都市徘徊blog
徒然まちあるき日記
 



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Photo 2012.1.31

 新宿区と中野区の境を歩いていたら、黄色い柵が道路に飛び出していた。

 こんなことが起こるということは、ここは恐らく私道なのだろう。しかしこれは何?

成願寺南寮の勝手口階段
所在地:中野区弥生町1-3   Google Map
Photo 2012.1.31

 近寄ってみたら勝手口の階段だった。

 上の道はもともとは狭かったのだろうか。道路を削るように階段を後から造ることはまずないだろう。だとすると、階段がもともとあった場所で道路を広げたと考えるのが自然だ。

 斜面上に階段があり、細い道へ上がっていたが、交通を考慮して道を谷の側(写真左側)へ石垣を築いて拡幅したのかもしれない。そのため斜面上に造られた階段が取り残されて、道路が欠けたようになった。通行者がそこから落下したりしないように目立つ黄色で柵を作り、チェーンを張っている。

 しかしかなり珍しい。ほとんど記憶にないタイプの階段だ。



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柳橋
所在地:新宿区西新宿5-18、22、23の間   Google Map
架橋年:1932年(昭和7)
Photo 2012.1.31

 西新宿5丁目で十二社通りから西へ入り、静かな商店街を進むと、コンクリート製の欄干が中央で切れた古い橋が現れる。

 架かっている橋は柳橋。橋の下を流れているのは神田川笹塚支流という小河川で、和泉川とも呼ばれていたらしい。しかし川だった場所は全て暗渠化されて、緑道化されている。小河川はその名の通り杉並区の和泉のあたりから流れ出て、西新宿5丁目で神田川に流れ込んでいたようだ。昭和初期に橋が架けられているので、その頃までは暗渠ではなかったのだろうが、その後、暗渠とされ遊歩道化されたらしい。

榎橋
所在地:新宿区西新宿5-24、25と渋谷区本町3-20の間   Google Map
架橋年:1924年(大正13)
Photo 2012.1.31

 暗渠上の道を少し西へ、上流側へ辿ると、榎橋というこれまた古い橋がある。またこれとは反対に柳橋から北上すると、羽衣橋という橋もある。それぞれ古い橋だが有名ではないし、今では橋の体も成していないが、なんだか気になる姿だ。架けられてから90年近く経つ榎橋は、欄干部分のコンクリートが剥がれ、鉄筋が露出し、橋の名や架橋年も読みとりにくい。雨水を暗渠へ落とし込んでいるらしき穴がスロープの両側にある。地下にはまだ箱型の川があるのだろうか。

Wikipedia > 神田川笹塚支流
時空散歩和泉川南流散歩


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熊野神社
所在地:新宿区西新宿2-11   Google Map
Photo 2012.1.31

 十二社の名は、熊野神社に十二所権現が祀られたことに因むという。十二の神をひとつの社に奉る十二相殿から付いたという説や、大田南畝が「熊野三山十二叢祠」と言ったためだという説などがある。明治期の地図では、十二双とか十二叢、十二総とも書かれている。

 神社の境内には熊野の滝などと呼ばれ、江戸名所図会などにも描かれた大きな滝があった。この滝は、写真右手、神社境内の東側を流れていた神田上水助水堀に造られた人工の滝で、高さ3丈(約9m)、幅1丈(約3m)だったという。

 神田上水助水堀は、神田上水の水量を補うために玉川上水から水を分けて送っていた水路で、写真後方の二棟の超高層ビルの間を北へ流れ、青梅街道が神田川を渡る淀橋のあたりで神田川(旧神田上水)に注いでいた。1898年(明治37)に淀橋浄水場が完成し、神田上水や玉川上水が使用されなくなった後も、排水路としては利用されていたという。現在は暗渠化されたりして水の流れを見ることはできないが、熊野神社の北側では区立けやき児童遊園として痕跡を辿ることができる。

 熊野神社の北側は、方南通り−西新宿の北通りに向かって、急に落ち込んでいる。淀橋浄水場や玉川上水があった高台と、神田川流域の低地の境で、現在の地形図で見てもこのあたりで約7m程度の高低差がある。3丈の高さというのはややオーバーかもしれないが、江戸の町の周辺の中ではやはり大きな滝だったのだろう。名所絵などに描かれたのも納得される。

新宿十二社 熊野神社 由緒
Wikipedia > 熊野神社 (新宿区)
廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-
  > 消滅する街〜新宿ノーザンウエスト〜 #71
カフェ「道みち」
  > 新宿探訪 西新宿篇11 ガスタンク・神田上水助水堀・水道道路


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 現在の熊野神社の西側、十二社(じゅうにそう)と呼ばれていた西新宿4丁目には、江戸時代初期に、付近の田畑のために湧水を利用して溜池が造られていた。往時は大池と小池という大小2つの池があったといい、享保年間(1716〜1735)の頃から池の周囲に多くの茶屋ができて景勝地・遊興地として賑わったそうだ。

 明治期になると界隈は花街となり、最盛期には料亭や茶屋が100軒余、芸妓も約300名いたといい、池には貸ボート、屋形船、釣り舟もあって賑わったという。

十二社・旅館一直   Google Map
所在地:新宿区西新宿4-12
Photo 2012.1.31

 しかし昭和初期以降、徐々に埋立が進み、最初に北側の小池が消滅。戦後の1968年(昭和43)までに大池も全て埋め立てられたという。池の消滅と共に十二社の花街も衰退していったようで、当時の面影は少ない。しかし界隈には、当時の建物と思しき家屋や旅館などが数軒だけ残っている。

一直・2階窓の意匠
Photo 2012.1.31

 以下の「廃墟徒然草」では、池の消失についてや往時の様子が、地図・写真を使って細かに述べられている。

廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-
   > 消滅する街〜新宿ノーザンウエスト〜 #71
東京DEEP案内
   > 花街の痕跡・西新宿「角筈十二社」(2) 連れ込み旅館


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1992ウラジオ日記
とりあえず最新記事として掲載して、しばらくしたら1992年10月の位置に移動します。

1992.10.10(Sat) Vladivostok

第一熱供給発電所  Google Map

 北の方に行くと巨大な煙突が見えてくる。日本と同じように白と赤の帯で塗り分けられている。このあたりはほとんど人通りがなく、車も多くは通らない。煙突のてっぺんから煙が少したなびき、建物から音がしている様子を見ると操業はしているようだが、一体全体なんの工場かはさっぱりわからなかった。しかし前述の「こんにちはウラジオストク」を見ると、これが第一熱供給発電所であることがわかった。近くにはこの他にも工場がいくつかあって、こちらはまちの食肉加工コンビナートだということだ。どうやら街の北部は工場地区らしい。引き込み線があるのもそのためだろう。

コマロワ通り(Комарова)の高層アパート  Google Map

 次に中心市街の北部を東西に走るコマロワ通り(Комарова)を東方の山手まで見て歩く。中心部をはずれると12F建て程度の高層アパートが目に付くようになる。渡し船に乗って海側から見たとき、丘の上にいくつかの中高層ビルがすっくと建っているのが目立って気になっていたのだが、それらのほとんどはアパートメントのようだ。鉄骨ラーメン+コンクリートパネル(PC)でプレハブ的に造られたり、RCで造られたその姿は、独特のインターナショナルスタイルを見せている。

 更に東へ進むと、道は無線鉄塔のある鷲の巣山へ向かう。しかし途中で舗装は途切れ、しまいには道自体もなくなってしまった。集合時間が近づいてきたのでウラジオストクホテルに戻る。

 帰路、途中で偶然S氏に出くわす。S氏も調査中に別のおじさんに招き入れられたとかで、そこでVodkaを呑むはめになり、更に彼の背中に彫ってある、レーニンとスターリンの刺青を見せられてしまったということだ。歓迎の仕方が不思議というか、手荒いというか・・・。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧


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