まわりで起こっていること

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風葬

2009年03月21日 | 素人郷土研究
風葬というのは、早い話が、ご遺体を、そのまま、打ち捨てる、とでもいいましょうか。

自然にかえす、といいましょうか。

チベットでは、鳥が食べやすいように、肉体を、切り刻むんだ、と。

そのさまを、こどもの僧侶に、見させるらしい。

それが、修行になるわけだ。

腐乱し、おくりびと、じゃないけど、蛆もはいまわっているんだろうね。

耐え難い臭いと光景。

生と死というものに、小さなころから、向き合うことになる。

ある意味、だれにでも、訪れるもの、ごくありふれたものを、ごくありふれたものとして、扱うわけだ。

言葉にすれば、公平、平等ということになる。

神社から、葬送の儀をなくしてしまってから、日本の神道が、迫力なくなった、というんだけどね。

迫力というのか、本来持っていたパワー、というのか、身近さ、というのか、そういうものが、どこかへ、行ってしまったという訳だ。

これ、谷川健一さんが書いていた。

お寺さんをせめるわけじゃないけど、神道も、生と死と、両方扱うほうが良いですよ、ということです。

死という圧倒的なパワーを見ないでいると、国家神道みたいな、観念の産物が、できあがってしまうんだ、と。

それ、わかるような気もするね。

神社が、日本のそこかしこに、たくさんあるのは、どういうことだろう、ってのが、この何年かのテーマではあるんだけど。

どうも、その昔、神社は、墓地だったようなんだね。

つまり、そこで、祖先を思っていた。

地縁、血縁というけど、祖先崇拝は、血縁だね。

自分の氏、と言う意味では、氏神様ということになる。

地縁というのが、産土の神であり、その土地の神々さまだ。

この話、興味のない方は、スルーしてください。

って、一番最後の書いても、意味ないですか。





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