河童の歌声

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シンドラーと杉原千畝

2017-09-17 18:56:25 | 軍事




シンドラーとは、
1993年、スピルバーク監督のアメリカ映画「シンドラーのリスト」で、
描かれた実在の人物(オスカー・シンドラー)です。
彼はドイツ人実業家で、
自身が経営する軍需工場に必要だという名目で、
1100人以上のユダヤ人の命を救い、その行いが映画となりました。



オスカー・シンドラー(1908~1974)66歳。ドイツ人。
彼は、27歳からドイツ国防軍諜報部員として活動する様になります。
31歳で、ナチス党員になりました。

その頃、戦争で一儲けを狙いポーランドに来ます。
彼は、ナチに没収される前に、ユダヤ人が所有していた、
琺瑯(ほうろう)容器の工場を買い取り、闇商売で資産を拡大します。
彼の工場はドイツ軍の厨房用品を製造して、急速な成長をとげます。



工場は1942年末までに巨大なホーロー容器工場、
及び軍需工場に成長しました。
そこには800人近くの労働者が働き、その中には
370人のユダヤ人もいました。

シンドラーは快楽主義者で遊び人で、金を湯水の様に使っていました。
プレイボーイでもあった彼は、いつの日か反ナチスへと変化していきます。
彼のナチス党政権への抵抗は、イデオロギー的な理由ではなく、
無力なユダヤ人達に対する扱いに、怒りを感じたからでした。
(彼の子供時代の友人にはユダヤ人が多かった)
彼の経済的な関心は、
多くのユダヤ人を救済したいという願望に変化していったのです。

最後に彼は、その目的の為に全財産を投げ出すだけでなく、
自分の命まで賭けようとしたのです。
戦争が終わった時のシンドラーは、ほぼ無一文でした。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、
彼の工場が軍需工場という事で特別な格付けを承認されていた事でした。
彼はナチス党員でしたから、
その立場を利用し、強制収容所の所長と仲良くなりました。



アーモン・ゲートという、この収容所長はその日の気まぐれで、
ユダヤ人達をピストルで撃ち殺すという様な残忍な恐怖の男でした。
その男と飲み友達だった事で、
ユダヤ人達を比較的条件の良い環境にする事が出来ました。

戦後の彼は不運続きで、手掛けた事業がことごとく失敗したりで、
資金繰りに行き詰っていたのですが、
そんな噂が彼に命を助けられたユダヤ人に伝わり、
彼をイスラエルに招待します。
彼はドイツとイスラエルとの生活をする様になります。
ドイツとイスラエルとの二重生活は彼が亡くなるまで続きました。


さて、杉原千畝(すぎはら・ちうね)
1900年~1986年  日本の外交官。



中国ハルピン学院に入学。ロシア語を学ぶ。
ロシア語の堪能さはずば抜けていて、ロシア人と間違われるくらいでした。
1938年(昭和13年)
リトアニアのカウナスに外交官として赴任。



当時、リトアニアはソ連軍に占領されていて、
ソ連が各国にリトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めていて、
まだ業務を続けていたのは日本領事館しかありませんでした。



1940年7月18日朝。
日本領事館の前に大勢のユダヤ人たちが押し掛けてきました。
ナチの迫害から逃れる道が八方塞がりで、
逃げ道はシベリア鉄道を経てアジアに向かうルートしか残っていなかったのです。

彼等にビザを発給するには、日本外務省の了解が必要です。
しかし、外務省の了解を待っていたら間に合いません。
杉原は悩みます。
しかし、杉原は己の信念にかけて、外務省の命令を無視します。

外務省からは「厳密な審査に合格した者のみビザを発給する様に」
でしたが、杉原はそんな命令より人道を取ったのでした。

ソ連政府や外務省から再三の撤去命令を受けながら、
杉原は一ヶ月余り、寝食を惜しんでビザを書き続けました。



9月5日。
日本政府の命令でベルリンに旅立つ列車の人になっても、
杉原は車窓からビザを手渡していたのでした。
汽車が走り出し、もうビザを書き続ける事が出来なくなった杉原は、
「許してください、私にはもう書けません、
皆さまのご無事を祈っています」と頭を下げると、
「スギハラー、私達は貴方を忘れません」という叫び声が起こったのです。

戦後、命の恩人の杉原をユダヤ人たちは探しますが、
杉原は自分の名前が外国人には発音しにくいので、
千畝(ちうね)を(せんぽ)と言っていたのです。
ですから彼等が「せんぽ・すぎはら」と言っても、
外務省にはその名前が無く、捜索に時間がかかってしまいました。



ゾラフ・バルハフティク(イスラエルの政治家)
彼は命を助けられてから29年ぶりに杉原と再会します。
その時初めて、失職覚悟でビザを発給した事を知ったバルハフティクは驚愕します。
1998年、彼は日本政府が杉原を表彰していない事を、
残念であると述べています。



2015年、唐沢寿明・主演の映画になりました。

シンドラーと杉原と・・・
救った人数で言えば、杉原千畝はシンドラーの5倍も多いのです。
でも、人数の多い少ないではなく、
彼等が人として、己の信念にかけて、
人間としてやるべき事をやった、という点では同じなんですね。

日本にこんな世界に誇るべき人が居たという事に感動します。

人間ってこんなにも素晴らしいんだなと、心から思うのです。






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ラインハルト・ハイドリヒ暗殺

2017-05-27 06:02:48 | 軍事
1942年5月27日、
ナチス支配下のチェコ副総督・ラインハルト・ハイドリヒが暗殺されます。





ラインハルト・ハイドリヒは、
ヒトラー・ヒムラーに次ぐ、ナチス第三の男と呼ばれ、
ヒトラーの後継者とも言われていました。



ユダヤ人大量虐殺の実権を握り、
蔭口が発覚すればハイドリヒは激怒し、徹底的に相手を追い詰め、
その容赦ない報復に周囲は戦慄し、その冷酷さから、
「金髪の野獣」「プラハの屠殺者」と呼ばれたナチス親衛隊の大物でした。
身長191センチの大きな身体から発せられるのは甲高い声でした。
その甲高い声は子供時代にイジメの対象になっていました。

イギリス政府とチェコ亡命政府はハイドリヒ暗殺計画を企て、
7人の暗殺部隊をチェコ領内に送り込みます。



そして、ヨーゼフ・ガプチーク。ヤン・クビシュの二人が、
通勤コースを待ち伏せ、ハイドリヒのベンツを襲います。
ガプチークは車の前に出て自動小銃を発射しようとしますが、
銃が故障し弾が出ません。
そこをクビシュが手榴弾を投げて、ハイドリヒは負傷します。





ハイドリヒは重傷を負いますが、
その傷は死に至る程ではなく、彼も自分が死ぬとは思っていなかった様です。
しかし、傷口から菌が入り込み、彼は一週間後に敗血症で亡くなります(38歳)

ハイドリヒの死を知ったヒトラーの怒りは並大抵の怒りではありません。
ヒトラーはその報復に、リディツェ村という何の関係もない、
ひとつの村を地図から消し去ってしまうのです。

1942年6月10日。
リディツェ村にナチスの軍隊がやって来ます。
村民は約500人。
男200人はその場で全員が銃殺。
女子供は全員が強制収容所に送られます。
そして、村はブルトーザーで更地にさせられ、村が在った痕跡は皆無になります。



リディツェ村を始め、この暗殺事件で報復処刑された者は、1300人に達します。
強制収容所に送られた人々の殆どは帰ってきませんでした。



ハイドリヒを殺されたナチスの暗殺者追及は激しく、
遂に密告者によって暗殺者たちは暴かれ、追い詰められて行きます。
逃れる事の出来なくなった暗殺者達は銃撃戦で倒れていったり、
捕虜になるくらいならと自殺して行きます。



この暗殺事件は非常に有名であり、
それを元に1975年には「暁の7人」という映画が作られました。

戦後、リディツェ村の惨劇が世界中に知れ渡ると、
リディツェの名を冠する町が諸外国に登場しました。
特に中南米の国に多かったようです。



この8月12日に、
チェコ・イギリス・フランス合同の映画「ハイドリヒを撃て」が公開されます。
「暁の7人」はずっと前に観ましたが、
今度の映画も勿論、観に行くつもりです。



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ヨーゼフ・ゲッベルス

2017-02-18 04:18:45 | 軍事
Goebbels children. We are free.


ヨーゼフ・ゲッベルスはナチスの宣伝相でした。

ヒトラーを取り巻く側近は何人か居ました。



副総理・・ルドルフ・ヘス



親衛隊長官・ハインリッヒ・ヒムラー。



空軍相・ヘルマン・ゲーリング



海軍元帥・カール・デーニッツ



こういった側近の中で、最後までヒトラーに忠誠を貫いたのは、
ヨーゼフ・ゲッベルス、ただ一人でした。

1897~1945(47歳)
ヒトラーより8歳年下。
母親はオランダ人でしたが、彼はこれをひた隠しにしていました。
純然たるゲルマン系ナチス・ドイツ人であるべき自分が、
ドイツ人以外の血である事など許されるべきではなかったのでしょう。

ちなみにヒトラー自身も、ユダヤの血が入っていたとの情報もあり、
ヒトラーはそれ故に(何でよりによって俺がユダヤなんだ)という無念さがあり、
徹底的にユダヤ人を憎み、排斥したのかもしれません。

4歳で小児麻痺を患い、手術。
その後、発育が著しく遅れ身体障碍者になります。
いわゆるビッコ(放送禁止用語)
その為に身長が165センチというドイツ人の中では極めて小男でした。
ちなみにヒトラーも身長175センチという、あまり大きくはない男でした。

頭脳は優れていましたが、
ビッコでチビの彼が人より上に行くのは大変で、
自分を大きく見せる為にその頭脳を使いましたが、
それ故に同級生からも教師からも嫌われ者だった様です。

1914年、第一次世界大戦・・
彼は軍隊に志願しますが、勿論、不合格。
そういった事は、男としてのプライドをひどく傷つけます。

1923年(26歳)頃より、貧困に苦しみ、
反ユダヤ主義を芽生えさせます。
(それ以前は、ユダヤ人に同調的だったのですが)

1924年(27歳)頃より政治活動に踏み出します。
翌、1925年にヒトラーと初めての会見をし、
ヒトラーに魅了されます。
この事が彼の運命を決定ずける事になります。

ヒトラーは演説の天才と言われました。
初めは、ヒトラーに反対派の人であっても、
演説の最後になると、ヒトラーに心酔してしまう程、演説の天才でした。
そのヒトラーには及ばないまでも、
ゲッベルスも演説が上手かったのです。
ヒトラーはその才能を買います。
そしてナチス権力者への階段を登っていったのです。

ゲッベルスというビッコの小男は、
ヒトラーという天才の元で、その才能が花開いていったのです。
その事はゲッベルスも充分に承知していました。
自分は、自分だけの力では何も出来ない、
ヒトラーという大輪に寄り添う事で、花開くのだと承知していたのです。



ゲッベルスはマクダという女性と結婚します。
彼女は再婚のバツイチでした。
ゲッベルスは、その権力を下に、恋多き男でもありました。
また、妻のマクダも彼一人だけの女ではなかったみたいです。
しかし、彼等の間には一人の男の子と5人の女の子が生まれます。

生涯独身だった(最後は結婚しましたが)ヒトラーには、
彼等夫婦が、ナチスとしての鏡みたいな夫婦に感じます。
ゲッベルスもそういった事を感じ、
真相は仮面夫婦であっても、ナチスとして理想的な鏡となる夫婦を演じます。
彼等、家族はプロパガンダになり理想像を映画に撮らせるのでした。



しかし、戦争は悲劇的な結末を迎え、
とうとうヒトラーは愛人と共に自ら命を絶ちます。
その翌日、
ゲッベルス夫妻は、6人の子供に毒を飲ませます。
長女は13歳であったので、それを飲むという事がどういう事かを悟り抵抗します。
その為に彼女の顔は殴られて傷を負っていました。

彼等の子供6人は、
自分たちの両親が、どういった地位に在る親かも知らず、
自分たちが映画に撮られ、それが当時のドイツ人達にどういった影響を及ぼすかなんて、
知る筈もなく、すくすくと育っていきました。



子供って、本当に可愛い。
子供には、何の罪もありません。
子供を泣かせる奴って許せませんね。
子供は親を選べない・・そこが可哀想。

あくまでもヒトラーに忠誠を貫いて彼は逝きました。
彼だけが、最後の最後まで忠実だったのです。
しかし、彼の家族にとっては、はた迷惑な父親でした。

権力というのは本当に怖いものですね。
それが故に極楽浄土の夢を見たのでもあるし、
それが故に、地獄も見なければならなかった人生。

戦争というやつは・・人生というやつは・・・


私達、歌声の人生は、それほどの夢ではないかも知れませんが、
そこそこ、いい人生でありたいですよね。


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ソードフィッシュ

2016-11-12 08:06:37 | 軍事


ソードフィッシュは、イギリスの軍用機です。
この古式蒼然たる複葉機(翼が2枚ある飛行機)が、
第二次世界大戦に参戦していたという事実には、チョッとびっくりしますが、
とんでもない・・それどころか大活躍をしたというのですから、
開いた口がふさがらないと言った方が正解でしょう。

ソードフィッシュは1934年に初飛行をし、
1936年から、その運用が開始されました。

最高時速は222キロ。
巡行速度は167~207キロ。
失速速度は107キロ。
つまり物凄く遅い飛行機なのです。

しかし、その反面の利点も大きかったのです。
ソードフィッシュを撃墜しようと戦闘機が追撃すると、
その、あまりにも遅い速度に同調した戦闘機は、
うっかりすると遅すぎる速度によって失速し墜落してしまうという、
事態が現実に起こったのです。
これは笑うに笑えない事実でした。

また金属パイプに布張りの機体は、
機銃弾を受けても、プスプスと布を通り抜け、
金属パイプはそのままで容易に墜落しないという、
まるで漫画みたいな光景があったのです。



1940年11月。
イギリス軍のソードフィッシュ22機が、
イタリアの軍港・タラント港を空襲します。

タラント軍港はイタリア半島の、長靴の踵にあたる場所にあり、
イタリア軍はこの軍港を、
「地中海のど真ん中に在る航空母艦のような存在」と言って豪語していました。
タラント軍港は絶対的な不沈空母といった所でしょうか。

その軍港をイギリス軍は、たった22機の古色蒼然たる航空機で空襲したのです。
その利点は、時代遅れの低速。
その低速ゆえに急降下して、魚雷を放ち、舞い上がるという芸当が可能だったのです。
これが速度の速さを誇る雷撃機だったら、
対岸の山に激突してしまい空襲は不可能だったのです。

この空襲によるイタリア軍の被害は余りにも甚大でした。
戦艦リットリオ(42000トン)は、修理に5ヶ月を要し、
戦艦カイオデュリオ(23000トン)は修理に6ヶ月。
戦艦コンテ・ディ・カブール(23000トン)に至っては、
遂に終戦まで修理は完了しないという事態だったのです。

タラント軍港は地中海の不沈空母と豪語したイタリアは、
これ以後、タラント軍港を放棄してしまいました。
このタラント軍港壊滅は、
日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃の大いなる参考に、手本になったのです。

ソードフィッシュによる活躍は、それだけではありません。
1941年5月のドイツ戦艦・ビスマルク追撃戦。
そこではソードフィッシュは、
たった一度しか無かった、わずかなチャンスに、
ビスマルクの舵を破壊し、それ以後のビスマルクは舵が動かずに、
その命運を絶たれるという悲劇となったのです。
最後の・・もうこれがダメならあきらめざるを得ないという時に、
神はイギリスに味方したとしか言いようがありませんでした。
それだけに、欧州最強を誇ったドイツの戦艦・ビスマルクは、
幸運に見放されてしまったのですね。

また、1942年2月の、チャンネルダッシュ。
ドイツの戦艦・シャルンホルスト・グナイゼナウ・重巡洋艦プリンツオイゲンの、
大型艦3隻が、真昼間のドーバー海峡突破を果たした時は、
6機のソードフィッシュが雷撃を試みましたが、
ドイツ軍から、そのあまりの低速に、
「可哀想にな~、あれじゃ自殺と同じじゃないか」と同情される始末で、
6機は全機が撃墜されてしまい、
指揮官であるエズモンド大尉は、第二次世界大戦でイギリス軍最高の栄誉である、
ビクトリア勲章を授与されました。
戦果はまるでありませんでしたが、彼等の勇気をイギリス軍は讃えたのです。
それはイギリス軍は彼等6機が戻って来るなど、あり得ない事と知っていたからです。

それにしても、
こんな古式蒼然たる低速機がヨーロッパ戦線で大活躍しようなどとは、
恐れ入った事ですね。
脱帽。





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ルガーP08

2016-06-24 06:31:23 | 軍事
【タナカワークス】ルガーP08 HW 簡単レビュー


ドイツの拳銃である、ルガーP08は、その原型は
ヒューゴ・ボーチャードが1888年に設計した拳銃でしたが、
ゲオルグ・ルガーが改良し、
1908年にドイツ軍に制式採用されました。
その構造的に独特の動きから(尺取虫)とも呼ばれます。

1938年に、
有名な拳銃・ワルサーP38がドイツ軍に制式採用されるまでの30年間、
ドイツの誇る拳銃として名を馳せました。

アメリカ兵の間では、日本刀と並ぶ、
最も人気の高い戦利品となりました。
それは、他の拳銃とまるで違ったスタイルと、
尺取虫と呼ばれた独特の動きからであったのだと思われます。

私もずっと昔、
この拳銃を持っていた(勿論モデルガン)のですが、
いつの間にか無くなってしまいました。
多分、何か片づけをした時に、もう壊れていたので捨てたんだと思います。
モデルガンとはいえ、本物と同じ様に鉄独特の鈍い光沢があり、
そして、本物と同じ重量だった事もあって、その重さにもしびれていました。

アメリカのコルトやスミス&ウェッソンなどには無い、
如何にもドイツらしい角ばったスタイルは、本当に惚れましたね。

日本にある拳銃メーカーに(ナンブ)があります。
南部14年式拳銃は日本陸軍に制式採用された拳銃で、



そのスタイルはルガーとよく似ていましたが、
方式はまるで違っていた拳銃でした。



その後、ニューナンブM60が日本の警官の拳銃となりましたが、
現在もそれを使っているのかは知りません。


もう一度、あのルガーP08を欲しいと思いますし、
また日本刀も欲しいのです。
日本刀って、超有名な刀以外は、真新しい刀の方が高価みたいですね。

それにしても、ルガーが欲しかったり、日本刀が欲しかったり、
私はかつてのアメリカ兵みたいな心境ですね。

でもね、ルガーを握った時の感激はかなりなものだし、
日本刀だって、それが模造刀であっても、
男としての本能がふつふつと湧き上がってくるんですよ~。
そんな感覚ってとっても、いいんですね~。
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