熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場9月文楽・・・「一谷嫩軍記」三段目

2016年09月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の「一谷嫩軍記」は、通し狂言なので、筋が明確になって、非常に面白い。
   第一部は、後で見ることになっているので、今回は「三段目」だけであるが、「弥陀六内の段」からなので、敦盛の笛の行くへが、はっきりとして、弥陀六が宗清であり、庇護している清盛の娘との関係などが分かって興味深い。
   (今回は、国立劇場のHPの写真を借用して、この文章を書かせてもらうことにしたい。)

   「弥陀六内の段」で、弥陀六(玉也)が庇護している田舎娘小雪(紋臣)が、お三輪が貴公子に恋焦がれたように、敦盛(和生)に恋をすると言う一腹の清涼剤の様な設定が面白いのだが、元々、清盛の娘と言う設定であり、最後に、義経が、弥陀六を清経だと見破って、鎧櫃に忍ばせた敦盛を、大切に育てている娘へ届けてくれと言う粋な計らいも面白い。

   今回、面白かったのは、チャリ場の連続で、舞台を沸かせていた「脇ヶ浜宝引の段」での咲大夫の語りと燕三の三味線の上手さと芸の冴え、勿論、小雪と藤の方との出会いや、青葉の笛との遭遇など感動的なシーンも感興豊かで、唯一のきりば語りの咲太夫の登場に納得した。
   

   ところで、「文楽へようこそ」で、玉男が、好きな演目の第二位に、この熊谷を上げている。
   見せ場は、何といっても、熊谷が軍扇を駆使して、須磨浦で、敦盛と一騎打ちを語る「物語」の場面でしょう。右手で遣っていた軍扇を左手に持ち替えて「要返し」をして、足遣いは棒足で決まると言う型が難しい。と言う。
   また、制札で藤の方(勘彌)を押さえて、義経(幸助)に敦盛の首を差し出す「制札の見得」の辺りは、長袴姿を格好良く遣うためには、左遣い、足遣いの実力も必要である。とも言う。
   私など、あの能「屋島」の那須与一語もそうだが、居語りなどの語りのシーンにはそれ程目が行かなくて、派手な「制札の見得」のような見せ場ばかりに注意が行くのは、鑑賞が未熟な所為でもあろうか。
   


   さて、あの名文句の「十六年も一昔」だが、先に次のように書いた。
   英太夫と團七の浄瑠璃と三味線に乗って、勘十郎の熊谷が、手に持った兜を眺めながら、「十六年も一昔。夢であったなァ」
   万感の思いを込めて歯を食いしばって泣いている。

   この部分は、文楽の場合には、浄瑠璃本来の床本通りの演出だが、普段の歌舞伎の舞台とは、大きく異なっている。
   歌舞伎も、本来のの幕切れは、文楽のように、いわゆる、芝翫型、役者全員が舞台上にいて幕となった引張りの見得であったのを、七代目團十郎が、今日のように、熊谷ひとりが花道に出て、幕を引かせ、天を仰いで、「十六年は一昔、アア夢だ。」と独白して、ひとり花道を引っ込む團十郎型を見せて、これが、踏襲されている。
   今回の芝翫襲名披露公演では、橋之助は、芝翫型を演じて、面白い舞台を見せてくれるのであろう。

   ところで、この團十郎型だと、浄瑠璃本来の幕切れで相模と共に引っ込む演出とは、大分、ニュアンスが違ってくる。
   このあたりを、團十郎型の吉右衛門は、自著「歌舞伎ワールド」で語っていて興味深い。
   ”「十六年は一昔」は、出家した熊谷が、脇目もふらず陣屋を立ち去ろうとしたのに、義経に「コリヤ」と、小次郎の首をもう一度目におさめておけと、と呼び止められて、思わず口をついて出たつぶやき、・・・「もう何も思い出したくない。振り返りたくない」という心も一方にはあって、でも、あの首がどうしても視野に入って・・・”と言う。
   
   私自身は、熊谷が出家を決意したのは、自分の子供小次郎を敦盛の身代わりにしたことだけではないことは、一ノ谷の波打ち際で、敦盛を組敷いて首を討たざるを得なくなった時に、戦いの不条理と世の無常を感じて心で慟哭していたことを想えば、良く分かる。
   勘十郎の熊谷のように、小次郎を討ったことは断腸の悲痛だが、熊谷の誇りであり生きがいであった筈の武士を兜で象徴して、人生のすべてを見切って、「十六年は一昔」と苦しい胸の内を吐露して、最後には、妻の相模(清十郎)を伴って幕に消えて行く、これが、本来のように思う。
  英太夫と團七の浄瑠璃と三味線、勘十郎の人形が、万感胸に迫るシーンをうつしだして感動的である。

   前回、私は、大阪での玉男襲名披露公演で、玉男の熊谷陣屋の雄姿を鑑賞した。
   あの時は、女房相模を吉田和生、敦盛の母・藤の局を桐竹勘十郎であった。
   もう一度、11年前に見た熊谷も、玉女の頃の玉男であったので、勘十郎の熊谷を観るのは、初めてである。
   この時も相模と藤の方は、同じく和生と勘十郎が遣っていた。
   私は観ていないのだが、6年前の文楽劇場では、勘十郎が熊谷を遣っていて、今回は2度目と言うことであろうか。
   全く記憶はないのだが、小劇場へは、20年以上、殆ど間違いなく通い詰めているので、先代の玉男や文吾の凄い舞台に接する機会もあったのであろう。
   
コメント
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