喜瀬川
天満大池の近くで20年ばかり住んでいるという人に「喜瀬川の源流はどこですか」と、質問をしてみました。
当然のように「天満大池ですよ」の答でした。
喜瀬川の源流は、天満大池に水を供給しながら、さらに天満大池の横を沿うように流れて、長法池(ながのりいけ)が喜瀬川の源流です。
先日、「いなみ野フットパス」を片手に、天満大池から長法池まで歩いてみました。
「長法池の源流あたりは、きっと細流だろう」との思い込みがあったのですが、最後まで幅の広い、深い谷の川でした。
これは、傾斜地を流れる川の特徴で、この辺りは130㍍で1㍍低くなる勾配をつくって流れています。
急流が、河幅を広げ、谷を削ったのです。
土山大洪水
その一部を復習しておきます。
・・・1945年10月9日、喜瀬川の上流にある長法池が決壊し、上流から根こそぎ倒された松の大木が、喜瀬川いっぱいに滝のようになり天満大池に押し寄せました。
・・・天満大池から少し南にある「川池」が決壊し、続いて河原山池(天満大池の横の池)の数ヶ所で決壊が起おこりました。
・・・(水は)土山村を突き破り2.8キロ離れた旧国道に一気に押し寄せました。
その水は国道2号線でせき止められ、たちまち湖のような状態になり、付近の民家が呑み込まれたのです。
26名の人命が失われました。(「稲美町探訪・81」より)
堤防の決壊は「人災」
この時の相次ぐ堤防の決壊は、台風のせいばかりにすることはできません。
当時、日本は、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、そして第二次世界大戦と戦争の時代が続きました。
池を補修するという財政的な余裕はなったのです。
池は、無理を重ねて、いたんでいました。
池の決壊は、台風が重なったとはいえ、池のメンテナンスを怠ったつけでした。まさに人災です。
かれかわ
途中、岡と印南の境界のところの喜瀬川に架かる橋は「枯川橋」です。
地元では、印南野台地を流れる喜瀬川の部分を普通「枯川」と呼んでいます。
それも「かれかわ」と濁らずに発音します。
「かれがわ」よりも「かれかわ」の方が、よほど水がない感じです。
普段は、水のない(少ない)川です。