紫紺のやかた

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福原義春さん死去のニュースに接して

2023-09-07 23:11:50 | 日記
 9月5日のテレビニュースで資生堂名誉会長の福原義春さんの8月30日の訃報が報じられた。翌日6日の読売新聞朝刊一面に「福原義春さん死去 資生堂名誉会長 文化振興 92歳」の見出しで出ていた。評伝と関連記事も他の頁に掲載されていた。
 福原義春さんは逗子に住む著名人だったことと、海岸への散歩の途中に家の前を通ることもあったので、面識は無かったが郷土史に触れた人にはお爺さんの福原有信翁の別荘が昔養神亭の傍にあって皇后陛下や皇太子の行啓を仰いだということでも知られていた。明大の大先輩藤原楚水氏の随筆「藻塩草」に資生堂の設立までの簡単な経過が記載されていて、薬学の研究に励んだお爺さんが薬局資生堂を開いたことに由来するという。
 今は廃部となってしまったが地元明大校友会に写真クラブがあり私は会員ではなかったが行事には参加したことが何度かあった。この縁で逗子開成学園の理事長・校長で東京都写真美術館の館長であった徳間康快氏の死去により後を継いで館長になった福原義春さんの新聞記事を取っておいた。思い出して探すと2000年11月15日読売の記事で当時69歳、資生堂会長になっておられた。薬局から化粧品会社に転進させた初代資生堂社長を務めた福原信三氏と福原信辰(路草)氏の二人の叔父は芸術写真家で、その影響で大学時代から本格的にカメラを手にしたと述べておられた。叔父たちと同じものを撮っても模倣にしかならないと、興味があった自然科学の知識を生かし顕微鏡を使った科学写真にのめり込んだとも語っておられた。「一枚の記念写真の中にも詩がある」と思っています。との言葉も出ていた。
 また1997年日経に掲載された私の履歴書福原義春㉗の記事も取ってあった。「企業文化も経営資源 社会支援・日仏交流務める」という見出しでこの記事の中で資生堂の由来が易経の「至哉坤元 万物資生」(地の徳のなんと優れていることか、万物はこれを元に生まれる)のくだりから「資生」をとったと語られていた。
 2012年の12月9日福原義春さんの講演を聞いて直接話をする機会があった。これは地元校友会のK.F.支部長が主宰する会で料亭魚勝2階で行われた時に、私に参加するようにとの要請があった。この会の会員では無いので手伝い参加だった。どうも主旨は校友会での講演者に福原義春さんをK.F.支部長は考えていたらしく講演・アトラクションの後の懇親会の時に名刺を渡し明大校友会の話を少しして機会が有ったら講演をお願いしたい旨伝えている。慶大卒の会員がこの席に福原さんを呼んだのかなと当時思った。80歳を越えておられたが「このごろ思うこと」と題した講演だった。講演内容は思い出せないが明大卒の方も他におられたので福原義春さんの訃報を知って当時のことを思い出している方もおられるかもしれない。講演の後のアトラクションで在逗葉若手音楽家の歌と演奏があり、「見上げてごらん夜の星を」ほか日本の歌披露があった。このソプラノの山瀬香緒さんと電子ピアノの池浦七菜子さんのお二人には翌年の逗子駅前ビル2階にあったイタリアレストラン・イルノンノでの校友会新年会に出演していただいたので記憶によく残っている。
 その後2017年3月に校友会の仲間10名程で鎌倉に眠る著名人のお墓参りをしたことがあるが、東映の俳優だった鶴田浩二の墓のすぐそばに福原家の墓があったことも思い出す。
 6日の読売の記事に編集委員の高野清見さんが評伝の最後に「企業トップが利潤の追求だけでなく、本気で文化交流を図った時代があった」と述べておられるが昨今の社会環境を考えると的を得た言葉と思う。福原義春さんのご冥福をお祈り致します。(yoo)