コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

リベリアの復興

2009-11-11 | Weblog
リベリアで内戦が始まってから、かれこれ20年になるわけである。これは、テイラーの武装蜂起(1989年)を内戦の開始と定義してのことである。もし、ドー大統領の独裁政治(1980年)に国情混乱の起源を求めるなら、もう30年になる。その間に、国が被った破壊、そして国民が被った悲惨は、それはもう並大抵のものではない。

内戦がどれだけの期間続いたかは、指標として重要な意味がある。内戦が短期間であれば、復興も早い。内戦以前の良き時代のことを知る人々が、まがりなりにも元の状態に戻そうと努力をするからである。ところが、内戦が長期に及ぶと、そういう人々が少なくなるだけでなく、社会や経済が内戦を前提としたものになってしまう。戦争がなければ生きていけない人々が、たくさん出てきてしまう。

10年以上の長きにわたって続くと、社会の中で復興の中核となって働くべき若者が、実は物心ついてからずっと内戦だった、ということになってしまう。どういう社会が正常な社会なのか、どういう価値観が正常なのか分らない。真っ当な職業に就こうにも、内戦ために教育の機会が奪われ、読み書きも出来ないままになった人を、誰が雇うというのだろう。

とりわけ少年兵は、そうした傷ついた若者層の象徴である。リベリアが内戦で分裂していた1990年代の10年間に少年兵となっていた人々は、今20代から30代にある。こういう人々を、どのように社会復帰させていくかが、重大な問題である。実際のところ、ある場所で内戦が続き、それが何とか終息したと思ったら、2~3年のうちに、かなりの確率で隣国に内戦が波及する。バルカン半島でもそうだった。クロアチア内戦が一段落した(1992年頃)と思ったら、ボスニア内戦が発生した(1992年)。ボスニア内戦がデイトン合意で終結した(1995年)と思ったら、コソボ紛争(1999年)に波及した。

西アフリカの場合も、リベリアの内戦が収束する時期と、コートジボワールで反乱軍が蜂起する時期とが一致しているのは、偶然ではないだろう。多くの場合、内戦が終息することにより不必要となる武器が、周辺地域に流れてゆく。そして戦争でしか人生を生きていけない人々が、新たな雇用先を求めるとすれば、それは新しい紛争でしかない。だから、少年兵や戦争に従事していた人の社会復帰を図ることは、新たな戦争を導かないために、たいへん重要なのである。

この問題にどう対処していくかについては、また後の機会に扱うこととしたい。ここでは、リベリアの名誉のためにも、リベリアのその後について、簡単に記しておこう。

内戦によって国内が混乱し、経済がどん底になって、さすがにリベリアの人々も、もういい加減にしてくれ、という声を上げた。テイラー大統領に対して反乱が起こり、再び内戦が激化してきたとき(2003年4月)、米国に対して介入を求めたのである。ちょうどイラク戦争の最中だから、米国には余力が無かったのであるが、それでも米国は空母を1隻派遣し、国連の平和維持軍として、リベリアに兵員を上陸させた。テイラー大統領は、ナイジェリアに亡命(同年8月)。引き続き国連安全保障理事会が決議(決議1509)を採択し(同年9月)、「国連リベリア・ミッション(UNMIL)」が派遣された。

2005年10月、国連の監視のもとで、大統領選挙が行われた。選挙では、第一回投票で、著名なサッカー選手のジョージ・ウェアが最大得票を取ったけれども、決選投票では、エレン・ジョンソン=サーリーフが選出され、アフリカ初の女性大統領となった。彼女は、ドーによるクーデタの直前まで、トルバート政権で財務相を務め、クーデタ後は米国に亡命して、国連開発計画(UNDP)に務めるなどしながら、リベリアの民主化のための運動を展開してきた人である。

リベリアは内戦で深く傷ついたけれども、その後民主主義により大統領を選び、ジョンソン=サーリーフ大統領の下で、戦後復興と平和の再建を進めつつある。30年ぶりに戻った平和と安定だ。これを、揺るぎないものにし、社会や経済が、正常な機能を取り戻すようにしなければならない。そして、もうふたたび内戦の混乱に逆戻りしないように、今の段階でしっかりと紛争の芽を摘んでおかなければならない。こうした観点からの戦後復興への支援を、「平和構築」と呼んで、日本も力を入れているところである。

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