ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(44) 古墳時代(19)、長慶寺山古墳発掘顛末記

2017-12-12 09:22:58 | お爺さんが語る郷土の歴史

      長慶寺山古墳(加古川市上荘町)

 上荘町薬栗(くすくり)の標高40㍍にある長慶寺山に七基の古墳があります。

 前方後円墳1基、方墳1基、円墳5基からなっています。

 このうち、前方後円墳は前期初頭(4世紀)の古墳で、最も古い時期のものです。

 写真の鏡(内行花文鏡)は、その前方後円墳から出土しました。

 この古墳は、昭和30年に地元の中学校地歴部が発掘しています。

 若干問題を引きおこしました。以下その顛末記です。

     長慶寺山古墳発掘顛末記

 発掘が行われたのは、昭和30年8月でした。

 当時、既に文化財保護法ができており、無届の古墳発掘はできなくなっていました。

 学校は、古墳の土地の所有者の許可を得ただけで、同校の地歴部の活動の一環として発掘しました。

 学校は、教育委員会からお叱りを受け、教育委員会は、警察から注意を受けた。

 学校は、さらに県からお目玉を頂戴しています。 

 しかし、古墳前期の古い時期の古墳であり、貴重な鏡が出土したことにより各方面から注目され、とにかく報告書はまとめられました。

 『加古川市史(第七巻)』は「・・・(中学生による発掘)の結果は、同年に『長慶寺山古墳を発掘して』と題する簡単な報告書にまとめられているが、専門分野の指導者を欠いた発掘であったため、内容は理解にくるしむところが多い・・・」と簡単に述べています。

 なお、この前方後円墳以外の6基の古墳は、若干時代は下るものですが、出土物等詳細はわかっていません。)(no3809)

 *『加古川市史(第七巻)』・ 『考史遊記』(永江幾久二)参照

 *図:長慶寺山古墳出土の内行花文鏡(『加古川市史・第四巻』より)

◇きのう(12/11)の散歩(13.135歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする