ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(7) 中道子山城の築城者・孝橋(新五郎)繁広説

2017-02-10 10:07:27 | 地域の風を読む

 中道子山城跡の城主は、二人の城主説が考えられています。

 その一つは赤松氏則(範)築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはし・しんごろう・しげひろ)説です。

 今日は、「孝橋(新五郎)繁広説」の紹介です。

    築城者・孝橋新五郎繁広説

 赤松円心の三男は則祐(そくゆう)です。

 そして、則祐の子・義則の長男は、嘉吉の乱(かきつのらん)で知られている赤松満祐(みつすけ)です。

 嘉吉の乱および満祐の詳しい説明は、紙面の都合で、ここでは省かせていただきます。

 嘉吉の乱後、満祐は守護所の坂本城(姫路市)で幕府軍を迎え撃ちましたが、幕府軍は坂本城を攻め、これを陥落させました。

 満祐らは、少なくなった部下とともに揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの城山城は陥落、満祐の首は長刀(なぎなた)の先に貫かれ、京都で見聞されました。

 ここに、赤松氏はいったん没落しました。

    大河内満直改め孝橋新五郎繁広?

 赤松一族の支流、大河内家(天神山系)の満直が継ぎ、善坊城(加西市)に拠って、名前も孝橋新五郎繁広と改めたとする説です。

 この孝橋新五郎が、中道子城を築いたというのです。

 中道子山(城山)と善坊は目と鼻の先です。

 もう少し、説明を加えておきます。

 天神山の三代城主・大河内満政は、ある事情で赤松氏の有力な血縁でありながら幕府軍とともに満祐を討伐する側に加わっています。

 それが、幕府に認められて赤松一族でありながら明石・加古・印南の播磨東三郡を与えられました。

 その満政の子が満直です。

 (赤松)満直つまり孝橋新五郎が、播磨三郡を抑える拠点として城山を築いたというのです。

 (孝橋繁広については、地元の櫛橋繁広が赤松満政の養子となり、後に善坊の養子になり「孝橋(たかはし)」を名乗ったという説もあります)(no3476)

 *写真:城山遠景

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする