河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

戦艦ヴァーサ号の悲劇

2019-06-29 08:31:29 | 軍艦
1628年、スウェーデンに当時世界最大の戦艦ヴァーサ号が完成しました。





この頃1620年代の軍船で、最大の船は、
オランダのガレオン船レルウィッチでした。
1109トン、全長40,7メートル、全幅9,4メートル。

ところが1620年に至り、
スウェーデン海軍はバルト海覇者の地位を確立する為に、
巨大軍艦の建造を試みたのです。

この巨大軍艦は、1400トン。
全長70メートル、全幅11,5メートル。
それはレルウィッチを抜き、世界最大の船となったのです。



当時のスウェーデン国王・グスタフ2世は、
多大な国家予算を投入して、
この船をスウェーデン王国の威信の表れとして建造したのでした。
船尾の装飾も贅を凝らした造りになっています。

この船を設計したのは、オランダ人のヘンリック・ヒベルツゾンでしたが、
彼は完成を待たずに亡くなってしまいます。
設計者は海軍の要求に従い、
本来は一層であるべき砲甲板を二層にしたのです。
そして本来は30門であるべき砲の数を、
二層62門にしたのです。

設計者は最も重量物である大砲を約2倍にしたので、
当然船の重心は高くなり、安定性を欠く事になるのですが、
船が大型である為に安全と判断したらしいのです。

当時の船舶設計は、設計図を描く事もなく、
今までの経験から判断し、バランスは、船底に重い石を積む事で、
安定を図ればいいと解決していたふしもあるのです。

1628年、いよいよ船は完成し、
造船所からストックホルムの海軍基地へと船出をしました。
周囲の岸壁には、
世界最大、絢爛豪華な戦艦を一目見ようと大勢の人達が溢れていました。

岸壁から1キロも進み、全ての帆を張ったその時、
船は徐々に傾き出し、船体は急速に横倒しになったのでした。
そして全開状態にあった2段に並ぶ舷側の砲門から、
大量の海水が船内に流れ込み、急速に沈没してしまったのです。

沈没の原因は明らかなトップヘビー状態にありました。
多大な国家予算と、国家の威信を賭けた戦艦が、
大勢の国民の眼前で一瞬にして失われたのでした。

スウェーデンは国家の威信を賭けて、船の引き上げにかかります。
ですが何度やっても船体を引き揚げる事が出来ず、
むしろ船は海底の泥の中にはまり込んで行くばかりです。
1664年(沈没から36年後)
遂にスウェーデンは船の引き上げを断念します。

それから約300年後。
アマチュア海事歴史学者で、財宝探検家の異名を持つ、
アンデース・フランツューンが情熱を傾け、
1956年にヴァーサー号を発見します。
彼は沈没地点の海水温の低さ、
フナクイムシの生息がほぼ無い事から考えて、
船体が状態の良いまま残っていると考えたのでした。



1961年遂にヴァーサ号が海上に浮上しました。
それは沈没から実に333年後の事でした。



1988年、
ストックホルムに新造された(ヴァーサ号博物館)に、
戦艦ヴァーサは移され、現在も一般開放されています。







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スポーツカーが売れない

2019-06-27 13:56:49 | 自動車
今、スポーツカーがまるで売れないんだそうです。



ニッサン・フェアレディーZ。
現在、日本のスポーツカーを代表する様な車ですが、
こいつの販売台数が、まるで目を覆いたくなる状態とか。

私が若い頃のスポーツカーは、皆あこがれたものです。
尤も当時は国産車にスポーツカーはほぼ無く、みな外車でしたが・・・
MG・トライアンフ・ポルシェといった具合に。





私が初めて乗ったスポーツカーが、これでした。

ニッサンというより、当時はダットサン・フェアレディー。
あれはフェアレディーという名前が付いていたんだろうか?

この車は他人からの借り物でしたが、
それが誰だったのか?どういう経緯だったのか?
まるで記憶に無いのです。
とに角、現在の車に比べてとても小さく、
オープンカーに布製の幌を張った車で、
幌がガタピシと派手な音を立てているのが、実にうるさかった。

そして、今に至るも、私にはスポーツカーは縁が無いのです。
というか私は車は大好きなんですが、
いわゆる(飛ばし屋)ではないので、スポーツカーにはあまり魅力を感じないのです。



その後、ダットサンはニッサンとなり、
スポーツカー(もどき)を本格的に作り直し、
フェアレディーとして名乗りをあげたのです。
名乗りをあげたどころか、
フェアレディーは世界で最も売れたスポーツカーになります。

スポーツカーという物は、
ラジオもヒーター(暖房)も無く、
無骨そのものでかっ飛ばすといったイメージを根本から塗り替え、
エアコン・カーステレオ・その他、全部付いてる車であり、
今までの無骨スタイルを蹴散らして一等賞を総なめにしたのです。
それは世界の自動車メーカーにとって、画期的な出来事でした。

その世界に冠たるスポーツカーがというと、チョッと大袈裟ですが、
とに角売れない時代となっているのですね。

私は最初からスポーツカーには向かない車好きですが・・・





こいつにだけは、乗りたかった。
というか今でも胸がときめく車です。

イギリス製の、アストンマーティンDB-5。
言わずと知れた(ボンドカー)
私は若い頃から、好きな車をピックアップすると、
何故かイギリス車に行き着くのです。

英国紳士・・如何にもそんなイメージがプンプン匂う車。
ベントレー・ジャガー・ディムラー・アストンマーティン・
そういった車に行き着くのです。
でも、イギリス車に乗った事は皆無。
でも、大好き。
アストンマーティンDB-5。
こういう車を所有したかった。



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マン島TTレース

2019-06-23 07:05:16 | バイク
320kmオーバーの市街地レースがハンパなく カッコいい! 【マン島TTレース】




マン島TTレース(まんとう、てぃーてぃーれーす)は、
イギリスのマン島で1907年から開催されているオートバイのレースです。

TT(ツーリスト・トロフィー)という名称は、
以前は、ヨーロッパの都市と都市を結ぶ公道を使用して行う、
都市間長距離移動レースという形態であった為、
tourist(旅行者でなく「遠征するスポーツ選手」という意味で、
マン島の場合はライダーの事を指す)によって、
競われるレースという意味合いを持つ事に由来している。
コースは一周約60キロで、396メートルを超える高低差がある。



TTレースは毎年5月から6月にかけて、
2週間以上にかけて開催され、
オートバイレースの最高峰の象徴となり、
他に類を見ない、ライダーとマシンの過酷な試練の場である。

200馬力のスーパーバイクで町や村を駆け抜け、
住宅の垣根の脇を鈴なりのファンが居並ぶ前を、
猛スピードで通過して丘陵地へと向かう。
そのスリルを一旦知ってしまった者には、
どんなレースも、もはや生ぬるく感じてしまうのです。



最高速300キロで走るという事は、
1秒間に100メートルを走るという事で、
ほんの僅かなミスが文字通り命取りになる。
これは危険と栄光が背中合わせの究極の戦いなのです。

マン島TTレースの虜になると、
他のレースではまるで面白さを感じない。
サーキットレースは、つまらないと思い、何の面白味も感じない。
となってしまうのです。

1930年(昭和5年)
多田健蔵がアジア人として初めてマン島TTレースに参加しました。
彼は初出場を完走した年齢が42歳であった事を、
高く評価されて、レプリカ賞を獲得しました。

1957年には、ボブ・マッキンタイヤが、
初めて100マイル(時速160キロ)を超える平均速度を記録します。
1959年は、日本のホンダが初参戦。
1961年には、マイク・ヘイルウッドがマン島初優勝を記録し、
1963年には50CCクラスでスズキの伊藤光夫が日本人として初優勝します。
日本人の優勝は、今に至るも彼一人だけです。



マン島TTレースは世界最大のロードレースイベントであり続けましたが、
一方では60キロに及ぶマウンテンコースや、
インターバルスタートという他のグランプリとは異質な要素が、
近代的なサーキットに慣れたGPライダー達から敬遠される様になった。

また舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶ為に、
改修費用は膨大なものになる一方で、
観客からは入場収入を得ることが出来ない公道レースでは、
費用の捻出ができなかった。

オートバイの速度向上にコースの整備が追い付かず、
安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの、
出場を拒否する様になった。
1976年、FIMは翌年から、
マン島TTレースをロードレース選手権のカレンダーから外しました。

2002年には平均速度が200キロを超える様になります。
マン島TTレースは安全面から常に将来が危ぶまれています。
レース専用のサーキットと異なり、
コースのすぐ脇には民家の石壁が存在する上、
郊外の直線路では非常な高速に達する為に、
転倒やコースアウトを喫したライダーは、重傷や死亡に至る例が多いのです。
1907年から2009年までに、
239人のライダーが命を落としています。

そういった命がけのレースであればあるほど、
一旦、その魅力に取り憑かれると、他のレースなどは、
生ぬるくて面白味を感じないという事になってしまうのですね。


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久しぶりに「ケサラ」を唄いました

2019-06-19 06:15:22 | 歌声喫茶
10.6.5.仙台にバラライカあり


昨日は、国立の歌声喫茶(天笑楽とうたうべ)に行き、
「ケサラ」をバラライカバージョンで唄いました。

天笑楽は、昨日が夜の歌声が最後という事で、
来月からは、昼13時30分から16時までに変更になります。
スタッフの方々も色々大変なんですね。

ですから、国立の歌声喫茶は、
第一週は、無し。
第二週は、夜で(うたOH会)
第三週は、昼間(天笑楽)
第四週は、夜で(さんたま屋)
第五週は、夜で(ピースソング)となります。

さて、ケサラですが、
4つのバージョンがあります。
ともしびでは、岩谷時子バージョンで唄います。
「♫ 平和で美しい国 信じあえる人ばかり・・」

しかし、私がこの歌を覚えたのは、仙台の歌声喫茶バラライカでした。
バラライカでは、いわゆるバラライカバージョンで唄います。
「♫ 押さえきれない怒り こらえ切れない悲しみ・・」
そしてラストは「ケサラー、ケサラー、ケ、サ、ラーッ」と、
絶叫するスタイルで唄うのです。
私はこれで「ケサラ」を覚えたので、
ともしびバージョンの大人しいエンディングだと物足りなくて。

そして、2014年3月。
いよいよ、あの山小屋風の旧店舗閉店の日。
「♫ ケサラー、ケサラー、ケ、サ、ラーッ」と唄った時は、
目を真っ赤にしながら唄っている人もいたし、
必死に歯を喰いしばって唄っている人もいたし、
もう泣きそうな心境はみんな同じでした。

昨日は、そのバラライカバージョンで唄わせてもらい、
おまけに我がままを言って、仙台絶叫スタイルで唄わせて頂きました。

12.4.22.ケサラ・仙台バラライカお花見


やっぱり「ケサラ」はバラライカバージョンで。
仙台スタイルで唄いたい。

唄い終わった時は、仙台バラライカを、
あの山小屋風の旧店舗を、
あの店で共に唄った仲間たちを思い出していました。



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目蒲線

2019-06-16 08:52:48 | 日記




私が物心ついて、最初に見た電車は、目蒲線でした。
JR山手線・目黒駅から、JR山手線・蒲田駅までの東急電鉄線です。
私の覚えている電車は、3両編成の、青と黄色のツートンカラーだった様な記憶です。
車体の横に、東急で(TKK)と書いてあり、
それを皆は、(とても混んで困る)の頭文字だなんて言っていたそうです。

最近、「池上線」という西島三重子の歌を聴いていて、
何となく懐かしい目蒲線を思い出していました。



赤い線が、池上線。
その左側に池上線の外周を回っているのが目蒲線です。
終点は同じ蒲田駅なのですが、
目蒲線は目黒始発、池上線は五反田が始発。
目黒と五反田は一駅の隣駅なのです。
ですが、イメージとして、目蒲線は高級住宅地。
池上線は下町のイメージなのです。
だから西島三重子も下町イメージの(池上線)を選んだのでしょうね。



私が住んでいた、そして私には(故郷)の気持ちを持つのが、
洗足駅でした。

その頃は、勿論、地上駅でしたが、
現在は地下に潜ってしまいました。

洗足というと、有名な洗足池がありますが、
洗足駅からはおよそ1キロ離れていて、
洗足池に最も近いのは、目蒲線ではなく、池上線の洗足池駅です。



洗足駅のすぐ前には(洗心堂)という本屋さんがありました。
つい数年前まで、その本屋さんは昔の造りのままで営業していて、
最も郷愁をそそる建物でしたが、遂に廃業、取り壊されていました。





家の近所には(小牧バレー団)があり、
裸になるのが大嫌いだった私を、
「ね、み~んな裸でしょ」と母が見せに連れていったものでした。



はだか~?
あれって裸じゃないよね。
全く、母は何を考えてたんだ?
でも、子供心に、(裸)の女の人がいっぱい居る教室は、
ドキドキしたものでした(笑)



小牧バレー団のすぐ近くには(弁天池)と呼ばれる、
ほんの小さな陰湿で薄気味の悪い池がありました。
後になって行ってみたら、綺麗に造り直されていて、
でも、まだちっぽけな池は存在していました。

「♫ 池上線の走る町に、貴方は二度と来ないのね」
「待っていますとつぶやいたら、突然抱いてくれたわ」
「あとからあとから涙あふれて、後ろ姿さえ見えなかった」・・・

そう言えば、アルバイト先から帰りの電車で、
好きになった娘と一緒になり、上手く喋れなく、
降り際に「君を喜ばせる様な事が言えなくてゴメンね」と言ったら、
その娘は、頬を赤く染めたなんて事があったな~(キザだけど)

西島三重子が切々と謳いあげる若い女性の恋心。
そんな歌に憧れ、東京を目指した・・そんな時代を感じますね。
それは、やはり高級住宅地イメージの目蒲線では無理だった。
池上線だからよかったんだね。きっと・・・






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