雨の合間に、母親を連れて投票所へ。
僕の方は、期日前投票なんだけど、たまには、変化、刺激があってもいいか。
というわけで、車に乗せて行ったわけだ。
昔、って、今でもか、子供相撲をやるお宮さん、そこに改築、いや新築か。
なった保育園、その姿が、彼女の中では、表題の言葉として登場したことになる。
入館前、昔からの知り合いの、ご近所さんと久しぶりに出会い。
懐かしいね、と肩抱き寄せてお互いの名前を確認してもいて。
いきなり、本日のミッションは成功、という光景だった。
どうしたらいいか、というので、ひらがなで書けばいいんじゃない、と付き添いながら。
無事、投票行動は完了。
選挙結果は、各マスメディアの予想通りなのか、最後まで見てないけど。
そのことについての論評は、各所で語られるのだろう。
ところで、今朝の巴川は、少々増水気味で、とうとうと流れ、という風情だった。
屋上でウォーキングをしながら眺めた、昨日の巴川には、川鵜が三羽、流れに乗りつつ浮かんでいて。
しばし、見入ってしまったんだけど。
骨ストレッチをしていると、スズメがベランダにやってきたりね。
朝の巴川は、鳥たちがさまざまな姿を見せてくれる。
今朝の冷気、川風とも言えない空気の流れから、いつもと違う匂いが漂ってきた。
雨と風に打たれた草木の匂いか。
この時間、なかなか、いい風情でね。
昨日も触れたか、池川さんの対話本、「あの世」の本当のしくみ、ね。
その中に、こんな文章があった。
《親や先生のいう通りにすると褒められる。そういう報酬系の神経回路》
というのね。
その報酬としてドーパミンが出て、その中毒性はものすごく強力で、と続く。
かの高倉健さんにも、「ほめられたくて」だったか、そんな著作、あったよね。
このあたりが、やばいんだけど。
このところから解放されると、とても、気分が落ち着き、その瞬間瞬間の。
自分の才能、判断、解釈がごく自然に、誰に気兼ねすることもなく、でてくる。
毀誉褒貶から自由になる、という言い方もできるか。
怒りやら悲しみやらの感情が、ただ、それが通り過ぎるのを見送る、確認する。
ということで、一件落着、一幕を下ろす、というようなもので。
瞑想の時に、いわゆる雑念なるものが、通り過ぎるのを、空を流れる雲を見送るように。
というのが、一つの考え方でもあるんだけど、それに似てるかな。
この心ぐせ、ってのが、なかなか手強くて、つまり、ほめられたくて、というのね。
何かやった時、ちらっと誰かの視線を探す、という。
何もしなくても、できなくても、ただ、息をしてそこにいる、ある、だけで、OKです。
というのが、命そのものなんだけど、それで、全然構わないんだけど。
理想的にはこうでああで、あなたの天命、使命がこうでああで、みたいな。
ある意味、世迷いごとのような言説が、この地上には溢れ、漂い、ツンツンと命を刺激しにやってくる。
くらいか。
もういいじゃん、ベタで、まんまで、なんだけどね。
報酬系の神経回路、というフレーズから、ここまで流れてきちゃったね。
そろそろ、巴川で朝の鳥たちの仕事が始まりそうだ、こちらもルーティンに向かうとするか。