まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

方眼紙のノートを買い求め

2017年04月27日 | Weblog

文房具屋さんまで歩き、そのついでに、久々に。

次男坊の同級生の中華屋さんにて、昼食。

日替わり定食の、豚肉と野菜の炒め物、この味はどうしてつけたのか。

なんて、自炊をするときの参考に、と。

ちょっと、甘いんだよね。

なんてことをしながら、清水銀座、駅前銀座と名付けられた道を、首は掲げはしなかッタたけど。

その一角を眺め、この辺りをごそっと取り払い、人々の蝟集するような場ができないものか。

なんて夢想しながら。

歩くのも楽しいもので。

土地には歴史があり、つまり、さまざまな方が、さまざまな思いをもち、人生を送ってきた。

その結果、その挙句の姿を眺めながらのそぞろ歩きだったわけだ。

たまにはいいもんだ。

実は、万年筆選びも、その目的の一つだったんだけど。

ときめくものがなくて、静岡のお店に行ってみようか、とも思っている。

ハガキに墨痕鮮やかに、ってのを、夢想している次第で。

そうなると、俳句の一つもひねってみたくなるね。

長の文章でなく、まさに一筆、というような。

昨日は、個人ミーティングの続き、今日、また残りを、で。

話は弾んで、どなたとのものも楽しくて、その内容を後になってメモし直す。

予習・復習みたいな感じでね。

その場でのメモもいいんだけど、ちょっと、話が途切れる感じもするからね。

このメモにインスパイアされて、新たなものが生み出され、という。

これまた、夢想ではあるけれど。

今朝は、どうも、夢想が多いね。

そうそう、昨日は、歩きながらのメモ、も試してみた。

iPhoneの、お気に入りのEvernoteの音声メモ、ってやつで、天才、が気になっていて。

genius、英語では、ジーニアス、語源は、ラテン語の、geniusゲニアス、というらしく。

ラテン語では、守護霊とか守護神とかの意味だそうだ。

天才を発揮するときは、守護神に、まさに、護られ鼓舞され、という感じで、なるほどね、と。

なんてことを下敷きに、音声メモには、地才、と入れた。

生まれてこのかた、大地とともに生きてきて、さまざまな不如意、僥倖を味わい、その挙句に。

天才に出会う、という絵柄かな。

自分の中に眠る天与の才能、ってことだけど、これは、それぞれがそれぞれの味を持っていて。

そこに、コツンと突き当たる、というね。

マイケルジャクソンだけが、天才、という定義ではないんだけどね、この天才、geniusってのは。

比較をなくした世界に現れるもの、とでもいうか。

このところの興味は、そこにあるよ。

この間のシフティングのデンで行くと、define siftということになる。

って、横文字やカタカナが多いブログになっちゃってるね。

自分をどう定義するか、今まで培ってきた定義の枠から飛び出す、と。

これは、自分、という単体ばかりでなく、自社、とか、事業、とかにも言えて。

そこに、天才性を発揮する場が出来上がると、それこそ、守護神とともにの立ち居振る舞いとなり。

パワーは倍増する、って算段だ。

さて、今日も、天才をどれだけ発揮できるでしょうか。

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万年筆を買おうと思い立ち

2017年04月26日 | Weblog

そんな気分でいる。

この間、同友会の広報誌に掲載された文章のまとまり方が見事だったので。

思わず、その御仁にハガキを書いた。

しばらくしたら、返信があり、しかも、封書で。

ご自分の書かれた、いくつかの文章、中学の時のものまであったけれど。

それを送っていただいた。

送って行って、送られて、また送って行って、みたいな具合の。

通信になりそうな気もしたので、いつも眺める、文房具屋さんの万年筆コーナーが思い浮かんだ次第。

LINEやらmessengerやら、世は便利なツールが開発され、瞬時に反応の応酬ができ。

ノンストレス、ではあるけれど、それがまた、ある方々には、ストレスにもなる。

という、まるで、資本主義の発展段階をみているような様相ではある。

そんな世に、万年筆での応酬も、また一興というもので。

回るお寿司屋さんの、タッチパネルでの応酬もそれはそれなりに便利ではあるけれど、この間、下田での。

いきなりの万来の客人方を前にした、おしゃべり親父のパニクった無口の握りも。

これまた、なかなか、味わえないもので。

そうか、万年筆は、あの親父だな。

このところ、目の前のものとどこか別のものとを、似た者同士、と呼ぶのが楽しくて。

例えば、夕べ、テレビで、ケニアでは石を食べる、なんて映像が流れていて。

傍で、妻は、ウェーというような感想を漏らしていたけど、当方は。

たぶん、これ、この列島でも、似たような食し方、あるんじゃないだろうか、と探していた。

昨日は、午前午後と研修で、建築現場の安全のための、あの手この手の講義。

さすがに、午後の食後の時間は、スーッと睡魔がやってきて、一番前だったので、寝るわけにもいかず。

という時間を過ごし。

ところで、日曜日に行った、清見寺、ま、昔は、清見ヶ関とでも呼ばれていたのか。

その名前の由来が、ボランティアガイドさんによれば、天武天皇が、と。

631?年から686年、という人生だったようだから、だいたい、その頃に、つまり。

600年代、半ばくらいか、に清見ヶ関の名前となったわけだ。

近くに、波切不動尊、という小さなお宮さんがあって、そこは、例の、坂上田村麻呂が。

蝦夷を「討伐」した、という戦勝記念で作られた、とも。

それが、801年なんだって。

この150年くらいの間、ってのが、なかなか、この駿河の地の謎を表している、とも言えるね。

その頃ついた地名に、勝間、があって、なんてお話もしていただいたんだけどね。

そうだ、近くを流れる川、今は、波打川、と書いて、はたうちがわ、実は、戦勝記念の旗を打ったので。

旗打川が訛ったものだ、ともいうんだね。

ま、何れにしても、ヒーローを語り継ぐ、ってのが、ある意味、歴史とも言えて。

長嶋茂雄、とか、イチロー、とか、ペレ、マラドーナ、みたいな。

空白の150年、というのが、安倍川にも通じ、というのも、当時のヒーロー、田村麻呂は。

飛鳥、いや、大和からやってくるわけだ。

海路とは聞かないので、陸地を歩いて、あるいは、馬で、と言っても、その頃の馬は小さな馬だよね。

まさに、山あり谷あり川ありの中を、遠いあずまの地へ、彼は、旅立った。

辺境の地へ、だ、物見遊山じゃなくね。

しかも、さばえなす、草木もわんわんと騒ぐ、というくらいの地。

そこが、今でいえば、駿河、という地。

なんてことなどなどに、思いは飛んでいき、ちょうど、清見ヶ関、そう、今でいえば、宗像神社のあるあたり。

そこで、東北の雄、アテルイやモレのような戦士を迎え撃った、ってわけだ。

蝦夷を巡る旅、の時、東北のどこだったか、駿河の地まで攻め込み、なんてコメントが書いてあったな。

その頃の平均年齢が、いくつだったのか、知らないけれど、30とか40歳とかであれば、何世代?

そんな長い時間が、流れたんだよね。

だから、って、ここで強引に結論に持って行くこともないけど、LINEの超高速のレスポンスとともに。

万年筆での応酬、というものの魅力も、味わってみるとするか。

 

 

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榊の新芽が目に飛び込んできた

2017年04月25日 | Weblog

勢いがあるね。

わが事務所の神棚。

目に青葉 山 ホトトギス 初鰹

ってわけだ。

まず、目に青葉のワンアイテム、ゲットという次第。

ついこの間、桜三昧に、人生初めてというくらいの感激をしたのだけれど、それに続いて。

さて、新緑の季節。

とはいえ、このゴールデンウィークには、安曇野でも出かけてみようか、なんて。

昨日の個人ミーティングの相方、信州は上田の出身の御仁からご教示いただいた。

例年は、この時期、桜ですよ、というね、安曇野、海人族の末裔たちの地名のついた。

そこへの小旅行でも、という。

なんて書くと、あそこもここも、なんて気になって、でも、行けないよね、ということを。

この間のシフティングのセッションで、左目と右目に交互に聞いてみる、なんてこと。

自分の中にある、アクセルとブレーキ、ってやつね。

実際に、左目を隠し、あそこもここも行きたい、というのはほんと?

もちろん、行きたいよ、右目を隠して聞くと、いや、そうでもないよ、と。

もう一度、左目を隠して聞くと、うん、そうだね、たしかに、そうでもないか。

みたいなやりとりが、右目と左目であったわけだ。

ブレーキとアクセルのバランスが、何とは無しに取れて、万事めでたしめでたし、ってことなんだけど。

果たして、ゴールデンウィークの安曇野は、成立するのでしょうか。

昨日の個人ミーティングは、実は、シフティング講座の振り返りも兼ねて、と自分の中では。

目論見もあったんだけど、そこはそれ。

なかなかに、思い通りには行かないわけで、サチコ、思い通りに、サチコ、生きてごらん。

なんて歌、あったけどさ。

にしても、意識の枠組みを外す、というのか、自分、とかの言葉で意識している存在、ってのが。

そんなに確固たるものでもない、という気づき、ってのは。

面白くて。

一つのツールとして、使い倒したら良さげなもの、くらいでいればね。

自分を鼓舞しもし、慰めもし、と。

で、目指すゴール地点は、あちら、そこへ行くためには、鞭をくれたりニンジンをくれたり、の馭者のように。

自分の意識を使い倒す、って絵柄だな。

そんなことのきっかけになる、ま、シフティングなんだけどね。

講座終了後、講師の方に、熟成させてみます、とメールしたんだけど。

まさしく、過ぎ行く時間を味方にして、ほんの少しの変化にしか見えない、生成物の進化発展を。

眺めるとしますか。

くらいの感懐だな、今催しているのは。

つい最近、わが社の21歳の女史、彼女のおじいさまが、101歳で他界された。

あなたがその年になるまで、あと80年か、なんて会話があって。

その時に俺は、140歳だ、と。

及び難い時の流れからしたら、ほんの刹那とも取れる時間かも、だけど。

なんて感慨も湧く朝、わが榊くんたちも新芽で迎えてくれて。

さて、一日に出発しますか。

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応仁の乱を逃れ、今川・大内・朝倉と文化が開いた

2017年04月24日 | Weblog

らしい。

というのは、昨日の旧東海道歩こう会のボランティアガイドさん。

順に、駿府・周防・越前、という地名になるようだ。

周防というのは、今の山口県東部。

京の公家さんたちの文化が、散って、そこで花開き。

織田信長は、そのうちの二つまで、首級をあげた、ってわけだ。

京の公家さんたちにとっては、恐怖政治の最たるものだった、とも言えるか。

現代の、アメリカのメディア総動員で、トランプ大統領阻止の論陣を張った絵柄にも似ているか。

ラストベルトと呼ばれる地に住む労働者、エスタブリッシュメントへのアンチとしてのね。

彼らの支持を取り付け、だけど、実際に政権を運営していくのには、能吏が必要で。

それらの人々は、エスタブリッシュメントの中にしかいないから。

列島でも、民主党が政権をとっても、運営そのものができなかったのも、世に言う霞が関の。

官僚さんたちの、律令制度の頃から連綿と続く、蜘蛛の糸のような、忖度も含めた。

裏に連なるネットワークなどなどを、打ち破る術を知らなかった。

のも、宜なるかな、で、大和政権そのものが、合議制で、忖度の限りを尽くす、って手法だから。

ジンギスカンやら毛沢東やらの独裁者は、なかなか、出現しないと言う風土でもあるんだろうな。

それにしても、ボランティアのガイドさんの説明を受けながらの道歩きは、楽しいもので。

いろんなネタを拾ってくるわけだ。

清見寺の境内を列車が突き抜け、駿河湾は、道路や倉庫で目隠しをされ、と言う姿。

往時の写真や絵などからすると、見事な景色が、そこにはあったのだろうけど。

それらが、時代とともに失われ、って、渡辺京二さんの「逝きし世の面影」まんま、だ。

以前、自宅からすぐ近くに八百屋さんがあって、全盛期、毎日、お客さんが訪れ、そこの。

お母さんは働き者で、なんて評判もたち、するうちに、客足が遠のき、そこを。

コンビニの経営者に貸して、家賃生活者になったのかな。

そのコンビニがオープンした時、近所の人々は、わんさと推しかけ、なんて姿眺めていた時。

八百屋さんの経営者とは親しくしていたにしても、用事がなければ、他のスーパーに行く、と言うね。

当たり前といえば当たり前の姿に、そこはかとない哀しみを感じたものだけれど。

それと似ている。

栄枯盛衰の一断面、とでも言えるか。

誰のせいでもなく、時代がね、移り変わるんだよ、くらいの言い草になっちゃうのか。

古来の名刹、清見寺にしても、汽笛一声新橋を、と言う掛け声とともに、富国強兵の御世と相成り。

徳川さんのご威光は、霞んできて、ってことなんだよね。

薩長の、やがては長州のご威光の前に、以前の群は、アリの巣を突くような、さまざまな離合集散が。

駿河の地には、瞬時に沸き起こり、なんて絵柄だね。

だから、今でも、この地に外からやってくる御仁たちの目には、中へ入り込むのは時間がかかる。

なんてことにもなり。

今日は、筋肉痛だ。

15000歩だったんだけど、このところ、あんまり、歩いてなかったからね。

そろそろ、山登りのトレーニングを開始するとしますか。

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大根おろし器で指をおろした

2017年04月23日 | Weblog

この間、築地のお店で買い求めたおろし器。

職人さんが、一つ一つをタガネで起こし、切れ味鋭い刃先を上に向け。

くらいのウタイのおろし器、それで、我が指を、って次第。

なんてこと、思い出していたら、その昔、カウンターの向こうで、立ちながら大根をおろしている姿。

おでん屋の「吹雪」って、ところでね。

大将が、やっていたな。

その頃、ある親方夫婦の相談に乗っていた少年、10代だった、その御仁が今や、40代も半ば、だから、30年は前の光景か。

大将は、何年か前に、すでに黄泉の国へ旅立っている。

今頃、何してるんだか。

あの店での大将との会話、相方と、子どもの頃、風邪をひくとバナナ、食べさせてくれたりして。

嬉しかったよね、みたいなところへ、負けず嫌いの大将、俺の頃は、もっと貧しくて。

なんだったか、同じシチュエーションで、バナナどころではない、もっと今思えばプアな。

食べ物をもらったことが嬉しかった、と言うわけで、貧乏競争だった。

なんてことや、ゴルフの練習場で、いいか、スイングってのは、ゆっくりと力を入れず、なんて言いながら。

当方に教えんと、しかし、そのスイングが、目にもとまらず、くらいの速さで、ちょこまか、みたいなものだったな。

意識は、何処へでも飛んで行こうと思えば、飛んでいける。

昔の参考書、自由自在、みたいなもんだ。

30年前が、今ここに鮮やかに蘇る、まるで、確実に存在するものとして。

それにしても、朝が明るくなった。

時計の同じ時刻での比較、ってことだけど、月とか太陽とかの巡りとは関係ないところで、しかし、関係もしている。

って話だけど。

このところ、母親が朝早くに食事をする、らしく。

6時前後に、妻のおきだす前に、一人で、卵かけご飯、とかね。

通常は、8時過ぎだったのが、そう言うことで。

夕べ、妹と妻との会話を聞いていたら、そんなことで、彼女にとっては、時計の刻む時刻ではなく。

体内時計なのか、どうなのかはわかりませんが。

明るい巴川を眺めていると、鳥さんたちの朝食の時間は、とうに過ぎたんだろうな、なんて思いつつ。

母親の超早の朝食に思いを馳せ。

実は、この間、痛風の御仁の、その患部への意識のシフト、ってのを、目の当たりにして。

意識ってのは、融通むげ、何処へでも行けるんだな、と言う実体験をしたんだけどね。

このことについて、詳しく書ければ、とも思いつつ。

そうだ、今日は、これから、旧東海道を歩こう会、ってわけで、興津の宿から江尻の宿への行程。

ボランティアガイドさんに同行願い、さて、どんな街と歴史に出会うことができるのか。

地名なども、時間の縦軸に積み重なった、お宝の象嵌細工のようだけど。

道を歩くわけだけど、そもそも、この道という字の由来が、白川静さんによれば、敵の首をね。

掲げて、まるで、夜道の提灯みたいなのか、その霊力で、異族の地にざわめく霊たちを鎮めながら。

ということらしく。

今日の歩きで、さしずめ、その首の役回りをしてくださるのが、現地のボランティアガイドさん、ってことになるか。

骨ストレッチをして、そろそろと出発することにします。

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昨日は、?な表題だった

2017年04月22日 | Weblog

ブログをアップした後、いきなり、魂と会話した。

と出ていたから、驚いてね。

あの時、何を書こうとしていたのか。

それに続く内容、あってないものね。

昨日、来社された御仁から、あの写真は山登りの格好で行くの、それとも、ハイキングくらいの。

なんて質問が飛んできて。

当方よりちょっと年上の方なんだけど、改めて、Facebookの浸透度を実感したわけだ。

仮に、エゴサーチのような感じで、Facebookを遡って行ったら、ツイッターにも行き。

このブログにもたどり着くんだろうからね。

この時代、簡便な検索が可能なので、ちゃっちゃとスマホでも、だから。

まるで、先生を携帯しているようなもので。

中学の時の美術の先生、思い出すよ。

大酒呑みだったから、肝臓かな、どこかが悪くて入院していた。

同室の患者さんたちが、先生だということで、なんでも知ってるかと、いろいろ聞いて来るんだ。

まったく、なんておっしゃっていた。

ある意味、検索係でもあったわけだ。

そんな時代風潮だった、とも言えるね。

知に価値があった、知は重大事でもあった、のかも。

教師は聖職者か労働者か、なんて議論があったな、たしか。

そもそも、そんなことが議論になること自体、時代の変わり目でもあったんだろうし。

行く川の流れは、元の水にあらず、って。

近代は自我の目覚め、なんて言い方もあるし、中也は、自恃だ、自恃だ、つまり、自らを恃む。

と歌った。

ヨーロッパで勃興した自我の目覚め、ってやつ、巨大な精神の収容所、と書いたら叱られるか。

教団の大きな力に、ひれ伏していた個々人が、声を上げ始め、ってね。

あれ、これと聖職者たる先生、とどう繋がるんだったか。

ところで、いつものご神木に朝のご挨拶をした時、スピリチュアルはお正月のことだよ。

なんてフレーズが浮かんできた。

というのも、夕べ、長男坊と妻との会話の中で、スピリチュアルってなに?という問いかけがあり。

沈黙で答えておいたんだけど。

それが朝になってやってきたわけだ。

時ところを超えてね。

見えない世界を語るということが、ヒソヒソと、まるで禁教を信ずる異教徒みたいに、語り継がれる。

みたいな時期もあって、トンデモ話とか怪しい話とか言われもし。

これは、江戸から明治への文明開化というウタイとともに、それまでの神々が零落して行った姿を。

目の当たりにした人々のメンタリティーが蓄積し、集合無意識にもなり。

なんてことかな、って、勝手に解釈しているんだけどね。

お正月には、おめでとう、と言って、凧を揚げてコマを回す、お雑煮を食べ、あとなんだっけ。

あれ、スピリチュアルなんだよね。

なんだけど、見えない世界は、なかなか、確認することができないから、どうしても。

高価な壺が売られたり、なけなしのお金が寄進されたり、なんてこともあったりね。

欲が欲を呼ぶ、みたいな。

欲、というといかにも悪いもののように見えるけど、意識の意をつけると、意欲。

なんてなるように、実のところ、当たり前だけど、命の発露でもあるんだよね。

見えるも見えないも、人の作る世界は、どちらもリアル。

というのが、当方のスタンスで。

根拠、とか、科学的なデータ、とかの言葉で表現されざるを得ない、この人間の。

認識の仕組み、とでもいうか、慣れ親しんだ方法、とでもいうか。

そんなところなわけで。

実は、五感の外側にも、認識のすべはある、と実感するかどうか、体感するかどうか。

なんだよね、人に教えられたことでなく、古くから言われていることでもなく。

心とか意識とかの摩訶不思議さ、なんて言い方が出て来る、その根っこ、とでもいうか。

そんなわけで、今日の土曜日は、妹が東京から母親に会いに来てくれる。

って、どこがそんなわけなのか、だけど、そろそろ、骨ストレッチを始めるとしますか。

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魂と会話する

2017年04月21日 | Weblog

今朝は、夕べのお酒が残っている。

一次会での隣席の御仁は、バッグの中に、酒気検知のチェッカーを持っていて。

明日の朝、これでチェックするように部下には言ってあるんです。

ときた。

それじゃ、お酒、そんなに飲めませんね、の会話の後。

独り二次会で、しこたま飲んだ。

というのが、夕べ。

今、ふとベランダを見入ったら、キンカンじゃなく、なんだっけ、由比の山にこれから白い袋がかけられる。

あの実がなっていて、あれ、花は咲いたんだったか、なんてこと、思った。

枇杷の木だ。

今、思い出したよ。

もう少ししたら、小鳥たちがやって来るんだろうな。

その姿を見ながら、隣人が、脚立を立てて、びわの収穫をし、当方にもおすそ分け。

があるのかな、なんてね。

さて、今日は、どんな一日となりますやら。

 

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濃密な一日だった

2017年04月20日 | Weblog

一筆書きで、昨日のシチュエーションを書き留めるのは。

なかなか、骨の折れる作業だ。

というのが、シフティング講座の顛末で。

旅と同じで、一粒で三度美味しい、のデンで。

予習、本ちゃん、ときて、これからのおさらい、復習の時間が大切なものになるんだよね。

それぞれにそれぞれの感懐とともに、眠りにつき、朝を迎えた、ってわけだ。

今日は、お昼から、某会社さんの総会があり、宵も更ける。

という展開で。

慌ただしく時は巡っていく。

ところで、ますます、天才発見器、というより、天才になっていいよ!の場作り、とでも言おうか。

そんな気分、高まっている。

これね、書き出すと、骨ストレッチまでできなくなっちゃいそうだな。

なので、やめときます。

それにしても、今朝は、静かな朝で、しかも、空は青い。

昨日の熟成を待つには、最適な日になりそうだ。

などなど、振り返っていると、あの人もこの人も、声かけておけばよかった、と思ったり。

誰それがあの場にいたら、その振り返りについて、どんな展開になっていたのか。

なんて、セルフイメージ、妄想とも呼ぶか、そんな時を瞬間、味わいつつ。

さて、一日を始めることにします。

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徳川家康は神だった

2017年04月19日 | Weblog

このベタな表題ね。

この間、某女史に教えていただいた、というのか。

山岡荘八の「徳川家康」という大河小説を、何ヶ月ぶりかに再開したらしく。

神だった、のか、神になった、のか、神である、のか、神に祭り上げられた、のか。

表現としては、いろいろとあるんだろうけど。

そんじょそこらの、戦国大名との違いが、そこにある、とも言えるか。

神とは何か、治山治水も含め、今風の表現をすれば、民草の幸せを追い求める、という壮大なビジョンをもつ。

おらが村の大将、おらが身内の総元締め、みたいなノリとは違った次元に行っちゃう祝詞だよね。

このところ、車中のミュージックは、バイオリンだな。

ディヴィッドギャレット、アンネゾフィームター。

いずれも、タルティーニの「悪魔のトリル」からなんだけどね。

なかなかいいんだよね。

この間、山の師匠に連れて行っていただいたジャズバーでの、トリオ。

その歌い手になりきって、つまり、自分が歌っている、という意識にシフトして、その場にいたんだけど。

すると、ベースの音とピアノの音と歌声が、それぞれが独立しつつ絡まっている、とでも書けるか。

そんな具合で、とても、いい空間、時間だったんだ。

そんな感じで車中ね、例えば、「悪魔のトリル」なんての、聴いてると、というか、演者になりきっていると。

まるで、瞑想状態、しかも、リアルな意識は、注意深く運転をしている、というね。

摩訶不思議な状態で。

すべて、楽しみのネタ、だな。

そういえば、つい最近、こんまり、という方がこの世にいらっしゃる、ということを知ったんだけど。

片付け、というのか、断捨離、のね、教祖さまかね。

近藤まりこさんね。

片付けようとモノを手に取った時、そこにときめきがあるか否か、だと。

この感覚、気に入っているんだ。

なんて暮らしていたら、昨日のカーテン工房の個人ミーティング、相方から。

収納の1級、2級なんて資格があるようで、片付け得意だから、そのうち、取ってみようかと考えているんです。

だって。

収納、片付け、インテリア、カーテン、って、同じ範疇で語れもするんで。

彼女には、本を書きなよ、と言ってるのです。

それも、なかなか、得難い本でもあり、表現も難しいのかも、なんだけど。

例えば、お客様とカーテンを選ぶ時、そのやり取りの、ほんの瞬間にある、次元シフト、というのか。

あっ、という刹那ね、そこを本に、しかも、電子媒体でなく、紙媒体のね。

ゴーストライターは決まってるから、われらが、自虐ネタの天才、という御仁なんだけど。

とここまで書いてくると、わかってる方はわかったらっしゃる、そんな御仁。

あの養老孟司さんも、「バカの壁」で爆発的なヒットを打ったんだけど、あれ、ある意味。

ゴーストライター作、とも言えるからね。

本というのは、中身なのか、文体なのか、装丁なのか、誰から渡されたものなのか、とかとか、受け取る時の。

さまざまな状態があるからね。

この時代に、イエスが再誕して、この本読んでみて、と言ったら、駄本であっても、絶品の。

本に早変わりするからさ。

って、書いてくると、まるで、現代に降臨したゲッペルス、ナチスのね、みたいだけどね。

好きな人が、大好きなことを、至福の状態でする、というのが。

このところのテーマでもあり、なので、天才製造機、とか、天才発見器、とか、天才発現の場、とか。

あちこちで、力んで発言しているわけだ。

世に、天才と謳われた人のようになる、という意味での天才ではなく、天から与えていただいた、つまり。

天与の才、ね、その発現、ってことだけどね。

というわけで、その第一回目の実験場が、本日、午後、弊社三階に立ち現れるのです。

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春雨じゃ濡れていこう

2017年04月18日 | Weblog

というには、少し降りすぎの雨。

夕べも、某会社さんの歓送迎会の帰り、雨脚は強かった。

一雨ごとに暖かく、なんていうのも、ちょっと、外れてきつつある。

そんな季節だね。

ところで、日曜日の、桜と桃と山吹の乱舞が、未だに目に焼き付いて離れない。

見事だった。

桜狩、という言葉もあるらしいね。

どこかで、誰だったか、使っていた、たぶん、季語にでもなっているんだろうな。

このところ、急がば回れ、って言葉が、気になっている。

その昔、ベンチャーズにあったな、こんな曲、walk do'nt run くらいだったか。

どんな曲だか思い出せないけど。

夕べは、20代からもう少しで70代へ突入くらいのメンバー構成での二次会。

そこでの選曲も、やっぱり、長幼の序を汲み取って、ま、いわゆる、空気を読んで。

ってことなんだろうな、我々に懐かしい、青春歌謡のセレクトで。

それはそれで、愛い奴じゃ、くらいの反応なんだろうけど。

これまた、この時代で言えば、もっと、自由自在、ってのもありかも、と思いつつ。

当方も、楽しんで歌ってもいたんだけど。

もう何年も言われているけれど、短いスパンで捉えても、戦後、いや、もっと短いほうがいいのか。

バブル崩壊後、あるいは、リーマンショック後、か。

もの皆、ゴーイングコンサーンでないことがあからさまになっているのだけれど。

そこはそれ、旧勢力の醸し出す、なんとも言えない。

時代の力を背景にした、ある価値観、名前も知らない、なんと言えないものが、相変わらず。

世を覆っている、という絵柄かな。

それはそれで、どうぞ、ご自由に、の世界ではあるけれどね。

四文字熟語で書けば、不易流行、ね。

変わるものと変わらないもの、とでも訳すか。

変えてはならぬもの、か。

行く川の流れは絶えずして、ってことなんだけどね、人間だけが、そんなことにこだわり。

というわけだ。

それを持って、文化文明とでもいうのかな。

途切れ途切れの記憶を、かろうじて、自我とでも名づけるのがいいのか、一人の人ということで。

紐づける、アイデンティティとでもいうか、そのツールが、おぼつかない。

と、母親のことを、強引にくくって見ると。

でも、遠い過去の記憶は残っていて、それを素材にした物語は、鮮明な映像として、彼女の中にあるのか。

この間も、下のオバから、よく覚えているね、の慨嘆が聞こえたけれど。

昨日もちょっと話に出たんだけど、細胞が一週間もしたらほとんど新たまっていて、というやつね。

なので、しばらくぶりです、と言いつつ、ほんとのところは、初めまして。

がふさわしい、人間のカラダのデキ、というね。

初めましてのカラダに、言う人に言わせると、過去生から続いている意識が乗っかっている。

なんてことになり、その意識の持ち方次第で、人生はどうにでもなる、と言う観点から。

のセッションが、明日に迫ったシフティング講座というわけだ。

これ、実のところ、かなりパワフルなものだと、予感、予測、推測、妄想してるのです。

 

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