、秋の収穫が終わった後の「せいもん払い」に加古川の町に出て買い物をして「いろは食堂のかつめし」か「かさよしのうどん」、そして寺家町の「まるまんのうどん」を食べるのが何よりの楽しみでした。

 せいもん払い・さなぼり市の時は、近在から山のような人が加古川の町に集まり黒山の人だかりで、商店街は押すな押すなの人だかりでした。

 今では想像すらできない人出でした。

 それをあてこんで、阪神方面の商人も進出して、大いに賑わいがありました。

 日本毛織のグラウンド(現在のプラザテルあたりにあった大きなグラウンド)ではサーカス、相撲や様々な見世物とか、いろんな興行があってそれらも皆の楽しみでした。

 地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールでした。

 姫路・明石は空襲で焼け野原になったのですが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできません。

 誓文払いと一緒にサーカスが加古川にやってきました。

   〈用語の説明〉

 *さなぶり:「さなぶり」ともいいます田植え終了後の祝いまたは休日。

 本来は、田の神が、田植えが終るのを見て帰る日と信じられ、この日に田の水口やあぜ,または床の間などに,苗を供えて田の神を祀る風習が日本各地にみられた。

 *誓文払い:もとの意味はともかく、姫路では12月1日から日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」でした。詳しくは、「加古川町本町探検(32)をご覧ください。no5078

 

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