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メデューサ号の筏

2017-10-18 08:57:19 | 船舶


この絵はパリのルーブル美術館に展示されている
「メデューサ号の筏」という大きな絵で、
1819年にフランスの画家・ジェリコーによって描かれました。

大海の波間に漂う筏に乗った十数名の人達が、
はるか彼方を行く船に向かって必死に手を振っている姿を描いた絵画で、
これは画家のジェリコーが実話を素に描いたものです。

その実話とはいったいどんな実話だったのでしょう?

1816年・・ナポレオン戦争が終わった後、
イギリスからフランスに返還される事となった、
アフリカ西海岸のセネガルを受け取る為にフランスから、
4隻からなる小規模な戦隊が派遣されます。

旗艦はメデューサ号という全長46メートルの船でした。
戦隊の司令官はメデューサ号の艦長でもある、
ショーマレーという中佐でした。
しかし、彼の人選がフランス海軍にとって大きな誤算となったのです。
彼の海軍士官としての能力は訓練された初級の士官にも劣るもので、
彼が海軍中佐の地位にいる事自体が不思議だったのです。

船が船団を組んで航海する時は、
最も遅い船のスピードに合わせて進むのが常識であるにも係わらず、
ショーマレーは最も速い自分の乗る船だけで、
スタコラサッサと勝手に行ってしまい、
残された船は司令官(ショーマレー)から何の命令も受けずに、
独自でアフリカを目指すしかありませんでした。

アフリカ西海岸のその一帯は危険な航路であり、
船は沖合を迂回して航海するのに、
ショーマレーは何の知識もなく、何の下調べもせずに、
そこに乗り入れ座礁するという事態を招きます。

その時、ショーマレーは操艦の全てを部下に任せ、
自分は船長室でワインを飲んでいたのです。

経験豊かな船長であれば、船内の重量物を海に投げ捨てるのに、
ショーマレーは、時間が経てば船は離礁すると、結局なにもしなかったのです。

船体は時間と共に破壊がはじまり、もう船を救う手立てはありません。
他の3隻の船とは離れ離れで救援を求める手段もありません。

メデューサ号の沈没が避けられないと判断した、
ショーマレーは船にある6隻の救命艇の用意をさせます。
しかし、彼はその内の1隻を自分用の救命艇に指定し、
食料や飲料水やワインなどを積み込ませると、
側近の部下10名ほどとさっさとメデューサ号を離れ脱出してしまうのです。

6隻の救命艇に乗れなかった人達は大きな筏を作ります。
それは20メートル×7メートルほどの筏です。
そこに146名の人々が乗り込みましたが、
筏は一応浮く事は出来ましたが、
重さの為に半没状態で、乗っている人達は、
眠る事も座っている事も出来ずただ立っているしかありませんでした。

筏がメデューサ号を離れたのは7月5日でしたが、
6日の夜が明けた時、筏の人は126名になっていました。
一夜にして20名が失われていたのです。

漂流2日目に早くも、筏に積み込まれていた飲料水とワインは空になった。
喉の渇きに苦しみ、またワインを飲んだ者は余計に喉が渇き、
人々は錯乱状態、狂気となってナイフを振り回し、
誰彼かまわず海の中に投げ入る者さえいたのです。

7月7日になると、
数名の士官の管理がまだ残っていて、前日の狂気を防ごうとしていた。
7月8日には55人の生存者となっていた。
この頃になると筏の上は、完全な生き地獄となっていた。
つまりカニバリズム(食人)が始まったのです。
7月9日は、僅か37人だった。

7月10日・・27人生存。
この日、新たに12人が死んで、残ったのは15人だった。

そして7月17日、
メデューサ号の捜索に当たっていた船が、この筏を発見し、
15人は救われたのでした。
これらの人は強靭な体力と海を知り尽くした、メデューサ号の水夫たちでした。
それは、まさに奇跡的な救出で、
この時の状況がジェリコーの絵に描かれたのです。
しかし、助かった15人の内5人が力尽きて死んでしまいます。
結局助かったのは10人だけでした。

メデューサ号の遭難によって死んだ者は160名になり、
その全てが無能な指揮官ショーマレーに集中し非難を浴びせました。
ショーマレーは誰より速くに陸地に上陸していたのです。

事件発生から7ヶ月後の、
1817年2月にフランスで軍事法廷が開催されました。
ショーマレーは法廷においても海軍軍人として、
あまりにも無責任と態度を繰り返し、
彼の全ての反論は虚偽と弁解に終始しました。

ショーマレーに対する処罰は、
海軍軍人からの永久追放。
彼が受けた勲章のはく奪と禁錮3年という刑罰でした。

しかし、フランス国民はフランス海軍に対し、
死刑にすべきだと猛烈な批判を浴びせたのです。

ショーマレーはこの時51歳。
彼は刑期を終えて出所してから国民から無視された中で、
14年間も生き続け、68歳でこの世を去りました。





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世紀の綱引き

2017-05-10 08:28:13 | 船舶
世界で最初のスクリュー船は、
1839年にイギリスで建造された「アルキメデス号」273トンです。

スクリュー推進式の船と、外輪推進式の船では、
どちらが効率的な推進装置であるか、
当時の西欧の船の世界では論争の的になっていました。

1845年に、この論争に決定的な決着をつける出来事が起こりました。
そして、この日を境に船の推進機は急速にスクリュー式になっていったのです。



外輪船です。



これは戦艦大和のスクリューです。

1845年、イギリス北東部のある湾内に2隻の船が停泊していました。
1隻は外輪船、1隻はスクリュー船でした。
この2隻は共にイギリス海軍の正規の軍艦で、
両艦は互いに船尾を向け合って停泊し、
それぞれの船尾には30メートルの太い何本ものロープで結ばれていました。
この2隻はつまり、これから綱引きをするのです。

スクリュー推進の艦は888トン、200馬力のラトラー号。
外輪推進の艦は800トン、200馬力のアレクト号。
両艦の規模と実力は、全く互角と考えてよいものでした。

近くの海岸は、この世紀の綱引きを見物する人々で埋まっていました。
号砲一発、両艦は互いに全速前進を始めました。

当初はかなりの力闘が繰り広げられるであろうと誰しもが予想していました。
ところが予想は見事に裏切られ勝負はあっけなく終わってしまったのです。

スタート直後からスクリュー推進のラトラー号が、
外輪推進式のアレクトを引きずり始めたのです。
そして仕舞には懸命に前進しようとするアレクトを、
2,7ノット(時速4キロ)でラトラー号が引っ張っていたのです。

これを境に船の推進機はスクリューになっていきました。
現在は、一部観光船に昔を偲ぶというか、面白がって外輪船が残っています。


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ブルーリボン賞

2017-02-04 15:09:31 | 船舶
ブルーリボン賞は公式な賞ではなく、
公式なルールに即して行われた事もありません。

19世紀初頭、帆船の時代に、イギリスとオーストラリアの間の、
羊毛積取り船(ウール・クリッパー)に、
最も速く走った船に対し、青い吹き流しとも言える、
ブルーリボンをマストに掲げさせた事から始まりました。



蒸気船による大西洋横断が始まったのは1833年でした。
1850年代からは、北大西洋横断が急速に始まりました。
それはヨーロッパから新興国アメリカへの移民が激増していったのです。
アメリカ移民の数は19世紀の中頃には50万人を超えており、
後半には年間200万人に達し、
この状況は第一次世界大戦勃発(1914年)まで続いたのです。



この膨大な移民輸送は欧米の海運会社にとってはドル箱の魅力でした。
各海運会社は、あの手この手で、この船客集めに注力しましたが、
その最終的な答のひとつが、横断時間の短縮でした。
これは船客の船酔いの苦痛を少しでも短縮する為の最上のサービスでした。

また、もうひとつに時間は多少長くなっても良いが、
船を大型化して揺れを少なくして快適な船旅をしてもらおうというやり方もありました。
(あのタイタニック号は、スピードはさほど速くないが、
船内を豪華にし、船体を大型化して快適に過ごしてもらおうという船でした)

1850年頃の初期の蒸気船の時代は、
北大西洋横断にかかる日数は、9~12日を要していました。
これは帆船時代の20日前後に比べれば大幅な改善でした。

そして1910年には記録的な速力を発揮する大型船が出現し、
所要時間もわずか4日と18時間に短縮されていったのです。
この時の速力は26ノット(時速48キロ)というスピードでした。

軍艦で速力の早い船に、巡洋艦がありますが、
その最高速力は35ノット(時速65キロ)に達しますが、
その高速で北大西洋を横断する事は不可能です。
また、イタリアの駆逐艦には43ノット(時速80キロ)などという、
とんでもなく速い軍艦がありますが、これらの軍艦はいずれも、
大西洋横断記録を達成する事は出来ません。

何故なら、軍艦にはそんな膨大な燃料を補給できる燃料タンクは持っていないからです。
軍艦は、いざ海戦になった時に一時的に最高速力が出ればそれでいいのですから。

戦艦大和は7200海里(約13000キロ)を走る事が出来ますが、
最高速で走り続けたら、その半分も走れないのです。
これでは大西洋横断競争には、無理ですね。

1930年には、ドイツが5万トンの、
オイローパとブレーメンを就航し、
それまでの最高記録であったイギリスの3万トンの、
モリタニア号の持つ26ノットを打ち破る28ノットを記録します。

これに対し、イタリアが1933年に5万トンのレックス号を完成させ、
29ノットで記録を塗り替えたのでした。

これに黙っていなかったのがフランスで、
1935年に8万トンという超巨大豪華客船、ノルマンジー号を建造し、
30ノット(時速55キロ)という大記録を打ち立てたのでした。

しかし、これに対抗したのがイギリスで、
1938年に8万トンのクイーンメリー号で、
33ノット(時速60キロ)を打ち立てました。

この極端までの客船による北大西洋横断時間短縮競争の勝者には、
いつしか(ブルーリボン)という実体の無い、
名誉の称号が与えられる様になっていったのです。

そして、この称号・名誉を得る事が、
北大西洋に航路を持つ海運会社の最高の栄誉につながっていったのです。
これはある意味、国の威信を賭けた競争でもあったのです。

しかし、この競争も第二次世界大戦の勃発と共に、一旦終止符が打たれたのです。
世界大戦が終結した後は、もうあの競争は微塵もなく消え失せていました。

アメリカ最大の海運会社である、ユナイテッド・ステーツ・ライン社が、
1952年に5万トンのユナイテッドステーツ号を建造します。
この船は北大西洋を35,6ノット(時速66キロ)で横断します。
これに要した時間は、わずか3日と10時間40分でした。
この記録で14年間も忘れられていたブルーリボン記録保持者として、
輝くこととなったのでした。

しかし、既に時代は大型旅客機が飛び交う世の中。
もう何処の国にも、これに対抗しようという気はありませんでした。
ユナイッテッドステーツ号のニュースを見ても、
大方の海運会社は「それがどうした」という感想を抱くだけなのでした。

現在に至っても、ブルーリボンは有ります。
しかし往年の、本来の意味とはニュアンスが違ってきています。

1950年には日本の映画界に「ブルーリボン賞」が設けられ、
また、1958年には鉄道の分野で「ブルーリボン賞」が設けられましたが、
何れの賞も、華やかなりし北大西洋横断競争にあやかった賞かと思われます。


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壊血病・・恐ろしき海の病

2017-01-27 08:46:13 | 船舶
大航海時代の幕開けのひとつに、バスコ・ダ・ガマの航海があります。
その時の乗組員は180名でしたが、
その内の100名が、壊血病(かいけつびょう)で死亡したとされています。
その死亡率、実に56パーセントです。

大航海時代の幕開け以後、船乗り達の脅威は壊血病でした。
彼等は当初、その病名を知らなかったし、
この病気がなぜ発生するのか、どう対処すべきかも知らず、
恐ろしい航海の病と恐れているだけでした。

壊血病はビタミンCの欠乏によって生じる病です。
ビタミンCが欠乏すると、アミノ酸の合成が出来なくなり、
タンパク質が構成されなくなります。
結果的に出血を起こし、貧血を多発し病原体の感染への抵抗力が減少し、
ついには死に至る恐ろしい病気です。

当時の人々はこの病気の原因が分からず、
原因が分かるまでには200年以上もかかったのです。
ただ、この病気にかかった患者が一旦陸に上がると、
早い者では数日間で病状が回復する事は分かっていました。
これは海賊船に襲われて死ぬより、遭難して死ぬより、
はるかに高い死亡率だったのです。

1753年にイギリス海軍省のジェームス・リンドが、
様々な種類の軍艦の乗組員の健康状態を調査した結果、
下級船員(水兵)より、高級船員(士官)が、この病気にかかりにくい事に気がつきました。
調べてみると、その原因は艦内での食事以外にない事が分りました。
士官の食事には比較的保存のきく食材が使われており、
特に艦内では極めて貴重品である果物がとられている事が、
下級船員との顕著な差である事が分りました。

リンドは海軍省に全ての乗組員に新鮮な果物や野菜、
特に柑橘類の摂取を強く要望したのですが、
海軍省はリンドの要望に対し、冷淡でした。

しかし、ここにリンドの調査結果を実証しようという軍人が現れたのです。
彼の名はジェームス・クックといいました。
彼は南太平洋の第一回航海(1768~1771)において、
ザウアークラウト(酢漬けのキャベツ)を大量に積み込んだのです。
そして、航海の途中で立ち寄った島々では、
新鮮な果物や野菜を住民から大量に入手し、
これら全てを乗組員たちの食卓に供したのです。
その航海は3年も続きながら、一人の壊血病患者も出なかったのです。
この事はイギリス海軍の関係者を驚かせると共に、
リンドの研究結果が正しかったことを証明したのです。

イギリス海軍からは壊血病は無くなったのですが、
一般の商業船舶や長期間の漁業などの世界では事情が多少違っていました。
これらの世界から壊血病の脅威が消えるのは1860年頃でした。
理由は、商業船舶や漁業船舶の世界では、
各海運会社などが独自で規定を設ける為に、
世界統一基準が設ける事が出来なかったからです。

日本の船舶はというと、
東南アジアくらいにしか航海はしなく、
この航海が一か月以上かかったとしても、
途中、中国各地に寄港しながらが基本であった為、
日本の船は、壊血病を知らずに済んでいたのです。


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恐るべき偶然

2017-01-14 07:29:25 | 船舶
19世紀後半から、20世紀初頭にかけての時代に、
モルガン・ロバートソンというアメリカ人が居ました。
彼は一介の下級船員でした。

彼は、他の船員たちが寄港地では酒を飲み、
大騒ぎをし、賭け事にうつつを抜かしている時に、
ヒマさえあれば居室のベッドで本を読み、何かを一生懸命に書いていました。

つまり彼は付き合いずらい変わり者だったのです。
彼の書いているものは、その殆どが短編の海洋小説に属する物でした。

彼には陸に、貧しくも妻が待つ暖かい家がありました。
そして航海から帰って来た晩年の彼は、
思い切って自分の書いた小説を出版社に持ち込んだのです。
しかし、何処の出版社も一介の下級船員の書いた作品など見向きもしませんでした。

年老いた彼は船を降り、細々とした糧を稼ぎながら、
妻と二人の安楽な生活を楽しんでいましたが、
病に倒れ妻に見守られながら息を引き取ったのでした。


彼の死後、妻は探し物の為に殆ど上がった事のない屋根裏部屋に入りました。
その時、夫が船に乗る時にいつも持っていたトランクが目に入りました。
彼女は懐かしさのあまり思わずトランクの蓋を開けると、
中には彼の愛読書の他に、何やら原稿の束が入っていたのです。

彼女は束のひとつを取り出してみると、懐かしい夫の文字。
思わずその原稿を読んでみると、
その内容すべてが懐かしい夫の想い出として蘇ってきたのです。
彼女は自分の夫にこんな特技がある事を全く知らなかったのでした。

彼女は早速、その原稿の束を抱えて出版社を訪れました。
彼女は夫よりはるかに幸運でした。
出版社がその原稿を買い取ったのです。
そして、その原稿は「ロバートソン海洋物語」という、
立派な本として出版され、そこそこの売り上げを示したのです。

ところが、その物語のひとつが、ある時を境にして大きな話題になり、
売り上げを伸ばす事となったのです。

ある事とは、
1912年4月に北大西洋で起きた大事件です。
「タイタニック号の遭難」



この事件と彼の書いた小説は、あまりにも似過ぎていたのです。

〇  世界最大の豪華客船
〇  4本煙突
〇  処女航海
〇  イギリスのサウザンプトン港からニューヨークまで
〇  当時のアメリカやヨーロッパの著名人が多数乗っていた
〇  全長240メートル(タイタニックは269メートル)
〇  45000トン(タイタニックは46000トン)
〇  ニューファウンドランド沖で
〇  氷山と衝突
〇  乗客全員を収容できるだけの救命艇を搭載していなかった
〇  1000名を越える死者を出した(タイタニックは1500名)

偶然というには、あまりにも事実と同じなのです。
そして、この小説が書かれたのは、
事件が起こる14年前の1898年なのです。

そして、極め付けは、船名がタイタン(TITAN)
その後ろに(IC)を付けると、まさしくタイタニック(TITANIC)なのです。

これを単に偶然と言い切れるものなのでしょうか?
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