熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

秀山祭九月大歌舞伎・・・狂言「長光」が歌舞伎「太刀盗人」に

2016年09月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昨日と今日、歌舞伎座の秀山祭九月大歌舞伎昼の部、国立能楽堂定期公演、国立劇場文楽第二部を続けて観る機会を得た。
   2日目の能が終わって、千駄ヶ谷から半蔵門の国立劇場へ、40分で移動するのが、大変であったが、前回、開演時間を間違えて、遅れて会場に行き、住大夫と簑助の「三番叟」をミスったので、今回は、是非にも観たかった。

   今回、興味深いと思ったのは、異種の古典芸能が、同じ主題や話を内容とする舞台を演じていて、その違いや差の面白さを感じたことである。
   能「敦盛」と文楽の「一谷嫩軍記」が、敦盛をテーマとしていること、歌舞伎の「太刀盗人」が狂言の「長光」からの脚色、そして、文楽「寿式三番叟」が能「翁」の異色バージョンであること、などである。
   
   まず、歌舞伎の「太刀盗人」について書いてみたい。
   オリジナルは、能の「長光」。次のようなストーリーである。 
   京に滞在していた田舎者が、故郷への土産を買おうと市場で品定めをしていると、そこへ、すっぱ(詐欺師)が現れて、田舎者の持っている立派な太刀に目をつけて盗もうと考える。すっぱは、田舎者にすり寄って、太刀の下げ緒を見物しているふりをして自分の体に結んでしまい、自分が穿いているのだから自分の太刀だと言いがかりをつけたので、ふたりは口論する。そこへ、所の目代(お代官様)がやって来たので、仲裁に入る。目代は太刀の持ち主を調べるために、太刀の国や作、地肌、焼付けの様子などを尋ねる。田舎者が最初に大きな声で目代に言うのを、すっぱが盗み聞きして鸚鵡返しに答える。聞かれているのが分かったので、太刀の寸尺を田舎者に耳元で答えさせる。ところが、すっぱは答えることが出来ないので悪事が露見する。すっぱの上着を剥ぐと、盗品が体に巻き込まれているので泥棒と分かって、目代と田舎者は、逃げるすっぱを追いかけて行く。

   狂言には、このすっぱが登場する曲が結構あって、「茶壷」などは、茶壷を背負った男が道で寝込んでいると、すっぱが添い寝して、背負い紐を片腕に通して、茶壷争いをすると、そこに目代が登場して仲裁に入るのだが、すっぱが盗み聞きを鸚鵡返しに答えるので、目代が判定に困ると言う話など、殆ど同じ展開である。

   ところで、歌舞伎の「太刀盗人」は、この狂言の「長光」を踏襲して殆ど同じ展開ながら、刀の長光を、「正宗」に代えて、舞台で、大仰に、漢字をなぞる仕草を交えて面白い。
   狂言が歌舞伎の舞台に脚色されて演じられると、松羽目のバックながら、長唄囃子連中などが登場して、踊りが加わったり舞踊劇に変ったりして、華やかな豪華な演出となって、見せて魅せる陽気な舞台となる。

   この舞台では、太刀の故事来歴などを説明するのに、踊りで表現すると言う粋な趣向を凝らしているので、聞いて鸚鵡返しで応えると言う手法が使えないので、すっぱは、田舎者の仕草を真似ることになり、半テンポずつ遅れて踊るので、そのすっぱの狼狽とちぐはぐぶりが面白い。
   登場人物も、狂言では、すっぱ、遠国の者、目代の3人だが、歌舞伎では、すっぱの九郎兵衛(又五郎)、田舎者万兵衛(錦之助)、目代丁字左衛門(弥十郎)のほかに、従者藤内(種之助)が登場して、面白い味を出している。

   さて、ラストシーンだが、この歌舞伎では、上着を剥がれて悪事露見までは同じだが、目代が田舎者に返した太刀を、すっぱが奪い取って、目代たちを蹴飛ばして、逃げて行く。と言うことになっている。
   記憶違いか、他の狂言か、記憶は定かではないのだが、二人の争いの埒があヵないので、目代が太刀を持って退場すると言うバージョンもあったように思う。
   噺家によって違う落語のオチと同じで、ラストのサゲは、時代や流派によっても違うようで、非常に興味深い。

   上質なコミカル・タッチの歌舞伎では、又五郎の右に出る役者は恐らくいないであろう、亡くなった三津五郎との舞台を見て、非常に面白いと思った。
   今回も、顔を田吾作風に描いて、如何にもすっぱそのものの出で立ちで、とぼけた調子で登場しただけで、笑わせる。
   
   又五郎の「籠釣瓶」の治六などは、正に絶品だと思うのだが、狂言から歌舞伎の舞台になっている「釣女」の太郎冠者、「靭猿」の女大名三芳野、「身替り座禅」の太郎冠者、連獅子の「宗論」の僧侶などでも、器用に演じていて面白かった。
   「宗論」では、浄土僧専念を錦之助が、法華僧日門を又五郎が、コミカルに演じて、今回の様な二人の掛け合いが、実現していたのだが、二人とも、凛々しい武士を演じさせれば、実に格調の高いほれぼれするような素晴らしい芝居をするので、舞台毎に器用に演じ分けるその芸の冴えを、何時も注目して観ている。

   目代の彌十郎も、「棒縛り」など面白い芸を見せてくれているのだが、最近では、更に風格と貫禄が出て来て、この目代など適役である。
   それに、又五郎の次男種之助が、親譲りの達者な芸を披露して、中々面白く、舞台に厚みを加えており、チョイ役の筈の追加登場人物以上の貢献をしており素晴らしい。

   能楽堂の、三方吹き抜けの一辺約5.5メートル四方の「本舞台」で演じられる狂言の「長光」は、あるのは小道具の太刀だけと言う、非常にシンプルでストレートな諧謔とアイロニーに満ちた会話だけの研ぎ澄まされた舞台。
   それに比べれば、歌舞伎は、大舞台で演じられるうえに、豪華でカラフルな長唄と三味線がリードする囃子に乗った 華やかな舞踊劇。
   歌舞伎の方が、大掛かりになっているので、上演時間も少し長くなっているのだが、同じ笑いでも、舞台が変れば、味わいも違ってくる。
   
   
コメント
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