河童の歌声

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フレームザック

2017-08-16 10:26:00 | 登山


かつて、フレームザックなるリュックがありました。
今でもあるのかも知れませんが・・
私も一時期これを使った事があります。



大昔、登山者たちが担いでいたザックは、キスリングと呼ばれる、
帆布で出来た横長のザックでした。
それは、私が登山を始める以前の代物で、
ただ単に帆布の袋でしかありません。

その袋にどうやって登山用具を詰め込んでいくかは最大のテクニックが要りました。
軽い物は下側に収め、重い物は上に詰めていくのですが、
それでも常時必要になる物は、上に詰めなければなりませんでした。



キスリングを形が良く整える事で、その人の登山歴がばれてしまいます。
下手な人のザックは形もバランスも悪かったのです。
私が登山を初めた頃にも、まだキスリングを使っている人は珍しくはありませんでした。
また、大学の山岳部の連中は、わざとキスリングを使って、
用具の収納やバランスの勉強をさせている所がありました。

穂高岳の下りで、私がほぼ下り切った夕暮れに、
大学の山岳部の連中10人くらいが大型のキスリングを背負って、
掛け声をかけながら、これから穂高を目指して登って行くのに出会いました。
「あ~、やだな~、大学の山岳部なんて死んでも入るもんじゃないな」と、
必死の形相の下級生を見ながら痛感したものです。



そういったキスリングに比べて、
フレームザックは最初から箱型に形が整えられているので、
用具をテキトーに放り込むだけで良かったのです。
ファスナーが所々にあるので、横からでも荷物を取り出せるし。

また背中がザックと直接触れずに間が開いている感じも、
汗をあまりかかずに快適なイメージがして、とても魅力的に思えたのです。



それで私もフレームザックを買い込んで、
晴れ晴れとした思いで山歩きによく使いました。

しかし、フレームザックにはとんでもない落とし穴があったのです。

日本の山には結構倒木があるのです。
台風の後などに登山すると、登山道に木が倒れているのです。
そういった箇所になると、当然倒木を跨いだりくぐったりしますが、
くぐる場合が難点なのです。

上にあるフレームが木をくぐった筈だと思ったのに、
くぐり抜けられずにガーンと引っかかるのです。
いきなり急ブレーキをかけられた状態でストップさせられてしまうのです。

それでもそれはまだいいのです。
問題は、岩場の下りなのです。
それはビックリするなんて事では済まずに生死に係わるのです。
ある時、岩場を降りていました。
その時、下側のフレームがコツンと岩に当たったのです。
それにはビックリどころか泡を喰いました。
後からいきなり背中を押されたと同じなんですから。

「冗談じゃないよ、これじゃ死んじゃうよ」
それ以来、私はフレームザックを使う事はありません。
捨ててしまいました。

フレームザックというのは、
あくまでもトレッキング・・山麓を歩くザックであり、
本格的な登山などで使うべきでないザックだと思い知りました。

今でもあるのかどうかは知りませんが、懐かしい。
(エバニュー・バックカントリー)なんてカッコ良かったからな~。
でも穂高に行ったら命とりになるザックでしたね。


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我が永遠の穂高岳

2017-08-11 22:52:31 | 登山
今日は「山の日」という事で、
NHK・BSでは、ドローンを使った北アルプスの番組をやっていました。



鏡平・鏡池からの有名な槍ヶ岳の写真です。

鏡平から双六岳、三俣蓮華岳~槍ヶ岳~南岳~大キレット~北穂高岳というルートでした。
ドローンという新兵器は過去は絶対に見る事のできなかった、
物凄い映像を見る事の出来る、本当に凄い優れものですね。
それは有人のヘリコプターにも出来なかった映像を撮る事ができます。
無人だからこその危険地帯にも平気で入り込めるのですから。

私もこのルートを歩いた事があります。
その頃は正確な日記など書いていなかったので、
どっちからどっちに向かったのかもうろ覚えなんですが、
行った事は間違いなくあるのです(情けない)

槍ヶ岳も2回だったのか3回だったのか正確な記憶が無いのです。
本当に情けないし、勿体ない事をしたもんです。



槍ヶ岳山荘と槍ヶ岳の頂上。

山荘から頂上までは混んでなければ30分で登れますが、
人が混雑してくると、小一時間かかったりします。
私は、初めて頂上に立った時は小雨で何も見えなかったので山荘から手ぶらで登ったのですが、
頂上に行くと見る見るうちにガスが切れ大絶景が見えてきたのです。



それどころか、生まれて初めての(ブロッケン現象)に遭遇したのです。
しかし、それを撮るカメラは山荘に置いてきているのです。
「あ~、なんという事だッ!」
おまけに山頂には、私以外に2人の男たちが居たのです。
「こいつらさえ居なければ、俺だけの頂上だったのに」
私はそいつらを蹴飛ばして叩き落したくなりました。



穂高は私が最も愛した山でした。
穂高さえあれば他に何も要らないという山でした。
と言っても、数えきれない程とかのレベルではなく、
ほんの数回でしかありません。

でも、奥穂高岳からの大展望は(日本一)だと私は思っています。
穂高岳には北穂高・前穂高・奥穂高・西穂高の4つのピークがあります。



西穂高岳。

ここから西に2時間だったかな?の所に西穂高山荘があります。
殆どの人はこの西穂高岳で、山荘に引き返します。
ここから先は、あまりにも危険で長丁場なのです。
山荘から東の奥穂高岳までが、北アルプス最難関ルートで、
コースタイムは8~10時間ですが、
当時59歳の私は12時間歩き尽めで奥穂高山荘に夕方の4時に着きました。

それを成し遂げた時は、精も根も尽き果てて、テーブルの上にぶっ倒れて、
10分間くらいは身動きひとつ出来ませんでした。
でも、その達成感、その感動は今思い出しても・・凄かった。
あれだけの達成感と感動は、私の人生では、もう多分、無いでしょう。



ジャンダルム。
この映像を見て感動しない山男は、まず居ないと・・私は思うのです。
ジャンの頂上に数人の人が立っているのが見えますね。



奥穂からジャンダルムに向かうパーティー。
ここには(馬の背)と呼ばれる危険な場所があります。

ジャンダルム・・衛兵(奥穂高岳を護る衛兵)という意味のフランス語。
これを誰がフランス語で名付けたのか?
これが〇〇岳などと名付けたら、まるでつまらない印象だったでしょうね。
奥穂高岳から一時間の行程ですが、それは超危険ルートで、
私は奥穂高からは空身(手ぶら)で行ったのと、
逆に西穂高から登ったのと2回登りました。

奥穂高岳からの山岳風景が日本一だと思うのは、
このジャンダルムと、反対側に見える槍ヶ岳があるからです。
その山岳風景はまさに(日本一)の大展望です。



これは、前穂高岳です。

このノコギリの様な形が、いわゆる(前穂北尾根)で、
昭和2年に、山をやる人は多分知っている「大島亮吉」が墜死した尾根です。

槍穂高全山縦走は59歳の時でした。
その後、後立山連峰縦走などに挑戦したのですが、
何故か身体が変化してしまい、(浮腫み)が出る様になってしまったのです。
大学病院などで精密検査をしても原因は判らず、
一旦浮腫みが出てしまうと、もうパワーなど出なくなってしまい、
それ以降、激しい登山の意欲は無くなり、
低山歩き(もともと低山歩きには、あまり興味もなく)も、
行かなくなってしまいました。

しかし、久しぶりに登山の意欲をかき立てられる様な番組を観てしまうと、
「俺はまた、あの奥穂高に行きたい」と・・思うのです。
本当に、奥穂高岳からの風景は・・日本一。
あそこに立ったら、死んでもいいと思うくらい、いいんです。

俺はもう一度、奥穂高岳の頂上に立ちたい。



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風雪のビバーク・・松濤明

2017-08-03 09:48:28 | 登山
雪山に消えたあいつ ダーク・ダックス


歌声喫茶でも時々唄われる「雪山に消えたあいつ」
私は、この歌を聴くと、松濤明を想い描きます。



松濤明は昭和24年に北アルプスの槍ヶ岳で逝った登山家です。
彼の生涯は「風雪のビバーク」という本になり、
彼が最期にしたためた遺書は、あまりにも有名なのです。

槍ヶ岳に行く為には、4つの方角からの道があります。
東からの東鎌尾根。
これは、北アルプスの入門的で代表的なルートで、
いわゆる「表銀座縦走コース」と言われる、
中房温泉から燕(つばくろ)岳を辿るルート。
私の槍ヶ岳・初登攀もこのルートからでした。

その反対側には西鎌尾根。
これは三俣蓮華岳を経て、富山県側に至るルート。

そして、南側に南鎌尾根。
これは危険な大キレットを経て穂高岳に至るルート。
私は、槍穂高全山縦走の時など2回経験しています。

さて、北側に登山道はありません。
その道なき道が、松濤明が逝った(北鎌尾根)
槍穂高全山縦走の時は、
北アルプス最難関ルート、西穂高~奥穂高を10時間くらい歩き続けるのですが、
(私はほぼ歩き詰めで12時間かかりました)
北鎌尾根は、更に難度が上の国内最難関のルートであり、
岳人が最後に目指す、憧れのルートです。

私はこのルートを単独で行きたいと願っていたのですが、
その願いは永遠に無くなってしまいました。



写真、左が松濤明・右側が一緒に逝った岳友・有元克己。

彼らは昭和23年12月21日に行動を開始します。
湯俣温泉から川沿いに登行するという長大なルートです。
現在、このルートを辿る事はまず無く、
途中の大天井岳から貧乏沢に下るルートをとります。

翌、昭和24年正月、
彼らは北鎌コルまで達します。
しかし、この年の正月は大暴風雪の悪天候で彼らを苦しめます。

そして、ラジウス(コンロ)が壊れてしまい、濡れた衣類を乾かす事ができません。
飲み水を作る事も出来なくなってしまいます。

1月2日に登るか下るかの岐路に立たされますが、
ラジウスが応急修理で何とか燃え出したので、登行を開始します。
これが全てを決定したのです。
この時点で下れば、彼等は助かったかもしれません。

1月3日、登攀開始。
1月4日、暴風雪に阻まれビバーク。
(ビバーク・・不時の露営)



(写真の享年28歳は26歳の誤りです)

1月5日、風雪。身体も服も装備も何もかもが凍り付いて、
アイゼンも付ける事が出来なくなります。
アイゼンの無い登山靴で、雪面をステップカットで足場を作りながら、
槍ヶ岳を目指すが、有元が千丈沢側に滑落、
登り直す力はもう無い様なので、自分も千丈側に下る。
(もし、松濤ひとりだけだったら遭難しなかったかも知れない)

この時、松濤明を上高地で待っている女性が居ました。
彼はその事を知りませんでしたが・・・



その女性の名前は芳田美枝子さん。
写真は、松濤明26歳、美枝子さんが32歳の時です。
実際は芳田美枝子さんは、彼より8歳年下です。
ですから、松濤明が死んだ時、彼女は18歳だったのです。

昭和23年9月。
美枝子が働く、岐阜県・新穂高温泉の食堂に、
ザックを背負った松濤明が入って来ました。
食堂の従業員は盆休みで、18歳の彼女が一人っきり。
たまたま共通の知人がいた二人はすぐに打ち解けました。
この時彼女は「一目で電気ショックに打たれた様な・・」
つまり彼女は松濤明に一目惚れだったのです。

その時の出会いはわずか一時間半。
昼食後彼は食堂を出て行きます。

翌10月、松濤明は山岳会の後輩を連れて再び、新穂高を訪れます。
10月3日から8日早朝までの滞在で、
登攀はたった一日だけ、彼と彼女は深夜まで話し込んだりしました。

「山の中に少女が居る。夢の様だ、また行きたい」と、
松濤明に誘われて同行した後輩の権平完さんは、
「松濤明も美枝子さんが好きなんだ」という印象を持った。

松濤は、冬季国体目指してスキーの練習をしているという美枝子さんに、
東京でスキー靴を注文してあげようと約束して去った。
年が明けて約束のスキー靴を松本市内で受け取った美枝子は、
そのスキー靴を松濤に見せようと思い立ち、
深い雪の中を二日がかりで上高地へと辿り着いたのです。
それは1月6日。
北鎌尾根で松濤明が力尽きた日でした。

行違ったと考えた彼女は、新穂高温泉で彼に会えるかもしれないと、
10日未明に上高地を出発します。
しかし、彼の消息はその後も届かない。
長野県側に下山したのだろうと考えた美枝子は、
2月、8キロ離れた麓の郵便局で葉書を受け取ります。

それには「松濤君はそちらに下りていませんか?」
捜索中の山岳会からだったのです。
「もう、腰が抜けてしまいました。信じられなくて」・・・





この北鎌尾根では、
昭和11年に(単独行)で、超有名だった、
新田次郎の小説「孤高の人」のモデル、
加藤文太郎も亡くなっています。



さて、
昭和24年1月6日。

松濤明と僚友、有元克己の最期が近づいていました。
ここからが、有名な松濤明の遺書になります。
(殆どがカタカナなのですが、読みにくいので普通文にします)

1月6日。風雪

全身凍って力なし。
何とか湯俣までと思うも有元を捨てるに忍びず死を決す。

お母さん、あなたの優しさにただ感謝。
一足先に、お父さんの所へ行きます。
何の孝養も出来ずに死ぬ罪をお許しください。
井上さんなどに色々相談して・・

井上さん、色々ありがとうございました。
家族の事またお願い。
手の指、凍傷で思う事千分の一も書けず申し訳なし。
母、弟を頼みます。


有元と死を決したのが6時。
今、14時、中々死ねない。
ようやく腰まで硬直がきた。
全身ふるえ、有元HERZ(チョッと意味不明・脈が弱ってきたか?)
そろそろ苦し。
日暮れと共にすべて終わらん。
ユタカ・ヤスシ・タカオよ済まぬ、許せ。
強く孝養たのむ。


最後まで戦うも命。友の辺に捨つるも命。共に逝く。


彼らの遺体は、翌年夏に発見されました。
遺体のそばには、ビニールに包まれた遺書があり、
捜索に当たった山岳会の先輩が、多くの関係者達の前でそれを読みあげました。
読み上げる〇〇氏(名前は失念)も涙、涙。
それを聞く人達もただただ滂沱たる涙だったそうです。



この遺書は長野県の大町・山岳博物館に展示されています。






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史上最強の登山家・山田昇

2017-03-08 07:53:33 | 登山
登山家・山田昇・1950年~1989年(39歳)

山田昇は「史上最強の登山家」とも言われました。



群馬県・沼田市出身。これは歌声喫茶の名司会者・バクさんと一緒ですね。
バクさんは、山田昇を知りませんでしたが・・・

世界には8000メートルを越える山が14座あります。
山田昇は、その内9座の登頂を果たし、エベレストには3回登頂していました。
彼が亡くなった当時、14座全部を登った登山家は、たった二人。
オーストリアの超有名人である、ラインホルト・メスナーと、
ポーランドのイェジ・ククチカの二人だけ。
山田昇は3番手につけていました。
そして、それは達成されるだろうとも言われていました。

しかし、北米マッキンリーで2人の僚友と共に亡くなってしまいました。
また、5大陸最高峰登頂を目指し、
わずか135日間で、マッキンリー・モンブラン・アコンガグア・
キリマンジャロの4座の登頂をしました。



山田昇が何故、史上最強の登山家と言われるのか?
それは、8000メートル峰から下山したすぐ後で、
徹マン(徹夜で麻雀)をするのです。
普通の登山家だったら、もう疲労困憊して、綿の様に眠りこけるのを、
彼は平気な顔で徹夜で麻雀をするなどというのは、信じられず、
他の登山家たちからは「あいつはお化けだ」と言われる所以なのです。
その強さは医学的にも研究対象であったとか・・・

また山田昇を語る時に絶対に欠かせないものに、
その人間性の素晴らしさがあります。
彼ほど皆から愛され慕われた男はいませんでした。

「もし一緒に死ぬのなら山田とだったら寂しくない」
そういった人柄だったので、
ヒマラヤに行くにも、皆が彼を誘うのです。
という事は、登山費用も彼は人より少なく行かれるのです。
皆が彼の登山費用を多少でももってくれるのです。
そういった事ゆえに彼は何度もヒマラヤに行く事が可能だったのです。

マッキンリーで彼と一緒に逝った仲間は、
きっと「山田と一緒で良かった」と思っていたかも・・・
彼が死んだと聞かされたヒマラヤのシェルパ達は、みな泣き崩れたそうです。
それほど多くの人達から愛された登山家だったのですね。



私はこの本を読んでいませんが、
機会があれば買って読みたいと思っています。
登山に興味が有る人も、無い人も、
これほど素晴らしい男が居たという事は、日本人として嬉しいし、
世界に誇ってもいい人ですね。

故郷の群馬県・沼田市の生家はリンゴ農家だとかで、
そこには記念館として「山田昇ヒマラヤ記念館」があるそうです。


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奥秩父の山小屋で

2017-03-01 08:09:01 | 登山
奥秩父の山を独りで歩いていた。
表丹沢などと比べると、奥秩父の山はひっそりとして、
静かに一人っきりで山を歩く歓びに私は浸っていました。

すれ違う登山者も殆どなく、
大自然の中の自分を感じながら、歩いていました。

その日の泊りは将監小屋。



他の泊り客も殆ど居なく、
小屋主を交えて数人の登山者との静かな夕食。

朝、小屋から外を見ると、樹木が小雨に煙っていた。
ひさしから滴が落ち、小さな水たまりに波紋を作っていた。
「あ~、雨か~」
あえかな波紋を見つめていると、
小学校の頃、下校時間の驟雨に帰りの傘が無く、
みな困惑顔で言葉も無く空を眺めていた時を思い出しました。

そのうち家族が三々五々傘を持って迎えに来る様になりました。
「母さん、迎えに来てくれないかな~」

ようやく校庭の向こうに母の姿がほの見えた時、
無性に母にすがり付いて泣き出したい気持ちの昂ぶりがした。

母との会話は、ことさら何気ない風を装った。
しかし、心の中の母はとても懐かしい匂いがした。


私は気を取り直し、雨具を着けると、
小雨に煙る奥秩父、笠取山へと足を踏み出しました。

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