ロシア軍は段々うかうか出来ずに安全ではなくなった旅順港から、
自国の港であるウラジオストックへ艦隊を移動させようとしますが、
日本軍はそれを阻止しようとします。
日本海海戦の主役として登場する東郷平八郎大将の艦隊は、
1904年8月10日。
ロシア第一太平洋艦隊(旅順艦隊)と、黄海で海戦となります。(黄海海戦)
ウラジオストックを目指すロシア艦隊に日本軍は挑みますが、
お互いに撃ち合うとの東郷平八郎の見込みは外れ、
ロシア艦隊はウラジオストックに行く事しか頭には無かったのです。
日本艦隊は逃げるロシア艦隊を必死で追いかけます。
ようやく日本軍の射撃が功を奏し、旗艦に損傷を与えます。
それでウラジオストックに行く事をあきらめたロシア艦隊は旅順港に引き返したのです。
東郷平八郎の海戦にあたっての目論見は外れました。
この結果に東郷平八郎は満足してはいませんでした。
ウラジオスットック行きは阻止できたものの、
東郷平八郎は、この時の時の失敗を深く反省し、
後の日本海海戦では、その失敗を二度とせぬようにと頭に刻みこんだのでした。
日本軍に海でも陸でも負け続けるロシアは、
バルト海(スカンジナビア半島に囲まれた)のリバウ港から、
第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を遠い東洋のウラジオストックに送る事にします。
それは歴史上初めてとなる大艦隊の長距離遠征です。
地球の2/3を回る大航海なのです。
今までにそれほどの大艦隊がそんな遠くまで遠征した事などなかったのです。
しかも、当時の軍艦の燃料は石炭であり、
現在の重油(液体)と違って固体ですから、
燃料の補給には人海戦術でスコップでやるしかないのです。
それは大変な重労働です。
1904年10月15日。
バルチック艦隊はバルト海のリバウ港を出港しました。
司令長官は、ロジェストヴェンスキー中将。
しかし、バルチック艦隊にすぐに来られては困る日本軍は、
イギリスで製造した日本の水雷艇が、さも今にも攻撃するかの様な風説を流します。
こういった水雷艇は、100トンに満たない小艇ですが、
魚雷での攻撃力には例え戦艦といえども、あなどれないのです。
ロシア軍はこの風説にすっかり騙され、戦々恐々で、
安心して夜もゆっくり眠る事ができませんでした。
バルト海を出港してから、それほど経っていないある夜。
バルチック艦隊はイギリスの漁船群が操業中だった所を、
日本軍の水雷艇だと思い込み、漁船に向かって砲撃をしました。
漁船1隻が撃沈されてしまいました。
イギリスはこれに激しく抗議し、国際問題となります。
司令長官のロジェストヴェンスキー中将は、この事件に仰天しました。
しかし、元々仲の悪かったロシアとイギリスは関係を更に悪化させてしまいました。
11月3日、地中海入り口のタンシェで、
アフリカの喜望峰を回る艦隊と、スエズ運河を回る艦隊とに分かれます。
普通だったらスエズ運河を通れる筈の軍艦なのですが、
航海があまりにも長く、石炭を積めるだけ積み込んでいるので、
重みで喫水が下がって運河を通る事ができなかったのです。
スエズ運河を回る船は比較的軽い船だったのですね。
ロジェストヴェンスキー中将は、なるべく早くにウラジオスットックに着きたいと考えていました。
それは黄海海戦などで損傷しているであろう日本艦隊の、
修理が終わらないうちに戦いを挑みたかったからです。
1905年1月9日。
喜望峰を回った本隊と、スエズ運河を回った支隊は合流します。
本隊と支隊が地中海入り口で2つに分かれてからほぼ2か月。
ロジェストヴェンスキー中将の第二艦隊は、
後から来る第三艦隊を待つ為に、
アフリカの右側(東)のマダガスカル島で約2か月間をむざむざと過ごします。
寒い北国出身のロシア兵にはマダガスカルは耐えられない暑さでした。
脱走兵は出るし、発狂者は出るしで散々だったのです。
おまけに石炭補給には反ロシアのイギリス港が多くて近寄れません。
フランスも様々な事情でロシアの肩を持つ事は出来ず、
彼等は洋上で船から船への力仕事をせざるを得ませんでした。
これは兵士には過酷な仕事でした。
しかも、ロジェストヴェンスキー中将という人物は、
気に入らないと兵士の頭を長靴で蹴飛ばし怪我をさせる事など、
何とも思わないという性格の持ち主なのです。
当時のロシア軍は、上官と兵士の格差が著しく、
上官は威張りくさっているのが当たり前みたいな軍律でしたが、
そういった中でもロジェストヴェンスキー中将は恐れられていたのです。