コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

サクラ小学校

2009-04-16 | Weblog
翌日曜日の午前、復活祭の式典を終えた後、ガンゴロ村の小学校で、教室増設の起工式があった。起工式とともに、この小学校に名前がついた。「サクラ小学校」。

復活祭への出席を村に伝えたら、日本大使のご来訪を記念して、小学校に私の名前をつけたい、と言う。さすがに私の名前を付けることは勘弁してもらったのだが、何か日本にちなむいい名前をと懇願された。それでは「サクラ」はどうか。桜は、日本ではちょうど4月に咲いて、新学期を飾る。生徒たちの学業成就を期待する気持ちがこもっている、と説明したら、それはいいと喜んでくれた。それで、このコートジボワールに「サクラ小学校」、というわけである。

私は、コロネルやガンゴロ村のクアメ村長たちといっしょに、教室の建設予定地で、記念の礎石にセメントを塗って固める。碑文には、私がこの村を来訪したことと、「サクラ小学校」と名付けたことが記されている。小学校の教室の増設は、村の人口が増えたために必要となった。ガンゴロ村の村民がお金を出しあって、建設資金を作った。多くの村では、日本などの援助国に助けてくれ、といってくるのだけれど、ガンゴロ村はそうしなかった。自分たちで何とかして、問題を解決しよう。それは立派なことだ。この村の人々が、ほんとうに子供の教育を大事に考えていると言うことだ。私は傍らのクアメ村長に、そう話す。

「でも、この村の教育には、まだまだ親たちの力だけではどうにもならないところがあります。」
と、クアメ村長。
「小学校を卒業したあと、中学校に行けない。この村の近辺には、中学校がないのです。一番近い、ティエブスの町の中学校でも、ここから25キロ。ヤムスクロは40キロ先です。中学生に毎日通える距離ではありません。」

子供を中学校に行かせたいと思ったら、ティエブスかヤムスクロの町で、自宅に子供を寄宿させてくれる人を捜し出さなければならない。それはとても大変なことだ。運良くそういう人が見つかったとしても、子供を預ける費用が学費に加わって、負担は大変だ。だから、相当数の子供が、12歳で学業をあきらめなければならない。

「村では、村から通える中学校を作りたいと思いますけれど、とてもそれだけの資金はない。」
クアメ村長は、落胆した表情でそう言う。国は、中学校の施設さえあれば、そこに先生を派遣して給料の面倒をみてくれる。しかし、中学校の校舎そのものを建設するのは、村の住民の負担であるという。中学校の校舎を、一揃え建設するのは、貧しい村にはとても負担が重い。

村の人口は、どれほどなのですか、と私は聞く。
「2千人を越えています。でも、国の統計は、紛争前の1990年代のものしかなくて、それでは8百人と記されているだけなのです。」
紛争によって、村から国内のあちこちに出稼ぎに出ていた人々や、西部地域のプランテーションを営んでいたような村の出身者が、住んでいた場所に居られなくなって村に戻ってきた。だから、ここ10年ほどで、村の人口が飛躍的に増加した。そうした人口動態については、行政できちんと把握されていない。2千人の人口がある村に、中学校がないのだ。中学校を建てる必要性は、現実の問題としてどんどん高まっている。

コートジボワールでは、高等教育を受けるということは、まだまだ決して当たり前の話ではない。ここでは、村の小学校を出たあと、親の力でなんとか中学校に行ける子供たちと、中学校をあきらめなければならない子供たちと、ふたつに運命が分かれる。子供がどんなに進学を望んでも、それが許されない場合がたくさんある。昨日のサッカー試合は、村を出てさらに教育の機会を得ることの出来た青年と、勉学の希望を断念せざるを得なかった青年たちとの間の対抗試合だったのだろうか。

それぞれの子供たちに、それぞれの人生。皆が皆、機会均等というわけにはいかないのが、コートジボワールの地方の村の現実である。「サクラ小学校」という名前だけの縁だけれど、そこで学ぶ小学生たちにはせめて、中学校に行けるのかどうか、などと心配しないで勉学できるようにしてやりたい、と私が思ってしまうのは人情というものである。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (しょうこ)
2009-04-16 21:32:35
お久しぶりです。まゆみさんからブログのリンクを教えてもらいました。これから、ちょくちょく読ませていただきます。コソボのガイドブックもそうでしたが、いつもcreativeですね。勉強になります!ちなみに私は今モンゴルで、まゆみさんをコンサルとしてご招待する予定です。
返信する

コメントを投稿