ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(14) 満政の子(満直)志方へ

2017-02-17 09:51:49 | 地域の風を読む

    大河内満政軍敗れる

 前号の復習です。山名氏と大河内満政の戦いについて『加古川市史』より、次のように紹介しました。

 ・・・幕府は説得しようとしたが、大河内(赤松)満政はこれに応じようとせず、山名軍との間に東播磨三郡の支配権をめぐり東播地方で激戦がおこなわれました。

 『東寺執行日記(文安二年正月二〇日条)には「播州合戦了」とのみ書かれていて、どこでどのような合戦があったのか、詳しいことはわかりません。 (*文安二年・1445)

 合戦は、圧倒的な山名軍の勝利に終わり、元赤松一族の有馬氏を頼ったのですが、殺害されてしまいます。

    満政の子(満直)志方へ

 その後、天神山城の城主は、満政の子の満直に引き継がれます。

 その満直は、印南郡の志方に移ります。享徳三年(1454)のことです。大河内の天神山城は、城代がかろうじて城を管理するだけの城跡のようなさびしい城となりました。

 さて、志方へ移った(大河内)満直のことです。

 志方の地元では、①満直は孝橋繁広と名を変えた。②櫛橋繁広が満直の養子なった。③また、その後加西郡善防城主・孝橋氏の養子なったなどの説があります。

 時代は、大河内満直の父が山名軍に敗れ四面楚歌の状態でした。

 ともかく、満直は大河内(赤松)の名前を隠す必要があったのでしょう。また、仲間を増やすことも必要だったのでしょう。

 そして、満直一族は、どこかに立てこもり盛り返す必要がありました。

 近くには、拠点となる絶好の山がありました。その山の頂上には、寺もありました。

 その山こそ中道子山です。ここに目を付けたのは自然のように思えます。

 城山は、志方における満直の拠点となったと考えるのです。(no3483)

 *写真:中道子山城跡遠景(注:満政の時代にはまだ城はまだなかった)

コメント (1)
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