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映画評 「クリミナル 2人の記憶を持つ男」 “ジェリコ” は 「コンサルタント」 だ!(ネタバレ満載)

2017-04-07 08:07:34 | 映画・テレビの英語

映画評 「クリミナル 2人の記憶を持つ男」 “ジェリコ” は 「コンサルタント」 だ!(ネタバレ満載)

映画.com による公式の解説

ケビン・コスナー主演で、CIAエージェントの記憶を脳に移植された囚人がテロリストとの戦いに挑む姿を描いたスパイアクション。米軍の核ミサイルをも遠隔操作可能なプログラムを開発した謎のハッカー「ダッチマン」の居場所を知る唯一の人物で、CIAのエージェントのビリーが任務中に死亡した。

 「ダッチマン」の脅威から世界の危機を救う最後の手段として、ビリーの記憶を他人の脳内への移植する手術が検討され、その移植相手として死刑囚ジェリコ・スチュアートが選ばれた。

ジェリコは凶悪犯である自分自身と、脳内に移植されたCIAエージェントのビリーというまったく逆の2つの人格に引き裂かれながら、テロリストとの壮絶な闘いに巻き込まれていく。

主演のコスナーほか、ゲイリー・オールドマン、トミー・リー・ジョーンズ、ライアン・レイノルズ、「ワンダーウーマン」のガル・ガドットら、新旧スターが顔を揃える。監督は「THE ICEMAN 氷の処刑人」のアリエル・ブロメン。

 

わたしは主なスパイもの映画はほとんど観ているが、この作品はどうやら豪華キャストでもっている印象がある。ストーリー/脚本の水準はあまり高くない。

1) まず、「脳の移植」 というこの物語のカギとなる設定に現実感が無い。SF的な前提でスタートするスパイアクションにどれだけリアリティを与えて観客を引っ張っていけるかに注目したが、成功しているようには思えなかった。

2) また“脳記憶の他人への転写” のもつ倫理的問題についても見過ごすことのできない面がある。

3) アメリカ=正義の味方=CIA の図式から一歩も出ていない前世紀の映画の印象。

 

星2つである。 ★★☆☆☆  (星2.9のつもりだったが、3つはあげたくないので2つにした)

 

ケビンコスナー扮する凶悪犯罪者 ジェリコ は、秘密を持ったまま死んだCIA工作員の前頭葉の記憶を移植される。ウィキペデイアによると、前頭葉については、以下のようにある。

「前頭葉の持つ実行機能 (executive function) と呼ばれる能力は、現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力と関係している。

前頭葉は、課題に基づかない長期記憶の保持における重要な役割も担っている。それらはしばしば大脳辺縁系からの入力に由来する情動と関連付けられた記憶である。前頭葉は社会的に好ましい規範に適合するようにこのような情動を調整する。」

 

なるほど、ジェリコ は少年時代に父親による暴力的虐待の結果、前頭葉に障害を負い、それが原因で、反社会的かつ暴力的な行動を重ね、凶悪犯として終身刑という設定である。

 

この伏線部分で、ジェリコ は “悪人” ではなく、 “障害者” であることがわかる。

そして、前頭葉が未発達なまま成人になった稀有な例であったために、記憶転写の受容者として選ばれたというわけなのだが、一般の観客にはわかりにくいようだ。「なんでわざわざ凶悪犯の脳に移植するのか?」 とぼやいているひともけっこういるようだ。

 

臨床的なリアリティの欠如

つまり受容者の前頭葉の記憶の上に “上書き” するのではなく、未使用部分に他人の記憶データを書き込む、 ということなのだ。たしかに人間の脳は、ハードディスクのように簡単に “上書き” ができるわけはない。元あった記憶がすべて “上書き” で消えて、転写された新しい記憶だけになることはあり得ないだろう。

映画の中でも、「これは “脳移植” ではなくて、“記憶情報を流し込むのだ”」 と言わせている。しかし、前頭葉の未発達な “未使用部分” への “新規の書き込み” じたいが “上書き” よりもずっと現実性があるとはとても思えない。“あり得なさ” は大して変わらないだろう。

あと、「前頭葉」と言っていながら、前頭部はおろか側頭部にも手術痕は見えない。手術痕はなぜか後頭部にあるのだ。手術痕が前頭部にあったら、やはり目立ち過ぎて、たしかに異様なヒーローになってしまうかもしれない。

さらに言わせて頂ければ、脳神経科の外科的手術なら当然、頭髪はすべて剃るはずである。たしかにこのストーリーでは、いわゆる “脳移植” ではなくて、AからBへの脳記憶だけの流し込みであって、何ら外科的な作業が無いとしても、剃るはずである。なぜならば、頭部を覆う電極ネットにあるたくさんの電極は頭部の皮膚に密着していなければならないはずだからである。Aの脳記憶を電気的な信号にしてBの頭蓋骨の下の前頭葉に流し込むのに、それも医学史上初の “手術” なのに、電極を頭髪の上にふわっと載せるだけなわけがないだろう。このあたりはもう臨床的なリアリティがまったくない。

せめて頭髪を全部剃って、スキンヘッドにすべきであった。そして、毛糸の帽子でも被せればよかっただろう。しかし、“毛糸の帽子を被ったスキンヘッド” では、ヒーローのイメージに似つかわしくないと判断されたのかもしれない。

まあ、科学的な突っ込みはこのくらいで勘弁してあげようか。

 

さて、映画評をいくつか見ると、ケビンコスナーの悪役ぶりへの称賛が非常に目立つ。たしかにハリウッドには、ケビンコスナー、ハリソンフォード、トムハンクス、マットデイモン といった、悪役としてはほとんど使いものにならない “素晴らしい俳優たち” がいるものだ。

しかし、ケビンコスナー扮する作品中の ジェリコ は、“悪人” ではなく、“障害者” ということになるはずだ。家庭内暴力によって重度の障害を負った男であることは、ストーリーからして明らかである。ならば、ケビンコスナーが “悪人” を演じていることにはならない。

 

つまり、ジェリコ は、ベンアフレック主演の 「コンサルタント」 と同様に 「精神障害者」 なのである。 確かに ジェリコ は刑務所に入っているが、「凶悪犯」 である以前に 「精神障害者」 であるとはっきり言える。

 

 

 

 

 

 

 

「コンサルタント」 は、自閉症で、特に “高機能自閉症” に属する症例であって、自閉症患者独特の “マイワールド” に生きており、自閉症患者特有の方法で悪人どもを追い詰め、退治するのだ。

 

そして、ジェリコ の場合は2つの人格が表になったりウラになったりしながら、悪玉を追い詰めるという展開となる。

 

 

 

2) 倫理的問題

さて、「コンサルタント」 も ジェリコ も、ふつうの健常者とは違うさまざまな問題に直面しながら生きているのだが、ジェリコの場合は、障害のある自分の人格に加えてもう一つ別の健常者の人格まで背負いこむことになっているので、幾度となく頭痛と混乱に見舞われる。ここが、“記憶転写” のリアリティを出す山場ということになる。

けっきょく、前頭葉に新しく流し込まれた健常者の記憶情報が本来のジェリコの記憶情報を次第に支配していく。つまり、脳に流し込まれた他人の記憶情報によって、受容側の人格が乗っ取られてしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

傍若無人で粗暴だった人格が、“ふつうのひと”っぽくなっていって、めでたしめでたし、という “ヒューマンドラマ” が浮かび上がってくる仕掛けである。罪深かった人間が 「少しずつ人間の心を取り戻していく」 というやつである。

そもそも、流し込まれた記憶情報はCIAの工作員のものである。CIAの工作員をするような男の心がそんなに人間的なものとは、わたしには到底思えないのである。

 

CIAであれ、誰であれ、これは、一種の “ロボトミー” ではないか。元の粗暴な性格が、治療もしくは学習や経験によって非暴力的になったのではなく、まったく別人の健常者の記憶を強制的に流し込んで “人畜無害” にしたということではないか。それを ジェリコ の本来の人格を消し去ることによって実現している。実質的には “入れ替え” である。違うだろうか?エンジン不具合のあったベンツの、エンジンだけをポルシェのエンジンに替えたようなものだ。これはもうベンツではない。ポルシェでよく走ればいいじゃないか、という問題ではなかろう。

さらに別のたとえで言うならば、先住民の住む大陸に別の文明の担い手たちが移り住んで来るようなものである。先住民たちは駆逐され、やがて大陸は新たな入植者たちの天下になってバンザーイ!というプロセスである。

人畜無害になるのならば、別人の人格の記憶情報を流し込むことも是認されるという隠れたメッセージがここにはあることを見据えておく必要がある。この発想は、“ロボトミー” よりも非人道的であるかもしれない。他人の脳記憶を流し込んで障害が治るならば結構じゃないか、と思うひともいることだろう。しかし、よく考えて頂きたい。いくら障害が治ったって、別人になったんじゃ意味がないだろう。

 

2つの人格の見事なタッグマッチによって悪玉をさんざんやっつけた ジェリコ は数日後のラストシーンで砂浜にひとり立っている。殺されたCIA工作員の記憶情報が自分の脳に注入された ジェリコ は、今や振舞いも言動もそのCIA工作員っぽくなっている。“真人間” としての新たな人生のスタートを予感させるシーンである。

しかし、そこにいるのはCIA工作員のビリーじゃないのか? ジェリコ、お前はもう死んでいる。

CIA工作員ビリーの美貌の妻と愛くるしい娘とが砂浜にやって来て、ジェリコ を温かく迎えてこの映画は “幕” となる。この “ハッピーエンド” をすんなり受け入れさせようとするこのドラマ構成には危険なものが潜んでいる。

考えても見たまえ、死んだCIA工作員ビリーは ジェリコ の身体に乗って愛する家族のもとに戻ったようなものではないか?

たとえそれがビリー本人の意志ではないとしても、ジェリコ の人格は崩壊し、彼の身体は、工作員ビリーの記憶と心を宿すものとして、つまり “ビリーの入れ物” であるからこそ彼の家族に歓迎されているのである。ジェリコ はもはや “抜け殻” にすぎない。他人の人格の入れ物としての存在価値しかないのだ。

「勘違いするなよ、ジェリコ!お前の人格など、どうでもいいのだ。美しい未亡人と娘にとって、お前はビリーの記憶と心の “入れ物” として機能してくれればいいだけなんだ。ジェリコ としての自分が受け入れられているなんて間違っても思うなよ!」

この映画は生命倫理的に非常に大きな問題を、薄っぺらなハッピーエンドでお茶を濁している。いや、とんでもない結論を観客に受け入れさせようとしている。

 

 

 3) アメリカ=正義の味方=CIA?

大国の核ミサイルをも遠隔操作可能なプログラムを開発した謎のハッカー「ダッチマン」の居場所を知らせないまま殺されたCIA工作員が超イケメンである。そして、テロリストと戦う彼には美しい妻と可愛い娘がいる、というアメリカの独善的美化、悪意や邪心の不在演出が、そもそも前世紀の遺物で、“リアリティなさ過ぎ” である。

21世に入ってからのスパイ映画では、多少はCIAの悪行を暴いたり、CIAの腐敗を織り込むのが定石になってきているのに、いつまでもこんな時代遅れなシナリオを書いていて、あとは適当に豪華キャストで埋め合わせようとしているように思える。

  

そのプログラムを開発したのが、オランダ人で、 通称 「ダッチマン」 というのも芸が無さ過ぎではないか。フランス人だったら 「フレンチマン」 か? 

ちなみに、この 「ダッチマン」 の風貌が ジュリアン・アサンジュを思い起こさせるのは監督の遠望深慮の結果と考えるべきであろう。単なる偶然と思うのは、映画というものを知らないひとである。

    

 

さらに、この 「ダッチマン」 がロンドンからロシア亡命を企てるのだが、このあたりは、スノーデンの実話のエピソードに絡めているのは明白である。

 つまり、21世紀の アサンジュ と スノーデン が、この20世紀の遺物のシナリオを少しでも現代化してリアリティを醸し出すように サブリミナル素材 として実に安易に使われているのだ。

そして、ロシアもこの 「ダッチマン」 を確保しようと動き出し、三つ巴(どもえ)の様相を呈してくる。

 

 

そのプログラムを狙うアナキスト革命家は狂信的なスペイン人という設定。このカルト的アナキスト集団の教祖 には 献身的で行動的な美貌の愛人 がいて、テロリストとして活躍するのだが、教祖と献身的な美女という設定 は、「インフェルノ」 に出てくる狂信的カルトの教祖ゾブリストとその美貌の愛人との関係のパクリであると思える。

ちなみに、こうしたカルト的狂信集団の教祖は必ずと言っていいほど ヒゲ を生やしていて、美女 を腹心としている。肉体関係を持った女しか信用しないということなのかもしれない。

 

 

さて、ロシア政府が送り込んでくる連中がまるでロシアンマフィアそのもののようなゴロツキ連中なのには笑えてくる。これはアメリカ人のもつロシア人のイメージのステレオタイプである。

 

トミー・リー・ジョーンズ について一言

この俳優は今まで 警察や、軍隊や、CIAといった “権力組織” の人間 をさんざん演じてきていて、今回いきなり脳神経科学の教授である。モルモットにされる ジェリコ にいちばん人間的に接する役回りで、人情味溢れる老練の科学者役ということで実に安易にこの豪華キャストのトミー・リー・ジョーンズを抜擢したようだ。高額のギャラが支払われたはずだ。

この映画では終始困ったような顔をしているのだが、まったくのミスキャストである。柄(ガラ)じゃない。こんな雰囲気の研究者がいたら、いくらでも論文のデータ改ざんをしていそうだ。業績よりもむしろ大学内での出世のための根回しに忙しそうだ。トミー・リー・ジョーンズのそういった “俗っぽさ” が彼のキャラクターの土台をなしている。コマーシャルを通じての日本での人気もここにある。これは脳神経科学の教授のイメージに期待される、世智に疎い研究一筋の老教授のイメージと相容れないのだ。

この俳優は、つい昨年公開の「ジェイソン・ボーン」 では、CIAの腐りきった高官を演じていたばかりなのである。そちらのほうはまさに “はまり役” であった。ちなみにそちらの作品は期待以上の完成度で、わたしは星4つを惜しみなくあげたい。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

今度の 「クリミナル」 は “スパイもの” とも “CIAもの” とも呼べるくらいの作品だが、すぐにキレるCIAの高官には ゲイリー・オールドマン が好演している。CIAの官僚的体質と無能ぶりを見事に等身大で表現している。「レオン」以来、アクション映画では、いつも存在感のある名わき役として大事にされているのも納得である。

 

それにつけても、トミー・リー・ジョーンズの “教授役” ほど間が抜けているものはない。彼のキャラクターには、知的探求や研究一筋の要素は皆無である。

彼のイメージは、“科学的知識のかたまり” というよりも “世間知のかたまり” なのである。ミスキャストでも、観客を釣ることができれば、高いギャラも無駄じゃないということか? そして、観客も、「なんかなあ」と、ミスキャストと感じていても、缶コーヒーの爺さん が拝めれば満足するのか。

 


映画評 「インフェルノ」  もう ダン・ブラウン は卒業しませんか?

2017-04-07 07:49:47 | 映画・テレビの英語

 映画評 「インフェルノ」  もう ダン・ブラウン は卒業しませんか? 

これは 「ダビンチ・コード」 ファンには、とてもお勧めできない。  ★★★☆☆

 

人口増加が世界を地球を破滅に導くというカルト思想のカリスマが、致死性のウィルスを世界中にまき散らして人口削減しようとする。しかし、われらが主人公、ラングドン教授がその阻止に大いに貢献するというストーリーである。

 

おわかりのように、ハルマゲドン思想である。日本のオウム真理教が典型である。観ていて、わたしが嫌な気分になってくるのは日本人としての集団的記憶があるからなのかもしれない。「インフェルノ」のバイオテロに、オウム真理教のサリンガステロがどうしてもかぶってきてしまうのだ。しかし、10代、20代の若者はオウム真理教をあまり知らないので、さほど抵抗はないであろう。

  

 

アラブのテロリストがウィルスをまき散らそうとするのを、FBIやCIAのヒーローが阻止する話はもう以前からあるので、バイオテロのアクション映画 としては新鮮味は特にないといえる。「ピースメーカー」 などが代表的かもしれない。

 

ダン・ブラウンの作品は常にヨーロッパの文化史が下敷きになっていて、主人公のハーバード大のラングドン教授による謎解きによって問題が解決されるというパターンがいつも繰り返される。しかし、失礼ながら、もうダン・ブラウン節にもいい加減飽きてきた。 2003年の 「ダビンチ・コード」 からもう13年も付き合ってきたことになる。

 

ハリウッドのアクション映画の1つのパターンとして、時限装置とヒーロー達との競争が最後のクライマックスとしてリアルタイムに展開するというのがある。

もっと一般的に言うと、大災害や悲劇を未然に防ぐためにヒーロー達が必死になって奔走するプロセスである。

これほど使い古されたシナリオもないだろう。観ていて、さすがに白けてしまった。単にわたしが歳をとったのだろうか。ハリウッドもこんなシナリオでしか、もうハラハラドキドキの終盤は作れないのだろうか?

 

 

 

ダン・ブラウンの小説では、まず最初に人が死ぬのだ。

 

そして、主人公ラングドン教授には毎回若い女性が話の序盤に“偶然に”現れる。しかし、それもつかの間、一緒に逃走する羽目になる。

 

このパターンもダン・ブラウンに限らず、ハリウッド映画では多い気がする。脇役として現れるのはいつも若い女性 と決まっているのもあまりにも定石すぎて、もう勘弁してくれと言いたくなる。

 

 

そして、その女性が主人公の謎解きの協力において、驚くべき閃きを見せるというのも繰り返されてきたパターンである。

 

 

ただ、私のようなうるさ型のアクション映画ファンも何とか引っ張っていけるのは、ヨーロッパやトルコの古都を目まぐるしく訪れ、ルネッサンス以降の絵画、彫刻、建築を織り込んで観客を飽きさせない工夫が随所になされているからである。

 

 

もちろん原作の段階でそうなっているのだ。「ジェームズ・ボンド」や、「ジャック・リーチャー」 や 「ジェイソン・ボーン」 の映画では ボッティチェルリやダンテの「神曲」 が出てくることはない。こういったややハイブロウな、“知的なフレーバー” がダン・ブラウンの真骨頂である と言えるかもしれない。しかし、純粋にアクション映画としては2流以下だろう。

 

アクション映画の逃走・追跡シーン について今回あらためて気付いたことがある。それは 街をあげてのお祭りとか、デモ行進とか大勢の人間がごった返すイベント を設定する定石があるということだ。

 

もちろん ただの都会の雑踏 の場合もあるが、今回の場合はさまざまで、コンサートの聴衆を巻き込むシーンも圧巻であった。

言って見れば、“障害物競走” にして混乱状態を現出させるわけである。当然エキストラの大動員である。こういうところに惜しみなく金をかけて、大スペクタクルのリアリティを出すのがハリウッド映画のお家芸である。

 

さて、彼の独壇場であるはずの、謎解き、歴史的なパースペクティブにおいては、今までの水準をかなり下回っている印象がある。長年のファンには、ダン・ブラウンの手の内がもう透けて見えてしまうということなのかもしれない。

 

 

ダン・ブラウンの原作はこの 「インフェルノ」 以前の、「ダビンチ・コード」 から 「ロスト・シンボル」 までは、わたしはすべて原書で読んでから映画を見ている。しかし、今回の 「インフェルノ」 はわたしとしては初めて原作を読まずに観た映画であった。

正直言って、もう小説の原作を読む必要はないと思っている。もうダン・ブラウンは卒業だ。小説の 「インフェルノ」 に 「ダビンチ・コード」 ほどの面白さ、知的興奮がないことは映画だけでも十分にわかってしまう。

 

逆に言うと、小説 「ダビンチ・コード」 は、けた外れの傑作だったのだ。

 今回の 「インフェルノ」 と比べると、それが特にはっきりすると思う。 「ダビンチ・コード」 は 「インフェルノ」 の10倍のインパクト、深さがあった。それは、「ダビンチ・コード」 が単なるフィクション以上のものを読者に垣間見させたからである。 あの 「ダビンチ・コード」 が例外的な空前のベストセラーだったのだ。当の作者のダン・ブラウン自身、もう自分でも超えられないのではなかろうか。

 

今でも 「ダビンチ・コード」 は名作だと思う。日本語では読んでいないが、英語で2回読み、その後フランス語の翻訳でも1回読んだ。ちなみにこのフランス語版は、横浜拘置所の獄中で読んだ。最初、外国語の本は内容が検閲できないので差し入れできないと言われて却下された。しかし、英語ですからと言って無理に頼み込んで私の書斎にあった、まだ読んでいなかったのを家内に差し入れさせたのだ。

表紙タイトルはほとんど英語版と変らない。

 正直にフランス語と言っていたら、まずダメだっただろう。もう8年前のことだ。

 

 

わたしは、このダン・ブラウンという作家に敬意を抱いている。それは、彼が面白い小説を思いついたという理由ではない。彼が、ヨーロッパ史、キリスト教史の最新の研究の成果を小説のなかに果敢にも採り込んだからである。

これはかなり勇気のいる行為である。というのは、彼は、ローマカトリック教会の実在のキリスト教組織 Opus Dei を作品中に実名で登場させ、キリスト教の歴史のタブーに踏みこんでいるからである。実際、当時かなり物議をかもしたものだ。

こうした新しいキリスト教観は、もちろん、彼のオリジナルのものではない。彼はある意味で、新しい歴史観の普及者として貢献したと言えよう。彼の作家としての功績は絶大なものがある。

 

 

ダン・ブラウンの小説の映画化では一貫して トム・ハンクス が起用されている。たしかに、これは名キャストである。逞しく強いヒーローではなく、文弱でシャイな教授で、ピストルなんか触ったこともないような雰囲気がぴったりである。女たらしでもなく、かといってマイホームパパでもなく、研究三昧の独身の40台の教授というイメージである。

 

 

ラングドン教授といえば、トム・ハンクス、ハリー・ポッター といえば、ダニエル・ラドクリフ で決まりなのだ。もう“替え”はきかないだろう。

 

 

星3つは、わたしとしては辛いほうだ。星2つにしなかったのは、ヨーロッパの古都を巡るロケの功績を正当に評価してあげたい気持からである。

 

 


映画評 「彷徨える河」 “ポリティカリー・コレクト” な映画 (ネタバレあり)

2016-11-27 23:38:38 | 映画・テレビの英語

映画評 「彷徨える河」 “ポリティカリー・コレクト” な映画 (ネタバレあり)

★★★☆☆ 星3つ

 

超マイナーな映画であるので、最初にざっとネット上の映画紹介をもって紹介にかえたい。http://cinema.eonet.jp/article/detail?tab=news&id=31394

コロンビアの俊英が描き出す、驚愕の世界観と圧倒的な映像美『彷徨える河』

2016.05.31


 

2016年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたコロンビア映画『彷徨える河』が、10月に日本で公開されることが決定した。また、それに先立ち、8月11日から愛知県名古屋市などで開催される国際美術展覧会「あいちトリエンナーレ2016」映像プログラムで上映されることも決定した。

『彷徨える河』は、20世紀初頭と中盤にアマゾンに足を踏み入れた実在する2人の白人探検家(ドイツ人民族誌学者テオドール・コッホ=グリュンベルクと、アメリカ人植物学者リチャード・エヴァンズ・シュルテス)の手記に触発されて作られた物語。神秘的な幻覚や呪術に彩られたマジックリアリズム的な世界観に、大アマゾンを舞台にした美しいモノクロームの映像、繊細で情感溢れる多層に重ねられた音が伴うことで、失われた先住民の“記憶がスクリーンに強烈に焼き付けられる。

 

侵略者によって滅ぼされた先住民族唯一の生き残りとして、他者と交わることなくジャングルで孤独に生きているシャーマンのカラマカテ。ある日、彼を頼って、重篤な病に侵されたドイツ人民族誌学者がやってくる。白人を忌み嫌うカラマカテは一度は治療を拒否するが、病を治す唯一の手段となる幻の聖なる植物ヤクルナを求めて、カヌーを漕ぎ出す。数十年後、孤独によって記憶や感情を失ったカラマカテは、ヤクルナを求めるアメリカ人植物学者との出会いによって再び旅に出る。過去と現在、二つの時が交錯する中で、カラマカテたちは、狂気、幻影、混沌が蔓延するアマゾンの深部を遡上する。闇の奥にあるものとは……。

 

 

  

監督は、米エンタメ業界紙「Variety」で「2016年に注目すべき監督10人」に選出されるなど、近年、世界的に注目されているコロンビアの俊英、シーロ・ゲーラ。今作も2015年カンヌ国際映画祭監督週間芸術映画賞受賞、2016年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート(コロンビア映画史上初)など、数々の映画祭で高い評価を得ている。また、米国では初週土日の成績が 2015年公開の外国語作品のトップになるなど異例のヒットを記録。さらにフランスでもロングランを記録するなど、興行面でも世界的成功を収めている。

                         引用終わり

 

 “ポリティカリー・コレクト” な映画

今日(こんにち)、ハリウッドをはじめ世界の映画界では、先住民族の権利復権、先住民族の文化の再評価が流行である。すでに別記事で書いた 「レヴェナント」 もそうした流れに乗った作品であって、白人によって破壊された北米の先住民の文化をバックグラウンドにしている。

レヴェナント 蘇りし者 :★★★★☆ 復讐は善か、悪か? ネタバレ有り

映画「レヴェナント」: 実話との比較検証 (ネタバレ、裏バレ満載)

そして、この 「彷徨える河」 は、白人によって破壊された南米アマゾン流域の先住民の文化をバックグラウンドにしている。

両者に共通しているのは、非常に “ポリティカリー・コレクト” な映画であって、時流にうまく乗せて “高得点” を狙っている 点である。先住民の虐殺、先住民文化の破壊をしてきた白人文化を俎上に載せるようなポリティカリー・コレクトな(政治的に正しい)テーマの作品は、ケチをつけにくいので、そこそこの評価点が得られるのだ。暴力的な白人文化の犠牲になった先住民側からの作品に対しては、作品の出来不出来は別として、一応みんなが拍手を送らなければならないような雰囲気があるようだ。

虐げられた民族に肩入れした作品は自動的に高評価になる傾向があるわけだ。低評価をする人間は “文化差別主義者” “植民地主義者” “帝国主義者”のレッテルを貼られるリスクを冒すことになる。そして自分は“反差別主義者” だと自認している人間は、そうしたリスクを冒すことなく自動的に高評価を与えることになる。

こうした映画界にある “政治的評価”、そして今度はそれを狙った “政治的戦略”に基づいて製作される映画 があるということも知っておくべきかもしれない。

 

 

“先住民の視点で描いた” とか “失われた先住民の文化を見直す” というと、それだけで自動的に 「いい映画」 となってしまうのが実態である。実に “朝日新聞的” なのである。わたしはこういったステレオタイプ的反応の評価は大嫌いである。これはある意味で “反白人文化プロパガンダ” である。白人文化であれ、反白人文化であれ、プロパガンダはプロパガンダだろ、というのがわたしの見方だ。プロパガンダ映画であることを見抜けない人間が多すぎる。

たしかに映画界は伝統的に白人文化がマジョリティであるが、マイノリティの非白人文化側の作品なら、プロパガンダでも大目に見てやろうか、といったお情けをあてにして映画を作っているとしたら、“情けない”かぎりだ。

ネット上でいくつもこの映画の映画評をみたが、どれも “ポリティカリー・コレクト” な“反白人文化プロパガンダ”映画 に対してひれ伏すようなものばかりで辟易した。

 

 

はっきり言わせてもらおう。それほど大した映画ではない。星3つがいいところである。

脚本も、映像・カメラワークも稚拙なところが目立ち、突っ込みどころ満載である。こういうふうにずけずけ言うと、ハリウッド映画と比べて難クセを付けるのはフェアではない、というお叱りを受けることは承知の上である。しかし、わたしは何も低額予算の映画ゆえの問題点をあげつらっているのではない。

 

全篇モノクローム?

この映画はモノクロームであり、たしかにカラーよりは低予算であったであろう。しかし全篇カラーでは予算がかかり過ぎて作れなかったなどということがあるわけがない。全篇モノクロームにしたのは、予算の都合ではなく、監督の “映像美学”に基づく選択であろう。しかしモノクロームにしてどれだけ映像美が高まったかは、はなはだ疑問である。

ほとんどBGMもなく、白黒の画面で数人の登場人物がボートでアマゾン川を遡行していて、カメラワークも単調である。

 

全篇を白黒映像にして、観客自身のイマジネーションによってアマゾンの自然の奥深さ、神秘をそれぞれで自由に感じ取って頂きたいなんていうことを言いたいのだろうが、これは失敗である。わざわざアマゾンロケを敢行しながら、実にもったいないことをしている。白黒にしてしまうと、アマゾンの熱い息吹、生命の沸騰、べとつく蒸し暑さが全然伝わってこないのだ。アマゾンの夕焼けもただのグレーである。

この映画とは無関係の写真で比べて頂きたい。右のようなものを 「美しいモノクロームの映像」 と言って有り難がっているひとたちがいるのだ。

カラーにして、観客を危険なほどに毒々しいアマゾンの大自然の中に思いっきり引きずりこむべきであった。そうすれば、ストーリー展開の単調さも破れただろう。密林、美しい羽根の鳥、ピューマ、アナコンダ、太陽・・・ アマゾンこそカラーでなくてはならないはずだ。

 

 

稚拙なストーリー展開 

一行が遡って行くアマゾンの川沿いには、さまざまな人間集団がいて、それぞれの設定はよくできている。しかし、出会ってからの実際のやりとりに無理が目立つ。 リアリティがないのだ。それを「マジックリアリズム」 として珍重しているファンもいるようだが、単に脚本が練れていないのだ。しかし、ポリティカリー・コレクトな反白人文化プロパガンダに対して、突っ込みを入れることは “タブー” になっているかのようだ。いかに多くの人がこのタブーを回避しながら、この映画を褒めそやしていることか。この作品を褒めることによって、自らの反差別と先住民文化の尊重の姿勢をアピールできるかのようだ。

誤解のないようにお願いしたいが、わたしは、この映画の着想、メインプロットはなかなかいい と思っているのだ。しかし、それらを支えるべき個々の場面のリアリティが不足しているのを残念に思っているのだ。 

 

終盤に出てくる岩山である。この高さ500メートルは優にあろうと思われる掴み所のない岩山を眺めていたかと思うと、次のシーンではその頂上を、主人公のインディオと植物学者の白人がいきなり歩いているのだ。

「おいおい、あんたらどうやって、てっぺんまで登ったんだよ!」 と突っ込みたくなるわたしは、よほどの意地悪なのであろうか。

 

さらになんと、この岩山のてっぺんに、幻の植物、 “ヤクルナ” が咲いている、という設定である。そして、白人がその花を摘もうとすると、インディオが制止して、白人にはやらないと言う。するとこの白人はポケットからナイフを出して、殺意までむき出しにしてインディオを脅して花を取ろうとする。

この時代設定は、第二次世界大戦前夜ということらしく、花を奪おうとして白人は唐突にも 「戦争で、ゴムは重要になるんだ」 と本音を吐くのだ。この植物学者のアメリカ人は、まるで「レヴェナント」 に出てくる悪玉のジョン・フィッツジェラルドと同じではないか?金儲けのために先住民の文化と自然を踏みにじる大悪党の登場である。

こういったプロパガンダ的展開が非常に幼稚に見えてしかたがない のはわたしだけであろうか。

 

この “ヤクルナ” という植物は非常に効き目のある幻の薬草という設定で、別の場面では、主人公のインディオはいくつも咲いている草本のこの花に焚火の燃えさしで火をつける。すると、咲いている花がメラメラと燃え上がるのである。枯れてもいない花がどうして燃えるのだ?そしてその花が囲んでいる大木にも火をつけていくと、これも轟々と燃えあがっていくのである。これを 「マジックリアリズム」 というのであろうか?

 

しかし、わたしはこの映画を見て、特に後悔はしていないのだ。コロンビアという1年に数本しか映画が製作されていない国が生んだ映画を見たというのは意味のあることだと思う。世界の映画批評家が 「先住民の視点」 などと言って、もてはやす映画がどんなものかを知ることもできた。

 

一般論として、こう言えるだろう。マイナーな国の映画は、マイナーな国の映画というだけで見る価値がある、と。マイナーな国の映画はその希少な出自だけですでに自動的に“星3つ” をあげていい。それがよく出来ていれば、もちろん星4つ、星5つもありうるだろう。

この映画 「彷徨える河」 はもっといい作品にすることもできた、まだ伸びしろがあったという意味で、星3つである。 

ちなみに、未開のアマゾンの先住民を描いた映画としてわたしが高く評価しているのは、メル・ギブソン監督の 「アポカリプト」 (2006)  (1972)である。お薦めである(★★★★★)。https://archive.org/details/Apocalypto2006-HistoricalAction-adventureMovie

 

レヴェナント 蘇りし者 :★★★★☆ 復讐は善か、悪か? ネタバレ有り

映画「レヴェナント」: 実話との比較検証 (ネタバレ、裏バレ満載)

 


映画「ガンマン」 字幕の誤訳 You don't look well.

2016-03-31 12:56:07 | 映画・テレビの英語

“ボロボロヒーロー”のハッピーエンド

★★★☆☆ 星 3.5 (ネタバレ満載)

ショーン・ペンがアクション映画に挑戦ということで話題性があったが、たしかに新ジャンルでの活躍ぶりには今後のさらなる展開を予想させるものがある。

かつてコンゴ民主共和国で官僚暗殺作戦に参加した特殊部隊隊員が、数年後突如として何者かに命を狙われ、黒幕を突き止めようと奮闘するさまを描く。

今回のショーン・ペン主演のこの作品で、彼は一流の俳優は何をやらせても一流であることを証明している。

小説を元にした映画ということだが、ストーリーの展開には多少無理があったかもしれない。もちろん小説は読んでいないが、ストーリー的に何箇所か “突っ込みどころ”があって、浸りきれないうらみがある。

元CIA工作員の主人公が別の工作員グループの追跡・殺害をかわすところが見せ場である。経験豊富な主人公は頭脳的に追手の裏をかき、次々に片づけてしまうのが痛快なのだが、あとから考えると、あれはあり得ないな、というところがいくつかある。映画館で観ているときにはすっかり浸っていたのだが、原作の小説ではおそらく違うのではなかろうか。

 

コンゴの貧民のために医療支援をしているけなげなヒロイン役のイタリア女優ジャスミン・トリンカは初めて見たが、非常に魅力的な目をしていて印象に残る。

 

この映画の日本語タイトルは 「ガンマン」 ということで、タイトルで損をしていると思う。もっと気のきいたタイトルは付けられないものかと調べてみると、英語の原題が The Gunman である。これには呆れた。英語の原題からして能がない。たしかに話がややこしくてタイトルを付けにくいかもしれない。それともあえて西部劇のガンマンのイメージにダブらせたいのだろうか。

 

主人公とこの美しい医療ボランティアの女性との熱烈な恋と突然の別れが物語の軸となっているのだが、これもどうもリアリティに欠けている。主人公は突然姿を消して数年ものあいだ何の連絡もしない。そしてずっと愛し続けていたと言うのだ。メールやスマホの時代には説得力に欠ける。

 

字幕の誤訳箇所

主人公が敵役を追い詰めたところで、自分が気分が悪くなり、めまいがしてへたり込む場面がある。主人公の視線のカメラで、画面がぼやけ、主人公が朦朧としているところを表現しているのだが、その敵役が You don't look well. と主人公に言うのだ。字幕では 「よく見えないんだろ」 と訳されていたが、これは明らかな誤訳である。映像にひきづられたミスである。正しくは、「具合が悪そうじゃないか」 である。

 

主人公は重い病気で、そのハンディを乗り越えながら、敵を追い詰めようとする。ほとんどボロボロになって、血を吐きながらも執念で闘うところが見せ場となっている。トム・クルーズのように頬にかすり傷で奮闘するのとは違う “ボロボロヒーロー” というタイプを提示したところがこの映画の手柄かもしれない。

しかし、政治家暗殺に手を下したにしてはわずかな懲役刑で出てきて、致死的な病気もどこ吹く風で、昔の恋人が甲斐甲斐しく働くコンゴの医療施設に舞い戻ってハッピーエンドである。「うーん、なんかなあー」 と思ってしまうのは私だけだろうか。

 

主人公を陥れた悪役の一人を演じるスペインの俳優ハビエル・バルデムはいつもながら味のある悪役を演じて作品全体に奥行きを与えている。しかし、この俳優の演じる悪役はいつも無惨な最期である。

 

 

この俳優を 「007スカイフォール」 で見たときは、てっきり坂本龍一かと思ったものである。

 

 

 

 

主なキャストは主人公を演じた米国のショーン・ペン以外はイタリア、スペイン、イギリスといったヨーロッパ人である。そして、この映画の舞台はコンゴに始まり、ロンドン、バルセロナと地球をめぐり飽きさせない。マット・デイモン主演の「ボーン」シリーズやダニエル・クレイグ主演の「007シリーズ」もそうだが、あちこちの国をめぐるのはスパイ映画の楽しみの一つでもある。

  


「ゼロ・ダーク・サーティ」 のウソ

2013-02-12 01:04:36 | 映画・テレビの英語

「ゼロ・ダーク・サーティ」 はCIAのプロパガンダ

 

以下は、元米国国務次官補代理ピーチェニック氏のインタビューの抜粋である。ピーチェニック博士は、米国国務省で5人の大統領の元で仕事をしてきた、キッシンジャーと並ぶエリート官僚であり、米国政府の裏の裏を知り抜いた人物である。トム・クランシーの小説に出てくるジャック・ライアン、また1992年の映画「パトリオット・ゲーム」でハリソン・フォードが演じた主人公のモデルにもなった人物でもある。なお、同氏は精神分析医、神経学者、作家でもある。

 

アメリカという国は欺瞞に満ちているが、一部に真実を語る人間もいる。こういう人間の言葉にもいちおう耳を傾けておく必要がある。

                        = = = = =  = = = = =  = = = = =  = = = = =  = = = = =

 

ファンタジーの世界では虚構が当たり前である。だからハリウッドには虚構を売る権利があるし、「ゼロ・ダーク・サーティ」の監督キャスリン・ビグローにもその権利があるし、ハリウッドを動かす演出や技術の専門家たちにも事実であれ虚構であれ、好きなように事実や小説を歪曲したりでっち上げたりする権利がある。しかし、今回のこの「ゼロ・ダーク・サーティ」は、“実話をうたった悪質な(on steroids)でっちあげ”である。

 

“In the world of fantasy, fiction does prevail. So the right of Hollywood, and the right of Kathryn Bigelow and the Academy of Arts and Sciences, which dominates Hollywood, has the right to distort or to fantasize any point of fact or fiction. But this is fiction on steroids, this movie in particular (Zero Dark Thirty).

 

わたしの論拠はこうである。まず、この映画はビン・ラディンが米軍のシールズ部隊によって殺害されたという2011年のウソの上塗りであるということだ。あの時にオバマ大統領はビン・ラディン殺害という大芝居をプロデュースしたが、それは大統領に再選されるためにどうしても必要だったからだ。オバマ大統領自身、それがウソであることは承知だったし、このわたしもウソであることはわかっていたし、わたしが長年いっしょに仕事をしてきたCIAの職員は誰でもウソだとわかっていたし、米軍の諜報部も、政府の諜報関係の世界でもみんな「ビン・ラディン殺害」がウソであると知っていたのだ。そして、今ではほとんど世界中が、あれが真っ赤なウソ (an absolute lie) であることを知っている。

 

なぜ“ウソ”であると言えるのか。そもそもビン・ラディンは2011年以前にすでに死んでいたのである。これはわたしの作った話ではない。ビン・ラディンについての基本的な情報として彼がマルファン症候群(Marfan syndrome)という病気であったことをわたしは当時国務次官補代理として知っているからである。このマルファン症候群という病気は何も医者であるわたしがでっちあげたものではない。ちなみにわたしは有資格の精神分析医(psychiatrist) であり神経学者(neurologist)でもある。このマルファン症候群という病気は遺伝病で、ビン・ラディンは生まれつきこの病気だった。国務省勤務していたわたしはアフガニスタンの紛争の際に彼の活動について知る立場にあった。そして彼の病歴記録から彼がこのマルファン症候群であることを当時すでに知っていた。この病気では身体の結合組織が徐々に分解していくために寿命が非常に短くなる。この短命(short lifespan)の病気は、変性遺伝子疾患であって治療法がなく、寿命を延ばすこともできない運命的な病気である。

 

実はクリントン政権時代の2001年の7月に国家安全保障担当大統領補佐官とCIA医療部門の医師が中東のドバイにある米国の陸軍病院に派遣された。何のためか。瀕死状態(dying)にあったオサマ・ビン・ラディンの治療のためである。このことは記録があるのでだれでも確認できる。2001年7月ということは9.11事件の起きる2カ月ほど前のことである。9.11事件の真実についてはここでは深く立ち入らないが、わたしはあのとき翌日のインタビューで「これはでっち上げだ」と言っている。「ブッシュ、チェイニー、ネオコン連中の仕組んだ“被害演出”(false flag)の陰謀である」とわたしはあのときにはっきり言っている。そして対テロ戦争としてイラク戦争が始まったわけだが、この戦争はオサマ・ビン・ラディンの殺害によってしか終結しないものであった。ブッシュ政権からオバマ政権に代わり、そして2011年の5月にオバマ大統領はビン・ラディンがパキスタンで米軍のシールズ部隊によって殺害されたと全世界に向けて公表した。このときもわたしは意見を求められた際に「ありえない話で馬鹿げている(absurd)」と言った。米海軍特殊部隊(シールズ)の精鋭部隊チーム6が、すでに死んで存在していない人間をどうやって殺害できるのだ。遺体安置所を襲撃したと言うのか。ビン・ラディンを追い詰めて彼の頭を撃ち抜いたというお話には開いた口がふさがらない。そして話はさらに発展して遺体を海に投棄したという笑い話のようなオチ(joke)までついている。そして米国政府は投棄に先だってビン・ラディンのDNAを採取したなどとほざいている。そんなものを誰が信じると言うのか。

 

今回の「ゼロ・ダーク・サーティ」という映画でいちばん馬鹿を見る(sucker)のは監督のキャスリン・ビグローである。なぜならば、この作品によって彼女に対する信頼性(credibility)が大きく損なわれるからである。これは彼女の「ハートロッカー」などの今までの作品を賛美し彼女に対して敬意を払っていたわたしにとっても残念なことである。CIAと米軍諜報部には特別な或る部署があり、その部署の仕事の対象はハリウッド映画であり、それらを米国政府のプロパガンダに利用することである。そしてそれらは我々米国民の税金でなされているのである。そういったCIAなどの息のかかった映画を米国民や世界中の人々が知らず知らずに受け入れているのである。この点はよく心しておかなければならない。そうした映画の最近のものではベン・アフレックが監督をした「アルゴ」がある。これはCIAがベン・アフレックにもちかけた構想である。同様に「ゼロ・ダーク・サーティ」はCIAと国防省がキャスリン・ビグローにオファーした構想である。

 

すでに述べたようにビン・ラディンはすでに何年も前に死んでいたわけで、シールズが殺害しようにもそこには存在しなかった。そもそも第三者が検証できるようなビン・ラディン殺害の証拠は何一つないのである。遺体もないし、米政府は遺体の写真すら出せないのである。にもかかわらず、ハリウッドはこのシールズによる実体の無いやらせドラマを今度は事実であったかのような作品として創り上げることができるのだ。ハリウッドに“不可能”はない。キャスリン・ビグローはCIAから持ちかけられただけではない。彼女にはすでにCIAの秘密要員(double)としての顔があり、お国のためと思って活動しているのである。彼女が共和党支持か民主党支持かはもはや問題ではないのだ。

 

このようにCIAはハリウッドに奥深く入り込み、その人脈も自在に操ることができる。テレビドラマも同様にCIAの洗礼を受けることになる。そうしたドラマに出てくるテロリストやアルカイダのイメージはCIAの指示に従って創られている。もちろんストーリー制作のプロセスにも関与している。国防省、陸軍、CIAなどがこぞってハリウッドを活用し、ハリウッド関係者に協力を求めているのである。その時々の政府の国策や計画に応じてきめ細かく世論形成と大衆的思考操作がなされる。イラク戦争突入の際も、アフガニスタン派兵の際もそうであったし、現在ではイランやシリアのアサド政権に対する大衆の反感を醸成するためにやっきになっている。

 

ハリウッドは今でこそCIAや軍部の言いなりになって政府のプロパガンダの道具になり下がっているが、60年前はそういった権力の介入をはねつける心ある人々が多くいた自由の砦であった。中でも“ハリウッド・テン”と呼ばれる10人の映画人はマッカーシズムによる赤狩り旋風が吹き荒れるなか、信念を貫いて権力と闘った。彼らは“共産主義者”というレッテルを貼られ、ほとんど魔女裁判とも言えるようなかたちで弾圧されたが、屈服しなかった。今日のキャスリン・ビグローやスピルバーグやキャサリン・ケネディなどと違って、当時の映画人、中でも「真昼の決闘」(High Noon)の脚本のカール・フォアマンの場合、そのストーリーでは悪漢を恐れて協力を拒む友人や町民に見捨てられながらも一人逃げずにとどまって闘う保安官の姿を描いたが、それはまさに当時のハリウッドにおける状況そのままであった。その名作「波止場」(A view from the Bridge)で有名なエリア・カザンの場合、ちょっと話は複雑で彼自身は元共産主義者で過去の同志の名前を売った密告者(squealer)であった。わたし自身は共産主義(communism)を是認しないが、密告も是認しない。わたしが共産主義と闘ってきたことは皆さんもご承知のとおりである。さて、映画「橋からの眺め」の中で原作者のアーサー・ミラーはこうしたカザンのような“密告”を告発し、異なる文化や異なる主義に対するハリウッドにおける排他主義的傾向を批判した。このようにハリウッドは自由な表現をめぐって常に闘いがあった場所であった。自由な表現を脅かすもの、権力の手先になるような働きかけ、プロパガンダの道具になるような誘い、こういったものと闘う人々がいる場所であった。今日のハリウッドは、CIAの道具であり、米軍の道具、産業と軍部の牛耳る米国政府の道具になり果てている。その目的はわれわれを楽しませ(amuse)ながら米国政府のプロパガンダを広めて洗脳することにある。

 

さて、今回のキャスリン・ビグロー監督の「ゼロ・ダーク・サーティ」をあなたが観に行くのなら、それはそれで結構。それはあなたの選択である。(That's your choice.)わたし自身はこの映画を観ることを拒否する(reject)。アメリカ国民の皆さんにお願いする。どうかCIAによるハリウッド操作に皆さんの税金が使われていることを考えて頂きたい。税金にはもっと重要な使い道があるはずではないだろうか。プロパガンダはFOXニュースのようなメディアだけでも十分すぎるくらいである。

 出典: Title - Hollywood Films Secretly Dictated By The CIA. YouTube Video

 

 

真実は、受け入れられる者にはすがすがしい。しかし、受け入れられない者には不快である。 

  


オサマ・ビン・エルビス?   Osama bin Elvis

2013-02-10 13:23:32 | 映画・テレビの英語

写真は「アメリカン・スペクテイター誌」2009年3月号の表紙

 Osama bin Elvis

  By Angelo M. Codevilla from the March 2009 issue

 

掲載記事「オサマ・ビン・エルビス」のタイトル挿絵

 

「オサマ・ビン・エルビス」

「オサマビン・エルビス」と題するこの論文で、筆者であるアンジェロ・コデヴィラ教授は2009年当時において、「あらゆる証拠からして、現在(2009年)、ビン・ラディンが生存しているというのは現在エルビスが生きているというのと同じくらい馬鹿げている」と結論付けている。オバマ大統領が2011年に米軍シールズ部隊によるビン・ラディン“殺害”という“茶番劇”を“全世界同時公開”する2年前である。

出典:http://spectator.org/archives/2009/03/13/osama-bin-elvis

 

なお、アンジェロ・コデヴィラ教授はアメリカ海軍将校を経て長年外国諜報将校を務め、現在はボストン大学教授として同大学で国際関係論を教えている。ピチェニック氏と同様アメリカ政府の元インサイダーである。長年にわたって国際的な諜報の現場で仕事をしてきた人間の言葉である。実は「ビン・ラディン病死」はアメリカだけでなく、世界の主だった諜報機関でも公然の事実になっていた(手品師はたがいに同業者のトリックをばらしはしない)。つまり、コデヴィラ教授一人の“大胆な説”というわけではなかったが、それを公表した功績は大きい。アメリカ政府は「病死」の事実をひた隠しにして一生懸命捜しているフリをしていた。ビン・ラディンの捜索はアフガン派兵の大きな建前の1つでもあったからだ。

 

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All the evidence suggests Elvis Presley is more alive today than Osama bin Laden. But tell that to the CIA and all the other misconceptualizers of the War on Terror.

オサマ・ビン・ラディンが生きている可能性があると言うならエルビス・プレスリーの生きている可能性のほうがもっと大きい、ということをあらゆる証拠が指し示している。

     <この比較級表現は、日本人にわかりやすく以下のように訳すことが許されるだろう>

=あらゆる証拠によれば、オサマ・ビン・ラディンが現在(2009年)生きていると主張するのはエルビス・プレスリーが生きていると主張するのと同じくらい馬鹿げている。

このことをCIAと“テロに対する戦争”というウソを垂れ流す他の連中に言ってやる必要がある。

 

Seven years after Osama bin Laden’s last verifiable appearance among the living, there is more evidence for Elvis’s presence among us than for his. Hence there is reason to ask whether the paradigm of Osama bin Laden as terrorism’s deus ex machina and of al Qaeda as the prototype of terrorism may be an artifact of our Best and Brightest’s imagination, and whether investment in this paradigm has kept our national security establishment from thinking seriously about our troubles’ sources.

 オサマ・ビン・ラディンが、最後にその生存が確認されてから7年経った今(2009年現在)、彼が生きている証拠は、もはやエルビス・プレスリーが生きている証拠よりも少ないと言える。さて、テロリズムの首謀者としてのオサマ・ビン・ラディン、そしてテロリズムの総本山としてのアルカイダというパラダイムは我が国の政府中枢の知的エリートたちの頭脳から出てきた“こしらえもの”である可能性を問うてみる必要があるだろう。同時に、このパラダイムへのあらゆる投入のために我が国の国家安全保障に携わる人々が、我が国の問題の元凶について真剣に考えることができなかったのではないかと問う必要があるだろう。    (以下略)

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信頼すべきまともな研究者達が再三きちんと指摘しているのに、アメリカの無教養な大衆はオバマ大統領のプロデュースした“ビン・ラディン殺害”の物語を鵜呑みにしている。同じように日本人のほとんどが信じている。そしてCIAの仕組んだ「ゼロ・ダーク・サーティ」に金を払って観ているのである。わざわざ金を払って染脳され、誤った歴史観を植えつけてもらっているのである。

端的に言って、事実は以下のとおりである。

 

2001年12月16日: ビン・ラディン病死 (9.11事件の3ヵ月後)

 (9.11事件からほぼ十年経過)

2011年05月02日: 米軍シールズ部隊が“ビン・ラディン殺害”を演出

2012年10月12日: 「ゼロ・ダーク・サーティ」アメリカ公開

2012年11月06日: アメリカ大統領選 (オバマ大統領再選)

2013年02月15日: 「ゼロ・ダーク・サーティ」日本公開

 

ビン・ラディンの病死はシールズ部隊の茶番劇の10年前である。つまり、アメリカ政府はビン・ラディンがずっと生きていて隠れていたのをちょうど10年めにオバマ大統領政権のときに見つけ出して“殺害”したことにしているのである。CIAはビン・ラディンの“死”をいずれ適切な機会に利用しようと温めていたのである。 

ビン・ラディンの公式の遺体写真も映像もない。もちろん遺体じたいもない。思い出してほしい。フセイン大統領が穴ぐらから引きずり出されたときのことを。彼は生きたまま捕えられて裁判にかけられて絞首刑になったのだ。ビン・ラディンをなぜ生け捕りにしなかったのだ?不可能ではなかったはずだ。大勢で急襲して追い詰めたそうだが、一人で部屋にいたというビン・ラディンを殺す必要がどれだけあったのか。テロの首謀者だというのならば、そしてアメリカが本当に正義の国ならば、生きたまま捕まえて裁判にかけるべきであろう。無い物ねだりをしてはオバマ大統領が可哀そうだろうか。たしかに存在しない人間を生け捕りにはできないのだ。存在しない人間をどうやって裁判にかけられよう。“生け捕り”というシナリオはそもそもありえなかったというのが本当のところだろう。殺害したことにしないと、そのあとの展開があまりにも無理すぎるのである。“ビン・ラディン殺害”ということにして、9.11事件の“落とし前”をつけて幕引きをすることがCIAのシナリオだったのだ。しかし、“殺害というシナリオ”によって“生け捕りのシナリオ”の引き起こす無理な展開を回避できたとしても、いつまでも“殺害の証拠なし”のままでは済まないのである。

 

昨年2012年3月にAP通信社が情報公開法に基づいてアメリカ国防総省(ペンタゴン)に“ビン・ラディン殺害”の証拠の開示を求めたが、ペンタゴンは写真も映像も存在しないとして何一つ提出できなかった。遺体を海に投棄したことになっているが、その空母カール・ヴィンソンの艦上で撮影されたはずの写真や映像すら出せなかった。もし本当に水葬したのなら当然録画しているであろうし、すっかり包まれた遺体を海に投下する映像くらい本当に存在しているのならば出せそうなものではないか。

実はAP通信はビン・ラディンの検死報告書、死亡診断書、そしてDNA鑑定結果報告書の開示も求めていたが、ペンタゴンはそれらの何一つ提出できなかったのだ。ヘタに偽物を作って提出すると徹底的に調べ上げられてボロが出るので、そこは余計な墓穴を掘らないように「存在しない」と言うのである。

出典:http://digitaljournal.com/article/323364

 

いずれにしてもビン・ラディンの“殺害”は現在でも証明できていないのである。さすがにオバマ政権はこの”ビン・ラディン殺害物語”はちょっと説得力にかけると思ったのである。公開できる映像が無いならば、そうだ作ればいい!そこで、「ゼロ・ダーク・サーティ」である。アメリカでは昨年2012年の10月12日に封切りされたが、大統領選のほぼ1カ月前に間に合って、オバマ大統領は自分の任期中の目玉としてアピールできたために無事に再選を果たすことができた。ちなみに「ゼロ・ダーク・サーティ」の女流監督キャスリン・ビグロウはアメリカの知識人の間では“21世紀のレニ・リーフェンシュタール”とみなされている。あのナチスドイツのプロパガンダに加担した女流監督である。

 

 ご参考までに、ビン・ラディンが2001年12月16日にトラボラ山中で病死した証拠とされる新聞記事の1つを紹介したい。日付にご注意願いたい。9.11事件の3カ月ほど後のことである。

 

以下の写真はエジプトの新聞「アル・ワフド」2001年12月26日(水)の1面(左)と、そのページの右はじのオサマ・ビン・ラディンの死亡記事の拡大部分(緑枠)である。出典を以下に示しておく。大国の欺瞞に満ちた公式発表よりも、開発途上国の新聞の愚直な死亡記事のほうが“比較的”説得力があると思うが、いかがであろうか。 

 出典:http://www.ascertainthetruth.com/att/index.php/911-a-false-flag-operations/the-911-event/500-osama-bin-laden-died-in-20018

以下に日本語訳と英訳の両方を掲げておく。

「オサマ・ビン・ラディン氏の死亡及び葬儀

アフガンのタリバン運動の高官が昨日、アルカイダ組織の指導者オサマ・ビン・ラディン氏の死亡を公表した。それによれば、ビン・ラディン氏は肺疾患の重篤な併発症によって病死したが、安らかな永眠であった。

同高官がパキスタン・オブザーバー紙に匿名を条件に語ったところによると、同高官自身が10日前(12月16日)にビン・ラデイン氏の葬儀に参列したとのことである。葬儀の際に同高官はビン・ラディン氏の遺体の顔を見たという。葬儀の後に遺体はトラボラの山中に埋葬されたとのことである。

埋葬にはビン・ラディン氏の遺族やタリバンの同志の他に、30名のアルカイダの戦士が参列したという。

故人の冥福を祈って空へ向けて戦士たちの銃が発砲されたという。

同高官によれば、ビン・ラディン氏の埋葬場所を突き止めることは難しい。なぜならば、イスラム原理主義のワハービの伝統に従って、墓所には何の印も残されないからである。

アメリカ軍がビン・ラディン氏の埋葬場所の何らかの痕跡を見つ出すようなことはまずありそうにないことだとタリバンの同高官は強調した。」

 

 

Translation of Funeral Article in Egyptian News Paper al-Wafd, Wednesday, December 26, 2001 Vol 15 No 4633 Reporting News of Bin Laden's Death and Funeral

"Bin Laden's Death and Funeral

prominent official in the Afghan Taliban movement announced yesterday the death of Osama bin Laden, the chief of al-Qa'da organization, stating that bin Laden suffered serious complications in the lungs and died a natural and quiet death.

The official, who asked to remain anonymous, stated to The Observer of Pakistan that he had himself attended the funeral of bin Laden and saw his face prior to burial in ToraBora 10 days ago.

He mentioned that 30 of al-Qa'da fighters attended the burial as well as members of his family and some friends from the Taliban.

In the farewell ceremony to his final rest guns were fired in the air.

The official stated that it is difficult to pinpoint the burial location of bin Laden because according to the Wahhabi tradition no mark is left by the grave.

He stressed that it is unlikely that the American forces would ever uncover any traces of bin Laden."

 


ヒストリーチャンネルよ、お前もか・・・

2013-02-09 07:22:49 | 映画・テレビの英語

 「ヒストリーチャンネル」のキャッチフレーズは "HISTORY MADE EVERY DAY" 「歴史は毎日作られる」である。嘘ではない。しかし、

ヒストリーチャンネルよ、お前もか・・・

わたしはふだん日本のテレビ番組はほとんど見ない。ケーブルテレビでアメリカの番組をもっぱら見ている。といっても、見るチャンネルはヒストリーチャンネル、ディスカバリーチャンネル、ナショナルジオグラフィックチャンネル、ミステリーチャンネルなどである。こうしたチャンネルの中でもわたしが特に安心して見ていられるのは宇宙ものや恐竜ものや動物ものだろうか。映像、出演者、構成等々の点からみてもかなりの完成度で非常にレベルの高いものがある。番組製作において相当の力量を感じさせる。1本1本がそのままドキュメンタリーDVDとして販売されるのもうなずける。

 

しかしである。これらのチャンネルでもかなりの思考操作、洗脳工作がなされている場合がある。その高度な番組制作技術が世界を欺くためにも利用されている場合がある。最近でもっともこれが顕著だったのが、「特集:テロリズム」である。シリーズもので、タイトルからしてわたしが特にいかがわしく思っていたのは、「9.11」と「ビン・ラディン殺害」であった。どちらもわざわざ見るつもりはなかったが、チャンネルを回していたら、たまたまビン・ラディンのほうをやっていたので、“どの程度のでっちあげか”と思い、付き合うことにした。結論:予想通りの“素晴らしい完成度のでっちあげ”である。これではふつうのひとはひとたまりもなく呑みこまれてしまう。“事実”をわかりやすく解説した話として映像イメージごと無防備な脳にそばから浸透してしまうであろう。特にヒストリーチャンネルの他の優れた番組作品に常々敬服しているような人々は疑うことなく受け入れるだろう。それこそが“ステマ・プロパガンダ”の狙いである。こういったかなりまともに見えるケーブルテレビチャンネルの番組の中に混ぜると警戒心なく呑み込んでくれるのである。

「ビン・ラディン殺害」は50分ほどの長さのドキュメンタリーであるが、これが「ゼロ・ダーク・サーティ」の“ステマ(ステルス・マーケティング)”であって、アメリカ政府の“ステマ・プロパガンダ”の一環、つまりいろいろやっているうちの一つであることは明らかである。この番組は日本では「ゼロ・ダーク・サーティ」の劇場公開の数週間前から繰り返し放映されている。CIAの長い腕と指は日本のお茶の間まで届いているのだ。そして今、アメリカ政府とCIAは映画とテレビを使って組織的に「ビン・ラディン殺害」を既成事実化しようとしている。そしてその卓越した映像技術を使って世界中の人々の頭にでっちあげの歴史を刷り込もうとしている。それをわたしがひしひしと感じたのは、番組中の関係者へのインタビューである。6人くらい出るのだが、なんとオバマ大統領までが顔を出すのである。それも1回や2回ではない。全部で少なくとも5回は顔を出して語るのである。どうして一国の大統領が1つの民間の放送局の1つの番組のためにわざわざインタビューに出てきて5回も話すのだ?以下は出てくるたびにわたしがいちいちデジカメで撮ったものだ。これは公式の記者会見ではない。「ビン・ラディン殺害」という1本のドキュメンタリー番組のための特別のインタビューである。こんな番組は前代未聞だろう。

 

この異常なサービスぶりは「ビン・ラディン殺害」の茶番劇がほころびだけらであることからくるオバマ大統領の焦りを反映している。ビン・ラデインを2011年に殺害したというでっちあげを必死になって“ダメ押し”しているのである。この5枚の写真に現れているオバマ大統領の表情をよく見ていただきたい。1枚だけでは見落とすであろうが、5枚並べてじっくりあらためて見ると、これはウソを言っているときの人間の表情である。動画ではわからないが、こうして複数の静止画で見ると透けて見えるのだ。写真を撮っているときにはそんなことは思いもしなかったが、5枚並べてみて気づいたのだ。実を言うと、わたしは人間としてはオバマ氏には好感をもっている。彼にはどこか憎めないところがある。それが今回わかった。ウソが顔に出てしまう人間なのである。

 

この記事を読んでいるようなひとはきっとこう思うに違いない。「オバマ大統領もそんなに足掻いたって、本当のことはもうバレているのに・・・。無駄なことをして、ご苦労さんなことだ」と。

わたしもかつてはそう思っていた。それは間違いであった。決して無駄ではないのだ。10パーセントのひとを騙せなくても、90パーセントのひとを騙せればいいのである。いや、過半数を騙せるだけでも十分なのである。楽勝なものである。真実を知っているひとが笑っていてもかまいはしないのである。「2011年のビン・ラディン殺害」を大統領が公式の事実として公表する。いろいろ突っ込みが入るが、無視してあとはCIAのお膳立てにまかせておけばよい。そして、あとは国民がテレビを見、世界中が映画を楽しんでくれればいい。やがて時間が経てば、自動的にそれらがそのまま“歴史的事実”となる。そうやって歴史は作られていく。最近では「ゼロ・ダーク・サーティ」という映画が前例のない境地を切り開いたとも言える。実際にはありもしなかった事を実話として、そしてその実話の映像化であるかのようにして世界中に見せ、史実として受け入れさせようというかなり大胆不敵な試みである。ペンタゴンの一室から高笑いが聞こえるようだ。CIAにはそうやって世界に一杯食わせることに無上の喜びを感じる輩がいることを忘れてはいけない。映画「アルゴ」を観たひとにはわかるだろう。

「ヒストリーチャンネル」のキャッチフレーズは "HISTORY MADE EVERY DAY" 「歴史は毎日作られる」である。たしかにそのとおりである。

ちなみに、以下はわたくしの解釈である。


「アルゴ」は核ミサイル1発に相当する "ARGO" A Nuclear Missile

2013-02-08 23:55:38 | 映画・テレビの英語

  「アルゴ」は核ミサイル1発に匹敵する

"ARGO" Equals to A Nuclear Missile

 

この映画は「野蛮人(barbarians)に捕えられた人質を文明人(civilized people)が頭脳を使って(outwitting)見事救い出す(rescued)」という物語(フィクション)である。

 

実話という触れ込みであるが、当時の当事者たちが否定しているようだ。どうも、“映像実現”(Realization On Screen)のようである。つまり、実際はなかったが、代わりに映像の世界で理想的に実現してみせるというパターンであるハリウッドに“不可能”はない。「ゼロ・ダーク・サーティ」と同様、「アルゴ」はCIAによって仕組まれたプロパガンダ映画であることは明らかである。エンターテイメント作品としていくらアカデミー賞を獲得しようが、反イラン映画としてのプロパンガンダであることには変わりはない。ベン・アフレックはこの映画の構想をCIAに持ちかけられて監督に担ぎあげられた。しかし、この映画を作った本当の目的を見据えておかなければならない。何のためにこんな映画を作るのか?

  

誤解のないようにお願いしたいが、わたしはこれらの作品を見るなと言っているのではない。わたし自身は、いずれ“大好きなテレビ”で観るつもりである。批判していて、なぜ見るのか?CIAの手口(CIA's modus operandi)の研究のためである。こういう作品を観るときには作り手の意図、狙いを念頭に置きながら批判的に観るのでなければ意味がない(meaningless)さらに言えば、そのようにして観たほうがわたしにはずっと“リアリティ”があって面白いのだ。しかし、観なくてもすでにわかることはある。それを以下に述べさせていただく。

  

当記事のいちばん下に転載したものは、“野蛮な国イラン”として描かれた当のその国が発信している「アルゴ」についての公式見解(official comment)の記事である。アメリカ発の情報だけで世界がわかっている気になってはならないであろう。アメリカとイスラエルがいちばん敵視している国の視点にもときには目配りしてみよう。野蛮で間抜けなイラン人”(barbaric and stupid Iranians)というイメージ作りにやっきになっているアメリカの深謀遠慮(cunning calculation)を冷静に見据える必要がある。

  

アメリカは近いうちにイランに戦争をしかける計画である(順序としてはシリアを崩壊させてからになろう)。時間の問題である。戦争が始まるそのときにアメリカ国内や国外から反対や批判(opposition and criticism)ができるだけ少なくなるようにするために今から反イランのイメージ(anti-Iranian images)を大衆の頭の中に植え込んで(plant)おく必要があるのだ。そういった下準備をしておけばスムーズに運ぶのである。「ああいった野蛮な、非民主的な国は叩かれてもしょうがないんじゃないかな・・・」と一般大衆に納得させるためである。そのための準備工作(sytematic preparation)を今から地道に(steadily)しているのである。ベン・アフレックは今、次の戦争の露払い役(opening the game)をさせられているのである。アメリカは常に用意周到の国である。

  

そんなバカな、とあなたは思うかもしれない。しかし、CIAが仕組んでいるのは「アルゴ」や「ゼロ・ダーク・サーティ」だけではないのだ。およそあらゆるメディアに食いこんでCIAはアメリカ国民と世界中の人々の考え方を操作(manipulate)している。軍事力による支配だけでなく、そういった情報操作による支配(control by Public Relations)を併用することには多大のメリットがある。

抵抗が少ない、効率がいい、成功率が高い、損失が少ない、低コストである、気づかれにくいので批判されにくい、物理的実害を与えないので罪悪感が薄い。

逆に言えば、こんなメリットだらけの方法を世界最強の国(the most powerful country on the planet)が使っていないわけがなかろう。あえて言えば、こういった洗脳工作、大衆心理操作、イメージ戦略、文化侵略によってこそアメリカはいつまでも世界最強の国家の地位を保っていられるのだ。日本人はお上(カミ)やNHKが国民を騙すわけがないと思ってきた。しかし、2011年の3.11以降多くの人々が真実を知った。にもかかわらず、喉元を過ぎれば(danger past)また元の“お上(カミ)性善説”に戻っている。どこの国のお上(カミ)、政府というものも、原理的に(in principle)“性悪説”(conspiracy theories)で理解すべきものである。

 

 いや、実はある意味で戦争はすでに始まっているとも言える。戦争を軍事的な次元での事柄とのみ考えていては現実をつかみきれない。すでに“経済”戦争、“宗教”戦争になっていることはもう明らかではないか。同様に“心理”戦争(psychological warfare)、“文化”戦争(cultural warfare)が進行していると見るべきであろう。その観点からすると、「アルゴ」は核ミサイル1発分に匹敵する。そのくらいのダメージをイランに与えている。それだけの“戦果”(outstanding military achievement)があったからこそ、アメリカ大統領夫人が直々に(in person)「アルゴ」の作品賞の発表者を務め、功績を称えた(praised)のである。これを単なるご愛嬌(amusing surprise)と見ているひとはおめでたいかぎりだ。CIAによる演出は実に巧妙である。攻撃性(aggression)や欺瞞(deception)を覆い隠すために女性を起用するのである。心理学的に言って、女性のほうが男性よりも非暴力的(less aggressive)で公然とウソをつくことが少ないと思われているからである。「ゼロ・ダーク・サーティ」はまさにその例である。主人公も、そして監督も女性であることは偶然ではない。そこには大衆心理操作の綿密な計算(delicate calculation)がある。こうした演出はハリウッドではなくCIAがすべてやっている。ハリウッド映画界そしてアカデミー賞受賞式は単なる娯楽の世界ではない。今や文化戦争の修羅場(the theatre of war)である。しかし、彼らはいつでも笑い飛ばせるのだ、「なにを目くじら立てているんだい?ただの娯楽映画じゃないかね、はっ、はっ、はっ!」"Why are you being so serious? It's only one of those entertainment movies, isn't it? Ha ha ha!" と。

 

日本にはCIAに相当する組織(no counterpart)が存在しないので、日本人にはぴんと来ない(no clue)。1つの国に匹敵する年間予算と、少なくとも13万人はいるだろうと推定される(estimated)職員を抱えた世界最大の諜報機関である。諜報とは情報の収集(collection)だけでなく拡散(dissemination)も創作(fabrication)もするのである。収集も拡散も、そして創作の拡散も当然ステルス(stealthly)である。アメリカの国益のためなら隠れて何でもやってきたし、今も我々の目の前でメディアを通じて堂々と(in broad daylight)イメージ戦略を展開しているのだが、それが彼らの仕事(their job)だとはほとんどのひとは気づかない(not aware)のである。つまり、われわれ自身が今日みんなCIAに裏をかかれるイラン人(Iranians outwitted by CIA)になっているのだが、それに気づかないで「アルゴ」に描かれる過去の騙されたイラン人を笑っているのだ。

 

 

出典: http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/35308-%E5%85%83%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%80%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E3%80%81%E5%8F%8D%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%80%8F%E3%82%92%E5%BC%B7%E3%81%8F%E9%9D%9E%E9%9B%A3 

 


NHKドキュメンタリーについての辛口批評

2013-02-08 23:36:51 | 映画・テレビの英語

先ごろNHKでキャパの「崩れ落ちる兵士」をめぐるドキュメンタリーが放映された。以下はそれについてのわたしのかなり辛口の批評である。“スパイシー”なものが嫌いでない方はぜひお読みいただきたい。すでに3万を超える訪問者があって、自分でも驚いている。コメント欄にはテレビ業界系からも書き込みがあり、炎上している。(2013年2月27日)

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電話で "I have to go."  は 「行かなくちゃ」 ではない

2012-02-15 00:58:42 | 映画・テレビの英語

以下は、高校生2人の会話である。


1. Beckie:  It's almost eleven o'clock. Did you finish your Science homework?

2. Andy:  No.

3. Beckie:  So, you're going to do that from now on?

4. Andy:  I don't think so.

5. Beckie:  But we are supposed to submit tomorrow.

6. Andy:  What's the hell.  

7. Beckie:  I think it's a piece of cake to you anyway. Sorry, I have to go. Daddy came back. I'll call you tomorrow morning.

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QUESTIONS


7. の I have to go. を訳せ。___________________



7. の a piece of cake  を訳せ。_________________



6. の What's the hell. を訳せ。____________________________


5. の we are supposed to submit tomorrow. を訳せ。


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解答 & 解説

7.   I have to go. の訳 → moukiranakucha

   Beckie はどこにも出かけない。 denwawokirudakedearu
   
   go は、ここでは denwaguchi  から離れることを意味する。

しかし、映画の字幕でも、「行かなくちゃ」と訳しているのがよく見受けられる。最近の例:2012年日本公開マット・デイモン主演「アジャストメント」の中で、ベッドで電話している女がこれを言っている。もう切らなくちゃ」が正しい。


7.   a piece of cake  の訳 → rakusho / asameshimae

   ケーキ1つくらいペロリであることから、こういう表現ができた。



6.  What's the hell. の訳 → ma,iisa / kamaumonka



5.  we are supposed to submit tomorrow. の訳

   ashitateishutsuyo

   be supposed to -   →  ~することになっている