窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

第52回YMSを開催しました

2014年11月14日 | YMS情報


  11月12日、mass×mass関内フューチャーセンターにて、第52回YMSを開催しました。

  今回の講師は、浜銀総合研究所の本城直樹氏。2010年(平成22年)の横浜銀行設立90周年記念事業で歴史関連施策を担当されたことがきっかけで、現在も横浜の歴史研究をライフワークとして取り組んでいらっしゃるそうです。



  今回も内容が盛りだくさんで、ここではお話しいただいたことのほんの一部だけご紹介したいと思います。

1.横浜村の場所



  現在は約369万人の人口を抱える横浜ですが、開港までわずか101戸の寒村だったことは良く知られています。その横浜村があった場所ですが、上の写真の赤い枠で囲った小さな半島状の地域にありました。文字通り、横浜だったのです。

  現在、横浜といえば名前が出てくる、関内・伊勢佐木町などは17世紀前半、徳川幕府四代将軍家綱の頃まで内海でした。ちょうど当社の事業本部近く、南区蒔田町あたりまでが海で、大岡川の河口はこの辺にありました。今でも夏になると大岡川はクラゲが大発生したりしますが、それは蒔田より先が元々海であり海水が入り混じっているためです。

2.吉田新田



  横浜の歴史は埋め立ての歴史といっても過言ではありません。その埋め立ては1656年(明和2年)の吉田新田干拓から始まりました。上の写真のオレンジ部分が吉田新田です。吉田新田と海の境が、今の伊勢佐木町大通りですが、この通りが直線なのはここに干拓のための潮除堤が築かれたためです。因みに、干拓事業を行った吉田勘兵衛の子孫は今でも横浜にいらっしゃいます。

3.関内とはどこのこと?



  今ではJR関内駅付近を一括りにして「関内」と呼ばれたりしますが、正確にはどこのことを指すのでしょう?上の写真のオレンジ部分、JR関内駅から石川町駅の間の、JR根岸線より海側の地域が関内です。この地域は横浜開港後に外国人居留地造成のために埋め立てられたところで、大岡川と派大岡川(現在は首都高速道路)、堀川という運河で囲まれた出島のようになっていました。この出島と外の地域を往来するための橋には関所が設けられ、その関所の内側ということで「関内」と呼ばれるようになったわけです。つまり、関所の外は「関外」、伊勢佐木町などは吉田橋の外ですから関外になります。元町も関外、中華街や馬車道は関内です。

  なお、関内は現在の日本大通りを境に外国人居留地(赤枠部分、現在の山下町あたり)と日本人商業地区(黒枠部分、現在の本町あたり)に分けられていました。また、開港にあたり元々横浜村に住んでいた村民が移住した地域が現在の元町になります。

4.日本一古い銀行「横浜銀行」

  横浜銀行のルーツをたどると、1920年(大正8年)に設立された横浜興信銀行になりますが、この横浜興信銀行は1928年(昭和3年)に1869年(明治2年)設立の横浜為替会社を母体とする第二国立銀行を引き継いでいます。国立銀行条例により第一国立銀行ができるのが1875年(明治8年)ですので、それより古い、日本一古い銀行ということができます。

5.原富太郎(三溪)

  横浜の偉人というとき、原富太郎を抜きには語れません。原富太郎は元々美濃(岐阜県)の生まれですが、横浜一の生糸売込商であった原善三郎の養子となりました。原は廃仏毀釈の風潮の中、失われつつあった日本の文化的建築を自宅であり現在も残る「三溪園」に移築して守ったほか、その三溪園を38歳の時には一般に開放しています。また、第二国立銀行頭取、横浜電気鉄道本牧線(後の横浜市電)開通に尽力、金融恐慌の際には無報酬・無配当で横浜興信銀行初代頭取に就任。関東大震災で横浜が壊滅した際には、横浜市復興会会長を務め、震災復興に尽力しました。また、1902年(明治35年)から1939年(昭和14年)まで、今年世界遺産に指定され話題となった富岡製糸場の経営も行っています。

  まだまだ語り尽くせいないのですが、ここまでにしたいと思います。

過去のYMS活動レポートはこちら

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 島田亜紀子さんディナーコン... | トップ | 【診断事例18】実直な努力家 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

YMS情報」カテゴリの最新記事