河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

鉄のゲージツ家・クマさん

2020-05-29 15:10:13 | 日記
自称・鉄のゲージツ家・クマさんは、
本名・篠原勝之と言います。

1942年(昭和17年)4月、北海道・札幌に生まれ室蘭で育ちました。
生後すぐにジフテリアに罹り、嗅覚と左耳の聴覚を失いました。
その後、東京に出たみたいで、武蔵野美大を中退しています。



皆さんがこの人を知ったのは・・・
そうですよね、テレビ(笑っていいとも)ですよね。
私もそうです。

ここ10年くらい前から、私は新しいパートナーに恵まれ、
彼女と共にキャンプによく行く様になりました。
山梨県・北杜市にも素敵なキャンプ場が数か所あり、
それらのキャンプ場に行った時に、
キャンプ場の管理人から、「この近所にクマさんが住んでるよ」と聞かされました。



そして橋の欄干にも彼の作品があるというので気を付けて見ていたら、
ありました。こういったガラスで作ったゲージツ品が。



この作品は場所はきっと違うのでしょうが、
そこらの河原とかキャンプ場近辺にもこういった巨大な作品を見かけました。
ですから北杜市のキャンプ場に行く度に、
「何処かでクマさん見かけないかな~」とキョロキョロしたもんです。
まだ見かけた事はないのですが。

1973年~1979年まで、唐十郎主宰の状況劇場で、
舞台美術を担当し、芸能界と関係をもちました。
1981年に著書「人生はデーヤモンド」を刊行、人気となります。
1982年からタモリの「笑っていいとも」に出演し注目され、
テレビタレントとしても活動する様になります。

一度結婚し、一男一女が居ますが、
子供の事は語らず「結婚なんて下らんものは二度とするか」と、
その後は再婚する事はありませんでした。





テレビに出演する前には、銭湯の絵描きなどもやっていたそうです。
そういった点はさすがに美大出身なんですね。



彼の著書は20冊以上ありますが、
私が昔読んだのは「放屁庵退屈日記」
これは、まさに抱腹絶倒とは、つまりこういう事なんだよの見本。
もし、本屋さんでクマさんの本を見かけたら、買った方がいいですよ。
メチャメチャ面白いから。

仲間と呑んでいたらツマミが無い。
あったのが腐りかけた野菜だけ(だったかな?)
何の野菜かは覚えていないんですが、
それを喰った連中は軒並み腹下し。
クマさんだけが平気の平左だったそうです。

ある日は、朝から一日中、女とやり狂っていたとか。
その面白さが半端じゃないのです。
彼は喧嘩と語りの天才(だったかな?)とも言われたそうです。



自分が喧嘩に強いなどとは全然知らず、
ある時、やむにやまれず喧嘩になってしまったら、
相手を簡単にノシてしまい、それで初めて自分が喧嘩に強い事を知ったそうです。
新宿ではプロ級の喧嘩師とも言われていたとか。
その頃は漫画家の赤塚不二夫とも飲み友達だったとか。

2009年、「走れUMI]で、第45回小学館児童文学賞出版文化賞。
2015年、「骨風」で、第43回泉鏡花文学賞を受賞。

鉄のゲージツ家は、たんなるオフザケ芸術家などではなく、
れっきとした才能豊かな芸術家であったのですね。



最近は陶芸などにも狂っているみたいで、
Twitterでは頻繁に毎日の生活をアップしています。

いいですね。
同じ男として、彼はとっても興味深く魅力的なんですね。




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伝説のライダー・・マイク・ヘイルウッド

2020-05-28 15:57:46 | バイク


マイク・ヘイルウッドは、
1940年生まれのイギリス人、オートバイレースのライダーです。
数々の記録を打ち立て、天才ライダーと言われました。

イギリス最大のバイク・ディーラーチェーンを経営する
富豪ヘイルウッド家に生まれました。
その為、幼少時よりバイクに親しみ17歳でレースデビュー。
彼の人柄は謙虚で好感度が高く皆から親しまれました。



1950年代から1960年代のオートバイレースで活躍し、
世界グランプリで9回のタイトルを獲得しました。
1962年には22歳の若さで500ccクラスのタイトルを獲ります。
この記録は長く破られませんでした。
その頃ライバルだったのは、これも有名なアゴスチーニでした。



1960年代のオートバイ雑誌を見ると、
彼の雄姿が載っていない月はありませんでした。
イギリス国旗をあしらった黄色っぽいヘルメットは強烈なイメージで、
今も私の心に焼き付いています。

1970年代に入ると、彼は4輪レースに転向します。
1972年にはフォーミュラ2で、ヨーロッパチャンピオン。
       フォーミュラ1では、2位でした。
1974年、事故で負傷しF1を引退します。

1978年。
彼はオートバイレースの最高峰、有名なマン島TTレースに復帰します。
30代後半(37歳か38歳)ほぼ7年間の空白を経ての復帰に、
関係者たちは、みな単なるエキジビション的な出場だと思っていました。
ところがいきなり優勝し、世界中の大きな話題となったのです。
翌、1979年にも優勝し、圧倒的な凄さを見せつけたのでした。



ヘイルウッドが長年、イタリアのドカッティーと専属契約を結び、
各地で華々しい戦歴を打ち立てきた経緯があり、
1978年の復活優勝を記念して、
ドカティー社では、マイク・ヘイルウッドレプリカという、
モデルを発売し人気を博しました。
今でも、このドカティーはマニア垂涎モデルみたいですね。

よく伝説の〇〇といった事が言われたりしますが、
マイク・ヘイルウッドもそれでした。
まさに伝説の天才ライダーでした。

1981年、
自家用車を運転中、前を走るトラックがいきなりUターンを始めたのを避け切れず、
ヘイルウッドは8歳の娘と共に亡くなってしまいました。 
まだ40歳でした。





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飛行船

2020-05-27 05:06:02 | 日記




飛行船という乗り物が在るという事は知ってました。
ドイツの、ヒンデンブルグ号とかツェッペリン号とかでした。
でもあれは過去の遺物だとばかり思っていました。





ヒンデンブルグ号は大西洋を17回横断飛行するくらいの人気で、
富裕層の人達からは持てはやされたみたいです。



飛行船ヒンデンブルグ号爆発事故 (カラー処理映像)


飛行船の命運が断たれたのは、
ヒンデンブルグ号がアメリカで着陸時に大惨事を引き起こした事件でした。
静電気の放電による発火で、一瞬にして燃え尽き、
死者36人を出したのです。

その当時の飛行船は、みな水素を使って浮力を得ていました。
現代の飛行船はみなヘリウムを使っていますが、
当時、ヘリウムは非常に高価であり、
それに比べて水素は安価で、ヘリウムに比べて浮力が大きく、
その為に重量物が積めたのです。

水素は下降する時には自由に排出できましたが、
ヘリウムは排出が出来ず、軽すぎて下降できない時は、
力学的な方法を取らなければなりませんでした。

そういった事から飛行船はみな水素を使っていたのです。
水素が非常に発火しやすい物質なのは分かっていましたが、
それは技術的に克服できる・・出来たと信じられていたのです。



ですから、ある日突然、東京の空で飛行船を見た時は衝撃でした。
「エッ、あれって飛行船じゃないか。あんなモンが今何で存在してるの?」

日本で初めて広告としての飛行船が飛んだのは、
1968年9月のキドカラー号でした。
日立のカラーテレビ(キドカラー)は、飛行船の宣伝効果でかなり売れたそうです。
1980年代後半から、1990年代前半で、
多い時には4隻の飛行船が東京の空を飛んでいたそうです。





2010年には東京遊覧飛行船があったそうですが、
10人乗りで6,3万円~12,6万円と高目だったみたいです。

飛行船というのは、とんでもなく静かで、ゆったりと、
まるで空中浮揚をしたいるみたいな夢見心地的な味があるそうですが、
現在はもう無くなっていますね。



しかし、ヒンデンブルグ号の長さは236メートル。
それは世界最大の戦艦大和より30メートル短いだけ。





東京都庁ビルや、代々木のNTTドコモビルとほぼ同じ。
実にデッカイ物体が悠然と空を飛び、大西洋を横断していたんですね。

現在、日本には飛行船は在るのか?
飛行船を維持する為には広大な面積の格納施設が必要になり、
維持する為の職員も常時待機させねばならず、
宣伝の為に飛行船を飛ばすのですから、
地価の安い郊外に係留は出来ず、地価の高い都心でなければなりません。

そんな価値が飛行船に有るかと言えば、
今はインターネットの時代。
広告などはネットで簡単に出来てしまうのですから、
やはり飛行船の時代は戦前と、戦後と2回終焉してしまったのかも知れません。







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恐くて眠れなくなる感染症

2020-05-25 12:50:49 | 日記


先日読んだカミュの「ペスト」と同じ日に買った、
岡田晴恵著「怖くて眠れなくなる感染症」を読み終えました。

このところ、連日テレビに出ずっぱりの岡田晴恵さんの本です。
PHP研究所出版のこの本はシリーズになっていて、
その頭には必ず「怖くて眠れなくなる」が付いています。

と思ったのは間違いで、本当は
「面白くて眠れなくなる・・・」でした。
最初は「怖くて」だとばかり思い込んでいたので、
数学・物理・人体・生物学・・・が、何で怖いの?
とよく見たら「面白くて」だったという訳です。

ただ、この本は「面白くて」ではなく「怖くて」なんです。
23冊中「怖くて」と付くのは、「化学」と、この本の「感染症」だけです。

で、本当に怖くて眠れなくなるのかと言うと、
まさしく本当にそうなります。
人類の歴史と同じだけ感染症は在る訳で、
その死者の数は、世界中の幾多の戦争の死者をはるかに上回ると言ったら、
感染症がいかに恐ろしいか理解できると思います。

と言うか、今まで自分は感染症の網の目をくぐり抜けて、
よく生きてこられたものだとすら思います。
そして、今回やっと、感染症の網に引っかかってしまったのです。
この重大危機を果たしてくぐり抜ける事ができるのかは、
大袈裟に聞こえるかも知れませんが、神のみぞ知るです。

この本は4つの章に分かれています。

➀  近未来に恐ろしい感染症
     エボラ出血熱・・MERS・・ジカウィルス・・デング出血熱・・
     マラリア・・梅毒
➁  世界史を変えた感染症
     ペスト・・コレラ・・黄熱病・・天然痘
➂  よみがえる感染症
     結核・・破傷風・・麻疹(はしか)・・狂犬病
➃  日本で警戒すべき感染症
     風疹・・アタマジラミ・・重症熱血小板減少症・・
     ノロウィルス感染症・・腸管出血性大腸菌O157

全く自然界には何でこんなにも恐ろしいばい菌が存在するのだろうと、
生きてるのがイヤになる気がします。

この4つの中で、最も恐ろしくなるのは、
2番目の世界史を変えた感染症です。
何しろ、それが発生した事によって人がバタバタと死んで行き、
原因が全く分からないのですから、治療法などある筈もなく、
人々はただただ恐れおののき、なすすべなく、
町は死屍累々たる死体の山が築かれ、死臭に覆われ、
全滅する町や村が出る始末。

それが如何に恐ろしいか。
人々は救いを宗教に求めるくらいしか希望を見いだせず、
所が行った先の協会は、牧師が我先に逃げ出して誰も居ないのです。
神にも見放された人々は宗教に絶望し、遂には放棄するのです。

平和な時には牧師は、さもありなんと尤もらしいしかつめ顔で、
人々をある意味、睥睨してエラソーにしてたというのに、
自分の命が危ないとなった途端に手の平を返し、真っ先に逃げ出す。
人々は自暴自棄になり、
宗教はその時点で意味を失い崩壊してしまいました。

540年頃に起こり伝染したトルコのイスタンブールでは、
1日の死者が5000人~1万人に達しました。
また、1348年から1353年までの6年間。
ペストはヨーロッパで大流行しました。
この時のヨーロッパの人口は1億人程度だったらしいのですが、
死者は2500万人~3000万人と言われています。
この流行により、(中世)という時代は終焉を迎えます。

コレラは、インドのガンジス川が発祥で、
6回のパンデミック(世界的大流行)を引き起こし、
全世界で数百万人を殺戮しました。

737年、朝鮮半島に派遣されていた使節団が帰国します。
しかし、彼等は朝鮮に流行していた天然痘を持ち込んでしまいました。
日本でも流行が始まり、それによって奈良藤原氏の4兄弟が死んでしまいます。



この天然痘の悲劇と、国家の安泰を願って、
聖武天皇が747年に建造を始めたのが、奈良の大仏です。

天然痘がどのくらいの人を殺したのか?
少なくとも、人類の10分の1を死亡させたと言われています。
20世紀だけでも3億人が死亡したそうです。
1977年を最後に、天然痘は根絶し世界から無くなりました。
数ある感染症の中で地球上から根絶できた感染症は、
この天然痘だけです。

人類はその進歩と共に未開の地を切り開き、
それ故に、その場だけでとどまっていた菌を掘り起こしてしまい、
過去には無かった新しい感染症が出てきています。

そしてそれらの菌は航空機によって、あっという間に世界に広がり、
昔に比べて広範囲に散らばります。
現代の医療科学は昔とは桁違いに進歩はしていますが、
ワクチンの開発、特効薬の開発となると、
非常に時間のかかる事です。

現在も根絶できずに死者は確実に存在し、
未だに特効薬はなく、これからも新しい感染症はきっと出てくるだろう事を思うと、
人類はパンドラの箱を開けてしまったのかも知れないという恐怖を感じます。




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ペストを読みました

2020-05-20 13:24:47 | 読書


カミュのペストをやっと読み終えました。
文庫本450ページくらいの力作です。



著者はフランスの、アルベール・カミュ。
カミュという人は1913年~1960年(46歳)
不条理(通常の予測を外れ、人とうまく調和しないこと)の作家と呼ばれていました。

1957年、44歳の時にノーベル文学賞を受賞しています。
これは1907年に、
イギリス人のラドヤード・キップリングが42歳で受賞したのに次いで、
2番目に若い受賞者でした。

「ペスト」はカミュの出身地であるアルジェリアを舞台に描かれています。
アルジェリアは北アフリカの地中海に面した国。
といっても国土の殆どは砂漠地帯の国です。




舞台はオラン市という観光が売りの地中海沿岸の風光明媚な都市です。
現在のオラン市は人口70万人近くですが、
小説の舞台は194〇年という仮定ですから、
当時は第二次世界大戦などありましたから、その半分程度だったのでしょうか。

その都市を、ある日ペストが襲います。
最初はネズミの死骸が多くなった事から始まって行きます。
その内に市街地のあちこちにネズミの死骸が溢れる様になってきます。
人々は「これは変だ、何か恐ろしい事が始まっている」と感じ出します。



その内に人が死に始めました。
死者の身体は黒く変色しています。
ペストは黒死病とも言われ死者の体は黒く変色しています。



西暦1300年代半ばにペストはヨーロッパで大流行を起こし、
ヨーロッパの1/3が死に絶えました。
街中が死屍累々たる死体の山になったのでした。
ペスト菌の発見は1894年ですから、
その当時の人は訳も分からずに次々に人が目の前で死んでいき、
明日は自分が死ぬかもしれないのですから、その恐怖心は大変なものだったでしょうね。

小説の語り手でもある主人公の医者はペストを確信し、
知事に訴えますが、知事は事を荒立てたくないのです。
ネズミや死者の事を、さも、それほど騒ぐ事ではないみたいな、
新聞記事を片隅に少し載せてお茶を濁そうとします。
しかし、それも束の間、
隠し通せる範囲は瞬く間に超え、知事は仕方なく命令を出します。
ロックダウン(都市封鎖)が始まりました。

ロックダウンは9か月間の長期に及びました。
市外から市に入るのは自由ですが、
市内から外に出る事は絶対に出来なくなってしまいました。
ゲートには警官が貼り付いていて、どうにも出られないのです。

人々は自分が正当な理由を持ち、出る権利があると言って市外に出ようとしますが、
個人的な言い訳は絶対に認められないのです。
もう完全に諦めざるを得なくなってしまいました。

そういった特殊な環境、それもいつ終わるか全くわからない、
先の見えない真っ暗闇の中で人々は懸命に生きるのでした。

あれ?それって何処かと同じじゃないの?
そうなんですね、今の我々と同じなんです。
ただ、ペストの致死率は今の日本の比ではありません。
そして、今より医療技術は低いのです。



ペストというと、必ずこういった姿を見るのですが、
これは1619年に作られたペストの治療にあたる人が着る服です。
大量の香辛料をクチバシの部分に詰め、
皮膚接触から身を護る為の一種の医療着です。


果たして人々の運命は・・・それは本に書いてあります。

カミュは小学校の教諭からその才能を見出され、
奨学金を受けながら高等中学に進学する事ができました。
カミュはこの教諭の恩を生涯忘れなかったそうです。

アルジェリア大学・文学部哲学科を卒業しましたが、
それもあって、カミュの文体は哲学色を強く感じます。
ですから、人の心理描写などはどうでもいいから、
話の先を早く知りたいとだけを思う読者にはまどろっこしいかも知れないし、
そういった心理描写こそカミュだという読者はファンになるでしょうね。



1960年、フランス・パリの郊外で、
友人の運転するフランス製、現在は存在しない高級車メーカー。
ファセルベガが超高速で立ち木に激突し、
助手席に乗っていたカミュは即死でした。46歳でした。



この方、きっとテレビで観た事があるとおもうのですが、
名前はセイン・カミュ。
カミュのお兄さんの孫という事です。

「ペスト」は今、売れに売れているという事ですが、
それはきっと日本だけの事ではなく、
恐らく世界中が同じで、
これを機にカミュファンが増えると思います。



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