今日は、曇川の上流に堰を造り、寺田池に水を流した寺田用水の話です。
江戸時代の初めのころ、寺田池の水源一帯に幸竹新田などの村々が誕生し、多くの池が造られました。寺田池に十分な水が集まらなくなりました。
そのため、新しい水源が求められたのです。それが、曇川の上流から水を引くという計画でした。
しかし、曇川の水を寺田池まで引くとなると、途中の小高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。
曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。
この小高い丘を水は越えなければなりません。
そのために、曇川の上流の比較的高いところに堰をし、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。
深い高堀の跡が残っていますので、見学ください。当時のお百姓さんの息が伝わってきそうです。
万治元年(1656)、曇川に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまりました。
寛文3年(1663)、水は向山の高台を越えました。しかし、この寺田用水が曇川から取水できる期間は、曇川郷との取り決めで、毎年5月2日~6月23日までに限られました。
そのため、一滴の水も無駄にできません。寺田池を中心に10ヵ所のため池は連結され、水は有効に運用されました。
寺田用水高畑分水
この頃、平岡(加古川市平岡町)にも寺田村・野辻村・西谷新村が誕生しました。それに伴い、以前にもまして、水が必要になり、池が新たに造られました。
しかし、雨水に頼っているだけでは不十分なため、寺田用水の手前から高畑村への分水(用水)が計画され、寛文2年(1672)完成しました。
寺田用水及び、(寺田用水)高畑分水づくりには、百姓衆の汗と苦難の物語があったはずです。
記録が無く、何も語っていません。
*寺田用水物語は、平岡町寺田の松本仲夫氏の研究を参照にさせていただきました。