河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

日本海海戦・・➂

2020-04-29 16:43:11 | 歴史


ロシア軍は段々うかうか出来ずに安全ではなくなった旅順港から、
自国の港であるウラジオストックへ艦隊を移動させようとしますが、
日本軍はそれを阻止しようとします。

日本海海戦の主役として登場する東郷平八郎大将の艦隊は、
1904年8月10日。
ロシア第一太平洋艦隊(旅順艦隊)と、黄海で海戦となります。(黄海海戦)



ウラジオストックを目指すロシア艦隊に日本軍は挑みますが、
お互いに撃ち合うとの東郷平八郎の見込みは外れ、
ロシア艦隊はウラジオストックに行く事しか頭には無かったのです。
日本艦隊は逃げるロシア艦隊を必死で追いかけます。
ようやく日本軍の射撃が功を奏し、旗艦に損傷を与えます。
それでウラジオストックに行く事をあきらめたロシア艦隊は旅順港に引き返したのです。
東郷平八郎の海戦にあたっての目論見は外れました。
この結果に東郷平八郎は満足してはいませんでした。

ウラジオスットック行きは阻止できたものの、
東郷平八郎は、この時の時の失敗を深く反省し、
後の日本海海戦では、その失敗を二度とせぬようにと頭に刻みこんだのでした。



日本軍に海でも陸でも負け続けるロシアは、
バルト海(スカンジナビア半島に囲まれた)のリバウ港から、
第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を遠い東洋のウラジオストックに送る事にします。

それは歴史上初めてとなる大艦隊の長距離遠征です。
地球の2/3を回る大航海なのです。
今までにそれほどの大艦隊がそんな遠くまで遠征した事などなかったのです。

しかも、当時の軍艦の燃料は石炭であり、
現在の重油(液体)と違って固体ですから、
燃料の補給には人海戦術でスコップでやるしかないのです。
それは大変な重労働です。



1904年10月15日。
バルチック艦隊はバルト海のリバウ港を出港しました。
司令長官は、ロジェストヴェンスキー中将。

しかし、バルチック艦隊にすぐに来られては困る日本軍は、
イギリスで製造した日本の水雷艇が、さも今にも攻撃するかの様な風説を流します。



こういった水雷艇は、100トンに満たない小艇ですが、
魚雷での攻撃力には例え戦艦といえども、あなどれないのです。
ロシア軍はこの風説にすっかり騙され、戦々恐々で、
安心して夜もゆっくり眠る事ができませんでした。

バルト海を出港してから、それほど経っていないある夜。
バルチック艦隊はイギリスの漁船群が操業中だった所を、
日本軍の水雷艇だと思い込み、漁船に向かって砲撃をしました。
漁船1隻が撃沈されてしまいました。

イギリスはこれに激しく抗議し、国際問題となります。
司令長官のロジェストヴェンスキー中将は、この事件に仰天しました。
しかし、元々仲の悪かったロシアとイギリスは関係を更に悪化させてしまいました。

11月3日、地中海入り口のタンシェで、
アフリカの喜望峰を回る艦隊と、スエズ運河を回る艦隊とに分かれます。

普通だったらスエズ運河を通れる筈の軍艦なのですが、
航海があまりにも長く、石炭を積めるだけ積み込んでいるので、
重みで喫水が下がって運河を通る事ができなかったのです。
スエズ運河を回る船は比較的軽い船だったのですね。

ロジェストヴェンスキー中将は、なるべく早くにウラジオスットックに着きたいと考えていました。
それは黄海海戦などで損傷しているであろう日本艦隊の、
修理が終わらないうちに戦いを挑みたかったからです。

1905年1月9日。
喜望峰を回った本隊と、スエズ運河を回った支隊は合流します。
本隊と支隊が地中海入り口で2つに分かれてからほぼ2か月。

ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊は、
後から来る第三艦隊を待つ為に、
アフリカの右側(東)のマダガスカル島で約2か月間をむざむざと過ごします。
寒い北国出身のロシア兵にはマダガスカルは耐えられない暑さでした。
脱走兵は出るし、発狂者は出るしで散々だったのです。

おまけに石炭補給には反ロシアのイギリス港が多くて近寄れません。
フランスも様々な事情でロシアの肩を持つ事は出来ず、
彼等は洋上で船から船への力仕事をせざるを得ませんでした。
これは兵士には過酷な仕事でした。

しかも、ロジェストヴェンスキー中将という人物は、
気に入らないと兵士の頭を長靴で蹴飛ばし怪我をさせる事など、
何とも思わないという性格の持ち主なのです。

当時のロシア軍は、上官と兵士の格差が著しく、
上官は威張りくさっているのが当たり前みたいな軍律でしたが、
そういった中でもロジェストヴェンスキー中将は恐れられていたのです。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海海戦・・➁

2020-04-28 14:43:51 | 歴史
1904年2月から1905年9月まで、
日本とロシアは戦争に入りました。日露戦争です。


日本と中国が朝鮮の権益を狙っているのを、
ロシアが横から虎視眈々と狙っています。
その挙句、朝鮮半島と満州の権益を賭けて争ったのが日露戦争です。



ロシアは自国のウラジオストックに軍港がありました。
それとは別に、満州・朝鮮・日本とに睨みを効かせる為に、
中国に旅順港という前衛基地的な最良の軍港を確保していました。

そこに常駐するのは、ロシア・第一太平洋艦隊です。
戦艦・巡洋艦が多数常駐する強力な艦隊です。

日本軍は有名な203高地の陸戦で多大な戦死者を出していました。
203高地は乃木大将が無謀とも言える突貫攻撃を繰り返し、
多くの批判を浴び、乃木は無能だとも言われた、
標高203メートルの高地です。





ここでの死者は日露合わせて3万人。死屍累々たる死者で埋め尽くされました。



乃木大将は203高地の激戦で、
我が子2人も失っています。
しかし、あまりの犠牲者の多さに国民からは嫌われ、
我が息子2人を失ったにもかかわらず、同情はされませんでした。



乃木大将は、何故そこまで203高地にこだわったのでしょうか?
それは、その高地からは旅順港が丸見えだったのです。
つまり、そこからロシア艦隊の軍艦を砲撃で沈める事が可能だったからです。

陸からは乃木大将が激しい攻撃を繰り返し、
それとは別に、海からも日本軍は猛攻撃をしていました。

日本軍は旅順港に、不要になった船を沈めてロシア艦隊が港から出られない様に、
する為に閉塞船を港に沈める作戦を繰り返します。





広瀬中佐 文部省唱歌 尋常小学4年 1912年(明治45年)


その時、軍神広瀬として日本国民の手本となり「廣瀬中佐」という歌が作られました。
閉塞船に爆薬を仕掛けて沈めるのですが、
爆薬を仕掛けに船内に入ったきり戻らない杉野上等兵。
広瀬中佐(当時は大尉)は、杉野を探しに船内に戻りますが彼は見つかりませんでした。
仕方なくボートに乗り移った所を、
ロシア軍の砲撃により、広瀬中佐は吹き飛んでしまいました。

この旅順港閉塞作戦は結局失敗に終わりました。
旅順港のロシア艦隊を港から出られなくする、とはならなかったのです。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海海戦・・➀

2020-04-27 15:09:55 | 歴史
日露戦争 日本海海戦報道 - Russo-Japanese War, Battle of Tsushima reporting


日本海海戦と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
東郷平八郎と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
戦艦・三笠と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
敵前大回頭と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?
バルチック艦隊と聞いて、それを知っている方はどれほど居るのでしょう?





日本海海戦を語るには、それらは不可欠なものなのです。
日本海海戦は、1905年(明治38年)日露戦争の最終章の、
5月27日から、翌28日にかけて日本海・対馬周辺で行われました。
日本では(日本海海戦)と言いますが、
諸外国では(対馬沖海戦)と言われています。

この有名な海戦を書いた本には、



この海戦に戦艦・オリョール号に乗って一兵士として海戦を戦い、
運よく命を失う事なく、捕虜になった、
ノビコフ・プリヴォイ氏が後年書いたドキュメンタリーが、
この「バルチック艦隊の壊滅」があります。
この本の原題は「ツシマ」です。
この本はとても素晴らしい本で、第一回スターリン賞というのを受賞しています。



また、日本ではドキュメンタリー作家として著名な、
吉村昭氏が「海の史劇」として、忠実に描いています。



他にも、司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」と名付けた小説を書いていますが、
私は歴史の事実を小説家が脚色して書く事は好まないので、
この本は読んでいません。

例えば「宮本武蔵」を吉川英治氏が書いていますが、
(お通さん)などという架空の女性を作り上げてしまったりしています。
一旦、そういった架空が浸透してしまうと、
それを境に、後世までその架空が存在して、まかり通ってしまう。
そういったのが、好きになれないからです。

「バルチック艦隊の壊滅」「海の史劇」の2冊を読めば、
日本海海戦の真実は知る事が出来ると思います。

日本海海戦は、とても有名な海戦です。
世界の海戦史上、これほど劇的な海戦は世界中に存在しないのです。
それは嘘偽りなく、その通りなのです。

海戦の結果があまりにも劇的だったからです。
それは・・完全勝利。
そんな事はあり得ないという程の劇的な完全試合だったのです。

海戦というのは、もはや過去のものです。
これからの時代に(海戦)などという、
海の上で軍艦同士が大砲で撃ち合うなどという事は、まずあり得ない事です。

となると、日本海海戦は(空前絶後)の、海の戦いでした。
それ以前にも、これ以後も二度と無い海の戦い、
沢山の兵士がこの海戦で命を落しました。
しかし、残酷な言い方ではありますが、
それは(海のロマン)でもあったと、私は思うのです。

日本海海戦は、長い文章になりますので、
ひとまず今回はこれにて終了。また後日。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火事で眠れなかった一夜

2020-04-27 09:58:28 | 日記


1962年(昭和37年)12月の夜。
藤沢商業高校が全焼するという火災がありました。

私は当時高校生で、同じ藤沢市内に住んでいました。
藤沢商業高校は(とうしょう)と呼ばれていました。
小田急線で藤沢から2つ目に善行(ぜんぎょう)という駅があり、
藤沢商業高校はその駅の近くにありました。

私が住んでいたのは小田急線とは反対の、海側に延びる、
江ノ電で、藤沢駅から1つ目の(石上・いしがみ)という駅の近くでした。
私の家から藤沢商業高校までは直線距離で3キロ。

夜中に寝ていた私の耳にも、
けたたましい消防車のサイレンの音とか、近隣住民の騒がしい声が聞こえて、
一体何事かと飛び起き、
家は少し高台にあったので見ると、
北側方面の空が真っ赤に染まっているのが見え、
「これは大変な火事だ」と野次馬根性むき出しの私は、
バイクに飛び乗って見に行きました。

当時の校舎は多分みな木造だったと思われますので、
火は盛大に燃え盛り、高くまで空を赤く染め燃え狂っていました。
時間的には夜12時ころから、3時くらいまで野次馬をやってたと思います。

火事が下火になりつつある現場を離れ、帰宅して寝たのですが、
夜も明けやらぬうちに、またまた大火災があったのです。

現場は藤沢駅からすぐの線路際にあるスーパーマーケットでした。
時間は5時とか、そんな時間だったと思うのです。

スーパーマーケットといっても、
当時の建物は現在みたいな近代的な建物ではなく、
木造長屋に毛が生えた程度のものだったと思います。
しかし、スーパーはスーパーですから、
火災の勢いは半端ではなかったのです。

その時「へ~、凄い事をやるんだな~」っと、
ビックリした事があります。

それは(火災)というのは直接人命に係るという事です。
火事の為に人の命が失われる事は絶対に許されない。

その為には・・・
消防車は線路の両側に停まって放水をしています。
そして、線路の向こう側に居た消防車は、
そこからホースを線路を横切って放水を始めたのです。





消防車のホースが線路を横切るという事は、
電車を止めてしまうという事なのです。

その当時は特急寝台車(いわゆるブルートレイン)全盛期。
九州や大阪といった西から走って来た寝台車は、
あと1時間で終点の東京という事で、
乗客たちは起き出して、そろそろ降りる支度にかかる時刻なのです。

それを、委細かまわず電車など停めてしまい、
火事が収まるまで、止めっぱなしなんです。
あれにはビックリしました。
どんなに急ぐ客が乗っていようがお構いなし。
貴方がどれほど急ごうが、火事で死んでしまうかも知れない、
人間が居る限り、そんな個人的事情など通用しないんですね。

本当にビックリしました。
確かにそりゃそうだよな、とは思っても、
そこまで考えた事はなかったので、驚きましたね~。

そして、ずっと後に、大人になってから、
またそれを、まざまざと見せつけられる火事を見ました。
それはマンション火災だったのですが、
4階くらいのベランダに老人が取り残され、
その老人はなすすべなくベランダに立ちすくんでいたのです。

そこに来たのがはしご車。
するすると梯子を伸ばし、だったんですが、
電線が邪魔。
すると消防士は邪魔な電線をカッターで委細構わずぶった切ったのです。
勿論、電気会社にあらかじめ連絡はするんでしょうが、
本当にバッサリと切っちゃうんです。

しかし、高校生の時は、
学校に行っても眠くてどうしようもなかったな~(笑)


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

引揚者

2020-04-24 17:01:34 | 日記
大正5年(1916年)生まれの母は、満州からの引揚者でした。



母が住んでいたのは奉天(瀋陽)があり、)
その右側45キロに撫順(ぶじゅん)という炭鉱町があり、
その撫順から少し下にある、本渓湖(ほんけいこ)
本渓湖と言っても湖がある訳ではありませんが。
現在は本渓(ベンシー)という小さな炭鉱町でした。







母の父親、つまり私の祖父は、
満鉄(満州鉄道)の会社員だったのです。
母は青春時代を満州で育ちました。
姉妹たちも一緒でした。

地図では、赤い線が左下へ伸びていますが、
それは遼東(りょうとう)半島で、一番左側の先っぽが旅順。
その右が(アカシアの大連)で有名になった大連です。





母は、旅順高等女学校の寄宿舎に入っていました。
ずっと以前、その女学校をネット検索していたら、
母の知っている女性校長の顔が出てきたのには、母はビックリしていました。

母は満州の地で、陸軍少尉だった父と見合い結婚。
そして私の姉が満州で生まれました。

敗戦となり、母はまだ小さかった姉を抱えながら引揚者となります。
多少は引き揚げの話を聞いた事はあるのですが、
母自身も、生きるか死ぬか無我夢中での逃避行だったので、
あまり正確な事などわかろう筈はないのです。



ただ母は、満州と言っても比較的海に近い場所だったので助かったのですが、
ソ連国境、黒龍江省などの、
いわゆる満蒙開拓団の人達は悲惨な事態になってしまいました。

母と一緒の人達でも、
既に死んでいる赤子を手放そうとしない母親がいたり、
洋服の仕立て屋だったある男は、重いミシンを背負って、
自分は日本に帰ったらまた洋服屋をやるんだと言ってる男も居たそうです。

引き揚げ船が出るのであろう渤海湾を目指して、
日本人たちは、明日の生死も分からない危機的状況を、
ただひたすら日本へ帰るんだ・日本へ帰るんだと、
必死で逃避行をするしかありません。
誰もかばってくれる人などいる筈も無く、
みんな自分の命を護るので精一杯だったのです。

これはラジオで聞いた話ですが、
引揚者を乗せた列車(と言っても貨物車)にすし詰めでの逃避行。
列車は何時止まるのか、何処に向かっているのかも全然知らず、
そんな中で列車は荒野の中で停車したそうです。
排泄が我慢の限界だった人達は、列車の近くの草むらで用を足していました。

その時、列車は何の前触れもなく、いきなり走り出したのです。
列車に飛び乗れなかった人達は、そのまま永久にお別れとなったのです。
どれほど声を限りに泣き叫んだ事でしょう。
でも、それが永遠の別離だったのです。

また、迫り来るソ連軍に泣き声で気づかれるのを恐れた兵隊から、
赤子を殺せと命じられ、
我が子の首を締めざるを得なかった悲しい母親もいたそうです。





1995年、NHKが制作した「大地の子」は11時間近い大作でした。
中国に取り残された、中国残留孤児が主人公の、
山崎豊子原作の壮絶な大作でした。
写真右側の眼鏡の中国人俳優は、
中国では有名な俳優とかで、
私達、家族が北京の大きな料理店で夕食をしていた時に来店し、
それに気づいた中国人たちが、一斉に歓声をあげたのでビックリしたなんて事がありました。

私もビデオショップで借りたDVDを録画して観ました。
それは、本当に涙なくしてはとても観られないものでした。

私が母に「これは凄いよ、いい映画だよ」といくら言っても、
母は決して観ようとはしませんでした。
「もうあんなのはイヤ二度とイヤ、観たくもない」

1970年代だったか、
母が60代の時、満州で共に過ごした姉妹などと、
母は懐かしい旅順・本渓湖などを訪れました。
沢山、写真を撮ってきました。
本渓湖には、その当時(本渓湖会)などというのがあったのです。
やはり、若い頃、そこを第二の故郷として過ごした方々の想いは、
いっぱいあって捨てられないのですね。

戦争は、本当に残酷です。
あまりにも残酷です。

戦争で兵士として死んで行く男たちより、
ある意味、残された女子供の方が残酷なのかも知れません。

引揚者・・それは人間として究極の悲しさを味わった人達だったのです。




コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする