コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

良い人たちの海岸

2010-08-24 | Weblog
世界史で、大航海によるヨーロッパ人の新天地開拓というと、まず1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した。そして1498年、バスコ・ダ・ガマが、アフリカ南端の喜望峰を回って、インドに到達し、ヨーロッパとアジアとをはじめて航路で繋いだ。まあこういうあたりが、教科書に出てきて、受験のためには暗記必須の年号である。

しかし、この年号だけを覚えていると、バスコ・ダ・ガマがいきなりアフリカ南端まで到達する大冒険をしたように思える。そうではなくて、ヨーロッパ人の航路開拓は、バスコ・ダ・ガマをさかのぼる、ずっと以前から続けられてきた。半世紀以上の年月をかけて、北アフリカから西アフリカ、そして南アフリカへと、だんだんヨーロッパ人の射程が拡大していった過程がある。そこに最も貢献したのが、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394年-1460年)である。

エンリケ航海王子は、自ら航海を行ったのではなくて、多くの冒険家に資金を提供することにより、新たな航路の開拓に力を注いだ。そこには、きわめて明確な問題意識があった。14世紀の当時、ヨーロッパの貿易市場は、アラブ人に牛耳られていた。そして、アフリカ方面からの商品は、アラブ商人のサハラ砂漠横断による隊商路が唯一の交易路だったので、まさにアラブ人の独占状態にあった。ここに、また西アフリカの金が絡んでくる。エンリケ航海王子は、西アフリカの金を、アラブ人の手を介さずに、直接手に入れたいと考えたのである。つまり、エンリケ航海王子の挑戦は、西アフリカ産品の輸入がサハラ交易により独占されている現状を、海上貿易により打破しようというものであった。

エンリケ航海王子が、最初に突破しなければならなかったのは、迷信である。
「ボジャドール(Bojador)岬より南は、人の住む地はなく、土地はリビアの砂漠よりもさらに砂のみとなる。さらに南に航海すれば、海は煮えたぎり、出た者は戻ってこれない。」
ボジャドール岬とは、アフリカ西海岸、モロッコの南、今の西サハラにある岬である。ここは海流と、海底の岩礁が原因で、航海の難所になっていた。

エンリケ航海王子は、ジル・エアネス(Gil Eannes)に命じて、ボジャドール岬の先を越えることを試みた。王子は彼に言った。
「大変な危険を冒すのは、その先に大変な報酬への期待があるからこそだ。神の恩寵により、その報酬と名誉は約束されている。だから、何も疑いを持つことなく、しっかりと任務を果たしてこい。」
ジル・エアネスの探検隊は、何度か試みたのち、1434年にボジャドール岬の沖合を通って、アフリカの西海岸に到達した。これが突破口になって、西アフリカへの航路が拓かれていく。

1444年、ディニス・ディアス(Dinis Dias)がセネガルに到達。ここに西アフリカからヨーロッパへの、大西洋回りの航路が確立することになった。これで、エンリケ航海王子は、アラブ商人に頼ることなく、西アフリカの商品を手に入れることができるようになった。とくに金が重要である。ポルトガルは、西アフリカ産の大量の金を手に入れ、1452年には、ポルトガル初の金貨が発行されるまでになった。

ポルトガルの船団が、コートジボワールを初めて訪れたのは、1471年である。この年、今のコートジボワールの西端、リベリアとの国境をなすパルマス岬を越え、コートジボワールの沿岸を探検した。今も、沿岸各地の地名に、ポルトガルの名残がある。アビジャン港に次ぐ第二の港があるサンペドロ(San Pedro)や、その東にあるササンドラ(Sassandra、Santo Andréの訛り)などである。

コートジボワールの「コート」とは、フランス語で「海岸」という意味である。「イボワール」は象牙という意味なので、コートジボワールとは「象牙海岸」ということになる。西アフリカ沿岸を訪れたヨーロッパ人が、辿り着いた海岸ごとに愛称をつけた。その名残がここにある。

ところで、コートジボワールは、はじめから「象牙海岸」と呼ばれていたわけではなかった。パルマス岬(現リベリア国境)から東側は、「穀物海岸」とか「マラゲット海岸」とか呼ばれていた。マラゲットというのは、当時たいへん珍重されていた香辛料だそうである。その東、今のグランラウ(Grand Lahou)あたりから東は、「良い人たちの海岸(Côte des Bonnes Gens)」と呼ばれていたそうだ。

その後、名前の変遷を経て、コートジボワールは「象牙海岸」ということに落ち着いた。その頃は、この国にはたくさん象がいて、象牙の積み出しが行われていたということなのだろう。西アフリカの海岸は、こうしてヨーロッパ人の商人によって、商品名で呼ばれるようになっていった。おおかた、その海岸名ごとに植民地に組み込まれ、やがて独立国となっていく。西から東に順に整理するとこうなる。

胡椒海岸(または穀物海岸):リベリア
象牙海岸:コートジボワール
黄金海岸:ガーナ
奴隷海岸:トーゴ、ベナン、ナイジェリア西岸

「象牙海岸」と呼ばれる以前に、コートジボワールが「良い人たちの海岸」と呼ばれていたというのは愉快である。この頃から、コートジボワールには、気のいい人々がたくさん住んでいたのである。1600年頃にこの地を訪れたオランダ人が、「椰子の木で作った酒は、たいへん微妙な味で、とても甘い香りがする。」と記述しているそうだ。私が飲んだ椰子酒と同じだ。ヨーロッパ人がコートジボワールを訪れ、現地の人々から椰子酒をふるまわれ、陽気に歌や踊りでもてなされた情景が、彷彿と浮かんでくる。

しかし、そうしたヨーロッパ人と「良い人たち」との交流は、やがて奴隷貿易の悲惨な歴史により、かき消されていくことになる。

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