河童の歌声

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マラソンが2時間を切るのは間近

2023-10-13 05:02:58 | スポーツ


10月8日に、アメリカ・シカゴマラソンで、
ケニアのキプタク選手が、2時間00分35秒という世界新記録で優勝しました。
いよいよ夢の2時間切りが視界に入ってきたのです。



妻とマラソン世界記録の事を話した事があります。
「マラソンで2時間を切る事はできるか?」
その頃はまだ2時間3分台だったのですが、
妻は「それは無いでしょう」的な見解だったのですが、
私は、人間の限界がどこなのかが測れないので、あるいはと思っていました。

男子100メートル走では、
初めて10秒の壁を切って9秒台を記録したのは、1968年でした。
そして、9秒台が当たり前になったのは、それから15年後の1983年でした。
現在の世界記録はウサイン・ボルトの9秒58です。
10秒と9,58では長さで、4,38メートルも短いのです。
50数年間で人間は、4,38メートルも速くなっているのです。

たった100メートルの短い距離でこうなんですから、
42,195キロという長距離では、どれだけ記録は短くなるのでしょう?
そうなると、人間が1時間台で走れる日は、もう視界に入ってきました。

マラソンでは2回の世界記録を出した選手が5人います。



日本人には馴染みの深い、エチオピアのアベベ。
ローマ五輪を裸足で走って、一躍名を挙げましたね。

そして、オーストラリアのクレイトン。
モロッコ(後にアメリカに国籍変更)のハヌーシ。
エチオピアのゲブレレシラシエ。
ケニアのキプチョゲ。



日本人で世界記録を打ち立てたのは、1963年の寺沢徹。



そして、1965年の重松森雄の2人だけです。

マラソンは昔は40キロの距離だったそうですが、
それが現在の42,195キロとなったのは1908年のロンドン五輪からだったそうです。
その時の記録はアメリカ、ジョニー・ヘイズの2時間55分18秒でした。
それから115年で、人間は55分も記録を縮めたきたのですね。

東洋人の記録保持者は、1965年の重松が最後であり、
白人の記録保持者は1985年、ポルトガルのロペスが最後です。
その後は主にアフリカ系黒人選手の独壇場となりました。

これから先も、しばらくはケニア勢の凄さが際立つのでしょうか?
そして、時間の問題で2時間を切る日は来るでしょうが、
果たしてどこまで記録は縮んでいくのでしょう。
私が生きている内に、1時間台の記録を見たいものです。


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翔平の居ないテレビなんて

2023-09-24 07:07:34 | スポーツ


つい先日まで、朝起きると「大谷のテレビは何時からだ?」と、
試合時間を確認するのが、我が家での日課になっていました。

妻が「朝5時半からやってるわよ」となると、即テレビをつけました。
「今日は9時半からよ」となると、ゆっくりとコーヒーを飲めました。

それが・・それが、いつからだったか翔平の居ないテレビに変わったのか。
故障者リストに入り、トミージョン手術とかがチラホラ囁かれました。





彼のあの笑顔。
兜をかぶって同僚たちから祝福される、彼の笑顔。
いえ、何もしなくてもいい。
ただグランドに彼の姿があるだけでいい。







彼は世界中から、もう翔平なくて何が世界かと言われる存在なんですね。

昔、あれはコーヒーのCMだったか、
〇〇の無いコーヒーなんて・・・
「女性のいない世の中みたいなもの」なんて言われたりしてたね。

今や、翔平の居ないテレビなんか、〇〇の無いコーヒーどころか、
もう何の意味もない、ただの箱みたいな物ですね。



ヤイヤイ責任者出てこ~い。
もう俺はアタリかまわず石ぶつけてやる~~
もう、やけくそで歌声喫茶、行きまくってやる~~。



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慶應応援歌VS早稲田応援歌

2023-08-24 07:13:49 | スポーツ




昨日は、世界中を震撼させた・・(あ、チョッと言い過ぎたかな)
日本中を興奮のるつぼと化した・・(あ、チョッと言い過ぎたかも)
高校野球の決勝戦がありましたね。
結果は、慶應高校が、8対2という予想外の圧勝でしたが、
実力拮抗という相手同士でも、こういった予想外の結果というのは、ある事ですね。

私は、歌声喫茶仙台バラライカに30回通い詰めたという歌声バカですので、
バラライカの常連客とは、何人もの友達が出来上がっていました。
で、これは仙台育英高校を応援するっきゃないだろうと思っていたんですが~・・・
まさか決勝戦を戦うのが、神奈川(横浜)の慶應高校になろうとは・・
これは申し訳ないのですが、予想外だったのです。
となるとですね~、私は東京出身ですが、神奈川県民を40年くらいやってたし、
横浜市民は、30年以上やってたという人生を歩んで来ましたんで、
ここにきて、仙台応援とはいかなくなっちゃったんですね。
あぁ、これで仙台の友人達とはこれっきりの縁切りだけど、仕方ないよね。

それで、あの慶應応援歌の「若き血」を一緒になって唄っちゃったんですね~。

2020年度 9月慶應義塾大学入学式(学部・大学院)(動画配信)/ 若き血


この歌は、以前から「いい歌だな~」と思っていました。
この歌を作詞、作曲したのは、堀内敬三という人です。



堀内敬三  1897年(明治30年)~1983年(昭和58年)86歳。
  作曲家・作詞家・音楽評論家。
  1949年(昭和24年)、NHKラジオ番組「話の泉」で、
  司会と解説を務めました。
  私は子供の頃、その番組を何度となく聞いていましたが、
  堀内敬三氏の博識ぶりには、子供心に「凄い人だな~」と思っていました。
  蒸気機関車が大好きで機械工学を学び、マサチューセッツ工科大学で修士課程を修了、
  音楽でも著名な作曲家とかにも師事しました。
  まさに、大谷翔平クラスの地球外生物のはしりですね。

さて、1907年(明治40年)
早稲田大学創立25周年に完成した早稲田大学校歌(都の西北)は、日本の大学では一番最初に出来た校歌でした。

この歌を作る時、初めは学生からの応募で23編の応募があったのですが、
これといった作品が無かったので、
審査にあたった坪内逍遥と島村抱月は、卒業生の相馬御風に作詞を依頼します。
これに曲を付けたのは、当時講師であった東儀鉄笛でした。

早慶戦(早稲田VS慶應)が始まったのは1903年(明治36年)とされています。
そしてその後、早稲田大学の校歌(都の西北)が唄われ出しました。

【歌詞付き】早稲田大学校歌


早慶戦では、早稲田はこの校歌を歌って勢いをつけていました。
しかし、慶應大学にはこれに対抗する歌が無かったのです。
慶應はこれに対抗して堀内敬三氏に作曲を依頼。

1926年(大正15年)29歳の堀内敬三は「若き血」を作詞、作曲します。
この応援歌を用いての応援は、1927年(昭和2年)から始まりました。
「若き血」に押された早稲田は、その雰囲気に押され、
昭和2,3,4,5年と勝てない時期が続きました。

【歌詞付き】早稲田大学「紺碧の空」


そこで昭和6年、早稲田応援団は全学生を対象に歌詞を募集し、
住治男作詞の「紺碧の空」を一文字の修正もなく採用します。
この歌の作曲を当時、無名だった古関裕而を推薦したのは、
「イヨマンテの夜」の歌手、伊藤久男の従兄の伊藤しげる、彼は早大応援部の幹部でした。

これは古関裕而最初の出世作となり、
以後、慶應、早稲田は「若き血」と「紺碧の空」で早慶戦を張りあったのです。

1933年(昭和8年)には語り草となっている(リンゴ事件)が起こりました。
その時、慶應、早稲田は激しい点の取り合いになっていたのですが、
審判の判定を巡ってトラブルが重なっていました。
後に読売ジャイアンツ監督となった、水原茂氏が審判に詰め寄り猛烈に抗議。
こうした経過から両校の応援団は興奮状態にありました。
水原が三塁の守備に就くと、三塁側早大応援団席から水原に向かってリンゴが投げ込まれ、
試合は慶應が9ー8の逆転サヨナラ勝ちとなったのですが、
早稲田応援団は慶應ベンチになだれ込み大乱闘となり、
警官隊が出動する大騒動になりました。
この事件がキッカケとなって、早稲田は1塁側、慶應は3塁側に固定されたのです。

【早稲田大学応援部】紺碧の空 早稲田へようこそ受験生


ちなみに、私は何と言っても「紺碧の空」が好きです。
歌もいいし、チアガールの振り付けもいい。
チアガールの足が何処まで上がるか?
腰までしか上がらない人は失格。
頭の上まで上がるチアガールで、勝負は決するのです(ウソ)

早慶戦、いいな~、俺も「紺碧の空」唄いたかったな~。



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パンチドランカー

2023-07-20 07:54:12 | スポーツ
慢性外傷性脳症というのが正式な名称ですが、
最初にボクサーから見い出された事により、
パンチドランカー(和製英語)と呼ばれる様になりました。



左が正常な脳であり、右がパンチドランカーの脳です。
1928年に法医学者のハリソン・マートランドが、
世界で初めてパンチドランカーについての医学的説明をしました。

ボクシング以外でも、アメリカンフットボール・アイスホッケー・サッカー・
プロレス・野球・剣道といった接触の多いスポーツに多いようです。
頭部に強い衝撃を繰り返し受ける事が、
パンチドランカーの原因になると考えられていますが、
全てのアスリートが発症する訳ではなく、
2005年頃より本格的な研究が始まったばかりの疾患という事もあり、
詳しい事は判明していません。



よく、例えに言われるのは、鍋に水を張った中の豆腐。
鍋が強い衝撃を受けても、鍋自体は壊れませんが、
中の水に浮かべた豆腐(脳)はグズグズになってしまうのです。
これは素人判断ですが、極めて「言い得て妙」だと思います。

症状としては、頭痛、身体の震え、どもり、バランス感覚の喪失、
認知障害、人格変化など・・・・
家庭内暴力の被害者、
ロックバンドなどで激しく頭を上下に振る演奏者などにも発症するそうです。



プロレスラーの、ダイナマイトキッド。
小さな身体を鍛え上げ、あの、初代タイガーマスクと数々の名勝負を演じ、
タイガーマスクと双璧の空中殺法でファンを魅了した名選手でした。
彼等はお互いに(人生で最高のライバルであり彼が居なかったら自分は無かった)
とまでお互いを讃え合った二人でしたが、
その末路は悲惨でした。



もう自分の体も動かせず、言葉もままならず、
愛する妻の介護を受けながらベッドに身を横たえていましたが、60歳で亡くなりました。



格闘家。マイクベルナルド。191-110
パンチドラカーに悩んでいましたが、42歳で自殺。



格闘家、ゲーリー・グッドリッジ。191-109(57歳)
腕相撲世界一から格闘家になりましたが、2012年にパンチドランカーとされています。



ロジャー・メイウェザー(59歳没)

あの、偉大なる名チャンピオン。メイウェザーの叔父さんで、
彼も世界チャンピオンまでいきましたが、パンチドランカーになってしまいました。



その偉大なるチャンピオン、メイウェザーは、
叔父さんや、モハメド・アリの病状を見て、自分はそうなってはならないと、
回避と防御を重視した戦術を採ることに徹底しました。



日本チャンピオンまでいった、たこ八郎。(44歳没)
彼が典型的なパンチドランカーだったのは有名で、
彼はずっと夜尿所に悩まされていました。



モハメドアリ。(74歳没)
彼の戦い方は長身を生かした、頭部を打たせない戦法でしたが、
それでもパンチドランカーだったと言われ、最後はパーキンソン病まで抱えてしまいました。



大木金太郎は原爆頭突きと言われた、強烈な頭突きを最大の武器としたプロレスラーでしたが、
やはり、あぁいった頭部への衝撃はいい筈がなく、パンチドランカーになりました。
(77歳没)



そして今、あの偉大だったチャンピオン、
辰吉丈一郎(52)が、パンチドランカーではないかと噂されているのです。

プロスポーツ選手というのは、
己の肉体がすべてであり、それを出し惜しみなど出来る筈はないのですが、
その中でも格闘技は、まさに命を削る危険と隣り合わせのスポーツですね。
最近、サッカーのヘディングはやめようとかの話が流れていますが、
本当に、現在のままだと、パンチドランカーはまだまだ出てくるのでしょう。




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悩みは深い

2023-05-17 10:31:27 | スポーツ
私の父は、野球が大好きでした。
仕事は普通のサラリーマンでしたが、地元の野球クラブに入って、
休日には、いわゆる(草野球)ばかりやっている(野球バカ)でした。





父は体格も良く、エースピッチャーであり4番バッターでもある、
つまり、その野球クラブでは誰もが認める大選手でした。
父を「プロになれる素質で、アマでは勿体ない」と言う人も多数いました。
そんな父親だったので、私も物心ついた時には、勿論野球をしていました。
父と一緒にプロ野球観戦は日常茶飯事。

そんな私達父子を母は温かい目で見ていました。
と言うのも、母はずっと社会人ソフトボールの選手をしていたからです。
つまり私は何を考えるまでもなく、
生まれついての野球バカ街道を突っ走る事を、運命づけられていたのです。
母も体格が良く、両親の素質を受け継いだ私は身長185センチの堂々たる体躯を誇っていました。

子供野球から、中学に入ると当たり前に野球部以外には目も向きませんでした。
高校では、ある学校から勧誘もあったのですが、
やはり地元で子供の頃から顔馴染みの友達たちとやりたいと、
他県に留学する事はなく、地元の強豪校に入りました。





父と母とのDNAを受け継いだ私は、体格は申し分なく、素質も凄かったのです。
私が高校の野球部に入ると、野球部を辞める人が数人出ました。
監督は何とか彼等を引き留めようと説得したのですが、
彼等の意思は強く、結局それを止める事は叶いませんでした。

後で知ったのですが、彼等が野球部を辞めた理由は、私を驚かせました。
私を見た仲間達は「世の中にあんな奴が居るのを見たら、もう勝てないと思った」だったのです。
彼等だって私と同じ、野球バカ。
それなのに、、それまで一生懸命にやってきたのに、
私が普通に凄い剛速球を投げ、普通に平気な顔してホームランを打つのを見たら、
「こいつには絶対に勝てない、こんなのが居るんじゃもうダメだ」
皆は私という素質に驚き、初めて劣等感にさいなまれ、
もう、自分達には野球人生という選択肢は完全に失せたと、
敗北感しか感じなくなってしまったのだそうです。

何でもそうですが、人間は心が折れてしまったら、完敗ですね。
もう立ち直れないのです。

そういった辛い出来事もありましたが、
私は高校、そして大学と考えてはいたのですが、
高校在学中からプロのスカウトマンが見逃す筈はなく、
ドラフト会議となり、トントン拍子にプロの道へと進んで行きました。
それは両親にとっても大いなる歓びでありました。
私はプロでの人気もそこそこ獲得し、数年後に、
いよいよ大リーグへと夢を大きく伸ばし羽ばたいていきました。





そこで私は悪夢を目の当たりにしてしまったのです。

こんなのが居るんだったら、もうダメだ。
俺は絶対にこいつには敵わない、勝てない。
俺の今までの野球人生ってなんだったんだ。
友人達が俺を見て、「敵わない」と野球を辞めさせてしまった俺。
その俺が、こいつを見て「もう完全に敵わない、勝てない」と心底思う。
俺、もう野球辞めちゃおうかな・・・

顔・・勝てない。
体格・・敵わない。
モテっぷり・・話にならない。
性格・・男の俺が惚れちゃう。
肝心かなめの野球・・もう絶望としか言いようがない。

あ~、あ~、
溜息しか出てこない。
俺の野球人生って、、、何だったんだ~ッ!

夢か幻か・・・あ~~ッ!

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