御蔵島(みくらしま)は伊豆七島に属する、東京から190キロにある小さな島です。
私は行った事はありませんが、縁のある島なのです。
その姿はまるで(絶海の孤島)
面積・20.5平方キロ・周囲16.4キロ.
最高標高は御山(みやま)の851メートル。
2013年現在の人口は341人。
島にはたった1か所の、小中学校があり、
そこで親戚が教師をしていたのです。
母の姉(伯母さん)の連れ合い(伯父さん)が、そこの校長先生でした。
また、母の弟(叔父さん)も、そこで教諭をしていました。
校長先生(伯父さん)は家族ぐるみで島に住んでいました。
伯父さんの子供は3人。
長女・長男・次男の3人の子供がいました。
子供たちが小学生だった時に、
御蔵島を引き払い東京の多摩地区に住んでからは、
父親は年金暮らし、母親は歯科医を開業して住んでいました。
長男は東京の小学校に転入して、
ある日、授業でプールに飛び込んだら、
思い切り額をプールの底にぶつけてしまったそうです。
御蔵島ではいつも海で泳いでいたので、
プールの底がそんなに浅いとは思わなかったのですね。
次男は早稲田大学に入り、山岳部に入ったみたいで、
そのOBとして遠征したヒマラヤで他の部員たちは何事もなかったのですが、
彼ひとりだけが疲労の為転落して24歳で亡くなってしまいました。
私と同じ歳だった彼が登山をしていたなんて、
葬式の時に初めて知ったのでした。
男から見ても素朴で朴訥で、実にいい奴だったのですが、
その素朴で素直な性格ゆえに、他人の分まで引き受けて疲れ切ってしまったみたいで、
いい奴ほど早死にする典型だった気がします。
良き弟を亡くしてしまった姉の悲しみは半端ではなく、
弟の話になると今でも涙ぐんでしまい、
弟の話は彼女の前では禁句みたいになっているのです。
こういった突然の遭難死で愛する息子を亡くした両親の悲しみも大きく、
父親はヒマラヤまで、息子の逝った場所をこの目で見たいと行ったのです。
と言っても、せいぜい麓から少し登ったあたりまでしか、
行かれなかったみたいですが、
やはり、その場に行かない限り、心の整理がつかなかったのでしょう。
父親はヒマラヤへの紀行文を冊子にして、関係者に配布したのです。
島には自動車など在る筈はなく(車の走れる道がない)
当時あったのは、自転車がたった1台だけ。
ある雑誌でその自転車を、校長だった伯父さんが磨いている写真が載っていました。
もう一人の叔父さんはまだ若くて独身だったのですが、
東京に帰ってからはよく、御蔵島の話を聞かせてくれました。
島は殆どが断崖絶壁で港が無く(あったのかも知れない?)
海が荒れると接岸できないので、引き返してしまうそうです。
そうすると困るのが煙草で、
シケモクを集めては、辞書を破いて煙草の葉っぱを巻いて吸ったとか。
辞書の紙が薄くて丈夫で一番いいんだそうです。
(でも破いちゃった辞書はあとで困っただろうな~)
生まれて初めて乗った自動車も、
この叔父さんが奮発して乗せてくれたタクシーでした。
(日本橋の三越デパートから品川区の荏原まで)
イヤー嬉しかったですね~。
あの頃は自家用車など持っている家など、まず無かった時代ですから。
この叔父さんには映画を観に連れていってくれたり、
色んな楽しい事をよくやってもらいました。
叔父さんもまだ若くて独身だったので、
私と姉とを引っ張り回すのが、楽しかったのかも知れませんね。
叔父さんは中学の英語の教師をしていましたが、
朴訥で責任感が強く、父兄からは絶大に信頼されていたそうです。
叔父さんの同僚教師と、母の妹が、その後結婚したのですが、
そういった事で、私の親族には教育者が3人もいたという訳です。
勿論、今はもうみんな亡くなってしまっています。
私には行った事も、見た事もない絶海の孤島ですが、
親戚たち6人が(御蔵・御蔵)と懐かしがっているのを、
散々聞かされたのですから、
やはり一種独特の想いが残る島なんです。
6人の内で残るは、もう2人だけ。(長女と長男)
どんな思い出も、生きてる人が居るうちだけで、
人間は亡くなってしまうと、もう本当に何も残らないのですね。