映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

舟を編む

2013年04月24日 | 邦画(13年)
 『舟を編む』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)昨年の本屋大賞を受賞した際に原作本〔三浦しをん著『舟を編む』(光文社)〕を読んだことから、本作にも興味が湧いて映画館に出かけてみました。

 本作の最初の方の時代は1995年、舞台は出版社・玄武書房の辞書編集部。
 そこには、辞書監修にあたる老国語学者の松本加藤剛)や、ベテラン編集者の荒木小林薫)、それにヒラ編集者でフットワークの軽さが売りの西岡オダギリジョー)とか契約社員の佐々木伊佐山ひろ子)がいます。
 そんなところに、定年間近の荒川の後釜をどうするのかという問題が持ち上がり、西岡では頼りないため、他の部署に適任者を探しに行くもなかなか見つかりません。
 ですが、遂に、営業部にいる馬締松田龍平)が最適だということで貰い受けてきます。何しろ、彼は、大学院で言語学を学んだという経歴で、また荒木の質問にも辞書編集向きの返答をするのですから。
 馬締が加わり、辞書編集部は、見出し語約24万語の新しい辞書『大渡海』の編纂に走り出します。
 そんな中、馬締の下宿先に、大家(渡辺美佐子)の孫娘の香具矢宮崎あおい)が住むこととなり、たまたま彼女に出くわした馬締は、一目惚れしてしまいます。
 さあ、辞書の出版と馬締の恋はふたつながら成就するでしょうか、……?

 辞書の編纂という極めて地味な仕事、それも何回もの校正という根気のいる作業が中心の辞書編集部の様子をマジメに描き出しているにもかかわらず、それぞれのキャラクターがうまく練り上げられ、あまつさえラブ・ストーリーも絡み、石井裕也監督の作品としては、傑作『川の底からこんにちは』に次いで面白く見ることができました(注1)。

 主演の松田龍平(注2)は、これまでとはかなり違った難役ながら、持ち前の優れた演技力によって、なかなかうまくこなしています。



 また、『きいろいゾウ』で見たばかりの宮崎あおいも、馬締にいい具合に寄り添っているなと思います。



 さらに、久しぶりに見た加藤剛の辞書監修役は実に的確なキャスティングであり、さらにオダギリジョー(注3)もなかなかいい味を出していると思います。




(2)原作本を読んでいることもあり、映画との違いを少々書き並べてみましょう。
例えば、
・荒木の後継者探しに関し、原作本では、すぐに西岡が馬締を見つけ出してきますが、本作では、馬締とは対極的な人間に話を聞いてみるという手順を一度踏んでいます(注4)。このことによって、馬締が社内で特別な存在であることがすぐに観客に納得されるでしょう。

・本作では、契約社員の佐々木に言われて馬締は香具矢に対する恋文を書くことにしますが、原作本では、馬締が自発的に恋文を書いています(注5)。それも、いくらなんでも巻紙に毛筆で草書体でというわけではありません。でも、本作のようにすることで、誇張されたおかしみが醸し出されることになります。

・本作では、巻紙のラブレターに対し、香具矢は「どういうつもりでこんなの書いたの、読めると思ってるの、嫌がらせなの?」と怒り、「口から聞きたい」と馬締に詰め寄りますが、原作本では、香具矢は、馬締の部屋に入ると、すぐに「本格的に馬締の腹に乗り上げ」、「あんなに丁寧で思いのこもった手紙をもらって、来ないわけにいかないでしょ」などと言う始末(P.92~)(注6)。
 本作では、女だてらに板前修業をする香具矢のしゃきっとした性格がうまくとらえられていると思います。

・原作本では、『大渡海』の出版が中止になるかもしれないという噂が出た時に、既成事実を作ってしまおうと言い出したのは馬締ですが、本作ではその役割は西岡が担っていて、馬締の性格の単純化に寄与しています(注7)。

 以上のほんの少しの例示からもわかりますが、本作では、スクリーンで動き回るキャラクターが、それぞれ明確に性格づけされているだけでなく、笑える要素もいろいろ散りばめられていると思います。

 とはいえ、映画のように時点を具体的に明確にしてしまうと(注8)、例えば、最後の2010年の時点で、はたして辞書編集者は「用例採集カード」なるものを所持していたかどうか、疑問に思えます。
 まだタブレット端末がそんなに普及してはいないとはいえ、その時には小型ノートPCくらいあったでしょうから、それで簡単に用例採集を行えたのではと思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「主人公は、他者と交わることによって、キラめく言葉の海へと舟をこぎ出していった。淡々としたタッチで途方もない情熱を描く、奥ゆかしい秀作である」として70点をつけています。




(注1)石井裕也監督の作品を評価することにかけては人後に落ちないつもりながら、ただ、前作の『ハラがコレなんで』はちょっと受け付けませんでした。
 なお、これまで挙げた作品の他には、『あぜ道のダンディ』とか『君と歩こう』〔それ以前の作品に関しては、この作品のエントリの(3)をご覧ください〕をクマネズミは見ています。

 そうした関係で本作について不満を言えば、『川の底からこんにちは』の木村佐和子(満島ひかり)とか、『あぜ道のダンディ』の宮田(光石研)、『ハラがコレなんで』の光子(仲里依沙)のような、はちゃめちゃに頑張るもののなんだかどこかヘンというような人物が登場しなかったような点でしょうか。
 いうまでもなく本作の馬締は、「はちゃめちゃに頑張るもののなんだかどこかヘン」なことは間違いないものの、どうもこれまでの石井作品の登場人物とはやや違うような感じがします。それというのも、馬締は、恋愛と辞書作りの二つとも上手いこと達成してしまい、「どこかヘン」の部分が帳消しになってしまうためではないでしょうか。

(注2)松田龍平は、最近では、『まほろ駅前多田便利軒』とか『探偵はBARにいる』、『I'M FLASH!』で見ています。

(注3)オダギリジョーは、このところ、『マイウェイ 12,000キロの真実』とか『悲夢』『Plastic City』といった外国映画で活躍していて、邦画では目立つ役に就いていない感じです。

(注4)雑誌編集部の編集者(浪岡一喜)に、「右」についての説明を求めたりします。

(注5)「口では言えないなら、文章にすればいい。そう思いついた馬締は、超特急で本日の仕事を片付け、便箋に向かってうなっているところだった」(P.73~P.74)。

(注6)もちろん、原作本でも、香具矢は馬締の恋文をうまく読みこなせず、「大将には、『俺ぁ漢文なんざ読めねえよ』って言われるし、先輩は笑うばっかりだし」と、店の人にラブレターを見せたことをバラしてしまいます(P.93)。

(注7)原作本の場合、「おまえ、けっこう駆け引きのできるやつだったんだな」と西岡に言わしめています(P.61)。

(注8)劇場用パンフレットの原作者インタビューで、三浦しをん氏が「原作では時代設定をぼかしているんですよ」、「私は時代を曖昧にしちゃったんですよね」と述べています。





★★★★☆



象のロケット:舟を編む


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17 コメント

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血潮が抜けてる (milou)
2013-04-28 20:40:36
石井裕也は『川の底からこんにちは』しか見ていないが、それに比べると最悪とは言わないまでも半分も評価できない。前者では満島ひかりの個性と役柄がはまりすぎで一般的ではないかもしれない彼女の突飛な行動に十分すぎる説得力があった。

しかし今回の馬締は“面白い人”(出会いと締めの決めぜりふ)どころか50本ぐらいネジが抜けている人間にしか見えず筆書きの恋文も含め行動に説得力が感じられなかった。予告編で感じたが“右”を説明するのに西を向いたとき北に当たる方向と言う。奇をてらうのでなければ“北”を向いたとき東に当たる方向と答えるはず。ふと気になり帰りに本屋でパラパラと見ると、やはり原作では“北”になっている。つまり映画化にあたり馬締を特徴づけるためすべてにおいて戯画化しているとしか思えない。

辞書の編纂に13年掛かることにリアリティを持たせるためか映画は1995年6月からの3ヶ月と12年後から2010年3月8日の発売までを描く。
当然(原作者も含め)辞書の編纂過程を詳細に調査したとは思うが、やはり映画で見るかぎり最初の3ヶ月の進捗が早すぎ空白の12年の遅すぎる校正作業の進捗が分からない。小物などの時代考証はかなりこだわったようだが、アパートや仕事場の、いかにもの古さがわざとらしい。例えば2010年でも仕事場にクーラーもなく今どきの若い女性もいるのに運動部の部室のように男たちの洗濯物を干したり…

例によって細かいところならいくらでも文句があるが2つだけ書くと、まず馬締は辞書編集部に移り本屋で大量の辞書を購入する。中には広辞苑もある。言語学を専攻し言葉にこだわる人間で下宿には小さな本屋以上の蔵書もあるのに広辞苑も持っていないとは考えられない。好意的に解釈すれば3版(83年)は持っているが4版(91年)は持っていないから買った。ちなみに映画では3版から6版(08年)まで用意されていた。
PCについては95年では佐々木の使う多分Epsonのデスクトップが1台あり2010年では岸辺のノートPCが増えていた。いずれにしろショムニのように見捨てられた倉庫同然の辞書編集部とはいえ検索や対照などの作業は人手よりOA機器を使う方が正確で速く18階建てのビルを持つ大手の出版社では考えられない。

もう1つ、香具矢は夜にラブレターを受け取る。そして(恐らくは翌日の)深夜12時に戻り、読めないから“他人に見せるのは恥ずかしいけど”大将に読んで貰ったという。これも常識的には(互いの気持ちを知っている)タケに読んで貰うのが当たり前だと思うのだが。

なお役名は原作どうりだが、馬締なんてあり得なさそうな名前に香具矢登場のバックに満月まで見せるので、かぐや姫つまり彼女はエイリアンで途中で消えると思ったのだが…
ついでながら竹取の翁ならぬタケは途中で消えてしまうが教授の葬儀のあと年越しそばらしきものを作って2人で食べるが2人とも喪服のままとはね。
Unknown (クマネズミ)
2013-04-29 08:53:39
「milou」さん、コメントをありがとうございます。
本作は、「milou」さんにはお気に召さなかったようながら、クマネズミにはまずまずといったところでした(それで★3つのところ、加藤剛の健在ぶりにもう一つ★を付けてみました)。
本作の問題点は時点を明示したことにあると思われ、そのために、2010年あたりの職場風景と大分異なっているような感じになってしまいます。ただ、それをあまりにリアルにすると、皆で苦労して作り上げた辞書という感じが余り観客に伝わってこないがために、あのようなデフォルメされた職場風景も仕方がないのかな、と思っています。
なお、馬締が「“右”を説明するのに西を向いたとき北に当たる方向と言う」ことについては、映画では、そばにいた「西岡」の「西」に引っかけるような感じでそのように言ったのではないかと思われますが(これも「映画化にあたり馬締を特徴づけるため戯画化している」ことの一環でしょうが、それはそれでかまわないものと思っています)?
また、香具矢がラブレターを寿司屋の大将に見せタケに見せなかったのは(映画ではその場面はありませんから推測になりますが)、どちらがガクがあるのかの判断にもよるのではないでしょうか(原作では、香具矢の返事を聞くまでに暫く間があり、その間にタケにも見せているようです)?
さらに、「教授の葬儀のあと年越しそばらしきものを作って2人で食べる」とあるところ、映画では、教授が亡くなったのはお正月過ぎ(お雑煮の話しのあと)のことではなかったでしょうか(原作では、「二月の半ば」)?
温故知新? (milou)
2013-04-29 12:10:07
別に原作を読もうとは思わないが“北”の問題、“香具矢の返事を聞くまでに暫く間があり、その間にタケにも見せているようです”や“既成事実を作ってしまおうと言い出したのは馬締”を見てもやはり原作の方が説得力があるように思える。“性格の単純化”には効果的だとしても、映画では翌日に香具矢の帰りを夜の12時まで玄関で何時間も“正座”して待っているなどマンガのような安易なステレオタイプに陥っている。『ロボジー』にも似て相当の大会社なのに社員数人の下町工場のような描き方がその典型。

香具矢の働く店は値段が表示されない、それなりに高級な店だと思われるが、最初の登場場面で香具矢がお通しを作り自分で客のテーブルに持って行く。普通なら当然和服の店員がいるはずで板場の人間が直接持って行くなどあり得ないのではないか(他に客はなく知り合いだからといい訳はできるが)。逆に行きつけの居酒屋はいかにも安そうな“汚い”店だが当然値段札などわざと汚している(でもビールが500円て高すぎない?)。

映画で古い時代を描くとき、リアリティを出すため当時の道具を集めてくるが“当時”の新品に近いのだから“古く汚い”ものではなく“きれい”であるべき。この映画でも多くの当時の汚い品物が並べられていたが…

なお『川の底からこんにちは』と比較して大したことない、というだけで下らない凡百の若者に媚びた日本の駄作にくらべれば遙かに出來のいい映画だし加藤、小林を筆頭に俳優たちも良かった。

そうそう1995年は6月から9月の4ヶ月です(算数が苦手で9-6=3)
常識がわからない (milou)
2013-04-30 09:01:10
手持ちの辞書で“右”を調べると何と広辞苑も広辞林も“南を向いた時の西に”なっている。
そして小学館の国語事典では“東に向かって南の方”とあり調べた3つすべてが北を避けている。

映画でも出たが普通は十字の上に北を示す矢印(?)が描かれ(少なくとも北半球では)どんな地図でも北を上にして書くのが当たり前なので“僕には”北以外を基準にするのは“奇をてらっている”と思ったのだが…”

もう1つ言葉の問題。
“ら抜き”言葉が話題になったとき確か西岡が“俺も大嫌い”のような台詞を言う場面があったが、まさに1995年4月に文化庁が「来る」「食べる」「考える」の3つについて調査したが若者の過半数が使っている。この映画の類型的人間像なら西岡は常用するのではと思うが、もちろん個人の問題で断定する根拠はない。
しかし香具矢がお通しを持って行ったとき“お通しになります”という(この場面でなりますを2回使う)。
“なります”という“バイト敬語”は2000年代から一般化したようなので、これは脚本ミス(つまりは違和感を感じなかった全員の)と言えるだろう。
シナリオ (クマネズミ)
2013-05-01 06:53:36
「milou」さん、いろいろコメントをしてくださり、誠にありがとうございます。
様々の細かな点はおっしゃるとおりだと思われるところ(クマネズミには、ご指摘の諸点によって本作のリアリティが酷く損なわれることになるとは思いませんが)、本作は「『川の底からこんにちは』と比較して大したことない、というだけで下らない凡百の若者に媚びた日本の駄作にくらべれば遙かに出來のいい映画」との「milou」さんの評価に安心いたしました。

ただ、「“ら抜き”言葉が話題になったとき確か西岡が“俺も大嫌い”のような台詞を言う場面」に関しては、劇場用パンフレットに掲載された「シナリオ」で見ると、松本先生が「馬締さんは「ら」抜き言葉をどう思いますか」と聞いたのに対し、馬締が「僕は使いません」と答えています。西岡ならともかく、馬締がそう答えるのに違和感はありません。
また、「香具矢がお通しを持って行ったとき“お通しになります”という」点についても、本シナリオでは「いらっしゃいませ。お通しです」となっています。
ただし、本シナリオは最終稿ではないため、実際の画面との間にズレがあるようですから、結局はもう一度映画を見て確認しなくてはなりませんが(少なくとも、後者については「脚本ミス」ではなさそうです)。

なお、「右」に関しては、例えば、ネットの「Macmillan dictionary」では、「the side of your body that is towards the east when you are facing north, or this direction」とされているものの、「The Free Dictionary」では、「Of, belonging to, located on, or being the side of the body to the south when the subject is facing east」とされていたり、また「ARDictionary」でも、「location near or direction toward the right side; i.e. the side to the south when a person or object faces east」 とされていたりします。
“ら抜き”と右 (milou)
2013-05-01 09:07:26
パンフレットは立ち読みすらしないが日本映画でシナリオが載っているのは珍しい気がします。特にビデオ時代以降はあとで見れば分かるから載せる価値も薄れるし(昔のキネ旬には必ずシナリオが掲載されたが今は城戸賞以外ないはず)。

しかし恐らく明らかに(変な日本語)そのパンフは決定稿とは差異がありますね。“確か”と書いたように確信はないのだが、シナリオでその場面で西岡は一緒ですか?僕の記憶では飲み屋の帰りの夜の道で、当然ながら使わないと答えた馬締に続いて西岡が“俺も大嫌い”と強く言ったので意外だったのですが…
“なります”同様これから見る人がフォローしてくれればいいのですが。

右については個人的に面白いのでさらに調べてみますが、北以外が多い理由は、恐らく台詞にもあったように既存の辞書と同じ表現を避けることからでしょう。

ちなみに昔、ほぼ初めてフラン人の日本語禁止授業を受けたとき予習してテキストにある知らない単語や難しい単語を調べて行った。ところが最初に受けた質問が“猫とは何?”だった。“右”じゃないが猫なんて誰でも知ってる猫だし、どう答えていいか分からなかった。答えは、まさに辞書にあるように、例えば家庭で飼われるほ乳類で…というふうな定義をすることで、フランス人の発想が分かった気がした。
Unknown (クマネズミ)
2013-05-02 06:55:30
「milou」さん、またまたのコメントをありがとうございます。
おっしゃるように、邦画の劇場用パンフレットにシナリオが掲載されている例はあまり見かけません。
ただ、若松孝二監督の最近の5本の作品に関しては、そのシナリオの最終稿がムック版に掲載されていますし、他の監督の作品のシナリオについても、数はごく少ないながら、雑誌『月刊シナリオ』に掲載されているところです。

なお、本作の劇場用パンフレット掲載のシナリオにおいて「ら抜き言葉」の件が出てくるのは、辞書編集部の場面であり、荒木や西岡も別の件で話しに加わっています(尤も、当該シナリオは、脚本の渡辺謙作氏が言う「最終的にたぶん二十何稿」ある内の最終稿ではありませんから、余り参考になりませんが)。

また、学校の国語の時間に辞典を使って初出言葉の“意味調べ”をした記憶があるものの、おっしゃるように「猫」のように既に誰でもよく知っている物事についてその定義を与えるようなことをした覚えはありません。“曖昧”さを尊ぶ日本文化と“明晰”さを愛するフランス文化との違いというべきなのでしょうか?
right is right (milou)
2013-05-02 14:18:39
ネットで調べると、やはり(辞書の)左右の定義については昔から話題になっているようです(だから映画で使ったのかもしれない)。
ただ多くの論点は、では東の定義は…と結局堂々巡りになるという問題です。確かに分かりきったことを言葉で説明するのは難しいが、僕が引っかかったのは、なぜ磁石など方位で一番分かりやすいと思われる北を基準にすることを“避ける”のかだが、そのような論議は見つからなかった。

ちなみに広辞苑の場合1版(1965)2版(1969)までは(正当に?)北に向かって東だったが3版(1983)から現在まで反転して南に向かった西になっている(今後も変わらないだろう)。

メジャーな(?)辞書の多くは北以外を基準にしているが『インフォワード国語辞典』『新世紀ビジュアル大辞典』(いずれも初版)などは北が基準、そして日本最初の本格的国語辞典『言海』(明治37)は“南ヘ向ヒテ西ノ方”だそうです。

一般に方位をいうとき日本では東西南北と左右(?)から始める。また南北とは言うが北南とは言わないが、これらも見方によっては中心である自分が南側にいて北を向いているからとも考えられる。中国の五方も東南(中)西北と東から始まっている。口上のトザイトーザイや右や左の旦那様など、“すべて”を表すのに前後ではなく左右の表現を使うが、それも自分が正面を向いたときに見えるからだろうし、やはり東(右)から始めている。

日英仏独など多くの言語で“右”は権利や法律の意味を持ち右(一般的利き手や心臓のある方)が“強く正しい”優位性を示すことが右が東にあたる北の基準を避ける要因の1つかもしれない。
方位 (クマネズミ)
2013-05-02 22:18:22
「milou」さん、貴重な情報をありがとうございます。
一点だけつまらないことを申し上げますと、前々のコメントで「(少なくとも北半球では)どんな地図でも北を上にして書くのが当たり前」とあるところ、江戸時代以前の古地図では、下記のサイトの記事などを見ると、必ずしもそうなってはいないようです(また、気学で言う「八方位図」では上が南になっているようです)。
http://mapfreak.sakura.ne.jp/column/northup.html
終わりです (milou)
2013-05-02 22:34:17
なるほど、一般的に世界を航海するようになって北極星が基準になり(天地明察も)上を北にするのが主流になったようですね。
それとは関係ないが記載のURLを見て腑に落ちたこと。

-- 上下は問題になりません。これは、日本では地図を壁に掛けるのではなく、畳の上に置いて周りから眺めるのが多かったことが関係しています。

江戸の古地図などを見ていて文字の向きがバラバラで現代人から見れば非常に見にくいので不思議に思っていたのでスッキリしました。

日本語や中国語は縦横どちらでも使えるが西欧ではほとんどすべて横書きなので本屋で本の背中を見るとき僕らは体を横にしたくなる。しかもフランス語と英語は向きが逆なので本棚に並んでいても上下が混じり、これまた見にくいのだが当然彼らの体は順応していて問題ないんでしょうね…

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