河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

あゝ、シルクドソレイユ破産

2020-06-30 09:47:10 | 日記




とんでもないニュースが飛び込んできました。

あの「シルクドソレイユ」が破産したそうです。
そうです、これもコロナ破綻です。
全従業員が世界中に5000人近くいるそうで、
それが何処の国でも開催できなくなってしまったのでは、
もうどう仕様もなくギブアップ。



私が初めて行ったのは、もう10年くらい前だったか。
渋谷というか、国立代々木競技場横の仮設テントでのシルクドソレイユでした。
原宿駅で彼女と待ち合わせてのデートでした。
その時、惚れまくっていた女性だったので、天にも昇る気持ちだったのを覚えています。

そして、あの素晴らしい、それまで見た事もないエンターテイメント。
この世の物とは思われない、まるで夢の世界。
隣はと見ると、大好きな彼女。
どっちを見ても・・エガッタ~ッ!

で、それから1年もしない(と思う)うちに、もう一回行ったのです。
しかし、その時の女性は、現在の妻でした。



あの素晴らしい舞台を、たった一人だけで行くなんて、あまりにも勿体ない。
やっぱり好きな人と一緒が一番。





あれは、是非もう一度見たい。
あんな素晴らしい、浮世離れした世界を体験できるなんて・・・
何とか復活して欲しいと心から願っているのです。





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中国の大躍進

2020-06-30 07:53:27 | 日記
最近の中国の大都会(北京・天津・上海・広州・重慶など)の、
写真を見ると、そのあまりの発展ぶりには、ただただ驚くばかりです。





私が初めて北京空港に降り立ったのは、1993年でした。
そこから迎えの人の車に乗って約80キロ先の天津へ移動したのですが、
車窓から見る共産国家の人々はまるで労働意欲などかけらもなく、
だらしなく道路に寝そべり、あちこちで車座になっての立ち話。
あ~、この国はダメだな~っと感じました。

天津は、首都・北京そして上海と同じで、
どこの省にも属さない特別区になっています。
北京(1960万人)上海(2300万人)天津(1300万人)
そして現在は重慶(2900万人)も特別区になっています。

私は個人的に天津滞在が最も多かったのですが、
それでも1993年当時の市街の風景はこういったものでした。
私達は毎日ホテルからタクシーに乗って観光をしたり、
その後は商談に行ったりしました。

街は自転車の洪水で、その中をタクシーは押し分けかき分けしながら、
クラクションをけたたましく鳴らしながら走るというのが普通でした。

今は貧乏でも、日本の10倍の人口を持つこの国の人民が、
物を買い始めたら、それはとんでもない事になると思うと、
それは鳥肌が立つ思いがしました。



ある日、上海・外難の黄浦江岸の公園で遊んでいたら、
向かいのベンチに私の娘と同年齢と思われる女の子を連れた夫婦がいました。



私達は旅行用のこういった折り畳み式のベビーカーだったのですが、
彼等から「それはいくら(多少銭)ですか?」と訊かれたのです。
私達が中国元に換算して答えると、
彼等は黙ってしまい、そのまま口をきく事をしなくなりました。
それは恐らく、彼等の年収に近かったと思います。
彼等の気落ちした顔が忘れられません。
その子供の乗っているベビーカーは、パイプとブリキみたいな、
日本だったら新品であっても誰も持って行かない代物でした。
そんな時代だったのです。

②2015年1月1日 和平飯店ジャズバーにて



上海と言えば有名な和平飯店にも2泊くらいしましたが、
あのロートルジャズバンドも忘れられない思い出です。
ダンスを踊るお客さんの間を、自分も踊っているつもりの娘がチョロチョロしてました。
あの有名なバンド、今でもあるのだろうか?







天津は昔、外国人が多く住んでいた関係で、
こういった外国人向けの住宅跡が沢山ありました。



それが今では、こんな列車が走る様になり、











高速道路は走り(そういえば以前、高速道路公司に投資し、
儲けさせてもらった事もありました)
もう20年以上行ってはいないのですが、
まさかこれほど急速に発展するなど、考えもしなかった。





上海駅前にも盲流と呼ばれる、
(地方から仕事を求めて来た、家財道具一切、布団までも、
ビニールシートなどに包んで担いで来る人達)それが沢山いたのですが、
広州駅前になると、それが桁違いに大勢の群衆となって寝込んでいたのです。





現在の広州駅前も人は多いですが、
布団を担いだ人はもう流石に見えないですね。

この20数年の中国の躍進は本当に凄い。
昔は日本人は中国(を含む外国)に行った時だけ金持ちになれたのですが、
今はその逆転現象となっているみたいですね。






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つらい一日

2020-06-28 07:03:36 | 日記
極めて個人的な事ながら、
今日は娘の29歳の誕生日です。

もう娘には6年くらい逢っていない。
電話しても出てくれない。
メールしても返信はない。
それが私を苦しめる。
娘の事を思って眠れない夜が何度あった事か。

娘と別れたのは10歳くらいの事だった。
私の姉から「彼女から連絡が来るまで待ってなさいね。
今、こっちから連絡すると彼女が混乱するから、待ってなさいね」
と言われ、そんなもんかなと連絡せずに待っていたが、何の連絡もなく、
小学校6年生の時に我慢が出来ずに電話したのでした。

身長が163センチと聞いて、
「もうそんなに大きくなっちゃったんだ」と空白時間の長さが辛かった。
(現在は166センチ)

娘が生まれてから写真好きの私はビデオを撮りまくりました。
当時はビデオ(と言っても8ミリのマイクロカセットとでもいうのか)
それで撮ったのをDVDに書き換えたのが、
20本以上、家に保管してありますが、
それを娘が観る事はまだ無いのが無念です。

離婚する前の娘の屈託のない笑顔が切ない。

思えば中国でのビジネスにつまづいたのが全てでした。
あれで金も家庭も全てを失ってしまいました。
娘には、いい思い出だけは残してあげようと、思っていたのですが、
私は娘に最悪の思い出を残す事になってしまった。

たった一人だけの我が子。
それだけに娘を思う気持ちは切ないほど強いのです。
もう忘れようかとも思ったりしますが、出来ないのです。
彼女には新しい中国人のお父さんがいます。
そのお父さんに遠慮でもあるんだろうか?
それとも、あの強いお母さんの入れ知恵なんだろうか?

中国人の母親は頭が良く、
国立・天津大学を首席で卒業。
そのDNAをきっと受け継いだのでしょう。
中学・高校・大学と全部が特待生という出来のいい、経済的な娘。
でも、私はそんな事より、心の優しい娘であってくれればいいのです。

子供の時から、おねしょを一度もした事がない子供だった。
私はそんな子供が居るんだという事にビックリしました。

娘には「勉強なんかしなくてもいいよ。
でも、本だけはいっぱい読みなさい」と言っていたのですが、
あの強い母親はきっとそうはさせなかったのだと思います。
本当にあの母親は強い女でした。
娘がいじめられたりすると、相手の男の子をとっちめに、
学校に乗り込む強過ぎる女でした。

娘はあの強さも受け継いでいるのだろうか?

私の残りの人生は長くはありません。
このまま娘に逢えないかも知れないと思うと、
何かの形で娘に言い残しておきたいと、
恥ずかしながら、つい書いてしまいました。
今までは、こういった事は書くまいと思っていたのですが、
私に残された時間は、いつ絶えても不思議ではないので、
恥を晒してしまいました。
でも、娘がこれを読んでいるかは・・わかりません。

今日は私には辛い一日です。





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御蔵島

2020-06-27 16:08:21 | 日記


御蔵島(みくらしま)は伊豆七島に属する、東京から190キロにある小さな島です。
私は行った事はありませんが、縁のある島なのです。





その姿はまるで(絶海の孤島)
面積・20.5平方キロ・周囲16.4キロ.
最高標高は御山(みやま)の851メートル。
2013年現在の人口は341人。





島にはたった1か所の、小中学校があり、
そこで親戚が教師をしていたのです。

母の姉(伯母さん)の連れ合い(伯父さん)が、そこの校長先生でした。
また、母の弟(叔父さん)も、そこで教諭をしていました。
校長先生(伯父さん)は家族ぐるみで島に住んでいました。

伯父さんの子供は3人。
長女・長男・次男の3人の子供がいました。
子供たちが小学生だった時に、
御蔵島を引き払い東京の多摩地区に住んでからは、
父親は年金暮らし、母親は歯科医を開業して住んでいました。

長男は東京の小学校に転入して、
ある日、授業でプールに飛び込んだら、
思い切り額をプールの底にぶつけてしまったそうです。
御蔵島ではいつも海で泳いでいたので、
プールの底がそんなに浅いとは思わなかったのですね。

次男は早稲田大学に入り、山岳部に入ったみたいで、
そのOBとして遠征したヒマラヤで他の部員たちは何事もなかったのですが、
彼ひとりだけが疲労の為転落して24歳で亡くなってしまいました。

私と同じ歳だった彼が登山をしていたなんて、
葬式の時に初めて知ったのでした。
男から見ても素朴で朴訥で、実にいい奴だったのですが、
その素朴で素直な性格ゆえに、他人の分まで引き受けて疲れ切ってしまったみたいで、
いい奴ほど早死にする典型だった気がします。

良き弟を亡くしてしまった姉の悲しみは半端ではなく、
弟の話になると今でも涙ぐんでしまい、
弟の話は彼女の前では禁句みたいになっているのです。

こういった突然の遭難死で愛する息子を亡くした両親の悲しみも大きく、
父親はヒマラヤまで、息子の逝った場所をこの目で見たいと行ったのです。
と言っても、せいぜい麓から少し登ったあたりまでしか、
行かれなかったみたいですが、
やはり、その場に行かない限り、心の整理がつかなかったのでしょう。
父親はヒマラヤへの紀行文を冊子にして、関係者に配布したのです。

島には自動車など在る筈はなく(車の走れる道がない)
当時あったのは、自転車がたった1台だけ。
ある雑誌でその自転車を、校長だった伯父さんが磨いている写真が載っていました。





もう一人の叔父さんはまだ若くて独身だったのですが、
東京に帰ってからはよく、御蔵島の話を聞かせてくれました。
島は殆どが断崖絶壁で港が無く(あったのかも知れない?)
海が荒れると接岸できないので、引き返してしまうそうです。
そうすると困るのが煙草で、
シケモクを集めては、辞書を破いて煙草の葉っぱを巻いて吸ったとか。
辞書の紙が薄くて丈夫で一番いいんだそうです。
(でも破いちゃった辞書はあとで困っただろうな~)



生まれて初めて乗った自動車も、
この叔父さんが奮発して乗せてくれたタクシーでした。
(日本橋の三越デパートから品川区の荏原まで)
イヤー嬉しかったですね~。
あの頃は自家用車など持っている家など、まず無かった時代ですから。

この叔父さんには映画を観に連れていってくれたり、
色んな楽しい事をよくやってもらいました。
叔父さんもまだ若くて独身だったので、
私と姉とを引っ張り回すのが、楽しかったのかも知れませんね。

叔父さんは中学の英語の教師をしていましたが、
朴訥で責任感が強く、父兄からは絶大に信頼されていたそうです。
叔父さんの同僚教師と、母の妹が、その後結婚したのですが、
そういった事で、私の親族には教育者が3人もいたという訳です。
勿論、今はもうみんな亡くなってしまっています。

私には行った事も、見た事もない絶海の孤島ですが、
親戚たち6人が(御蔵・御蔵)と懐かしがっているのを、
散々聞かされたのですから、
やはり一種独特の想いが残る島なんです。

6人の内で残るは、もう2人だけ。(長女と長男)
どんな思い出も、生きてる人が居るうちだけで、
人間は亡くなってしまうと、もう本当に何も残らないのですね。




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アニー・ローリー

2020-06-27 06:44:35 | 音楽
アニー・ローリー 愛の誓いを一遍の詩に託して


アニーか?アンニーか?
私は個人的には(アンニー)と読んでいます。

さてその、アンニーローリーは歌声喫茶でも時々唄う事がありますが、
私はこの歌を歌詞で唄った事は殆どありません。
音階で唄ってしまうのです。
♬ ミレドード、ドーシシーラ、ラ、ソーミミ、レドレーと。



そして、唄いながらトランペットの運指を無意識的にやっているのです。
それと言うのは、
20代前半にヤマハ音楽教室でトランペットを習っていたからです。

その頃、得意にしていた曲が、
「アンニー・ローリー」と「枯葉」だったのです。
その頃アルバイトをしていた職場の人達と横浜中華街で忘年会をした事があり、
その時、私は持参していた自分のトランペットで、
この「アンニー・ローリー」を演奏したのです。
あれはとても、いい思い出となって心に残っています。

そういった得意曲だったので、
私は歌を唄うという気持ちではなく、
あくまでトランペットを吹いている心になってしまうんですね。

その頃はかなり高価だった(自分では)マイ・トランペットでしたが、
その後全然吹く事はなくなってしまい、
津波の被災地の気仙沼に行った時、ある楽器店に、
「これを何処かの学校で使ってください」と委託して預けて来たのです。
いい事をしたとは思いますが、あれを何処の誰が使っているのやら・・・





私は高音楽器のトランペットより、
中低音楽器のユーフォニアムが好きだったので、
トランペットにはそれほど未練は無かったのですね。
ユーフォニアムというと、
「響けユーフォニアム」という映画があるみたいで、
その内、映画館に観に行ってみようかな?





ユーフォニアムもそうですが、
スーザフォーン。この低音楽器も大好きでした。
しかし、こんな大きなラッパを自分で購入するのもシンドイし、
ユーフォニアムは自分用のを買って持っているのですが、
はた迷惑にならない様にと車の中で何度か吹いたりしたのですが、
これが面白くもおかしくもないんですね。

こういった低音楽器はトランペットみたいなメロディー楽器と違って、
一人だけで演奏しても、本当に面白くない。
やはりバンドでやるから楽しいのです。

しかし「アンニー・ローリー」
とっても心から共感する、いい曲ですね。
歌詞がなくても、何にジーンと感じるものがありますね。
大好きな曲です。





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