つまずきの元となる文法用語(1)
学校、塾、予備校などでもよく採用されている中学3年の問題集の解説である。
Kumi may be sick. 久美は病気かもしれない。 may は 推量 をあらわす。
これはいいだろう。
ところがこの次のページには、こうある。
Your father must be tired. 彼あなたのお父さんは疲れているにちがいない。 must は 推量 をあらわす。
これはどうだろうか。いくら中学生でも、ふつうに考えておかしいと思わないだろうか。
may も must のどちらも 推量 と説明され、「かもしれない」 も 「ちがいない」 も 推量 ということになってしまうのだ。
問題点は明らかに後者の “「ちがいない」 must は 推量” というほうである。 はっきり言って、これを推量と呼ぶことは間違いである。
推量とは辞書(大辞林)によれば、以下の意味である。
それでは、 この must はどう説明したらいいのか? わたしは自分の授業では この must は “確信” の助動詞であると教えている。
「かもしれない」 の may が話し手の 推量 をあらわすのに対し、「ちがいない」 の must は 話し手の 確信 をあらわす。
どうだろうか?これですっきりしないだろうか?実際、わたしの授業でこれで納得しない生徒は一人もいない。
“確信” の助動詞? そんなのは聞いたことがない、とあなたは思うかもしれない。
実は 「ちがいない」 のmust を 推量 とよぶのはかなり一般的で、 Google で “must 推量” で検索すると、出てくるわ、出てくるわ。つまり、「推量のmust」 はいくらでも目にしたり、聞いたりしたことがあるどころか 実は“定説” になっているのだ。おそらく昔、権威ある英文法書が十分な吟味もしないで解説したのが、そのまま孫引きされ、ひ孫引きされ、して今日に至っているのであろう。
問題は、聞いたことがあるかないかではない。正しいか、間違っているか、である。世の中には多くの誤った定説が流布している。そして、あなたが聞いたことがない真実はいくらでもあるのだ。
定説を疑わずにそのまま受け入れるひとと、自分の頭で判断するひととの違いがここで出てくると言える。どんなに定説となっていて世の中のほとんどのひとが受け入れていても、間違いは間違いである。そして、それを指摘する人間はいるものだ。
「多数意見が正しくて、少数意見はおそらく間違っているのだろう」 と考えるひとに “知的向上” はほとんど望めないと言える。というのは、どんな真理も、最初は少数意見だからである。