河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

315万円のトライアンフ

2017-09-30 21:01:12 | 自動車
【クリッパーズ】 トライアンフ ボンネビル(69年式)マフラー音 純正


この動画は、以前のブログでも登場したのですが、
トライアンフ・ボンネヴィル特有の、
排気音の素晴らしさがよく出ています。

イギリス車のトライアンフは現在も製造され続けていますが、
1958年から1962年くらいだったかの、
この時代のトライアンフくらい美しく魅力的ではなくなりました。

その、トライアンフ・ボンネヴィル(650CC)が、
315万円で売られています。

「欲しい~ッ!」

心から欲しい。
喉から手が出るほど欲しい。
でも、いくらなんでも、それを操縦できる技量はもう無い。
バイクというのは、
一度「怖い」と思ったら、もう乗れないのです。
少なくとも私はそう思っています。

40歳くらいまでは、血が疼きました。
しかし、50歳にもなると、
もう乗れなくなっている、弱い自分に気づいていました。
そうなると金輪際、乗るべきではないと思っています。

ですから、315万円でこいつを買ったとしても、
飾っておくだけ。
それではあまりにも勿体ないし、
それだけの為の315万円などは、勿論無理。

だから(夢)なんです。
でも、こいつを買う幸せな奴がいると思うと嫉妬します。









世の中に、こんな美しいバイクなど何処にも無い。

世界最高のバイク・トライアンフ・ボンネヴィル。
ちなみに世界一美しい軍艦は、ドイツの戦艦・シャルンホルスト。

いいよね~。
こういった最高の美しさを眺めるというのは・・

セルモーターなどというのは無い。
エンジンをかける時は、右足でキックペダルを踏み下ろします。
バリバリっと小気味いい、それでいてリズミカルな、
トライアンフ、サウンドが始まります。

胸はこれから始まる桃源郷を想い、ワクワクします。
エンジンからは微かにガソリンとオイルの混じった匂い。
これが一層、胸をときめかすのです。
そして左手でクラッチレバーを握り、
右足でギヤペダルを踏み(日本車の左足とは反対)
おもむろにローギヤを入れます。

そして左手のクラッチレバーを徐々に緩めると、
トライアンフは、あの特有の排気音を轟かせて発車します。
その瞬間はバイク乗りには、たまらない瞬間です。

ハーレーなど眼中にありません。
トライアンフこそ、バイクの中のバイク。
トライアンフを知ったら他のバイクなどに興味は無くなります。

いいんだよな~。
で、315万円ね、チョッと言葉を失います。
こいつを買う奴は本当に幸せ者です。






コメント
この記事をはてなブックマークに追加

柳生博と八ヶ岳倶楽部

2017-09-29 00:03:15 | 日記
俳優・柳生博は、1937年生まれの80歳。

20年以上前にテレビで、何処かの山にスタッフ達と一緒に泊り掛けで登る。
そんな番組をやっていたんですが、
頂上に登り切った時、彼は「山はいいんだよな~」と、
感極まって涙ぐんでいたのです。
それをたまたま観ていた私は「この人って本当にいい人なんだな~」と、
それ以来、柳生博という俳優が好きになりました。

柳生博は剣豪・柳生宗厳の末裔の家系で、
柳生家は代々「男は12歳になったら独り旅に出る」という家訓があり、
柳生博もその家訓に乗っ取り、13歳の時に一人で、
八ヶ岳倶楽部のある山梨県北杜市近辺を少年時代に旅した事があったのです。
「八ヶ岳倶楽部」をその地に造ったのも、
きっとその体験があったからだと思います。

彼は俳優として活動するかたわら、
1981年から1993年の12年間にわたり、
テレビ番組「100万円クイズハンター」の司会者を務め、
現在は(日本野鳥の会)の会長も務めています。



そういった中で、
1976年(39歳)に八ヶ岳の麓に土地を購入し、
それを家族ぐるみで開墾して、遂には居を移します。
私はそんな頃あるテレビを観ていたら、
柳生博が出演していて「軽トラは面白いよ~」などと言っていたのを覚えています。
きっと八ヶ岳の土地を開墾している時に、
軽トラックを散々乗り回していたんだと思います。

八ヶ岳の麓は観光地として、また高原野菜の産地としても有名な清里に近く、
気温は低いのです。
そういった土地柄で子供を学校に通わせるのも、
きっと大変だったのだと思います。
東京が仕事の本拠地である柳生博が、
海の物とも山の物とも知れないそんな土地に移住するというのは、
世間の人達からすると、清水の舞台から飛び降りるくらいの、
決断に見えた事と思います。





家族ぐるみで開墾した土地を、
ギャラリーレストラン「八ヶ岳倶楽部」と命名して開設したのは、
1989年、柳生博が52歳の時でした。



柳生博には男の子が二人居て、
長男(柳生真吾)は1968年生まれ。
彼は父親と一緒に土地を開墾していたりする内に園芸家を目指す様になり、
後にNHKの番組「趣味の園芸」のキャスターを務める様になります。
「八ヶ岳倶楽部」の代表でもありました。
しかし彼は2015年5月に、
咽頭癌の為に47歳で逝ってしまいました。

私達が「八ヶ岳倶楽部」を訪れたのは、
2015年11月の事でした。





私は大好きな柳生博さんと一緒に写真を撮らせて頂いたのですが、
ご長男を亡くされて、まだ半年で傷心の柳生博さんと、
お話をする事は、したかったのですが出来ませんでした。
柳生さんの後ろ姿は・・
やっぱり淋しそうに思えて、私は話が出来なかった。

つい先日、柳生博さんは「徹子の部屋」に出演されていました。
話が若くして亡くなられたご長男の事になると、
柳生さんは笑みを浮かべながら話していましたが、
その胸の内を思うと・・
誰だって親より先に逝った子の事は、どれほど悲しいか。



「八ヶ岳倶楽部」には名物のフルーツティーがあります。
私達もこれを飲みましたが、とても美味しかった。



現在の「八ヶ岳倶楽部」は大型バスで観光客が来る程の人気で、
柳生博の生き方に魅せられた若者達が近辺に移住して来たり、
一緒に働かせて欲しいという若者達に囲まれています。


私は、また「八ヶ岳倶楽部」に行こう。
その時には柳生博さんと、きっと話をしよう。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント

2017-09-24 07:16:59 | 格闘技
大巨人伝説アンドレ・ザ・ジャイアント


プロレスラー・アンドレ・ザ・ジャイアント(フランス)は、
1946年生まれ、1993年没(46歳)
「人間はどこまで大きくなれるか、その生きた見本」とまで言われました。
身長223センチ。体重236キロ。足の大きさ38センチ。

本名は、ジャン・フェレだと言われています。
パリの家具運送会社で働いている所を、
体操選手だった(元オリンピック選手)のプロレスラー、
エドワード・カーペンティアーに見いだされてプロレスラーになります。

当初は、モンスター・ロシモフと名乗っていました。
1970年に初来日した時も、その名前でした。
1973年から改名し、アンドレ・ザ・ジャイアントと名乗る様になります。



アンドレをボディースラムで投げ飛ばしたレスラーは何人か居ます。
彼をボディースラムで投げる事が、一種のステータスだった時期もありました。
日本人でも、
アントニオ猪木・長州力・ストロング小林の3人がいますが、
本当はアンドレが他のレスラー達への思いやり、
そういった格好いい場面を作らせてやろうという気持ちで、
投げさせてあげたんで、
本気だったら誰も彼を投げられなかった、とも言われています。


他のレスラー達と一緒だと、その巨大さが際立ちます。
彼は、並のレスラー2人を相手に試合をした事もあるのです。
2人の普通のレスラーが本気でやっても彼の巨大さの前には、
中々勝てませんでしたが。
しかし、世界的にも一流のレスラー相手だと、
2人相手というのは、いくら何でも無理で、
アンドレとはいえ、本気仕様ではないとそれは無理でした。



日本の誇る大巨人・ジャイアント馬場といえど、
アンドレと並ぶと普通の人に見えてしまいます。
ジャイアント馬場・・209センチ。135キロ。
対するアンドレ・・223センチ。236キロ。

私は高校生の時、ジャイアント馬場を1メートルの至近距離で見ましたが、
「世の中にこんな大きな人間が居るんだ」と、
心底、驚愕しました。
その馬場が、普通の人に見えるその巨大さ。
まさに唖然、呆然ですね。

アンドレの得意技はいくつもありますが、
その中でもボディープレス。
彼が236キロの全体重をかけて相手を圧し潰す様は、
まさに(圧巻)のひと言でした。

アンドレの並外れた言動はいくらでもありますが、
中でもその飲酒量が半端ではなかった事は語り草的になっています。
缶ビール118本。ワイン19リットルを飲み干した。
飛行機にあったビール200~300本を全部飲んでしまった。
大ジョッキ89杯、ビール327本を開けた時はさすがに気絶した・・
まるで人間とは思えない途方もない数字の羅列。

彼は先端肥大症に悩んでいて、
体重がどんどん重くなって行く事をしきりに気にしていたそうです。

彼はいつも鉛筆かボールペンを持っていたそうです。
何で?
その頃の電話はみなダイヤル式でした。
彼はそのダイアルに指が入らなく、電話をかけられなかったのです。
全く、異常にデカイという事はそういった事なんですね。

彼は生涯独身だったと言われていますが、
実は奥さんと娘さんが居たんだという話もあります。
ジャイアント馬場にも奥様が居ましたね。

【プロレス】若き日のアンドレ・ザ・ジャイアントを知っているだろうか?



巨人型のレスラーの多くは大成した試しがありません。
しかし、アンドレは大成功しました。

晩年の彼はアメリカに広大な牧場を買って過ごしていましたが、
増え続ける体重ゆえに歩行もままならなくなっていたそうです。

1993年。
彼は父親の葬儀にフランスへ行きます。
そしてパリのホテルで、急性心不全により46歳で急死しました。

思えば、その巨大さ故にレスラーとして大成し、
沢山の富を築きましたが、
人間としては、その巨大さは、悲し気に映るという、
相反する矛盾、皮肉な人生でもありました。合掌。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

冷やし中華

2017-09-23 02:14:03 | グルメ
そろそろ冷やし中華も終わろうとしていますね。
私は、あれを考えた人には感謝したい気持ちです。
あれって、実に美味しいんですよね。



冷やし中華にはいくつかの思い出があります。

あれはもう10年も前でした。
私はそれが(今年初めての冷やし中華)だったんです。
「さあ、今年初めて食べる冷やし中華だぞ~」っと、
期待しながら店に入ったのです。

それで出てきた冷やし中華は、外観は普通の冷やし中華でした。
所が食べ始めたら、まるで違っていたんです。
スープが辛くて、あの冷やし中華の味とは似ても似つかない味。
おまけに麺が硬くて噛み切れないのです。

あまりの不味さ硬さにビックリしましたが、
私はどんな料理であろうが絶対に食べ残さない主義なんで、
最後の最後まで、食べました。
でも、口の中は違和感がいっぱい。
仕方なくコンビニで和菓子を買って、口の中の辛さを中和したんです。

ある時、やはり冷やし中華が食べたくてある店に入りました。
その店は、時々見かける今風のスタイルで、
若い従業員達が、頭にバンダナをしている・・そんな店でした。
チョッと不安な感じはありました。

で、出された冷やし中華を見たら、
外観は違うし、味もまるで別物。
「俺流の冷やし中華」だったんです。
私にすれば「そんな自己流なんか食べたくないよ」だったんです。
冷やし中華は、やっぱり王道を行く冷やし中華じゃないとイヤですね



セブンイレブンの冷やし中華。
あれは実にいいですね。
冷やし中華の王道を行ってますね。
下手な店なんかより、ずっと美味しい。

母が(老健)に入っていた時。
私はこのセブンイレブンの冷やし中華を買ってきて、
老健の駐車場の一角で、キャンプ道具を取り出し、
テーブルとイスとをセットしてお湯を沸かしてスープを作り、
その冷やし中華を母と一緒に食べました。

それが母と一緒に食べた最後の食事になりましたが、
老健の職員達はそんな私達親子の風景が珍しく、
皆の注目を浴びながらの食事でした。
それから一年もしない内に母は逝きましたが。

でも、下手な店より美味しいなんて、本当に凄い。
セブンイレブンは、今は私の大好きな酸辣湯麺の置いてある時期なんで、
どっちかと言うと冷やし中華を買う事は少ないんですが、
また、その内に食べるよな~。
だって冷やし中華ってやっぱり美味しいよね。




コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

嗚呼、青春の城下町

2017-09-22 19:39:24 | 歌声喫茶
青春の城下町~梶光夫~(映像は岩国・倉敷・姫路)


あれは6月の事でした。
場所は歌声喫茶「うた多摩」。
私達夫婦の座ったテーブルの向かい側に座ったのがT女史。
彼女とは時々歌声喫茶で顔を合わせては会話する仲です。

彼女は若い頃(梶光夫)の追っかけをしてたそうです。
ですから梶光夫の「青春の城下町」が大好き。

彼女はいつも楽しそうに唄っています。
でも、彼女が歌声喫茶で前に出て唄う事は殆ど無いのです。
(何とかして彼女を前に出て唄わせたい)・・
そこで私は一計を案じ、
リクエストカードに私と彼女と連名でリクエストを出したのです。
(司会者はきっと取り上げてくれる)
そういう読みがあったのです。

その読みは当たり「青春の城下町」をやってくれました。
「は~い河童さん、前に出てくださ~い」
私は、ここぞとばかりT女史を誘いました。
彼女は、面映ゆい顔で、しかし何処となく嬉しそうな顔で、
私と一緒に前に出て唄い出しました。

「♪ 流れる雲よ城山に・・」
の筈だったんですが・・
実際に歌が始まったのは・・
「♪ 格子戸をくぐり抜け・・」だったんですね。

つまり歌が間違っていたんです。
私はリクエスト用紙の「青春」と書くべきところを、
間違えて「私」と書いてしまったのです。
「青春の城下町」は「私の城下町」となっていたんです。

わたしの城下町/小柳ルミ子


司会者が呼び出した時、
妻は曲の間違いに気づいたので「間違ってるよ~」と言ったのですが、
その声は司会者には届かなく、
私達ふたりは意気揚々と唄い出してしまいました。

「格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼けの空に・・」
私達はまだ間違いに気づいていません。
それどころか、気持ちはすっかり「青春の城下町」
「流れる雲よ城山に、登れば見える家・・」
二人ともそう唄っている気になって舞い上がっていたんです。

妻に間違いを教えられた周囲の歌声仲間達は、
まるで大笑いで、私達がその気になって唄っている姿を見ると、
その可笑しさがますます増長されて、
皆さんで大笑いをしていたそうです。

さて、歌が終わって席に戻った私達に、
冷酷なお言葉が浴びせられました。
「あのね、歌が間違っていたよ」

私達ふたりは「エッ?」と一瞬訳が分かりませんでした。
唄い終わっても私達はふたりとも「青春の城下町」を
唄ったものだと思い込んでいたんですから。

その間違いを知らされた時、
私達は何だかエライ損をした気分がしました。
出来る事ならもう一度唄い直したい気持ちがしました。
でも、全ては後の祭り。
私達は会場の笑い者になってしまったのでした。

あ~あ、恥ずかしい。
私達ふたりは歌声仲間達からは、
「ふたりの耳などそんな程度なんだよ」とバラしてしまったのです。

もう俺は世間に顔を晒して生きる事はできない!
ああ、なんちゅ~事だ。
何処かに隠れる穴は無いものか・・あ~







コメント
この記事をはてなブックマークに追加