曇川から万歳池・凱旋池に水をポンプアップした話が『稲美町史』にあるので、2回に分けて紹介します。文章はそのままお借りしました。
万歳池・凱旋池を造る
明治37、8年の日露戦争も大勝利に終わって、国中が感激に渦中にある時分のことだった。
大体この中一色では稲作田は少なく、畑がわりあい多かった。
土地が高くて水が入らなので、主に綿などを作っていたが、これだけでは収入が少ないし、と言って他に働くにも職はなかった。
これではいつまでも貧乏から逃れないというので、村人たちが協議して、高い畑に水を入れて稲作をするために池を造ることを考えた。
若い者はもちろん、老いた者も、それから何とか働ける子供までも、村中総出でみんな畚(ふご、「もっこ」のこと)を担いで土持ちに出た。
こうして全員が一心になって努力した結果、立派な堤防もでき、池が完成した。
隣村の福沢と共に同時に二つの工事にかかったのだが、先にでき上がった福沢の池を「万歳池」と名づけ、あとからできた中一色の池を「凱旋池」と言った。
いずれも戦勝にちなんで名付けたのである。
(凱旋池の一部を埋め立て、東播磨高等学校が建てられます。挿絵は畚)
曇川から高台に水をポンプアップ
ところでこれらの池は、高い所にある畑を田にして水を入れるために造ったものであるから、当然池も高所にある。
そこで水が下から上の池へ上げなければならず、自然の降雨でたまる水だけでは間に合わない。
そこで数百㍍離れた曇川から水を引いて来て千馬力という強力なポンプを買い入れ、石炭をくべてボイラーを焚くことにし、ようやく水が上がるようになった。
村人たちはこれで綿を作っていた畑も田になって米が取れると喜んだ。
ポンプで揚げた水は、かかり田のおおい「万歳池」へは7分と、少ない「凱旋池」へは3分という具合に配分した。
*写真:中一色の水揚げ場