河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

思い出のスポーツカー列伝

2022-02-26 08:53:20 | 自動車
懐かしのカメラを書いた勢いで、
今度はスポーツカーを懐かしんでみたいと思います。
年代的には、だいたい1963、64年以降でしょうか。



私は一度もスポーツカーを所有した事はありませんが、乗った事はあります。
最初に乗った(自分で運転した)のが、フェアレディーでした。
この当時はニッサンと言わずに、ダットサンと呼んでいたのかな?

運転してすぐに感じたのは、
「こいつは紛れもなくスポーツカーだ」という事でした。
いわゆる乗用車とは違う無骨さで、それを操る楽しさがありました。
ただ私が乗ったのはオープンカーに幌を装着した物だったので、
やたらに幌がガタついて「うるせー車だな」とやや閉口しました。



しかし当時、本物の(いわゆる外車のMGとかにうつつを抜かす)マニアからは、
「あんなのスポーツカーじゃね~よ」などと影口を叩かれたフェアレディーでしたが、
それからの快進撃は物凄いものがあり、
後年に出た新型フェアレディーは世界一になったのです。

何が世界一か?
その販売台数が世界一に輝いたのです。
その事は、今までのスポーツカーの常識を一変させ、
スポーツカー史上画期的な車になったのでした。

つまり過去の常識は、スポーツカーとは暖房も冷房もラジオすら無い、
ただ操縦する事だけを純粋に味わう為の車だったのです。
それがフェアレディーは冷暖房完備、ラジオもステレオさえも付いている、
快適な乗用車の常識を、そのままスポーツカーに持ち込んだのでした。
それが世界的に大ウケし、世界一になりスポーツカーの常識を変えてしまったのでした。

その頃にはこんな車も、スポーツカー的に考えられていました。



日野のコンテッサ・クーペ。
あの大型トラックメーカーの日野も一時は乗用車を造ったりしていたのですが、
そのスポーツカー版を語った車で、
私も一度運転した事があるのですが、
フロントのタイヤハウスを避ける為に、運転席が斜めになっていて、
ドライバーは足を車の真ん中に向けて運転するという、何とも不思議な車でした。



スカイライン・クーペ。
このデザインは、世界的な巨匠デザイナー、ミケロッティーだったかな、
何となく鳴り物入りでプリンス自動車が発表したという感じがありました。
でも、あまり見かける事もなかったですね。
私はこの時代の。こういった、
(日本にも遂にスポーツカーを所有できる時代が来たんですよ)
みたいな涙ぐましい日本人魂のたかぶりを感じると、
あの頃の日本人って、みんな頑張ったんだな~と可愛く思えます。



ベレットGT。いわゆるベレG。
日野と同じで、大型トラックメーカーのいすゞも乗用車(ベレット)を造っていました。
それのスポーツカーがベレG。
みんな、如何にスポーツカーという欧米の文化に到達したいという願望が強かったか。



ホンダ・S500。
これを見た時に私は「日本にもカッコイイ車が出来たもんだ」と思いました。



トヨタ800。いわゆる、ヨタハチ。
ホンダにしろヨタハチにしろ、現在見ると、その小さい事に驚かされます。



トヨタ・セリカ。
ありましたね~。私の知人がこれを所有していましたが、
彼は根っからの飛ばし屋で、東名に行くとまず200キロオーバーが普通とブッ飛ばしていました。
彼の奥様は亭主の飛ばし癖を諦めて、ただひたすら助手席で下を向いて観念していました(涙)





トヨタ2000GT。
007の映画で、ボンドカーにもなり世界的に有名になった名車でしたが、
これはあまりにも高過ぎて一般の人には手が出ませんでした。
現在、これを綺麗にレストアした車は1億円します。





数あるスポーツカーの中で、私が最も欲しかったのは、
プリンス・スカイライン2000GTでした。
1500の乗用車の前を伸ばし2000のエンジンを無理やりぶっ込んだ奴。
キャブレターは、ウェバーだったかソレックスだったか(忘れた)
直列6気筒に強力にガソリンを叩きこんだその咆哮音にはしびれた。
運転した事もありますが、
その当時18歳でまだ未熟な私には扱い切れませんでした。

今だったらその性能をかなり出せるとは思いますが、
私は本来、静かな車が好きみたいで、
こういったけたたましく、やかましい車は合わないと今は思います。
エンジンがかかっているのか止まっているのか?
そういった音も振動も静かな車が今は好みで、
かつてのスポーツカーは(若気の至り)みたいなものです。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の懐かしいカメラ

2022-02-24 15:29:14 | 写真


私のカメラ歴は、ヤシカ・エレクトロ35から始まりました。
自分でお金を出して初めて買ったカメラです。
しかし、標準色ではなく、あくまでもブラック(黒色)にこだわりました。
それが如何にもプロ的に見えたからです。(可愛かったね)
このカメラでは仕事先の各地で風景写真や自撮り写真を沢山撮りました。



その内に、いわゆる芸術写真に目が向いてきて、一眼レフがやはり欲しくなり、
選んだのは、アサヒ・ペンタックスSPでした。
それは後になって思うと、あまり理想的なカメラではなかったのですが、
私に色々な撮り方を教えてくれた懐かしいカメラです。



ペンタックスを離れた私は、いよいよニコンへと流れて行くのですが、
そんな中で一度だけ中型カメラを買いました。
それが、アサヒペンタックス6×7です。
あの重量感と、バシャッと響くミラーの反動音が素晴らしかった。

それにしても、カメラがフィルムからデジタルへと圧倒的な進化を遂げ、
もう二度と手に入らなくなってしまったカメラの多い事。



東京光学製の、トプコンREスーパー。
かなり高価な一眼レフでしたが、一度も見かけた事のないカメラでした。



コーワ(興和)SW。レンジファインダーですが、
28ミリの超広角レンズが固定されていた珍しいカメラでした。
現場監督が工事の証拠写真を撮るのに多用されたカメラでした。





マミヤは、こういった独特の中型カメラを作っていましたね。
これらのカメラはそれなりに見かけたものです。



ゼンザブロニカの6×6カメラ。
ハッセルブラッドが高くて買えない中型カメラファンから支持されました。





リコーは今ではコピー機が有名なのかな?
というか同じメーカーだったんだろうか?
あまり見かけないカメラでした。



富士フィルムも昔はカメラを作っていたんですよね。
今はどうなっているのか知りませんが。



ミランダ・・ありましたね~。
でも私は一度も見た事はありませんでした。



オリンパスペン。他のメーカーは何処も手をつけなかった、
ハーフサイズの一眼レフでした。
友人に持っている男がいましたが、36枚撮りが、72枚も撮れるカメラでしたね。



ペトリ。安さが売り物のカメラで、
写真入門の高校生あたりが持っていそうなカメラでした。
大人が持つとチョッと気恥ずかしい思いがしそうでした。

本当に懐かしい。
フィルムが無くなり電子になった時点で、カメラの形態は圧倒的に変わってしまい、
もうこういったカメラは中古店でしか見かけません。





私はカメラマニアではないので、
カメラを収集したり執着したりといった気持ちは無いのですが、
たった1台だけ、今でも欲しいと思うカメラがあります。
スイスの小型映画用カメラの、ボレックスです。
このカメラだけは手に取って触り、頬ずりをしたいくらいです。
新品というのは、多分もう製造していないと思うので、全部中古ですが、
大体の相場で20万円前後みたいです。
でも、それを買ってもただ眺めているだけなんですね。ヤレヤレ。


コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷輝彦・・癌とは戦うべきなのか

2022-02-24 14:01:24 | 健康


西郷輝彦が75歳、癌で亡くなりました。



橋幸夫・舟木一夫と共に、御三家と言われましたが、
3人の内で最も若い彼が、皮肉にも最も早くに亡くなってしまいました。
10年も前に最初の癌を発病し、手術を繰り返し、
一時は完治したとさえ言われたそうですが、やはりというか転移したのですね。



彼のヒット曲は沢山ありますが、
私が最も好きだったのは「我が青春」でした。
「♫ 夢も希望も青春の、嵐と共に消えてゆく、
熱い血潮が涙を呼べば、それが若さと知るや君」

癌という病気は国民病と言われますが、本当にしつこい病気ですね。

私が36歳の時、働いていた会社の男性が癌で亡くなりました。
彼はその時、私と同じ36歳でした。
彼の父親は既に80歳を超えていましたが、
何の宗教かは知りませんが「宗教の力で治してやる」と言っていました。
そんなセリフが出るくらいになったら、もう望みは無いのですね。
それから間もなく彼は亡くなりましたが、
入院して、一時退院してきた時に、目をうっすらと滲ませながら職場内を眺め、
淋しげにたたずんでいた彼の姿を忘れる事はできません。
たった36歳で消えてゆく自分がどれほど悲しかったでしょう。

10年くらい前だったか、仕事関係の男性が癌になりました。
詳しくはよく知りませんが彼は独り身だったみたいです。
当時70歳くらいだと思います。
以前は結婚していたのかもしれませんが・・・
癌を発病した彼がどうしたか?
彼は一切の治療を放棄したのです。
癌はどう頑張って治療しても、結局は数年しか保たない、そう踏んだのでしょう。
家族も居ない独り身の70歳男の人生の終焉を彼は選んだのでした。
そしてその通りに1年も保たずに彼は終わって逝きました。

歌声でも、自分が癌になった時、西洋医学での治療を選ばずに、
民間医療を頼った男性がいました。
西洋医学の医師ですら、癌治療はすべきではないと本に書いている医師もいます。
そんな具合ですから、民間療法に走る人がいても不思議ではありません。
しかし完治はせずに段々と具合が悪くなり、
病院に行ったら既に末期癌と診断され、ほどなく亡くなってしまいました。



格闘家として名高い「山本キッド」が、やはり癌になりました。
魔裟斗(まさと)との年末の試合は世間を熱狂させましたね。
体格が二回りも上の魔裟斗からダウンを奪う強さを見せつけました。
彼はフィリピンだったか?外国へまで治療に行きましたが、
やはり癌には勝てず41歳の若さで逝ってしまいました。

西郷輝彦もオーストラリアへ治療に行き、
一回の治療費が160万円とかの治療を受けたのですが、
結局はダメでした。
そうなると、一切の治療を放棄した、あの男性が正解だったのか?
10年に渡る苦痛の病院治療の時間と、高額な治療費と・・・
それらを考慮したら、家族に迷惑をかけずに早く死んでしまった方がいいのか?

西郷輝彦の死を考えると、いずれは私も何らかの病気になるんでしょうから、
考えざるを得ないな、そういった複雑な想いがしたのです。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンケルクの奇跡

2022-02-24 06:04:28 | 軍事
【ダンケルク撤退作戦】映像と解説 / イギリス国民の愛国精神と奇跡の救出劇 - 第二次世界大戦


1939年(昭和14年)9月。
ポーランドに侵攻したドイツ軍は、瞬く間に勝利し、
その勢いで突如、オランダ・ベルギー・ルクセンブルグに侵攻、
これらの国も瞬く間に席捲して北フランスへ軍を進めます。





ドイツ軍は圧倒的な数の戦車と航空機による電撃作戦により、
フランス・イギリスの連合軍を撃破し、
遂にフランス・イギリス間の、ドーバー海峡近くの港町ダンケルクへ連合軍を追い詰めました。
40万といわれる彼等、連合軍兵士達は迫り来るドイツ軍により、
いよいよ風前の灯火、袋のネズミとなってしまったのです。













ここでドイツ軍に対し断固徹底抗戦を叫ぶイギリス首相チャーチルは、
彼等を救出すべく「ダイナモ作戦」の発動を命じました。
イギリスから駆逐艦・貨物船・漁船・遊覧船・ヨット、
ありとあらゆる船舶を総動員しての救出作戦を命じたのです。





これをドイツ軍が見逃す筈はありません。
航空機による徹底的な爆撃を敢行します。



これに対し、イギリス空軍も彼等を護るべくドイツ機に空中戦を挑みました。
浜辺で決死的な救出作戦をしている兵士たちは、
上を見上げる隙もなく、その空中戦にはあまり気づいていない様でした。
しかし、ドイツ機が132機を失ったのに比べ、
イギリス機の損失は474機という不利な空中戦で彼等を必死に護っていたのでした。

ダイナモ作戦開始当初は、悲観的に見られていたのですが、結果的に大成功となり、
34~40万人と言われる連合軍兵士の救出は成し遂げられたのでした。
それは「ダンケルクの奇跡」とさえ言われました。
しかし、兵器、戦車・重火器の全てを放棄せざるを得ずにでの撤退は、
その後のイギリス軍を兵器不足で悩ませたのでした。

ダンケルク救出作戦でドイツ軍に対するイギリス国民の士気は大いに高まり、
「ダンケルク、スピリット」・・
(イギリス国民が団結して逆境を克服しなけらばならない時に使うフレーズ)となり、
その合言葉は、現代のイギリスでも使われているのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本が世界に誇る国民車・軽トラ

2022-02-23 10:43:52 | 自動車
日本が世界に誇る国民車・・言う事が大袈裟ですね~。
でも、それって何だと思いますか?



かつてドイツには世界が認めた国民車がありました。
あまりにも有名な、フォルクスワーゲンですね。
なんせ、ヒトラーがその生産を促進したというくらいの歴史があるのですから。



日本にはそのフォルクスワーゲンの販売台数を超えたという、とんでもない車があります。
それはトヨタの大衆車、カローラです。
フォルクスワーゲンの様にスタイルの一貫性はありませんが、
その時代に合わせたスタイルで顧客層を掴み、世界一の販売台数に達しました。

しかし、販売台数ではカローラには敵いませんが、
これぞ、日本というお国柄を象徴する国民車として、
私は「軽トラック」という車を挙げます。

軽四輪という車種は、日本という国が生み出した優れモノだと思います。
最初はエンジンの排気量が360ccまで。
全長は3メートル、全幅は1,3メートルまでという小ささでした。
しかし徐々に時代に合わなくなってきた為に、
現在は、排気量は660ccとかなり大きくなり、
寸法も、全長3,4メートル。全幅1,48メートル。高さ2メートル、定員4人となり、
以前の、小さ過ぎる車体より、かなり使いやすくなっています。

軽四輪というと、それは大体乗用車を指すのかも知れませんが、
私が国民車として挙げるのは乗用車タイプではなく、
あくまでもトラックの方です。











都会を離れ、チョッと農村に足を踏み入れた途端、
私達が見るのはこういった風景。
まるで軽トラが当たり前の様に風景に溶け込んでいるのです。
それはバイクの(スーパーカブ)がまるで空気の様に風景に溶け込んでいるのと同じで、
軽トラもまた、日本の風景そのものになっているのです。
これこそ国民車だと私には思えるのです。





6年前に行った、八ヶ岳倶楽部。
八ヶ岳山麓の原野を開墾し、観光客が訪れる様にした、俳優の柳生博さん。
あの時は確か79歳だったかな。
その柳生さんが言ってましたが、
「軽トラは面白いよ~、一度乗ってみな」と。
彼は八ヶ岳倶楽部を造るので散々軽トラに乗って、その面白さに気づいたのでしょうね。
私は乗った事は無いのですが、分かります。





そして、軽トラの上半分をぶった切ったオープンカー。
これで農村地帯を走り回ったら、
それは高速道路をフェラーリのオープンカーで走るより、何倍も面白い気がします。
ね、そう思いませんか、絶対楽しいよ、軽トラ。
日本が世界に誇る国民車は、軽トラで、決まり~ッ!






コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする