河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

おもちゃのまちの歌声喫茶

2018-05-29 14:27:42 | 歌声喫茶
18.5.27.ありふれた人生・金指修平さんのピアノ弾き語り


(おもちゃのまち)という場所が在ります。
栃木県の宇都宮の近くです。
おもちゃ、は、(玩具で)はなく、全部をひらがなで書きます。

そこに在るのが、ピアニストの田中純子さんの邸。
何とグランドピアノが2台もあるという素敵な邸なんです。
一昨年はやはり栃木の歌声仲間だったんでしょうね、
グランドピアノを置いてある邸で歌声喫茶をやりましたが、
その時、ひょんな事から、
「それじゃ来年は田中純子邸でやろうよ」という話になり、
それで開催したのが去年。
そして今年とその勢いは止まらずでの歌声喫茶。

ゲスト出演は、歌声喫茶・新宿ともしびでお馴染みの、
金指修平さん、通称修ちゃん。
修ちゃんが朗々とピアノ弾き語りでの「ありふれた人生」
流石ですね~。
本当に修平さんは、
歌、司会、ピアノ、ドラム、調理とまさに万能。
私は、そんな人って今まで見た事がありません。
だから修平さんを目当ての女性ファンは、凄く多いですね。

会場にはギタリストとして、
高橋一徳(いっとく)さんも出席されていましたが、
一徳さんは、先日行われた東京シャンソンコンクールで、
グランプリを獲ったという凄い人なんです。

フランス語翻訳という専門家ではありますが、
そういった事ではなく、
彼の声質は、実にシャンソン向きの憂いを帯びた美声なんです。
動画撮影は、これからCDを発売する都合上叶いませんでしたが、
発売の暁には、是非買うつもり(その価値あり)です。

ここの歌声は一年にたった一回だけという希少価値。
私達は前回の歌声終了時に次回(今年)を予約しました。
今年はスタッフを入れて60名近くの出席者。
来年もきっと予約者ですぐに埋まってしまうんでしょうね。
修平さんは既に押さえたと聞きましたし。



最後の記念写真。
前列左側の女性が、佐野の歌声喫茶でお馴染みの、
そして今回の歌声会場を受け持ってくれたピアニストの田中純子さん。
その右は金指修平さん(修ちゃん)
その右に居るのが、今回の仕掛け人、金子久子(チャコちゃん)

18.5.27.ひとつの歌から・おもちゃのまちの歌声


今回の歌声を企画、主催色々やって頂いた女性が、
この金子久子さん(通称チャコちゃん)
私事なんですが、
チャコちゃんの身長は166センチ。
それは私の会えない娘と同じなんです(ちょっと悲しい。)

チャコちゃんは最近まで一家9人の大家族だったそうです。
そういった大家族の中で奮闘してきた彼女。
それが、歌声喫茶でも彼女独特の優しい思いやり、
優しい人間性となって反映するんです。
声もいいし、歌も上手いし、
とに角、この歌声喫茶で知り合った仲間達と楽しく過ごしたい、
その気持ちが一人の人間として凄く感じられて、いいんですね~。

歌声喫茶の王道からは外れた、おもちゃのまちの歌声。
でも、そんな変な感覚が何か人としての想いを感じられて、いいんですね~。

だからね、来年もね・・やっぱり行っちゃうんですね~。

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ドイツで一番有名な日本人

2018-05-26 11:57:23 | 音楽
Takeo Ischi - Einen Jodler hör ich gern (Musikvideo)


ドイツで最も有名な日本人・・
それは、ヨーデル歌手の、石井健雄です。

石井健雄・・1947年東京生まれの71歳。

東京で町工場を経営する父の下に生まれます。
合唱団に入るなど元々、歌は好きだった様です。

15歳の頃よりツィターなどの弦楽器を好きになります。
またヨーデル王、フランツル・ラングのレコードを聞き、
レコードから独学でヨーデルの勉強を始めます。

父の経営する町工場で働いていましたが、
26歳の時「機械工学の勉強をしたい」と両親を説得して、
単独で半年間ドイツに渡ります。
これは父に嘘をついてヨーデルを学ぶ為だったのです。
この時、彼の母親は彼の本心を見抜いていた様です。

そうです、健雄は日本に戻る気は無かったのでした。
ドイツから旅行でスイスに行った健雄は、
ある酒場で誘われて唄ったヨーデルが評価され、
そのままドイツに戻る事なく、スイスでヨーデル歌手として働きます。

スイスで7年間活躍した彼は、
ドイツヨーデル界の大物、女性歌手マリア・ヘルヴィヒに認められ、
ドイツに渡ります。
そして段々、その存在が知れ渡る様になります。

1979年(32歳)初レコード発売。
1981年(34歳)16歳年下の、後の妻と知り合います。
1985年(38歳)その妻と結婚し、4子に恵まれます。

ドイツの音楽功労者に贈られる、
ヘルマン・メダルを受賞します。
この賞は日本でいう(文化勲章)に当たるものでしょうか。

Franzl Lang - Einen Jodler hör i gern


これは、石井健雄が師と仰いだ、
ヨーデル王、フランツル・ラングが唄う、同じ歌です。



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母に捧げるバラード

2018-05-25 15:53:38 | 音楽
海援隊 母に捧げるバラード


彼が24歳くらいの時だったか・・
寅さんの映画は全部観てると言っていた友人が、
ある日、バイトから帰って2畳半のアパートに帰り、
ラジオのスイッチを入れると流れてきたのが、
武田鉄也の「母に捧げるバラード」

彼はバイト帰りの疲れた体でこれを聴いた時、
涙が流れて仕方なかったそうです。

人情派の彼は・・分かるな~。

私と共通の友人が、ある日突然逝ってしまった時も、
「あいつが・・あいつが居たから俺は・・」
(お前が居たから俺は頑張って来れたんだ)
と言って泣き崩れてしまった彼。
46歳の働き盛りで、いきなり・・それはないよな~。

そういった男だったので、
「母に捧げるバラード」はきっと胸を打ったのだろう。

私は、その頃「変な歌だな~」程度だったのに、
今になると、あいつじゃないけど、やっぱり胸を打つのです。

歌の世界では、母親に関する歌は、
刑務所の慰安歌声でも「母さんの歌」になると、
背中中刺青だらけの男たちが、涙を流すと言うし・・

やっぱり独特な気持ちになるのですね。





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歌声喫茶は日本が世界に誇る文化です

2018-05-22 05:39:18 | 歌声喫茶
11.6.11.仙台バラライカの熱い夜


「歌声喫茶」
という言葉が生まれたのは戦後です。
1950年(昭和25年)くらいに生まれたとか・・
1955年(昭和30年)になると、歌声喫茶としての専門店が誕生。
そんな経過があるみたいです。

私個人は、1960年代後半に数回、何処かの店に行った記憶があります。
ですが、その後は全く無縁になり、
それが復活したのは2007年の事でした。
翌年からは、いわゆる(はまった)状態になりました。
そして10年の歳月が経ちました。

今では生活の中心に歌声喫茶があり、
それを基軸として私達夫婦の生活が成り立っています。
妻と私とは歌声喫茶を通じて知り合い結婚したので、そうなっているのですね。

さて、そういった歌声喫茶生活をする中で、
感じるのは(歌声喫茶は日本が世界に誇る文化)だという事です。

今の若い人達の殆どは(歌声喫茶)を知りません。
しかし、ごく一部の若者は何かのきっかけでそれを知る様になりました。
そして、それにはまる人も出始めているみたいです。
新宿の歌声喫茶(ともしび)にも、そういった若者が居ます。
私達ロートル世代から見れば(若者)かも知れませんが、
世間的には、もう若者とは言えない年頃かもしれないのですが・・

東京大衆歌謡楽団 浅草神社ライブ 2017.10.8


東京大衆歌謡楽団。
彼等もまた(若者)の一端であり、
古き良き歌謡曲に魅せられた若者達です。
そういった古き良き歌謡曲を彼等によって目覚めさせられた、
ホンマものの若者が居るのです。
彼等の追っかけの女子大生などが居たりするのです。

私も以前、個人的にある若者(20代前半)に、
「親父さんたちの世代が羨ましい、いい歌がいっぱいあったから)
と言われた事があります。
そうなんです、今の若い世代の流行歌にはロクなものがありません。
後世に残る様な歌がまるで無いのです。

それはそれとして、
では世界には(歌声喫茶)みたいな世界は有るのでしょうか?
聞いた事が無いのです。
それに近いものは有るのかも知れません。
でも、日本で(歌声喫茶)という言葉が独立してあるみたいに、
世界の何処かにそういったのが有るのかと言えば・・
さて、どうなんでしょうね?

歌声喫茶という、あの独特の素晴らしい場は、
それはきっと、日本が世界に誇ってもいい歌の世界だと思います。
日本の今の若者達にもあの素晴らしさに目覚める者が居るのですから、
世界でも(歌声喫茶)を発見したら、
それはどれほどの驚異を持って迎えられるのでしょう?

10.12.28.この勝利ひびけ轟け・国立・さんたま屋


この素晴らしい世界を後世に残していきたいですね。
それを継承してくれる人材もまだまだ少ないですが、居ます。
ただ、今の若者達の悲劇は、
みんなで大声で唄える歌が無いという事です。
これは音楽的悲劇ですね。

世界ではどうなんでしょう?
(日本にはこんないいのがあるぜ)と、
目覚めてくれる国が出てきてくれる事を願うばかりです。
最もそれが実現する頃は、私はお墓の中なんでしょうけど・・

12.10.7.深浦の空・仙台~深浦うたごえツアー


17.9.4.手と手と手と・歌声バス旅行


この素晴らしい世界!
いつまでも、いつまでも残って欲しい。
そして世界中に広がって欲しい。
それはあまりにも素晴らし過ぎる世界なんですよ。

コメント (6)
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恐~い、怪談映画を観たい

2018-05-11 09:42:11 | 映画


子供の頃には、夏になると必ずお化け映画がありました。



四谷怪談。
お化け映画の、まさに王道。
顔の片側が崩れた、あのお岩さんの怖さ。
「伊右衛門、怨めしや~」と鬼気迫るあの恐怖。



番町皿屋敷。
これも怪談映画の王道。
「一枚二枚・・九枚・・一枚足りな~い」
その怖さには、まさにオシッコちびりそうでした。





街の映画館で3本立ての怪談ともなると、
その夜はトイレにも行けず、
「お姉ちゃん一緒に行ってよ」なんてザマになったものです。

「怪談累が淵」
累(かね)と読むのか?
女性の名前ですが、茨木県にあった60年にも渡る
怨念とたたりの実話とされています。
醜く生まれた女の子が、その醜さゆえに親に殺され、
それから子孫に生まれた累が、殺された女の子と瓜二つ。
またまた新たな怨念の元凶となります。
累が二人で(かさねがふち)累が淵と言われ怪談となります。
そういった怨念の恐怖の映画をまた観たいのです。



お化け映画というと、必ず(入江たか子)となります。
彼女の演じる化け猫は、本当に恐かったよ~~ッ!



若い頃はこんなにも美人女優だったのに・・・
でも誰かがそれを演じなきゃ映画は出来ないからね~。

もう3本立て映画館というのは無くなっちゃった。
今では一本観ると強制的に追い出されちゃうけど、
それでもいいから、身の毛のよだつ昔風の怪談映画を観たい。

夜中にトイレに行けなくなる怪談映画が観たい。
だって、その当時は子供だったから純粋に恐がったけど、
今や、もはや、純粋とは縁を切り不純物に成り下がった大人。
これで夜中に「エリカさ~ん、一緒にトイレに行ってよ」
だったら、もしそんな状態がまだ残っていたなら、
こんな嬉しい事はないですよね。

夢よもう一度。








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